馬話


 

SS産駒の最高傑作 ダンスインザダーク




 サンデーサイレンスという馬がいる。
 米国で通算14戦9勝、これだけでも立派な成績であるが、この馬の真価は種牡馬となって発揮されることになる。
 産駒には朝日杯3歳Sや天皇賞秋を勝ったバブルガムフェロー、日本ダービー・ジャパンカップ・天皇賞春秋を勝ったスペシャルウィークなど、G1勝ちをした産駒を挙げていったらきりがないほどだ。
 そしてそのサンデーサイレンス産駒で、最高傑作と評される馬がいる。
 ダンスインザダークである。

 ダンシングキイを母に持ち、半兄にエアダブリン(ダービー2着)、全姉にダンスパートナー(オークス、エリザベス女王杯)を持つ超良血馬。文字通りのサラブレッド。94年暮れの12月3日に阪神でデビューした際も当然のように一番人気となり、当然のように圧勝してのけた。
 そして迎えた初の重賞、ラジオたんぱ杯3歳S。そこには終生のライバルとなる2頭の馬がダンスインザダークを待ち受けていた。
 『漆黒の王』ロイヤルタッチ、そして『神速』イシノサンデーである。ダンスインザダークも含め、奇しくも3頭ともがサンデーサイレンスを父に持つ兄弟同士、1996年のクラシック戦線はこの3兄弟の闘いそのものであったといっても過言ではないだろう。
 現在と違い、当時は馬の年齢は数え歳、3歳といえばデビューしたての若輩である。3歳の重賞はその時点での完成度がものをいうレースだと言うことができるだろう。そしてこのとき、遅く生まれたダンスは未だ完成には至っていなかった。
 結果は3着。ロイヤルタッチは1着、イシノサンデー2着。
 完敗であった。

 明けて96年2月のきさらぎ賞、ダンスの前にまたもロイヤルタッチが立ちはだかった。
 結果から記そう、ダンスは2着に敗れた。馬連240円という完璧なマッチレース、勝ったのはまたしてもロイヤルタッチであった。
 だがラジオたんぱ杯3歳Sの際には3馬身差をつけられて破れたのに対し、今回はクビ差。ダンスは着々と完成に近づいていた。
 「次こそは勝つ!」鞍上の天才・武豊はこのとき、確かな手ごたえを感じていたに違いない。
 それを証明するかのようにダンスは次走の弥生賞を快勝。ライバル・イシノサンデーを破っての圧勝であった。

 皐月賞トライアルとなるこのレースに勝ったことで、クラシック最初の一冠である皐月賞に王手をかけた。

 ――かに見えた。

 迎えたクラシック第一戦の皐月賞。だがターフにダンスインザダークの姿は無かった。
 追い切り後の熱発による無念の回避。結局、皐月賞は前走で3着に退けたイシノサンデーが勝利、2着はロイヤルタッチであった。

 その後、ダンスは皐月賞の無念を晴らすかのようにプリンシパルSを圧勝、次の舞台は東京優駿・日本ダービーである。

 ダンスの素質はこのとき誰もが確信していたのだろう、ダービーでは一番人気に推された。
 凡百の馬など敵ではない、敵はただ2頭、皐月賞馬イシノサンデー、そしてロイヤルタッチである。
 イシノサンデーには弥生賞で勝っている、残るはロイヤルタッチへの雪辱のみ。ダンス陣営の目に映っていたのは宿敵ロイヤルタッチただ一頭であった。
 このとき、まさか伏兵がいようとは、ファンも含め誰も予想だにしかなったに違いない。
 日本ダービー、直線で堂々先頭に抜け出したダンスに猛然と襲い掛かったのは、ロイヤルタッチではなく、イシノサンデーでもなく、『関西の秘密兵器』フサイチコンコルドであった。
 プリンシパルSを熱発で回避、3月以来の競馬でまだ2戦しかしていないという実績不足にも関わらず、3強を制してダービー馬となったのは、このフサイチコンコルドだったのだ。
 ダンスはまたも、敗れた。


 秋になり、ダンスインザダークは菊花賞最終トライアルである京都新聞杯に姿を現した。
 以前にはしていなかった漆黒の頭巾(メンコ)、黒っぽい鹿毛の馬体とあいまって、ダンスはその名の通り漆黒の様相を呈した。
 そしてこの京都新聞杯に出走したのは、もう一頭の漆黒、『漆黒の王』ロイヤルタッチ。ダービーで先着したとはいえ、間違いなくダンスの最大のライバルである。
 いや、ライバル“だった”と言った方がいいだろう。
 ダンスインザダークは4歳秋を迎え、競走馬としての完成度は既にロイヤルタッチを遥かに凌いでいたのだ。
 圧勝。正にそう評すにふさわしい勝利。ライバルと言われつづけたロイヤルタッチは、既にダンスの敵ではなかった。
 続くカシオペアSでは伏兵の出番は終わったとばかりにフサイチコンコルドにも圧勝し、ダービーの遺恨を晴らした。


 競馬界にはこんな格言がある。

 曰く。皐月賞は速い馬が勝つ、ダービーは運の強い馬が勝つ、そして菊花賞は、真に強い馬が勝つ。

 三冠さえ期待されながら、皐月賞を発熱により回避、ダービーではまさかの2着。
 最後の一冠。負けられない、このまま無冠で終わることなど許されない。父の、サンデーサイレンスの名にかけて。


 決意を胸に迎えた菊花賞、大外17番枠に入ったダンスインザダークはゆっくりゲートを出るとすぐに内に入り、馬場の良いところを息を殺すようにゆっくり進んでいった。
 レースは超スローペース、折り合いを欠き暴走するように先行する馬も出る中、ダンスインザダークもロイヤルタッチもそしてフサイチコンコルドもスムーズにレースを進めていく。
 そして第3コーナー坂の下り、レースが動く。
 ここまで超スローペースで進んでいた流れが嘘のように一気に速くなったのだ。ダンスも当然その流れに乗ろうとしたところで、アクシデントは起こった。
 下がってきた馬に進路を塞がれ、あろうことか後方に下がってしまったのである。
 場内に響く観客の悲鳴、一気に加速したレースの流れから完全に取り残され、先頭争いから脱落するダンス。誰もがこのとき、ダンスの敗北を予測しただろう。
 ゴール前、最後の直線。ローゼンカバリー、サクラケイザンオーが粘るところへ内から抜け出してきたのは、ダービー馬・フサイチコンコルド、そして外からそのコンコルドに馬体をあわせるように抜け出したのは漆黒の馬体、ロイヤルタッチ。
 勝負は完全にこの2頭の争いに絞られたかと思われた。

