空はどんよりと曇っていた。

 

 教会の裏に広がる墓地。

 綺麗に区画された地面の一つ一つには、石碑や十字架が備え付けられている。

 

 忘れ去られたように苔むしたもの。

 つい最近造られたような真新しいもの。

 千差万別の石碑が立ち並ぶ。

 

 静謐(せいひつ)で厳粛な雰囲気が漂っている。

 生ある者の息吹が感じられない死者の眠る場所。

 

 その一角に男がいた。

 死者の眠りを妨げることを嫌うように、ひっそりと一つの石碑の前に立ちつくしていた。

 男の前にある石碑はそれほど新しいものではなかったが、良く手入れされていることが一目で分かる。

 石碑には小さな白い花が供えられていた。かすみ草だろうか、あまり墓地に供えるに適した花とは言えなかった。

 

 立ち尽くしていた男は屈みこむと石碑の表面を愛しそうになでる。

 石碑の下に眠る死者の名前だろう、表面にはこう文字が彫られていた。

 

 

KOTONE.FUJITA

 

 

 


静謐

1999/12/20 Merry X'mas ! !

久慈光樹


 

 

 

12月22日(クリスマスイブ2日前)

 

 いつの間にか再び立ちあがった男は、相変わらず言葉を発するでもなくただ立ち尽くしていた。

 男の顔には穏やかで透明な笑みが浮かんでいる。

 その姿は、あたかも死者の声に耳を傾けているようにも見えた。

 

 やがて重く張った雲から、白い結晶が舞い降りてくる。

 その白い真綿は大地に公平に舞い降り、男の黒いコートに白く彩りを添えていく。

 しかし男はそれが目に入らぬように立ち尽くすのみ。

 

 どのくらいそうしていただろう。

 男はゆっくりと石碑の前から離れ、その場を立ち去る。

 最後まで一言も発することなく。

 男の立ち去った後には、供えられたかすみ草が風に揺られるだけだった。

 

 

 

 墓地を出る際、男は教会の神父に声をかけられた。

 神父はこの2年間、ほぼ毎日と言っていいほどにこの場を訪れる男にねぎらいの言葉をかける。

 それに対し男は笑みで答える。

 だがその笑みは、先ほどまで死者に向けられていたような透き通ったものとは違っていた。

 どこか自分の本心を隠すような。

 奇妙に冷めた笑み。

 その笑みを見て、神父はそっと溜息をつく。

 そんな神父の仕草を無視するように、軽く一礼すると男はゆっくりと立ち去っていった。

 

 

 家にたどり着くと人影があった。

 髪をリボンで結んだ赤毛の女性が玄関の前に立っている。

 彼女は男に気がつくと花のほころぶような笑顔を見せると、小走りに近寄ってきた。

 

 男が別段驚いた様子を見せないところを見ると、良くあることなのかもしれない。

 女が男を「ちゃん」付けで呼ぶ。

 男くらいの年代の男性であれば、「ちゃん」付けで呼ばれることに何らかの違和感ないし戸惑いを覚えるところだろうが、男はそれが当たり前のように何の反応も見せなかった。

 そのまま無言でカギを取り出すと、家に入っていく。

 女もそれに続こうとして、ふと、家の表札に目を止めた。

 そこには男の名と、男の妻の…… いや元妻の名が記されていた。

 表札を見つめる女の瞳は、悲しみとも諦めとも取れる色をたたえていた。

 

 

 コートを居間のソファーに乱暴に脱ぎ捨てた男は、留守番電話のランプが点滅していることに気付く。

 メッセージは、二人の共通の友人である女性からのものだった。国際電話らしい。

 

 高校の時と変わらぬ口調で、ぽんぽんと小気味良く言葉が続く。

 親友の変わらぬその様子に、女は思わず笑みを漏らした。しかし男は相変わらず無表情で、まるで耳に入っていないかのような仕草だった。

 近況を語り終えると、しばらくは無言の間が続く。

 やがて留守番電話の声はためらいがちに男の妻の話題に触れた。

 ネクタイを緩める男の手が、一瞬だけ止まる。

 だがすぐに何事も無かったようにゆっくりと自室へと向かう。留守番電話の声は、まだ続いていたがそれ以上聞く気は無いようだった。

 女はそんな男の姿に、悲しみに満ちた目を向けている。

 やがて留守番電話のメッセージは、今度日本に帰るという言葉で締めくくられた。

 メッセージの終了を告げる機械音が、部屋にやけに大きく響いた。

 

