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20050219 コミケットスペシャル




 長野は昨日の晩から雪で、えらい勢いで積もりました。こんばんは久慈光樹です。金曜は飲みに行ったので、車を会社に置きっぱなしで明日取りに行ってこねばなりません。なんてことだ。


 さて、3月21日に開催されるコミケットSP、ひざうえ10せんちは書類不備もなく無事当選いたしました。
 まだ現段階で誰も原稿を上げてないというかぶっちゃけ私もすなふさんも一文字も書いておらず、出るのか激しく不安であるわけですが、一応新刊出ます。
『だめです相沢さん』のシリーズであるわけですが、今回も表紙を描いていただくぱんつ大臣が激しく暴走し、指定とまったく違うラフ案を見せていただいた瞬間に私もすなふさんも「もうダイスキ!」と叫んだくらいアホ全開です。まぁ表紙絵はいずれ。

 なんにせよ、SPはK-04aにお越しくださいませ。



 なにせ、ひざうえ10せんちはコミケSPで解散ですので。



 や、ネタじゃねっす。マジ話です

 私とすなふさんが並んで売り子をするのは恐らくこれが最後になるわけですが、これは割と前に決まっていたことで、どうにもなりません。本来ならば昨年の冬コミが最後だったのですが落ちたからねぇ。

 まぁ原因としては、私とすなふさんの創作的なスタンスにズレが生じてきたということです。決して不仲になったとか、すなふさんにイモウトさんがいるから、とかいう理由ではないということを明言しておきますね。そもそもトモダチじゃねーし。


 今後の創作活動的に、ソロでやるか、それともすっぱり止めるか、正直まだわからないです。仕事の関連でいまちょっといろいろあって、じっくり考える精神的余裕に欠けているという状態ですので。夏は一応申し込みましたけどね、個人名義で。
 まぁ、なるようになるんじゃねーの?





 さて、そういうわけで3月21日はコミケットSPであるわけですが、例によって例のごとく前日飲みやります。
 どうせやるなら、ということで、こんな企画をしてみました。





 
こんな企画




 アホだなぁ……
 主催であるところのせいるさんのサイトでも告知されていますので参考に。

 まぁそういうわけで、指名された方はキリキリと来るんだ。

 一応、このリストに載っていない方でも参加は原則的に可ですが、人数が人数ですので当日いきなりというのは激しく困ります。まぁそんな人はいないと思いますけれど、当日連絡も無しに参加の場合、最悪お帰り願うことにもなりかねませんので、参加したい方は事前に久慈光樹まで連絡をお願いします。リストにある方はすなふ先生あたりから改めてメールが行くと思います。

 更に、よもやそんな人はいないと思いますが、という前提の上で。
 はっきりいって、飲み会である以上は参加者全員大人の方であることが前提です。自らの酒量も弁えず飲んでアホみたいに騒いで店に迷惑をかける、酔って他の参加者に絡み不快な思いをさせる、等の行動があった方は、以後界隈で村八分になることを覚悟なさってください。これは別に久慈の差し金というわけではなく、ほとんどが初対面である以上、誰が好き好んでそんな困ったちゃんと今後も関係を継続すると思います? 信用なんてものは得るのは難しくとも失うのは一瞬です。くれぐれも、己が品性を貶めることなきように。


 とまぁ、つまらない話はこの程度です。どうせ阿鼻叫喚の大騒ぎになるのですから楽しまなくては損。リストにある皆さんは、なんとか都合をつけていただけるとありがたいです。

 楽しい飲み会になるといいな。 


20050203 リハビリ






「ひぎっ……!」
 それに気付いたとき、私の口から漏れたのは、悲鳴とも苦痛の叫びともとれるような、そんな滑稽な叫びだった。

 見ている。
 古ぼけたその一枚の絵の中から、男は確かに私を見ている。

「……」
 声が出ない。目を逸らしたいのに逸らせない。逃げ出したい、だけど脚が動かない。
 膝の力が抜けてがくがくと身体が揺れているのに、私の身体はまるで絵の男に絡め取られたかのように倒れることすら許されず、視線を逸らすことすらままならない。

 怖い。
 そう、この絵が怖いのだ。

 一見、何の変哲もない人物画だと思った。
 技巧は確かに優れていたが、さほど特記すべきところがあるわけではない。長年絵の取材に携わってきた私はもっと優れた絵画をいくらでも見たことがあったし、それらと比べれば目の前の絵は明らかに見劣りしているように思われた。
 これが半年以上捜し求めてきた『桐生マコト』作の絵画だということに、落胆さえ感じていたのだ。先ほどまでの私は。