 そこに大外から、黒い疾風が吹き抜けた。

 3000mという長丁場を走ってきたとは思えないような、凄まじいまでの末脚。
 そのとき確かに、他の馬は止まって見えた。

 あっという間に2頭を交わし大歓声の中ゴールに飛び込んだのは、第4コーナーで内に消えたはずのダンスインザダーク。
 上がり3ハロンはなんと33秒8。3000m走ってきた馬としては驚異のタイム、正に鬼脚であった。

 かつてライバルであるイシノサンデー、ロイヤルタッチに完成度の差で敗れ、ダービーでは思わぬ伏兵に敗れ、無冠の屈辱に甘んじてきたダンスインザダーク。
 雪辱は成った。

 こうして全ての馬を圧倒する斬れ味を見せ付け、ダンスは菊花賞馬となったのである。


 それからわずか3日後、ダンスは屈腱炎を発症し、5歳という若さで惜しまれながら引退する。
 菊花賞の一冠だけとはいえ、ゴール前で見せたあの鬼脚は多くの人を驚かせ、魅了した。それを証明するかのように種牡馬としてのダンスの評価は桁外れに高く、初年度から170頭あまりの馬に種付けを行った。これは父であるサンデーサイレンスに継ぐ頭数である。ダンスインザダークがサンデーサイレンス産駒の最高傑作と評される所以であろう。


 『黒き疾風』ダンスインザダーク。
 日本競馬界に活気を、多くのファンに夢を、そして筆者には大量のハズレ馬券を届けてくれたこの馬に幸あれ。
 ……おのれ、ダンス。

 

シャドーロールの怪物 ナリタブライアン




『3馬身1/2、5馬身、7馬身』

 いきなりこのような言葉を書いても、はて何のことだと首を傾げる方もいるだろう。逆にああ、なるほどと納得する方もいらっしゃるかもしれない。
 JRAのポスターにも使われたこの言葉、ナリタブライアンという馬の4歳クラシックにおける2着馬との着差である。
 1馬身とはその字の通り馬一頭分の着差ということであるから、ナリタブライアンという馬がいかに2着馬に大差をつけて圧勝したかが伺える名文句であろう。

 ナリタブライアン。
 私感で恐縮ではあるが、私らの競馬世代にとってこの馬ほど「強い」と実感した馬は他にいないと言っていい。
 とにかく強かった。4歳時の彼はもうなんと言うか「勝つべくして勝っていた」と表現するのがぴったりくるような強さだったのだ。競馬とは本来1着2着を当てる娯楽であるはずであるのに、ブライアンが出走するレースはただ2着にどの馬が来るかを予想するだけだったのだから。
 そんな彼に当時ついた渾名は『精密機械』、よくお年寄りが大相撲を評して「千代の富士は強すぎてつまらない」などと言っていたものだが、まさにブライアンは「強すぎて競馬がつまらない」と言わしめるほどの馬であったのだ。

 だがそんなブライアンであるが、デビュー当初の戦績はぱっとしない。
 あのビワハヤヒデを半兄に持つブライアンには、当初から多大な期待がかかっていた。しかしブライアンは、なかなかその期待に応えることができなかった。2戦目の新馬戦こそ2着に9馬身差をつけて圧勝するなど、才能の片鱗こそ見られたが、続く函館3歳Sを6着と惨敗、その後も勝ったり負けたりの不安定なレースが続く。
 菊花賞をレコード勝ちするなど、既に競馬界の寵児となっていた兄であるビワハヤヒデ。ブライアンはそんな兄に比べられ、これまでも星の数ほどいた『賢兄愚弟』の見本のように言われ続けた。

 そんなナリタブライアンが、シャドーロールを装着してターフに姿をあらわしたのは、京都3歳Sだった。
 シャドーロールとは、馬の鼻先に装着するもので、これを着けると自分の足元の視界が遮られる。それにより自分の影におびえることはなくなり、気性が安定するという仕掛けである。
 厩舎としてはひょっとしたら苦肉の策だったかもしれない。なにせナリタブライアンという馬は、自分の影にすら怯えるほど気性の弱い馬だったのだ。シャドーロールで、少しでも気性を押さえることができたら……
 だがこのレース以降、このシャドーロールはブライアンの代名詞となった。4冠を含む怒涛の連勝街道が、正にこのレースから始まったのである。
 『シャドーロールの怪物』とは、ブライアンを評してとある新聞社が付けた渾名であった。それまであまり日本競馬では見られなかったシャドーロールが、この後「ブライアン効果」で大流行したという余談まである。

 そしてこのレースから鞍上は南井克巳に乗り替わる。
 南井克巳。ナリタブライアンと言えば南井、南井と言えばナリタブライアン。日本競馬界に名馬名ジョッキーは数あれど、この1頭と1人ほど息の合ったコンビはいないと断言してもいい。ゴールを真っ先に駆け抜けていくナリタブライアンの鞍上には、常に南井克巳の姿があったのだ。

 こんな逸話がある。
 ある日、函館で南井に大久保調教師(ナリタブライアンの調教師)がこう、声をかけた。

「君はダービーを勝ったことがあるか」

 南井は当時既にベテランと呼べる年代であったが、ダービーには勝ったことがなかった。東京優駿、日本ダービーとは南井ほどのジョッキーであっても容易には勝つことのできないレースであるのだ。
 質問の意図を計りかねた南井が、戸惑いながらも「ありません」と応えると、大久保調教師は続いてこう言ったという。

「じゃあうちのブライアンに乗って、ダービーを勝ってくれないか」

 正式なコメントが無いため憶測になるが、南井はさぞや驚いたことだろう。こともなげに「ダービーを勝て」と言われて、驚かない方がおかしい。だがこの逸話からは、大久保調教師のナリタブライアンに対する絶対の自信が伺える。
 デビュー当初はそれほど好成績を残せなかったナリタブライアン、だが大久保調教師は慧眼を持って彼の素質をいち早く見抜いていたのであろう。そして南井は、そんな大久保調教師の期待に応えた。

