もしも、もしも翼があったなら あの人の元に飛んでいけるのに

 

 

 


もしも翼があったなら

−第五章−

もしも翼があったなら

2000/12/30 久慈光樹


 

 

 

『名雪……』

 

 祐一だ、祐一の声が聞こえる……。

 

『俺には、奇跡は起こせないけど……』

『でも、名雪の側にいることだけはできる』

『約束する』

 

 側に……。

 私の側にずっといてくれる……?

 

『名雪が、悲しい時には、俺がなぐさめてやる』

『楽しいときには、一緒に笑ってやる』

 

 ゆっくりと意識がはっきりしてくる。

 これが目覚し時計の声だと言う事に、わたしはもう気付いていた。

 

『白い雪に覆われる冬も……』

『街中に桜の舞う春も……』

『静かな夏も……』

 

 でも……。

 

『目の覚めるような紅葉に囲まれた秋も……』

『そして、また、雪が降り始めても……』

 

 現実に今、側に祐一はいない。

 

『俺は、ずっとここにいる』

『もう、どこにも行かない』

 

 わたしの側にいてくれない。

 

『俺は……』

『名雪のことが、本当に好きみたいだから』

 

 ゆっくりと目覚ましを止める。

 もう、どこにも行かない…… か。

 

「うそつき……」

 

 わたしの呟きは、目覚ましの終わりと共に、部屋の静寂に消えた。

 

 

 

「おはよう、お母さん」

「おはよう、名雪。最近はきちんと起きてくれるから、お母さんうれしいわ」

「うん、目覚ましがいいからね」

 

 朝の何でもないお母さんとの会話。

 ほんの1年前までは、当たり前だった風景。当たり前だった日常。

 だけど今、色んな意味で当たり前ではなくなっている。

 お母さんがいる事。

 そして祐一がいない事。

 日常は、ただ何も無いから日常なんだと思っていた。

 なんの苦労もなく手に入るものだと思っていた。

 でもそうじゃなかった。

 そうじゃなかったんだ。

 

「どうしたの? 名雪」

 

 お母さんが不思議そうにわたしに声をかける。

 

「ううん、なんでもない。それより今日は病院に行くんだよね、用意はいいの?」

「ええ、昨日の内に用意してあるわ。名雪こそ折原先生のお家にお邪魔する用意はいいの?」

「一旦家に帰ってから用意するから」

「そう」

「うーん、明日も学校だし、制服でいいよね」

「そうね、いいんじゃないかしら」

「ごちそうさまでした、じゃあ行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

 

 

 いつも通りの学校生活。

 香里がいて、北川くんがいて、クラスメイトのみんながいて、そしてわたしがいる。

 いつも通り勉強して、いつも通り学食でお昼にして。

 Aランチを食べるわたしを見て、香里が呆れたり。

 物理の宿題を忘れた北川くんが、香里を拝み倒したり。

 本当にいつも通りの学校生活。

 

 でもやっぱり何かが足りない。

 

 隣の席に目を向けると、そこは誰も座っていない空席。

 窓の外に目を向けてみる。

 鮮やかに晴上がった青空。

 あの向こうに祐一のいる街があるのだろうか。

 

 祐一……。

 

 どんなにお互いがお互いを必要としていようと、距離が、立場が、一緒にいることを赦してはくれない。

 

 もしも。

 もしも翼があったなら、あの人の元に飛んでいけるのに。

 もしも翼があったなら、一緒にいることができるのに。

 どうしてわたしの背には翼がないのだろう。

 どうして……。

 

 

 

 夕暮れどきにもかかわらず、病院は混み合っていた。

 もう顔馴染みになってしまった受付の看護婦さんからお母さんの病室を教えてもらうと、わたしはすぐに病室に向かった。

 

「お母さん、調子はどう?」

 

 これももうすっかり見慣れてしまったパジャマ姿のお母さん。

 

「名雪、お帰りなさい」

「うん、ただいま」

 

 病室でこんな会話をしているのがちょっぴり可笑しくて、わたしは少し笑みをこぼした。

 お母さんもきっと同じだったのだろう、柔らかな笑みを浮かべている。

 

「検査はもう済んだの?」

「いいえ、明日になるそうよ、今日はその為の準備だったの」

「そうなんだ」

 

 トントン

 

「どうぞ」

 

 ノックの音に、お母さんが応える。

 入ってきたのは20台後半くらいの落ちついた印象の女性だった。

 