 絵には、一人の男が描かれていた。男は漁師だった。
 浅黒く焼けた腕、初老といえる年代を感じさせる顔に刻まれた深い皺と、体力の衰えを嘆くかのように顰められた眉。瞳はそれを認めようとせぬかのように生気を放ち、全体から受ける印象とその瞳のアンバランスさが一種危うさを感じさせる。

 そこまで観察して、私はふと違和感を覚えたのだ。

 おかしい。
 この絵は、いや、この絵の男はどこかがおかしい。
 その違和感の正体に気付いたとき、私の背中を悪寒が走りぬけた。

 この絵の男は、存在感がありすぎるのだ。

 絵画、特に写実的人物画というものは、モチーフの内面を描くことが重要になる。
 ただ外面上を似せて描くだけではただの模写であって、写実とは言わないのだ。それゆえ写実的絵画を旨とする芸術家たちは、ただ表面上だけではなく内面を描こうと腐心する。それが人物画であれば、モデルとなる人物の性格はもとより生い立ちや経験までをも絵の中に塗り込めようとするかのごとく描く。
 優れた人物画というものは、総じてそのように少なからずモチーフの内面が描かれているものなのだ。

 だが、この絵は、それが行き過ぎていた。

 決して巧緻とは言えぬ筆致、写実としては3流といってもいいこの絵に描かれている男はだが、まるで気配すら感じ取れるのではないかと思えるほどに存在感があった。
 いや、そんな生易しいものではない。
 絵中の男は、まさしく生きていた。
 絵の中という空間で、男は確かに生活し、たまたま私の前に姿を現したのだ。私が少しでも目を離せば、男はこのまま漁に出るのだろう、いや、ひょっとすると漁から戻ってきたところなのかもしれない。どちらにせよ私が見ているからこそこの男は静止しているだけであって、私が少しでも目を逸らせば普段の生活に戻っていくのだ、瞳に風貌とは不釣合いな生気を浮かべたまま……
 思わずそう信じてしまいそうなほどに、このときの私は絵中の男を確かな存在として感じ取っていた。そしてそれに気付き、愕然としたのだ。
 技巧の問題ではない。モチーフの存在感という視点からみて、この絵は明らかに突出している。これほどまでに写実画において存在感を描くことのできる芸術家を私は知らない。

 冷え込んでいた私の心は、徐々に昂揚していった。
 これは明らかに傑作だった。これほどの絵を遺しながらも生前は評価されず、それどころか作者の人物像すら知られていない現状。この絵を発表すれば、どれほどの衝撃が画壇に走るか。
 私は私の目を信じる。やはり私の思っていた通り、『桐生マコト』は天才だったのだ。



『死んでしまえ……』


「え?」


 昂揚し興奮する私にまるで冷や水を被せるかのように。
 その“声”は、私の目から入り、確かに脳に伝わった。



『死んでしまえ……』


「なに? なんなの?」


 声が視覚から伝わってくる。
 その異様な感覚に、私は混乱し、私一人しかいないはずの薄暗い部屋の中、気付けば声を発していた。


『死んでしまえ……』


 そして私は気付く。


『死んで……』


 声は――


『しまえ』


 目の前のこの絵から、見えた。


「ひぎっ……!」


 それに気付いたとき、私の口から漏れたのは、悲鳴とも苦痛の叫びともとれるような、そんな滑稽な叫びだった。
 「メッセージ性」などというものではない。これは呪いだ。明確な呪詛の意図をもって記された、呪いなのだ。


『死んでしまえ』


「い、いや……」


 絵の中の男、その圧倒的な存在感。
 殺される。このままこの場にいたら、きっと私は殺される。


『死んでしまえ』


「いや……」


 絵に殺される。
 絵に殺される。
 絵に殺される。

 いや――


『死んでしまえ』



 『桐生マコト』に、私はきっと、殺される!



「嫌ああぁぁーーーっ!!」



 それからのことは、実はよく覚えていない。
 気付けば私はその部屋を飛び出し、8駅離れた自分の部屋で震えていた。どこをどうやって部屋まで帰ったのかすらまったく覚えていない。



 そして、それが――


 私と『桐生マコト』が遺した絵画との、初めての出会いだった。





つづく?