 京都3歳S、8頭の少数だてであったこのレース、ブライアンはシャドーロールを装着し、南井と共に挑んだ。
 2着テイエムイナズマに3馬身差をつけたばかりか、1分47秒8のレコード勝ち。

 ナリタブライアンの連勝街道が、ここから始まる。

 朝日杯3歳S   単勝3.9倍(1番人気)、2着に3馬身1/2。
 共同通信杯4歳S 単勝1.2倍(1番人気)、2着に4馬身、レースレコード。
 スプリングS   単勝1.2倍(1番人気)、2着に3馬身1/2、レースレコード。

 強かった。いや、強すぎた。
 南井克巳とナリタブライアンのコンビは、圧巻だった。ライバル足りえる馬など、一頭もいない。正に独壇場。早くから素質を見抜いていたであろう大久保調教師でさえ、このときこう語っている。

「これほどのまでの馬を育てたのは、過去においても初めてではないか」


 そして迎えたクラシック第一戦の皐月賞。当然のようにブライアンは一番人気に推された。
 レース中の模様を記すまでもない、2着に3馬身1/2差をつけて、ナリタブライアンがまたしても圧勝した。「速い馬が勝つ」と言われるこの皐月賞、このときにブライアンのマークした時計1分50秒0は皐月賞レースレコードであるばかりか、コースレコードであった。
 まずは1冠。

 クラシック第二戦、日本ダービー。この頃になるとブライアンを絡めた馬券は配当が低すぎて賭けにならない有様である。
 終始外を回りながらエアダブリン以下に5馬身差をつけて圧勝、レース展開も何もない、残酷なまでの力の差。ゴール板はブライアンが駆け抜けるために用意されたようなものだった。
 鞍上の南井はゴールした後、ガッツポーズを決めるより先に後ろを振り返ってつけた馬身差を確認する。それはまるで『勝つか負けるか』ではなく『何馬身差をつけて勝つか』を競っているかのようであった。
 これで、2冠


 ナリタブライアンという馬は脚質自在であったが、基本的には差し馬であったといえる。
 第四コーナーで先頭集団に並びかけ、最後の直線で一気に突き放す。競馬ファンからすれば見ていてこれほど気持ちのいい勝ち方は他にない。しかも3馬身4馬身という圧倒的な勝ち方であるのだ、もう他の馬とは格が違って見えたものだ。

 「手がつけれらない!」

 打倒ナリタブライアンに燃えていたであろう他の4歳馬、その関係者たちの、心の悲鳴だったろう。それほどまでにブライアンは強かったのだ。あれはロボットなんじゃないか、などという冗談も飛び出し、『精密機械』というあまりありがたくない渾名を拝命したのが、この頃だった。

 京都新聞杯こそまさかまさかの2着に敗れたものの、向かえた最後の1冠である菊花賞では断然の一番人気。ブライアンの人気は衰えることがなかった。
 レースの内容など記しても意味がない、結果だけ記そう。後に『3馬身1/2、5馬身、7馬身』の名文句でJRAのポスターにもなった通り、もはや暴力的とも言える7馬身という圧倒的な差をつけての勝利。ゴール前ではもはや2着以降の馬などテレビに映ってすらいなかった。
 こうしてナリタブライアンは、『皇帝』シンボリルドルフ以来史上5頭目、10年ぶりの3冠馬となったのである。

 その年の末にはグランプリ・有馬記念をも勝ち、4冠馬となったナリタブライアン。文句無しにその年の年度代表馬に選ばれた。ちなみに前年の年度代表馬は兄ビワハヤヒデである。
 デビュー当初は『賢兄愚弟』とまで言われたナリタブライアン。しかしもうそんなことを口にする者は誰一人としていなかった。


 4冠を達成し、もはや誰も敵う相手などいないと、誰もが思っていた。
 だが、5歳になったナリタブライアンには、あの暴力的なまでの強さは、見る影もなかった。
 5歳春の故障の影響もあったろう、ずっとコンビを組んできた南井が負傷のため鞍上になかったことも影響したのかもしれない。だが、4歳時のあの強さが嘘のように惨敗を続けるブライアンを見て、ファンは誰もが考思ったに違いない。

「ナリタブライアンは、終わった」


 もう引退させた方がいいのではないか、そんな声もあがった。だがブライアンは走りつづけた。
 6歳になった3月9日、阪神大賞典。
 一番人気は昨年の年度代表馬、マヤノトップガン。前年の有馬記念での直接対決では、ブライアンはこのマヤノトップガンの影すら踏めず、4着に敗れている。
 誰もが、そう、誰もが予想しえなかっただろう。
 このレースが、歴史に残るほどの名勝負になろうとは。

 思えばこのレース、ナリタブライアンとマヤノトップガンには因縁ともいえる要素がいくつもあった。一昨年と昨年の年度代表馬、鞍上には天才・武豊と元祖天才・田原成貴、そして父は共にブライアンズタイム。

 死闘、そう表現するしかない。
 2週目の第三コーナーでマヤノトップガンが仕掛けると、ナリタブライアンもそれに馬体を合わせていく。それまでのスローペースは一気に加速し、一転して超ハイペース、2頭を除いた他馬は完全に置き去りにする。最後の直線、ゴール前600m時点で既に完全なマッチレース。トップガンが伸びればブライアンも伸び、ブライアンがかわそうとすればトップガンも差し返す。両馬まったく譲らない、完全に互角の闘い。
 競馬のどこが面白いのか理解できない人は、ビデオかなにかで一度このレースを見てみるといい。平成の名勝負、全てをかけた死闘。阪神競馬場で、他競馬場のターフビジョンで、テレビの前で、きっと日本中の競馬ファンすべてが、手に汗を握っていた瞬間だったろう。
 誰もが終わったと思っていた、ナリタブライアン。偉大な兄に怯え、栄光を掴みながらも1年以上にもわたる屈辱の日々。だが心のどこかで、競馬ファンはみな、彼の復活を願っていたのかもしれない。
 実況の杉本清氏の叫びが、すべてを表していただろう。

