猫は哄う No.293 投稿者: ひみつ 08/11/03 00:32
店内に入り注文をしてお冷を一口飲んだ頃にはもう、後悔していた。どうしてこんなことになってしまったのか。
目の前には、落ちつかな気に視線を彷徨わせる相沢君。そしてそんな相沢君とは対照的な、口元に微笑を刻んだ親友の姿。
無垢なる天使のような、だが見ようによっては酷く嗜虐的なその笑みを見て、あたしの疑念は確信に変わった
名雪に――あたしの親友にして、恋人の従兄妹であるところのこの少女に――あたしは嵌められたのだ。
恐らくは買い物途中であろう二人を見かけたのは、本当に偶然だった。
相沢君とは恋人的な関係にあるとはいえ、彼と名雪は従兄妹同士、しかも同居している間柄である。二人して買い物というシチュエーションは珍しくもないだろう。あたしとてその程度で激昂するほど子供ではないつもりだし、あえて恥かしいことを言うのなら、あたしは彼を信じていた。だから彼と彼女が連れ立って街を歩いていたとしてもどうということはない。ないはずだった。
なぜだか声をかける気にはならず、商店街を歩く二人を遠くから見ているだけだったあたし。
そんなあたしに――
名雪が振り向いて微笑んだ気がしたのは気のせいだったのか。
あたしはただ。
相沢君の手を両手で抱え込むようにして微笑む名雪と、そんな彼女にちょっぴり眉を顰めながらもでも拒絶しようとはしない恋人を、ただ見ているだけだった。
そしてこれは決して見間違いなどではなく。
あたしの方に振り向いて、あの微笑――ああそうだ、いま目の前で浮かべているような嗜虐的な微笑を浮かべた、名雪。
あたしが冷静を装うことができたのは、ここまでだった。有無を言わせずいつもの百花屋に二人を引っ張っていき、とりあえずはオーダーを頼んで、そして今に至る。
無言のままに時間は過ぎ、いまあたしたちの目の前には注文した品が並べられている。
あたしと相沢君はホットコーヒー、名雪はいつもの通りのイチゴサンデー。包み込む重苦しい雰囲気になど気付いてもいない風で、満面の笑みを浮かべてそれにぱくついている。
その態度に少し苛つきながらも、未だ世間体を憚った愚かなあたしは、初めて先ほどの二人の行為を話題に上げた。極力冗談に聞こえるような声音で。
相沢君の顔がやや引きつったことと、あたしたちを観察する店内の視線が一気に好奇のそれに変わったことで、あたしはその努力がまったくの無駄だったことを知る。なんて、無様。
わっ、香里、誤解だよー なんて呑気に聞こえる声で、親友は心の底から驚いたような顔をして言った。その目がだが相変わらず狡猾そうな光を湛えているのを見て、あたしは再び我を忘れそうになる。思い切りそのしたり顔を引っ叩いてやりたい衝動に駆られる。渡りに船とばかりにそれに同調する恋人の声に、苛々はいや増した。
気を鎮めるため、そしてなにより表情を隠すために、コーヒーカップを手に取りブラックのまま嚥下する。普段は心地よいその苦味もまた、今はただ不快なだけだった。
香里と祐一、お似合いだと思うよ。
不意に放たれたその言葉に、あたしは今度こそ本当に激昂しそうになった。
らしくなく、本気で睨みつけてしまったあたしの視線を、だが名雪はまたしてもあの微笑で平然と受け止める。
傍目には、少々天然ボケが入った同姓の友人に嫉妬する大人げない少女、といったところかもしれない。名雪の様子に何ら気負ったところは無く、どうみても自分の行動に自覚の無いちょっと想像力の足りない女の子という感じだ。
だからこそ―― 水瀬名雪という少女は恐ろしいのだ。
外見のせいだろう、あたしはよく『年齢の割に大人びている』と称される。
自分でも考え方に冷めているところがあることは自覚しているから、そう評されるのはあながち見当外れではないと思う。だが、あたしなどよりも本当の意味で大人なのは、恐らくはこの親友なのだろうと、あたしは最近になってようやく気付いた。
名雪は、怖い。
そう、あたしは水瀬名雪というこの親友の事が、心の底から怖いのだ。
ただ表面を取り繕うのが巧いだけのカマトトだったら、同性からはすべからく嫌われる。現に同級にもそういう娘は居る。名雪の“それ”は、そんな浅いものではないのだ。現に彼女は同性異性問わずに誰からも好かれている。
初めはあたしも気付かなかった。ちょっと天然ボケの入った、だからこそとても純真な少女なのだと、あたしは親友をそう評していたのだ。
ああ、あたしはなんて愚かだったのか。そんな様で、自分はいままでこの少女の親友なのだと自ら持って任じてきたのだ。
恐らく名雪は、相沢君のことが好きというわけではないのだろう。もし彼女が本気になったのなら、あたしや相沢君などではひとたまりもないだろうから。彼女は自分に嫉妬するあたしを見たいというただそれだけの理由で、殊更に挑発するような行動をとったのだきっと。陰からこそこそと、世間体を気にして何事も無かったように見つめる愚かなあたしに気がついて、そしてそういうことには割合に無頓着な従兄妹の性格までも考慮して、あえてああいう挑発的な行為を選択したのだ。
恐らくは、それによってもたらされる今のような状況をも、すべて折り込み済みで。
いったん自覚してしまうともう駄目だった。
あたしにできることは、これ以上自分の立場を悪くしないようにさも冗談であったかのように振舞うことだけだ。
にこにこと微笑んで、心の底から楽しそうな親友の顔を見てあたしは、まるでチシャ猫のようだと感じていた