20050201 『チャット』について




 明けましておめでとうございます、閲覧者の皆様には旧年中も大変お世話になりました。本年もくじういんぐをどうぞよろしくお願い致します。






 
ってもう2月ーーっ!





 というわけで、くじういんぐ内ではやっと年が明けました。
 世間様とは一ヶ月ほどズレているわけですが、やっぱり転勤や引越しがあると一ヶ月くらいはごたごたしてしまいますね。(いけしゃあしゃあと

 そして既に過ぎ去ってしまったわけですが、1月31日をもって我がくじういんぐ・ドットコムは5周年を迎えたわけです。
 5年、5年かぁ……
 5年といえば小学5年生だった竹仙人さんの妹さんが高校に入学してしまうくらいの長い月日なわけです。5年前は24歳だった私も、今では26歳です。月日の経つのは早いものですね。

 そういうわけで、今年も頑張りますので皆さんどうぞ宜しくお願い致します。





 さて今回は年明け一発目ということで、少しばかりマジメな話をしたいと思います。
 お題は『チャット』について。



 チャットという文字形式での会話手段で一番重要なことは何でしょうか?

 相手に気を遣うこと? それとも自制心を持つこと?


 私はチャットで一番重要なのは、「慣れ」だと思います。

 ここでいうところの「慣れ」とは、ツールやPCの使い方という意味での慣れではありません。チャットという会話手段への「慣れ」です。


 私がネットを始めた当初、チャットと言えばIRCでした。もう5年半くらい前になります。サイト開設を決意したのもIRCの会話中であり、プロバイダにサイトスペースの申請を出したりコンテンツを作成したりを2週間で済ませたものです。あの頃は行動力があったのだなぁと思うことしきりなわけですが、まぁそれは余談。
 その当時、まだ今ほど親しくなかったこともあり、メンバーだったすなふさんや阿倍碧郎さんたちとの会話も今ほど荒んではおらず、余所余所しいものでした。
 しかし余所余所しいというのは、礼儀正しいということの裏返しです。たとえIRCというクローズドチャット内であり他に会話を見ている人がいなくても、言葉の一句一句に気を遣い気をつけて会話をしていたものでした。
 そのうちにすなふさんや碧郎さんそして私も、サイトがだんだんと大きくなるにしたがい、このチャットは身内だけの場所ではなくなっていきました。初めましての人も訪れ、そういう方々と話を合わせたり孤立しないよう話を振ったり、色々と別の意味で気を遣う必要性が出てきたのです。
 それが良いことなのか悪いことなのかは別にして、私はクローズドなIRCという場所で、チャットのイロハを学んだと言えるのかもしれません。

 冒頭に、チャットで一番重要なのは「慣れ」と私は書きました。私がチャットに「慣れ」たのは、まさしくこの時期のIRCにおいてです。


 相手に気を遣ったり自制心を持ったりするのは、確かに会話では非常に重要なファクターです。ですがそれはなにもチャットに限った話ではありません。それは人とのコミュニケーションではごくごくあたりまえのことで、媒体がチャットであろうと対面であろうと電話であろうと手紙であろうと同じことです。チャットで話をすることと対面で話をすること、なにが一番違うかといえば、その手段に慣れているかいないかだと思います。
 生まれてから一度も面と向かって他人と話をしたことがない、なんて人はいないと思いますが、チャットで話をしたことがないという人は話をしたことがある人よりも圧倒的に多いのです。


 一言で『チャット』と言っても、使用するソフトウェアの違いから多種多様の形式があります。ここで言うソフトウェアというのはIRCであるとか、メッセンジャーであるとかですね。
 ここでは『オープンチャット』と『クローズドチャット』と大きく2つに大別してみようと思います。

 『オープンチャット』というのは、いまの流行でいうならJavaApret形式のチャットのことです。現在うちのサイトにも設置してありますような大福チャットなんかが有名ですね。
 この形式の特徴は、会話に参加しないいわゆる「ROM」(ReadOnlyMember)という立場の者が、会話の内容をリアルタイムで読むことができることにあります。
 例えて言うなら集会所のようなところで戸も窓も開け放って雑談しているようなもので、興味があるなら集会所に入らなくても道から会話を眺めることができる、という感じでしょうか。
 うちに設置してある大福チャットで言うなら、ROMの方は一応リモートホストが出ますので、会話している側はギャラリーの数だけは把握できる、という状態です。