「さぁブライアン、ブライアン、甦れ、甦れブライアン!」


 最終的に3着との差は実に9馬身。
 勝ったのは、ナリタブライアンだった。

 その後、ナリタブライアンは21戦12勝という成績を残し、引退する。
 G1を4勝、G2を2勝、G3を1勝、そして何より総収得賞金10億2691万6000円という数字は歴代の名馬たちの中でも1、2を争う。
 そして1997年にはJRA史上24頭目の顕彰馬として、殿堂入りを果たした。

 本来であれば、現在でも種牡馬として活躍するはずであった。だが今現在、4冠馬ナリタブライアンはこの世にはいない。
 あまりにも早すぎる死。原因は腸捻転であったのだという。切開手術により一度は持ち直したものの、その直後に胃が破裂するという絶望的な状況下、これ以上彼を苦しめぬために安楽死の判断が下された。
 1998年9月27日12時未明、ナリタブライアンは息を引き取った。

 日高管内新冠町にある牧場であるCBスタッドに、ナリタブライアンは眠っている。
 初盆には200人を越すファンが墓参りに訪れ、今でも花が絶えぬ状況だという。

 日本競馬界に活気を、多くのファンに夢を、そして筆者にはまたしても大量のハズレ馬券を届けてくれたこの馬の冥福を、今はただ祈るばかりである。
 ……こんちくしょう。

 

影をも踏ませぬ サイレンススズカ その1




 競走馬には、それぞれ得意とする戦法がある。一般にそれらは「脚質」と呼ばれ、「逃げ」「先行」「差し」「追い込み」の4種類がある。
 「逃げ」とはその名のとおり、スタートから先頭に立ち、そのままゴールする戦法。
 「先行」は道中前(逃げの後ろあたり)にて進み、そのまま逃げ馬をかわしてゴールする戦法。
 「差し」は道中後ろにて進み、最終コーナー付近で他馬を交わし始めてゴールする。
 「追い込み」、最後方にて進み、最終コーナーを回ってから加速してゴール。

 一般的な競馬ファンに人気があるのは、差しや追い込みであると言えるだろう。最後の直線を鮮やかに差しきったり、最後尾から一気に先頭に踊り出る様は、見ているだけで胸躍る。
 あえて極論するのなら、先行はともかく、逃げ馬というのは差しや追い込みを得意とする馬の引き立て役と言ってしまってもいいかもしれない。
 少なくとも、私はそう思っていた。

 そう、サイレンススズカという馬を、知るまでは。

 「影をも踏ませぬ」
 歴代名馬にスピード馬は数あれど、サイレンススズカほどこの言葉が似合う馬を、私は知らない。
 1998年5月20日の中京、金鯱賞において見せたあの走りと、ファンのどよめき。そして、どこからともなく湧き上がる拍手。そして、運命の天皇賞・秋。
 サイレンススズカ、今宵はこの馬について語ろうと思う。



 サイレンススズカは、その名が示すとおりサンデーサイレンス産駒である。ダンスインザダークやイシノサンデー等、サンデーサイレンス旋風が巻き起こる中、良血馬であったサイレンススズカにも当然の如く期待が寄せられた。
 デビュー戦である新馬戦、既に「大器」の呼び声も高かったこの馬に、人気は集中する。単勝130円という大人気を背に、当然の如く大勝。2位とは実に7馬身差という圧勝であった。
 デビュー戦を圧勝で飾ったサイレンススズカ、その調教師たる橋田満が次走として選んだのは、皐月賞トライアルである弥生賞(G2)だった。だがこの弥生賞において、サイレンススズカはとんでもない失態を犯すこととなる。

 皐月賞と同じ中山・芝2000mで行われ、春のクラシックに直結する弥生賞は皐月賞トライアルの中でもひときわ重要なレースである。毎年クラシックの有力馬たちが出揃うこのレース、この年もサニーブライアンやエアガッツなど、実力馬が数多く出馬した。対するサイレンススズカは本賞金400万円の新馬勝ちのみ、いかな3歳とはいえ、戦績だけ見れば場違いとすら言える。
 にも関わらず、出走前のオッズでサイレンススズカは有力馬エアガッツに続いて2番人気に推された。有力馬が揃った中、たかだか1勝馬が2番人気。それほどこの馬の潜在能力が評価されたということなのだろう。

 ファンファーレと共にスターターの旗が振られる、各馬一斉にゲートイン……と、そこで、場内から悲鳴にも似たざわめきが沸き起こった。
 一頭の馬が、ゲート内で暴れている。後ろ足で立ち上がる馬、振り落とされる騎手。
 サイレンススズカだった。そのまま彼は上村洋行騎手を振り落とし、あろうことか、まだ開いていないゲートの下をくぐって一頭だけ走り始めたではないか。

 前代未聞の不祥事、目も眩むような失態。
 サイレンススズカはすぐに取り押さえられ、レース発走はしばらくの時間延期されることとなった。
 幸いにして馬体審査は異常なくレースには出走できることになったが、大外枠発走のペナルティが課せられた。しかも明らかにかかっている状態(興奮しすぎている状態)。更には再スタートで大幅に出遅れるに至り、誰もがサイレンススズカの大敗を予見しただろう。
 事実、サイレンススズカはこのレース、8着に敗れた。だがしかし、彼はこのレースで有り余る才能と、そしてそれを上回る狂気を、見る者に植え付けたのだ。そのレース展開において。
 スタート時の出遅れは致命的だった。その時点で10馬身ほどは他の馬たちに離されていただろうか。だが第一コーナー、第二コーナー、第三コーナーと進むうち、サイレンススズカはみるみる順位をあげていったのである。
 折り合いも何も無い、口を割り、滅茶苦茶な走りで暴走するかのように走りつづけるサイレンススズカ。どうしてあんな状態であんなスピードで走ることができるのか。遂に最終、第四コーナーでは3、4番手にまであがってきた。まさか、まさかこのまま勝ってしまうのではないか、そんなバカなことがあっていいのか。
 だが競馬はそんなに甘いものではない、さしものサイレンススズカも直線に入ると力尽き、馬群に沈んだ。