 

 男が着替え終えて食卓に戻る頃には、夕食の用意が整っていた。

 二人は席につくとそのまま食べ始める。両者ともその間、一言も言葉を交わさない。

 まるでそれが暗黙の了解のように。

 やがて両者とも無言の食事を終えると、男は一言礼を言うと自分の部屋に戻っていく。それを見送った女は、後片付けを済ませるとすぐ近くにある自宅へと帰っていった。

 

 

 

12月23日(クリスマスイブ前日)

 

 今日も朝から雪だった。

 積もり具合から見て、一番中振り続いていたというわけでは無いようだ。

 目を覚ました男は、スーツに着替えを済ませると朝食も取らず、そのまま仕事に向かう。

 

 毎朝起こしに来てくれる幼馴染の声も。

 

 朝食の用意ができた事を告げる妻の声も。

 

 もはや男には無縁のものだった。

 

 

 定時で仕事を終えると、いつものように教会に向かう。

 花を買うために花屋に寄るのもいつもの日課だった。

 

 妻が好きだったかすみ草。

 決して主役になることは無い、他の花の引き立て役。だからと言って無ければ全体として物足りない印象になってしまう。

 正に彼の妻と同じような花だった。

 男は今日もかすみ草を買い求めると、教会への道を歩く。

 今朝から降り続く雪の中、傘をさすことも無く。

 

 教会についた頃には、男の体にはうっすらと雪化粧が施されていた。

 だれも通った様子の無い真っ白な墓地を、迷うことなく進む。

 妻の石碑に積もった雪を払い、かすみ草を供える。

 男の顔には、決して生者には向けることのない透明な笑みが浮かんでいた。

 そのまま彼は、いつものように死者の声に耳を傾ける。

 

 比較的郊外にあるこの教会には、車の音や人のざわめきも聞こえてこない。

 墓地には一切の音は無く、ただ雪が降り積もるだけ。

 静謐が支配する無音の世界。

 その中に立ち尽くす男は、まるで死者の国の住人のように見えた。

 

 やがて昨日と同じく、何の前触れもなく男は墓地を後にした。

 

 

 男が家にたどり着くと、またもや女が玄関先で待っていた。

 降り続く雪の中、赤い傘をさし一人佇む女。その表情は昨日と違い、酷く思い詰めた表情を浮かべていた。

 だが男に気がつくと、すぐに笑顔を浮かべる。

 どこか無理のある、作ったことがすぐに分かるような、そんな笑顔だった。

 だが男はそのことには触れず、いつものように無言で女を迎え、家に入っていった。

 

 二人で向かい合っての食事。

 男の妻が死んでから、男を心配した女が食事を作るようになった。

 それから今まで繰り返されてきた日常。

 二人とも無言で、ともすれば重苦しい雰囲気さえ漂ってしまいそうな食事。

 だが、今日は女の様子がいつもとは違っていた。

 時折何かを言いかけては、思い直したように料理に箸をのばすということを繰り返している。

 男はそんな様子に気付いていないのか、はたまた気付いていながら無視しているのか。黙々と料理を口に運んでいる。

 

 やがて食事を終えた男は、いつものように一言礼を言うとそのまま部屋に戻ろうとする。

 女はやや慌てた様子で食卓を立った男を呼びとめた。だが、無言で振り返り言葉を待つ男に、結局何も言うことができない。

 何でも無いと無理に笑っていう女を、男はしばらくじっと見つめていたが、やがて興味を無くしたように部屋に戻っていった。

 

 取り残された形になった女は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 のろのろと、まるで惰性でそうするように後片付けを済ませる。

 そのまま家を出ていこうとして…… そこで足が止まった。

 

 何かを決意するように表情を引き締めると、持ってきたバックの中から筆記用具を取り出す。

 そしてメモ帳に何かを記すと、それを食卓の上にそっと置いた。

 しばらくその紙をじっと見つめていたが、やがて女は家を出ていった。

 