「失礼します、私、折原浩平の妻の留美と申します。名雪ちゃんをお迎えに来ました」

「あら、折原先生の。先生にはいつもお世話になっております」

「いえ、こちらこそ」

 

「あなたが名雪ちゃん?」

 

 そう言ってわたしににっこりと微笑みかけてくれる。

 この人が折原先生の奥さんなんだ。

 後ろで一つに束ねた長い髪が素敵な、とても綺麗な人だった。

 

「はい、母がいつもお世話になってます」

「うふふ、そんなに畏まらなくてもいいのよ。よろしくね、名雪ちゃん」

「こちらこそ」

 

 トントン

 

「失礼します。 お、留美来てたのか」

 

 続いて、白衣姿の折原先生がいらした。

 

「ええ、じゃあ私は名雪ちゃんと一緒に先に帰ってるわ」

「なんだ、もう帰るのか。もう少しで終わるから、待ってれば乗っけてってやるのに」

「結構よ、あんなボロ車じゃ途中で止まっちゃうわ」

「あ、ひでえな、ボロ車は無いだろ」

「オンボロじゃないの、あの車に3人はちょっとキツイわよ」

「しょうがないだろ、安月給なんだから」

「ほんとよね」

「ぐっ」

 

 折原先生とその奥さん――確か留美さんだったか――の交わす軽妙な言葉のやり取りに、わたしはややあっけにとられていた。

 先ほどは落ちついた女性という印象を受けた留美さんだったが、折原先生と冗談ともつかないやり取りを交わす姿はわたしとそんなに歳が違わないような印象を受ける。

 でも、二人とも凄く幸せそうだ。ちょっぴり羨ましいな。

 

「まあいいや、俺も多分夕飯前には帰る」

「わかったわ。 じゃあ水瀬さん、名雪ちゃんをお借りしていきますね」

 

 留美さんはそう言うとちょっと悪戯っぽく笑った。

 

「よろしくお願いします」

「ええ。じゃあ名雪ちゃん、行きましょうか」

「はい」

 

 留美さんたちのお宅へは、バスに乗って行くらしい。

 私たちは移動中、色々話をした。

 

 

「名雪ちゃんは高校何年生?」

「3年です」

「あら、それじゃ今年受験なんだ」

「はい。 あっ、バス来たみたいですね」

 

 

「うん、割と空いてるわね。名雪ちゃん、こっちに座りましょ」

「はい。 あの、留美さんはこちらの方なんですか?」

「実家はね。でもしばらく前までは違う街にいたの、浩平とはそこで知り合ったんだ」

「へー、その時のこと聞きたいです」

「うふふ、名雪ちゃんも好きねぇ」

 

 

「じゃあ、折原先生と同じ大学だったんですね」

「そう、まぁあいつも何をとち狂ったか、急に『医者になる!』なんて言い出して、こっちの大学受けようなんてするから」

「それで1年浪人を?」

「そ」

「でもいいですね、自分の夢を貫くって」

「夢、ねぇ…… あ、いけない! 名雪ちゃん、ブザー押して、次で降りるから」

「あ、はい」

 

 

「……とまぁ色々あって、結局はアパート借りて一緒に暮らしてるってわけ」

「新婚さんなんですね」

「まぁ、ねぇ」

「うふふ、羨ましい」

「あいつとも付き合い長いからね、全然新鮮さはないわね」

「うふふ」

「よし、着いた。もうちょっとバス停から近いといいんだけどね。 ようこそ名雪ちゃん」

「はーい、お邪魔しまーす」

「はい、どうぞ」

 

 確かに広くは無かったけど、綺麗に片付けられていて清潔そうな住まいだった。

 留美さんはきっと綺麗好きなんだろうな。

 

「よし、じゃあ晩御飯にするから、名雪ちゃんはそっちの部屋で休んでて」

「あっ、わたしも手伝います」

「いいからいいから、名雪ちゃんはお客様なんだから」

「でもわたし、料理は嫌いじゃないですよ。手伝わせて下さい」

「うーん、そう? じゃあ一緒に用意しましょうか」

「はい」

 

 それからしばらくして、折原先生が帰ってきた。

 

「ただいまぁ。 おっ、いい匂いがするぞ」

「お帰りなさい、もうすぐご飯できるわよ」

「お帰りなさい」

「名雪ちゃんも手伝ってくれているのか。ありがとう」

「うん、名雪ちゃんってお料理上手なのね、感心しちゃった」

「留美の高校時代とは大違いだな」

「うっさい! 早く着替えてきなさい!」

「へいへい」

「うふふ」

 