 騎手を振り落とし、ゲートの下をくぐっての暴走。そしてこのレース展開。
 競馬ファンがサイレンススズカに抱いた印象は、「狂気の馬」というものだった。

 とにかくも、弥生賞の暴挙の代償に3週間の出走停止、発走調教再審査処分を受けたサイレンススズカは、クラシックの一冠たる皐月賞には出走することすらできなかったのである。


 弥生賞後、禁の解けたサイレンススズカは500万下の自己条件レースを2着に7馬身差をつけて圧勝。続くダービートライアルのプリンシパルSも最後あわやというところまで追い詰められつつもなんとか勝ち、クラシック第ニ冠であるダービーの出走権を得た。
 そうして迎えた東京優駿・日本ダービー。このレースでサイレンススズカは、またしてもその狂気を覗かせる。

 ダービー前、皐月賞馬サニーブライアンの陣営は、早々に派手な逃げ宣言をしていた。
 サイレンススズカが過去圧勝したレースは、新馬戦、500万下と格下相手ながらも派手な逃げにより演出されたレースであった。「速い馬が勝つ」と言われる皐月賞を制したサニーブライアンが逃げに徹してくるということは、逃げ馬2頭による潰し合いになりかねない。しかもダービーは逃げ馬不利と言われる東京2400mである。サイレンススズカの調教師、橋田満が抑える競馬を上村騎手に指示したのは無理もなかった。
 だが、結果は惨憺たるものだった。
 道中、行きたがるサイレンススズカ、抑えようとする上村騎手。折り合いを欠き、口を割って完全にかかっている。弥生賞と同じだが、違ったのはこのとき上村騎手は馬を抑えようとし、行かせようとはしなかったことだろう。
 結局、最後まで折り合いを欠いたサイレンススズカは直線もまったく延びず、終わってみればサニーブライアン二冠達成の陰で17頭立て4番人気で9着と、散々な成績だった。

 その後も神戸新聞杯(G2)で2着に敗れ、2000mと距離も万全であり得意の逃げで望んだ天皇賞・秋(G1)では6着に敗れる。そして距離の不安を抱え望んだマイルCS(G1)では、キョウエイマーチと1000mのラップが56秒5という狂気の逃げ合いを演じ、生涯最悪の着順である15着に敗れ去った。

 振り返れば、新馬戦から素質を期待されながらここまでサイレンススズカは重賞未勝利に終わっている。
 競馬界は厳しい世界だ、毎年何十頭もの馬が厩舎や馬主の期待を背負ってデビューし、夢破れ去っていく。重賞はおろか、一勝もあげることができずに引退していく馬も数多い。
 デビュー時こそ騒がれたものの、この時点でサイレンススズカの名を知っているファンはほんの一握りに過ぎなかった。香港国際カップ(国際G2)に遠征し、またしても5着に敗れたサイレンススズカの名など、果たしてどのくらいの人が知っていただろう。
 だがこの海外のレースで、サイレンススズカは転機を迎えることとなる。

 武豊という、一人の天才騎手と出会ったのだ。


 サイレンススズカに騎乗した武騎手はこのレース後、5着に破れたにも関わらずこう洩らしたという。


「この馬は化け物だ」 と。



 明けて5歳となったサイレンススズカの緒戦、バレンタインS。
 中距離に的を絞り、天皇賞・春や安田記念といったG1の桧舞台を放棄し、勝ち鞍は新馬戦、500万下とオープン特別だけ。この時点のサイレンススズカは駄馬とは言わぬまでも二流三流といわれてもおかしくないだろう。だが重賞ですらないオープン特別のこのレースに、関西を本拠地とする武騎手はわざわざ東京までやって来た。
 ただ、サイレンススズカに騎乗するためだけに。
 それほど武騎手はこの馬に入れ込んでいたのか、それともただのローテーションか。

 一つだけ確かなことがある。
 競馬四季報に記載される第一から第四までの各コーナー時点での順位。サイレンススズカの項には、このバレンタインSより先、最後のレースに至るまで、遂に「1」以外が記されることは無かったのである。

 つまりは――

 これ以降、サイレンススズカの前を走ることができた馬は、一頭も存在しなかったのだ。



 さしたる強敵もいないバレンタインSを2着に4馬身差をつけて逃げ切り。
 続く中山記念(G2)ではその年の皐月賞馬イシノサンデーやローゼンカバリーに1馬身3/4をつけて逃げ切り。
 小倉大賞典(G3)では57.5kgのトップハンデを物ともせず逃げ切り。あまつさえ1分46秒5の勝ちタイムは中京1800mのコースレコード。
 オープン3連勝、それもすべて逃げ切り勝ち。天才・武豊とサイレンススズカのコンビは、徐々に世間に認められていった。

 そして、金鯱賞(G2)を迎える。


 サイレンススズカという馬は、その生涯を通してG1を1回勝っただけだ。
 これは本格化するのが遅かったということもあるが、むしろ彼の距離適正に関係していただろう。当時の番組(レース組み)は、特に春は古馬の中距離馬のために目標となるような大レースが組まれていなかったのである。
 距離適性の不利を承知で天皇賞・春や安田記念といったG1に挑戦するか、それとも注目度は落ちるがG2、G3、あるいはオープン特別の中距離レースに出走するか。5歳以上の中距離適正古馬に選択肢はこの2つしか無かった。そして先に書いたとおり、サイレンススズカ陣営は後者を選択したのである。

 だからだろう。
 サイレンススズカはその人気に比して大したレースを勝ったわけではない、そう口にする人が少なからずいるのは。

 そんな人たちに、私はただ一言、こう言いたい。

「金鯱賞のビデオを、見ろ」と。


 この年の金鯱賞はG2にも関わらず強豪が揃った。
 前年の菊花賞馬マチカネフクキタル。
 京都金杯(G3)や京都記念(G2)など6連勝中のミッドナイトベット。
 3連勝中のタイキエルドラド。
 ローカルのG2としては破格といっても過言ではない豪華な顔ぶれ。そんな中、これも現在3連勝中のサイレンススズカは単勝200円の一番人気に推される。ハナをきったら一度も譲らずという強烈な逃げ戦法が、ファンに印象深かったからかもしれない。