 

12月24日 7時30分(クリスマスイブ)

 

 どんよりと曇り空。

 今にも雪が降り出しそうな天候だった。

 

 いつものように目を覚ました男は、着替えを済ませると家を出ようとした。

 そこで女の書置きに気付く。

 

 そこには。

 

 女の家が引っ越すこと。

 

 自分も一緒についていくこと。

 

 たぶんもう会えないであろうこと。

 

 そして……。

 

 男の健康を気遣う一文。

 

 女が昨日見せた態度はこのことだったのだろう。

 そのメモを読んだ男の顔に、当惑の色が浮かぶ。

 その表情は、長いこと妻の墓の前以外で見せたことのない人間らしい表情だった。

 

 しばらくその場に立ち尽くしていたが、ふと気がつくとずいぶん時間が経ってしまっていた。

 すでに今から家を出たとしても会社には間に合わないだろう。

 男は会社に電話を掛けると、気分が悪いので今日は休む旨を伝えた。

 

 もう一度書き置きを見る。

 書き置きには、迎えに来て欲しいとも、見送りに来て欲しいとも書かれていない。

 ただ電車の時間のみが記されている。

 電車の時間は20:30の夜行列車。今から駆けつければ、恐らく引越しの用意をしている女を捕まえることができるだろう。

 だが、男は動かなかった。

 自分の心を御しかねるように、ただじっとその場に立ち尽くしていた。

 

 

 

12月24日 10時45分

 

 男は自室にいた。

 ベッドに腰掛ける男の手には、一冊の本のようなものがある。アルバムだろうか。

 

 はたしてその本はアルバムだった。

 男の視線は、そのアルバムの中の一枚の写真に注がれている。

 

 恐らくは結婚式の時に取られた写真なのだろう。

 正装をした一組の男女の写真。

 その写真の中には、今の男からは想像できないような笑みを浮かべた男が写っている。

 

 生者に向けるような冷めた笑みでもなく。

 死者に向けるような透明な笑みでもなく。

 

 生気に満ちた幸せそうな笑み。

 そして写真の中の男に寄り添う、ウエディングドレスに身をまとった儚げな女性。

 彼女の顔にも、写真の中の男と同じような幸せに満ちた笑顔が浮かんでいた。

 

 今はもう失われた、幸せだった頃の残滓。

 

 限りない幸せに満ちた未来が約束されていると信じて疑わなかった頃の写真。

 その写真を見つめる男の瞳は、幸福と悔恨とがないまぜになったような、そんな光を放っている。

 

 まるでその写真を見つめることで、失われた幸せだった日々を取り戻そうとするかのように。

 男はアルバムをただじっと見つめ続けた。

 

 

 

12月24日 14時20分

 

 昼食を取ることもなく、男は街を歩いていた。

 

 今日はクリスマスイブ。

 すっかりクリスマス一色に飾り立てられた商店街。

 街には喧騒と、活気と、そして幸せが溢れていた。

 

 いつものようにスーツを着込み、黒いコートを羽織った男は、そんな街の喧騒の中を一人歩く。

 普段であれば、そんな街の活気を。そして何より、幸せに満ちた様々な声から逃げるように足早に通りすぎるのが常だったが、今男はあえてその声の中に身を置いている。

 

 クリスマス商戦に便乗しようとする、威勢のいい売り子の声。

 母親にプレゼントをねだる小さな子供の声。

 腕を組み、楽しそうに笑い合う若い恋人達の声。

 声、声、声。

 

 先ほどまで男が見ていたアルバム。

 恐らくあの写真が撮られた頃は、男もこの幸せそうな声を発する側にいたのだろう。

 だが、今はその中に身を置くことすらできない。

 

 男は、結局いつものように足早にその場を後にした。

 まるで幸せに満ちた声から逃げ出すかのように。

 

 

 

12月24日 16時15分

 

 男は自宅に戻っていた。

 疲労したように今のソファーに身を沈めるその口元には、自嘲の笑みが浮かんでいる。

 だが、その笑みが消えると、明らかな苛立ちと焦燥が取って代わった。

 