 

 晩御飯はグラタン。

 ホワイトソースは出来合いのものだけど、一人で作るのはちょっと面倒くさい。

 いつもはお母さんと二人で料理するのだけど、今日は留美さんと一緒。

 

「あ、名雪ちゃん、オーブンそろそろいいんじゃない?」

「はい」

 

 折原先生は、留美さんは料理が下手だったって言っていたけれど、全然そんなことはなくて。

 むしろわたしよりも上手なくらいで。

 きっと、好きな人に食べてもらう為に一杯練習したからなんだろうな。

 

「うー、留美ー、腹減ったー」

「はいはい、もうすぐできるわよ。まったく子供みたいなんだから」

 

 口ではそんなことを言ってるけど、留美さんはとっても嬉しそうだ。

 ふふ、留美さんたら。

 

 

「はーい、できたわよー」

「お待たせしました」

「おっ、待ってました! どれどれ…… アチィ!」

「なーにやってんのよ」

「わっ、大変。お水お水」

「ありがとう、名雪ちゃん。んっ! なかなか美味いじゃないか」

「うん、名雪ちゃんに手伝ってもらったからね」

「そんなことないですよぅ」

 

 そうしてしばらく楽しく話をしながら食事をする。

 やがて話題は祐一の事へと移っていった。

 

「そうなの…… それは祐一くんもご不幸だったわね」

「はい……」

 

 話題が暗い方向へ行きかけたが、折原先生がわざと明るい口調で続ける。

 

「しかし名雪ちゃんも、半月も逢えないんじゃ寂しいだろ」

「ばかっ! そんな事女の子に言うもんじゃないの!」

「いえ、いいんです。確かに寂しいけど…… でも祐一は私の側に帰ってきてくれるって約束してくれたから」

 

 わたしの言葉を聞いた留美さんは、優しい笑顔で言った。

 

「ふふふ、祐一君のこと信じてるのね」

「はい」

「やれやれ、祐一も罪な事するよ。こんな健気な子を半月も待たせるなんてな」

「健気だなんて、そんな……」

 

 頬が赤くなるのを感じる。

 と、それを聞いていた留美さんが、悪戯っぽい笑みを浮かべて折原先生に話しかける。

 

「ほー、こんな美人を1年も待たせたのは誰だったかしら?」

「うっ……」

「留美さん、1年も先生の事待ってたんですか?」

「おいおい、家にいるときまで先生はよしてくれよ名雪ちゃん、浩平でいい」

「あ、ごめんなさい」

「そうよ、花の女子高校生を1年も待たせるなんて極悪人よね」

「え? 高校の時なんですか?」

「懐かしいな、留美が17の時だから今から15年前か?」

「違うわ!」

 

 そう叫ぶや、留美さんは折原せんせ…… 浩平さんの顎に電光石火の一撃を加えた。

 “ぐー”で。

 

 ゴスッ

 

 鈍い音がして浩平さんがその場にひっくり返る。

 うわー……。

 

「ぐっ…… 流石は留美だ、相変わらずいいパンチ持ってるじゃないか」

「バカばっか言ってるからよ! 私はまだ27、あなたも同い年じゃないの。まったく高校の時からなんにも変わってないんだから。 ごめんね、名雪ちゃん。こいつバカで」

「なんだか羨ましいな」

「え?」

「浩平さんと留美さん、とっても仲が良くて」

「そ、そう?」

「……」

 

 ちょっと照れくさそうにそう言う留美さん。うふふ、浩平さんは真っ赤になっている。

 

「ええ、とっても幸せそう。お二人は愛し合っているんですね」

「……」

「……」

 

 わたしのその言葉に、留美さんまで真っ赤になってしまった。

 浩平さんに至っては耳まで真っ赤になっている。

 うふふ、さっきの仕返し。

 

 本当に楽しい食事だった。

 

 

 

「ねえ名雪ちゃん。何か聞きたい事があるんじゃない?」

 

 留美さんにそう聞かれたのは、夕食を終えて、私の寝る布団を用意して貰っている時。

 浩平さんは明日の仕事の用意があるとかで、早々に自分の部屋に引っ込んでしまっていた。

 

「え?」

「なんかそんな感じがしたんだけど、違った?」

「……あの、留美さんは高校の時に1年間も浩平さんのことを待っていたんですよね」

「ええ、そうよ」

「寂しく…… なかったですか。1年間も好きな人に逢えなくて、寂しくなかったですか」

 