 「負けることなど考えられない」という強気なサイレンススズカ陣営のコメント、そしてそれを物語るように、ゲートが開くとサイレンススズカはいつものように飛び出し、いつものように後続に大差をつけて先頭に立つ。今日もいつもの逃げ戦法だ。
 第二コーナーで既に5馬身、そして向こう正面では10馬身。大逃げである。
 ペースは速い、いや、速すぎる。こんなペースで最後まで走りきれるわけがない、サイレンススズカは絶対にバテる、最後の直線が勝負だ。後続の騎手たちはそう思った。見守る観衆もそう思った。
 第三コーナー、まだバテない、まだ差が縮まらない。
 中京競馬場の空気が揺れる。戸惑い。

「なんだ、なんなんだこれは?」

 これは何の冗談か。何か、そう、まるで何かひどく出来の悪い冗談を耳元で叫ばれたような。
 終いには笑い出してしまう者までいた。おかしい、こんなバカなことがあっていいのか。

 そして第四コーナー。
 まだ逃げている、まだ差が縮まらない。いや、それどころか――

 逆に、後続が引き離されている!

 戸惑いのどよめきの中、どこからともなく拍手が沸き起こった。
 誰が最初に始めたのか、徐々に、徐々に、観客席に拍手は広がっていく。
 そしてサイレンススズカがゴールした時には、満場の拍手が彼を迎えた。
 拍手に迎えられてのゴールなど、前代未聞。2着以降は割合に激戦であったが、誰もそんなことは見ていなかった。ただただ、この酷く滑稽で、だがこの上なく強烈な、サイレンススズカの一人芝居に酔っていた。

 勝ち時計は1分57秒8。中京2000mのコースレコードを10年ぶりに書き換える凄まじいタイム。
 そして2着との着差は、公式にこう記された。
 ただ、「大差」と。





つづく

 

影をも踏ませぬ サイレンススズカ その




 真夏のグランプリ、宝塚記念(G1)は人気投票によって出走場が決定する。

 阪神・芝2200mで行われるこのレース、中距離適正馬であるサイレンススズカにはやや距離が長い。であるにも関わらず出走したのは、人気投票で6位に選ばれたからだ。
 ファン投票6位というと大した人気ではないと思う方もいるだろう。だが目下4連勝中とはいえ、これまでサイレンススズカの勝ったレースはいずれもG2、G3級のレースである。それ自体、並みの馬が勝てるレースではないのだが、それでもやはりG1級のレースを勝った経験の無いサイレンススズカは、実績という面では他の一流馬たちより劣っているといわざるをえなかった。むしろにも関わらず6位に支持されたところに、この馬の人気の高さが伺えるかもしれない。

 そんな宝塚記念において、サイレンススズカに一つの問題が持ち上がっていた。
 4連勝中ずっと鞍上にあった天才、武豊騎手が騎乗できなくなってしまったのである。

 武騎手は、前年の年度代表馬エアグルーヴの主戦騎手であった。サイレンススズカより先にこの女傑に出会っていた彼は、年内すべてのレースの騎乗を約束してしまっていたのだ。つまりエアグルーヴが出走するこのレースで、武騎手はサイレンススズカに騎乗することはできない。
 大一番のこのレースでサイレンススズカを手放すのがよほど悔しかったのだろう、武騎手は宝塚記念の週にたびたび橋田厩舎を訪れ、スズカのことを聞いていったという逸話が残っている。
 とにかく、騎手がいないのではレースにならない。サイレンススズカの鞍上には南井克巳騎手が選ばれた。南井騎手といえばかつてナリタブライアンやオグリキャップの主戦騎手を務めた名手であり、鞍上に不足はない、だがそれでも乗り代わりはマイナスにはなれどプラスにはならない。サイレンススズカはこのレース大きなハンデを背負ったに等しかった。


 しかもレースは真夏のグランプリ、宝塚記念。敵はいままでとは比べ物にならない。

 前年度代表馬エアグルーヴ。
 天皇賞・春を制したメジロブライト。
 前年牝馬二冠メジロドーベル。
 もう一つのグランプリ、有馬記念の覇者シルクジャスティス。

 今までの勝ち鞍とは敵のレベルが一周り違う。
 騎手の乗り代わり、かつてない強豪、そして距離の不安。サイレンススズカにとって、不安材料は多かった。



 スタート直前、異変が起きた。
 天皇賞・春の覇者、メジロブライトがゲートで突然立ち上がり、発走が延期されたのだ。
 弥生賞の記憶が蘇る。幸いにしてレースは発送時間が延期されたに留まったが、スズカにとっては嫌な思い出だった。

 そして改めてのスタート。スズカは出遅れることなく好スタートをきった。まずは胸を撫で下ろすスズカ陣営。いつものように先頭に立つスズカを見守る。

 サイレンススズカについていってはいけない。

 これはもう、同じレースを戦う馬の騎手たちにとっては常識だった。そしてそれは武騎手も同様だったのだろう、彼とエアグルーヴのコンビも中段待機の構えである。スズカの恐ろしさを誰よりも知る彼のこと、無理についていこうものならこちらが潰れるということが解っていたのかもしれない。
 武騎手の狙いは恐らく、2200mという距離の壁にスズカが止まる、その一点であった。

 そして第三コーナー付近、サイレンススズカの脚が止まる。
 後続に差を詰められるという連勝中には見られなかった光景に、ファンの間にどよめきが走る。

 だがしかし、これは南井騎手の作戦であったのだ。
 2200mという、適正からはやや長い距離、間でいったん息を継ぐ。スピード適正だけで馬の能力だけで勝てるほど、競馬という物は甘くない。「あのサイレンススズカを、抑えて勝たせる」南井騎手の、それはプライドだったのかもしれない。
 どちらにせよ、この作戦は功を奏す。間で一旦息をついた貯金は大きく、第四コーナーをまわってサイレンススズカはまたしても伸びた。
 最大の敵手たるエアグルーヴと武豊は後方、とても届く距離には居ない。勝った、誰もがそう思ったに違いない。

 だが、まだレースは終わっていなかった。
 後方から、弾丸のような勢いで突き抜けてくる馬がいた。9番人気、単勝オッズ42.3倍、まったくの人気薄であった馬、誰もがこのような展開など予想もしなかったであろう馬。
 ステイゴールドである。
 最後の直線は僅差の争いとなった。
 逃げ馬の宿命か、それともやはり距離の壁か、必死に逃げるサイレンススズカ、追いすがるステイゴールド。
 そしてゴール板。
 着差は3/4馬身。