 ふと居間の壁に掛けられた時計を見る。

 16:15

 恐らく今から駅に駆けつければまだ余裕を持って間に合うであろう時間だった。

 

 唇をかみ締め、男は自らの頭を抱え込む。

 苦悩に満ちたその顔は、まるで苦悩する聖職者のような趣を漂わせている。

 

 どのくらいそうしていただろうか。

 男はおもむろに立ち上がると玄関に向けて歩き始める。

 

 先ほどとはうって変わって、その表情には決意が伺える。

 そして男はゆっくりと家を出ていった。

 

 

 

12月24日 18時50分

 

 男は足早に街を歩いていた。

 その手にはかすみ草。

 男は妻の眠る教会へと向かっていた。

 

 ふと、腕にはめた時計で時間を確認する。

 18:50

 今から急いで駅に駆けつけて、どうにか間に合う時間帯だった。

 

 男はそんな自分の行為を振り払うかのように、足早に教会を目指した。

 

 やがて見慣れた教会が見えてくる。

 普段は閑散として人気のない教会だったが、今日は聖夜。賛美歌を歌うであろう少年少女達と、祈りの為に訪れた大人達で教会は賑わっていた。

 男は教会の賑わいには目もくれず、相変わらず人気のない墓地に足を踏み入れた。

 

 いつものように妻の石碑にかすみ草を供え

 いつものように静かに死者の声に耳を傾ける。

 教会の賑わいも、この墓地にまでは届かない。

 いつものような静謐が男を包み込んだ。

 

 男は今までの生活を選んだ。

 永遠に失われた日々を想い

 死者の声にのみ耳を傾ける生活を。

 

 だが、男の顔に浮かぶのはいつものような透明な笑みではなく、迷いと、焦りを感じさせる表情だった。

 

 それでも男は静かに佇み続ける。

 失われた者の声に縛られ続ける。

 

 朝からどんよりと曇っていた空から、一つ、また一つと白い結晶が舞い降りてきた。

 

 

 その時

 

 微かに

 

 ほんの微かに

 

 教会から賛美歌の歌声が響いてきた。

 

 

 静謐に覆い尽くされた墓地に、その歌声は静かに染み渡るかのように響く。

 男は、その歌声に弾かれたように顔を上げた。

 

 

 

 

清し

 

この夜

 

 

 クリスチャンだった男の妻が、一番好きだった曲

 

 

星は

 

光り

 

 

 妻との

 短かったけれど幸せだった日々

 

 

救いの

 

御子は

 

 

 どうかこれからはあなた自身の幸せを……。

 

 死に瀕した妻の言葉

 

 

馬槽の

 

中に

 

 

 昔も今も

 ずっと自分を支え続けてくれた幼馴染

 

 

眠り給う

 

いと安く

 

 

 

 

 妻を亡くしてから一度も見せたことのない涙が、男の頬を伝う。

 しかし、しっかりと前を見据えた男の目には、もう迷いはなかった。

 

 時計で時間を確認する。

 19:45

 もう間に合わないかもしれない。

 だが行かなくてはならない。

 恐らく行かなければ、一生後悔することになる。

 幸せを願ってくれた妻の想いをも裏切ることになる。

 

 男の表情はそう語っていた。

 

 妻の石碑に目を向ける。

 男の顔を彩る微笑み。

 その笑みは、いつも浮かべていた透明なものではなく。

 生気に満ちた笑みだった。

 

 そして男は走り出す。

 彼を待っているであろう一人の女性の元に向かって。

 彼自身の未来に向かって。

 

 男はもう振り向かなかった。

 

 

 そんな男を祝福するように、賛美歌の歌声が墓地に響いていた

 

 いつまでも

 

 いつまでも

 

 

 


清し この夜 星は光り
救いの御子(みこ)は 馬槽(まぶね)の中に
眠り給う いと安く

清し この夜 御告(みつ)げ受けし
牧人達は 御子の御前(みまえ)に
ぬかずきぬ かしこみて

清し この夜 御子の笑みに
恵みの御代(みよ)の 朝(あした)の光
輝けり ほがらかに

賛美歌109番
「清し この夜」

 

 

ありがとう琴音

そして……。

さようなら

 

<FIN>