 対して『クローズドチャット』の場合、完全に自分を晒さないと会話に参加どころかそれを眺めることすらできません。IRCで言えばきちんと名前を名乗ってチャンネルにJOINしない限りは外からチャンネル内で何を話しているかを見ることはできないのです。
 先ほどの例になぞらえるなら、集会所の戸や窓を閉めて会話しているようなものです。集会所に入らないと会話を聞くことができず、入るからには挨拶をしたりだとか名乗ったりだとかが必要になる、と。

 そしてチャットとしての難易度としては、ROMというギャラリーがつく分、オープンチャットの方が高いのではないかと、私はそう考えている次第です。


 これはもう経験則から言うのですが、チャットにおいて、自ら場を引っ張っていける人というのはとても稀です。場に参加している人だけではなく、ROMの人までも楽しませようと話題を構築できる人というのは、そうそういるものではありません。
 なぜなら、チャットにおいて場を支配するというのは適正の問題ではなく、慣れの問題であるからです。
 いわゆる「チャット慣れ」している方でないと、話を振って場を支配するというのは難しい。たとえオフでは陽気で活発な方であったとしても、チャットという一種独特の場に慣れていないことには場を掌握することができないのです。
 ましてや参加者だけではなくROMの人まで惹き込むというのは、並大抵ではない。それこそ年単位で毎日チャットに触れていないと、無理だと断言してもいいと思います。

 チャットにおける「カリスマ性」というものは、飲み会などのそれとはまったく異質の能力です。なによりもまずチャットに慣れていないことにはどうにもならず、慣れているからといって誰しもが持てるわけではない、そんな能力だと思います。




 閑話休題。


 チャットにおいて、周りを辟易させてしまう人、というのは確かに存在します。
 あまり突っ込んで書いてしまうと個人攻撃っぽく見えてしまいますので、あくまで一般論として書きます。
 嫌われるパターンとして一番多いのは、自分の話しかしない人でしょう。
 どんな話題であっても、自分の話に話題を切り替えてしまうようなタイプです。
 ただこれは難しいところで、カリスマ性のある人であれば問題がないわけです。そういう人の話は、たとえそれが自分の話であっても面白いですし、なにより等身大で親しみやすい。しかしそうでない人が自分の話ばかりすると、場が白けるだけです。
 そしてタチの悪いことに、自分ではそれに気付かない。場の空気が読めないのですよね。

 そう、チャットで一番やってはいけないことは、「場の空気を読まない」ということです。
 チャットは言うまでもなく文字媒体であり、相手の顔が見えません。自分の発言を相手がどう受け取ったのか、それによって相手はどういう感情を抱いたのか、そういうことを常に考えて発言しなくてはなりません。
 これがオープンチャットならば余計にそうで、場合によっては発言者はROMの反応をも気にかけた発言をせねばなりません。これもオープンチャットはクローズドなそれよりも難しいと考える所以であるわけです。
 しかしはっきり言って、相手の顔が見えぬチャットにおいて、その場の空気を読む、その場の雰囲気を感じ取るというのは、とても難しいことだと思います。それこそ1年やそこらで身につく能力ではないと思います。

 これは誤解されると困るのであえて書きますが、私の場合、すなふさん、碧郎さん、それから雅さんあたりとは、普段は「お前ら仲良くしろよ」という感じに荒んでいるように見えると思います。ですが私たちはこれでも大変仲がいいんです。
 ネタと互いに了解し合っているからこそ、チャットでは罵倒しあえるのですよね。
 雅さんとは3年ほど、そしてすなふさんや碧郎さんとはもう5年半ほどの付き合いで、ほぼ毎日IRCで話をしているからこそ、阿吽の呼吸で会話ができるし、表面上では罵倒しあっても後にひかないのですが、まぁそれは余談。

 なにが言いたいかというと、それほどまでの時間を共有しなければ、気軽に相手を罵倒し合えるような仲にはなれないし、それほどまでの時間を共有していないのであれば、たとえネタでも失礼と取られる言動はしてはいけないということです。これはまぁ、自戒なのですが。


 チャットというのは、言うまでもないことですが、コミュニケーションの1形態です。そしてコミュニケーションというのは、まず相手を知ることから始まります。
 「場の空気を読む」ということは、会話している人たち、ROMをしている人たちのことをもっと意識する、ということなのではないでしょうか。

 チャットの場、特にオープンチャットの場というのは、一つの舞台のようなものです。
 共演相手がいて、観客がいる。
 どうせなら出演者も観客も楽しめるような劇を上演したいものですね。

 


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