 勝ったのは、サイレンススズカだった。



 5連勝にして初のG1制覇。そしてその5連勝の内、スタートしてからゴールするまで一度も端を譲ったことがないという圧倒的なスピード。
 この時のサイレンススズカを、誰もがこう評したに違いない。


「最強馬」 と。

影をも踏ませぬ サイレンススズカ その




 秋に入って、サイレンススズカのローテーションは中距離馬の王道と呼べるものだった。すなわち、毎日王冠をステップにしての天皇賞・秋。
 日本の中央競馬でも最高の伝統と格式を誇り、中距離最強馬を決するレースとされる天皇賞・秋は、サイレンススズカの最終目標と呼べるものだったのだ。

 ステップレースである毎日王冠はG2、例年登録頭数がフルゲートを超えて除外馬が出ることも多い伝統のレースである。
 しかしこの年は違っていた。出走を予定していた馬たちが次々と出走を取り消し、最終的にはフルゲート18頭中わずか9頭のレースになったのだ。
 理由は明白だった。サイレンススズカが出走するからだ。

「あの馬に、勝てるはずがない」

 レース展開に左右されるはずの逃げ馬の常識などは当てはまらない。常識外れのスピードで端をきり、そのままのスピードでゴールに飛び込んでしまう。ついていけば潰され、抑えていてはとどかない。あまりにも理不尽で、あまりにも強すぎたのだ、サイレンススズカという馬は。

 誰もが戦う前から回避をしての9頭だて。
 だがしかし言い換えれば、このとき出走を決めた他の8頭はサイレンススズカに真っ向から勝負を挑むことを決意した8頭であった。
 その中に、2頭の外国産馬がいた。


 この時代、中距離最強馬を決める秋の天皇賞は、外国産馬には出走権が与えられていなかった。

「外国産馬というだけで、なぜ強い馬が天皇賞に出走できないのか」

 ファンのその不満の声が、クラシック、そして天皇賞の外国産馬への開放へと繋がるのだが、それはまた後の時代の話。この時点では、2頭の外国産馬にとってサイレンススズカに挑める最後のチャンスが、この毎日王冠であったのだ。

 グラスワンダー。
 新馬戦から3連勝で迎えた朝日杯3歳S(G1)で、長らく破られることなく「不滅のレコード」とまで言われたリンドシェーバーのレコードタイムを、いとも簡単に、しかも大幅に破り、1分33秒6という驚異のタイムで圧勝した3歳最強馬である。
 その後に骨折が発覚し4歳をまるまる棒に振ってしまうことがなければ、間違いなくもっと早くにサイレンススズカの前に立ちはだかったであろう外国産馬。休養明けとはいえ、侮れぬ強敵である。
 そしてそのグラスワンダーが骨折で不在の間にNHKマイルチャンピオンシップ(G1)を制したのが、もう一頭の外国産馬、エルコンドルパサーだ。
 エルコンドルパサー。
 デビューの遅れから朝日杯3歳Sには間に合わなかったものの、その後に破竹の5連勝でG1馬となった外国産馬。こちらも休養明け初戦であったが、中距離最強の呼び声も高い実力馬であった。

 実績とその馬の強さから決定される斤量は、グラスワンダー55Kg、エルコンドルパサー57Kg、そしてサイレンススズカは59Kg。スズカはトップハンデである。
 しかも前走である宝塚記念から2ヶ月しか休めず、サイレンススズカは不利な状況であった。
 しかし毎日王冠の単賞オッズはダントツ人気の1.4倍。グラスワンダーの3.7倍、エルコンドルパサーの5.3倍と比較すると「3強対決」と言うには人気の差がありすぎた。もっとも4番人気が32.9倍だったことを考えると、3頭と4番手の差はあまりにも大きい。

「王者サイレンススズカに外国産馬2頭がどのようにして挑むか」

 ファンの興味はそこにあったという表われだろう。


 このレース、なにより印象的であったのは返し馬だ。
 馬場入り直後、懸命に返し馬に駆け出す他の馬を尻目に、サイレンススズカはスタンドを見つめ、動かない。
 それはまるで、他の馬などは端から眼中になく、王者の姿を東京競馬場に詰め掛けた13万人の大観衆に見せつけているかようだった。
 結局そのために時間がなくなり、返し馬ができなかったのはご愛嬌だろう。

 そしてそれを象徴するかのように、レースはまたしても圧倒的な展開になった。

 スタートしてから、第一コーナー、第二コーナー、第三コーナー。サイレンススズカの一人旅。第四コーナー手前でグラスワンダーが必死に追いすがり差を詰めるも、最後の直線に入っても逃げ馬であるはずのサイレンススズカの脚は一向に衰えない。逆に追込み馬であるはずのグラスワンダーが後続に迫られる始末である。
 しかも恐ろしいことに、ここまで鞍上の武騎手は鞭を入れるどころか追ってすらいないまったくの馬なり。直線で必死にエルコンドルパサーが追いすがるも、傍から見てもとても届く距離ではない。
 スポーツ紙に「3強対決」「中距離王決定戦」と謳われたこのレース、終わってみればサイレンススズカの横綱相撲であった。
 この時点で最強の外国産馬であり、怪物と言われた2頭をもってしても、サイレンススズカの敵ではなかったのだ。

 G2にしては異例のウイニングラン。普段は冷静な武豊のガッツポーズが非常に印象的であった。



 宝塚記念で古馬一線級との勝負付けは済ませた。
 毎日王冠で4歳外国産馬の両雄を完膚なきまでに叩きのめした。
 後は悲願である天皇賞・秋を勝ち、名実共に現役最強馬の称号を得るのみ。
 負ける要素などどこにもない。3週間後、同じ東京競馬場で、秋の天皇賞で、各コーナーとゴール板を一人旅で駆け抜ける姿をただ確認するのみ。ファンも、そして恐らくはスズカ陣営も、そう考えていたに違いない。