 そう、わたしはその事がどうしても聞きたかった。

 ちょっとの間、祐一と逢えないだけでこんなにも寂しい気持ちになっているわたし。

 留美さんは寂しくなかったのだろうか。

 

「そりゃね、寂しくなかったと言えば嘘になるわね」

「……」

「あいつの行っていた場所は、すごく遠かった。私が追いかけて行く事すらできないくらい遠かった。しかも帰ってくるかどうかすら分からなかったの」

「でも、留美さんは待ち続けた」

「ええ」

「浩平さんのこと信じていたんですね、必ず帰ってくるって」

「それもあるわ、でもそれだけじゃないの」

「え?」

「あいつの事を信じていたのと同じくらい、私は私を信じた。あいつのことが好きな私の気持ちを信じた」

 

 好きな…… 気持ち……。

 

「あいつの事を好きだと、愛していると感じている気持ちだけは絶対に裏切りたくなかった。だから私は待ちつづける事ができた。どこに行ったのか、いつ帰ってくるかもわからないあいつを」

 

 留美さんはそこで一旦言葉を切ると、優しい笑顔でわたしに聞いた。

 

「ねぇ名雪ちゃん。祐一君の事、好き?」

「……はい」

 

 ちょっと恥ずかしかったけれど、しっかりとそう答える。

 これだけは自信を持って言える、わたしは祐一のことが好き。

 

「そう。じゃあその気持ち、信じてあげなくちゃね」

「はい」

「ん! じゃあお休み、名雪ちゃん」

「留美さん」

「ん?」

「ありがとうございました」

「うん。それじゃあおやすみなさい、名雪ちゃん」

「はい、おやすみなさい」

 

 

 留美さんが部屋を出て行った後、わたしは布団に入った。

 お日様の匂いがする布団は、とっても心地良かったのだけれど、心は晴れなかった。

 

「自分の気持ちを信じる、か」

 

 留美さんは強い人だと思う。

 果たしてわたしは祐一と1年も逢えなくなったら、自分の気持ちを信じ続けることができるだろうか。

 たった半月、祐一と逢えないだけでこんなにも不安定になっているわたしが。

 

 私は、7年間祐一と会うことがなかった。

 あの時……。

 7年前、いやもう8年前になるあの時に祐一に拒絶されて以来、わたしは祐一と全く会わなかった。

 あの時は耐えられた。

 すごくすごく辛かったけど、忘れる事ができそうだった。

 そう、その気になれば忘れる事ができたのだ、あの時ならば、まだ。

 

「だけどもう手遅れだよね」 

 

 そう、手遅れ。

 わたしはもうあの頃には戻れない。

 祐一のことをこんなにも好きになってしまったわたしは、もうあの頃のように諦めることなんてできない。

 

 

 祐一の事を好きなこの気持ち、それはなんの躊躇いもなく信じる事ができる。

 だけど。

 だけど、わたしは祐一に依存しすぎている。

 お母さんが事故にあった時。

 祐一のお母さまが亡くなって、逢えなくなった時。

 特にそう感じた。

 

 好きな人といつも一緒にいたいと思う事。

 それは当たり前の事なのかもしれないけれど。

 祐一がいなくちゃわたし一人では何もできないような関係を、果たして祐一は望んでいるのだろうか。

 そしてわたし自身は望んでいるのだろうか。

 

 それにお母さんの事。

 お母さんは事故で辛いリハビリを強いられている。

 子供の頃から、わたしの支えになってくれたお母さん。

 そのお母さんが逆に支えを必要としている。こんな時こそ、わたしが支えてあげなくちゃいけないのに。

 わたし一人では、支えになるどころか自分一人さえ満足に立つことができない。

 

「わたしは、自分を一番信じられないのかもね」

 

 祐一のことを好きな気持ちは信じる事ができる。

 だけど、それ以前に自分自身を信じることができないのかもしれない。

 だってそうだろう。

 こんなにも頼りない、他人に支えて貰わなければ自分一人で立つこともできないような人間を、どうやったら信じられるのか。

 

 祐一の事。

 お母さんの事。

 祐一のお母さまの事。

 浩平さんの事。

 留美さんの事。

 色んな事が頭を掠め、そして消えてゆく。

 

「色んなしがらみに縛られないで、ただ祐一の元に飛んでいける翼があればいいのにね……」

 

 

 もしも翼があったなら

 

 

 寝入る前に頭を掠めたのは、昼間も感じた、そんな願望にも似た思いだった。

 

 

 

 

 

<つづく>

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