 そして迎える11月1日、運命の天皇賞・秋。


 このレースが、サイレンススズカ生涯最後のレースとなる。




 つづく

影をも踏ませぬ サイレンススズカ その4(完結)





「府中には魔物が棲んでいる」


 競馬ファンの間で、まことしやかにこんな台詞が交わされるようになったのは、いつの頃からか。
 日本のレースでも最高の格式を誇り、特に中距離馬には最終目標といっても過言ではない天皇賞・秋。このレースはまるで呪われたように一番人気が勝てないレースでもあった。
 オグリキャップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー、ビワハヤヒデ、バブルガムフェロー、ナリタブライアン。
 競馬史に残る名馬たちが、絶対の一番人気に推されながら、敗れ去る。まるで府中に巣くう目に見えぬ魔物に脚を捕らわれたかのように。
「一番人気は勝てない」この不気味なジンクスをもって、天皇賞・秋をこう呼ぶ者までいた。



 曰く、「魔のレース」





 この時点で間違いなく現役最強馬であったサイレンススズカ、当然ながらこのレースでも絶対の一番人気に推される。
 そしてこの日は11月1日。
 そればかりではない、サイレンススズカはこのレース、1枠1番発走なのである。

 11月1日1枠1番1番人気

 そして誰もが。そう、誰もが思っていたのに違いないのだ。
 レースの後には、この後にもう一つ1が続くに違いないと。

 まさか、まさかあのような結末が待っているなどとは、誰も思っていなかった。
 思いたくもなかった。


 その日、府中東京競馬場は快晴だった。
 サイレンススズカに、不安要素など微塵も無かった。長く続いたジンクスも、この馬の怪物性の前には不安要素たりえなかった。
 誰もが、彼がまた一人旅でゴール板を通過することを、鞍上の武豊のガッツポーズを、予想していた。予期していた。確信していた。
 一枠一番であるにも関わらず最後に馬場に姿を現したサイレンススズカは、返し馬ではあえて外ラチいっぱいを走った。ファンは熱狂し、レースが始まる前からスズカの一人舞台だった。
 東京競馬場で、そしてテレビの前で、誰もがサイレンススズカに声援を送っていたのだ。

 そしていよいよ、運命のレースの幕が上がる。




 サイレンススズカと武豊は、いつものように飛び出し、いつものように先頭に立つ。
 そしてこのレースには、スズカの他にもう一頭、逃げ馬がいた。
 サイレントハンターである。
 生粋の逃げ馬である彼も、このレースでは果敢に逃げたと言っていいだろう。いや、それどころか「大逃げ」と言って良かった。

 にも関わらず、トップに立ったサイレンススズカとは5馬身から6馬身の差がついているのである。

 本来の逃げ馬の位置から見ても大逃げであるサイレントハンターから更に5馬身、いや、そんなことを言っている間にも、更に9馬身、10馬身…… 後続とはどのくらいの差がついているのか、数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの超大逃げである。
 更に恐ろしいことに、鞍上の武騎手は一切追っていないまったくの馬なり。

 1000mでラップが57秒4というのは、もはや狂気の時計。
 誰もついていくことなどできない。もし無理をしてついていけば、即座に潰されるであろうラップなのだ。
 正に、スピードの次元が違った。

 第三コーナーに差し掛かった時点で、既に勝利を確信したファンから早くも大歓声が上がった。

 そして府中の大欅を越えて、14万人の大観衆の前に再び姿を現したサイレンススズカは。





 ――もう、ゴールに向かって走ってはいなかった。





 サイレントハンターに交わされ、後続馬に次々と交わされ。
 粉々に砕け散った前足で、サイレンススズカは、それでも必死に走っていた。

 ゴールではなく、他の馬が来ない安全な場所に向けて。


 東京競馬場に響き渡る14万の悲鳴。そして、沈黙。

 何が起こったのか。そしてこれから何が起こるのか。
 武騎手は、そしてこのレースを見ていたファンたちは、既に心のどこかで解っていただろう。


 サラブレッドという種は、ただ速く走るためだけに品種改良された種だ。
 走れなくなってしまえば、生きていくことさえできない、いびつな種だ。
 サラブレッドは、重大な怪我を負い一度走れなくなれば、生きながらにして身体が腐敗していくという。
 人が娯楽のためだけに創りだした罪の象徴。そう断じることができるのかもしれない。
 特に、このような悲劇の場にあっては。



 左手根骨粉砕骨折、予後不良



 左の前足が完治不能なほどに砕けてしまったサイレンススズカをこれ以上苦しめないために。
 その場で、安楽死の処分が下された。




 こう言う人がいる。

 「サイレンススズカは武豊に潰された」

 ただの暴言とはいえまい。全盛期を迎えてからのスズカの走りは常軌を逸していたし、事故の起きた天皇賞・秋での走りは狂気とも取れるものだった。知らぬまにスズカの脚は限界を超えていた可能性は大いにある。そんな騎乗をした武豊騎手を非難する声が挙がるのは当然といえるかもしれない。
 だがしかし、冷静をもって知られる武騎手が。
 マスコミに対するリップサービスもあまりなく、常に冷静で、それでいて天性の才能から結果だけですべてを語る。そんなタイプの天才・武豊が。

 このレース後に叫ぶようにこう言ったのだ。


「原因は解らないんじゃない! 無いんだ!」


 この談話を聞いたとき、私などは思ったものだ。

 ああ、武豊は本当にサイレンススズカが好きだったんだな、と。





 最後に。
 私感で恐縮であるが、という前置きの上で。

 私は逃げ馬があまり好きではない。
 それは、逃げ馬と言われて真っ先に思い浮かべるのがサイレンススズカであるからだ。

 サイレンススズカのような馬は、恐らくはもう二度と出ることはないだろう。私はそう思っている。
 これほどまでに型破りで、これほどまでに強烈に強かった逃げ馬は、恐らくもう二度と出ることはないだろうと思っている。

 私は、サイレンススズカという馬が好きだった。
 武豊騎手ほどではないにしろ、私はスズカが大好きだった。

 そして、だからこそ。

 私は、逃げ馬が嫌いなのかもしれない。




 馬話は冷静に筆致を抑えて書くべきだと思いつつ、こんな文章で申し訳ない。
 選んだ馬が悪かった。それに尽きる。

 


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