−IRCチャンネル #あゆあゆ 一周年記念SS−

チューリップ


2000/01/15 久慈光樹


 

 

 

「みさおー、勘弁してくれよぉ」

 

 折原浩平、当年とって28歳の彼は、いま非常に困っていた。

 

「あーもー、あいつはどこまで買い物に行ったんだ?」

 

 あっちにうろうろ、こっちにうろうろ。

 

「うー、頼むよー」

 

 浩平は困っていたのである。

 その腕には火のついたように泣き続ける赤ん坊。生後半年くらいだろうか? 元気一杯の泣き声で自己主張をしている。

 

「みさおー、お父さんでちゅよー、お父さん君が泣き止まないと困っちゃいまちゅよー」

 

 もうすぐ29になろうかという大の男が、幼児言葉で必死に赤ん坊をあやす様は非常に情けないものがあった。

 

「もうすぐお母さん帰ってきまちゅからねー」

「あんた、怖いわよ……」

「うぉっ!」

 

 気付くと浩平の後ろには女性が立っていた。心なし顔を引きつらせている。

 

「留美ー、みさお泣き止まないんだよー」

「はいはい、ちょっとかして」

 

 留美と呼ばれたその女性は、みさおと呼ばれた赤ん坊を受け取る。

 

「オシメねこれは」

 

 そう言って赤ん坊をベビーベッドに寝かせ、手際よくオシメを替える。抱き上げると、赤ん坊はきゃっきゃと無邪気に笑った。先ほどまであれだけ泣いていたのが嘘のようだ。

 

「ふーむ、やはり母親だなぁ」

「なに言ってるのよ、あんたもいい加減慣れなさいよね、父親なんだから」

「父親かぁ」

 

 感慨深げに呟く浩平。

 折原浩平と七瀬留美がめでたくゴールインしたのは今から3年前。愛娘みさおが生まれたのはそれから2年後のことである。

 折原留美となった妻は、すぐにでも子供を欲しがった。だが夫はつい最近やっと正規の医師になったばかりであり、留美も出産前は勤めていたため、時間がなかったのだ。

 

 浩平は医者になっていた。

 妹を助けられなかったことが、浩平に医の道を志させたのだ。

 

 みさお。

 

 今は亡き妹の名前を、彼は娘に贈った。

 最愛の妹の名を、最愛の娘に贈ったのだ。

 留美も、無条件で賛成してくれた。いい名前だと喜んでくれた。

 

「そうだよな、俺も父親なんだよな」

「そうよ、しっかりしてよね、パパ!」

「おう!」

 

 頷いた浩平は、買い物に行ったはずの留美が手ぶらである事に気がついた。よくよく考えてみれば、出かけてからまだ10分と経っていない。

 

「留美、買い物はどうしたんだ?」

「うっ…… さ、財布を忘れたのよ」

「愉快なやつだな、お前はさざえさんか?」

「う、うっさい!」

「まぁ別にいいだろ、買い物はまたにすれば」

「晩ご飯のおかず、タクアンだけでよければそうするわよ」

「……行って来い、可及的速やかに」

「言われなくてもそうするわよ…… ってそうだ! ね、ね、浩平も行かない?」

「みさおはどうするんだよ」

「もちろんいっしょに行くに決まってるじゃないの。 ね、そうしよ?」

 

 恐らく留美の頭の中では、子連れで買い物をする若夫婦という幸せな構図ができあがっているのだろう。

 高校時代、乙女を夢見る少女だった留美。その夢見がちなところは少しも変わっていなかった。

 まぁそれも悪くないな。

 そんな妻に苦笑しながら、浩平もその光景を思い浮かべて同じように思う。

 結局、親子3人で買い物に出かける事になった。

 

 

 

「うー、寒い」

「そうね、こっちの冬はまだ慣れないわね」

 

 今日は雪こそ降っていないが、年明けの北の街は寒さが厳しい。

 浩平が医大進学のために移り住んだこの街は、留美の出身地だった。

 

「きゃっきゃっ!」

 

 留美に抱かれるみさおは、寒さにも負けずご機嫌だ。

 近くのスーパーまでは歩いて15分ほど。長年使い込んだ自動車は1年ほど前にあえなく昇天してしまったため、現在はバス通勤の浩平だった。

 バス停までは割と歩くため、特に今のような寒い時期は毎日の通勤も結構大変だ。

 もっとも留美に言わせれば「お腹が出なくていいわ」とのことだったが。

 

「あれぇ? 浩平さんに留美さん」

 

 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには少し驚いたような表情の少女。

 学校帰りだろうか、特徴的な制服に身を包んだ、髪の長いなかなかの美少女である。

 

「あら名雪ちゃん、久しぶり!」

「お久しぶりです!」

「秋子さんの調子はどうだい?」

「ええ、おかげさまで元気にしてます」

 

 少女の名は水瀬名雪。

 以前、彼女の母親が交通事故に遭ったことがある。幸いにも一命は取り留めたものの、彼女の右足には後遺症が残った。

 その後の治療とリハビリを担当したのが、当時まだ研修医だった浩平だったのである。

 折原家に食事に招いたこともあり、逆に水瀬家に招かれることもあり。今では家族ぐるみの付き合いと言ってよかった。

 

「こんにちわ、みさおちゃん」

「きゃっきゃっ!」

「あはは、みさおちゃんは今日も元気だね」

「名雪ちゃんは学校帰り?」

「はい。留美さんたちはお買い物ですか」

「ええ、そうよ」

「いいなぁ、仲が良くて。お子さん連れてご夫婦でお買い物なんて素敵ですよね」

「うふふ、でしょ?」

 

 どうにも女というものはそういう風景に憧れるものらしかった。

 

「名雪ちゃんだってもうすぐじゃないのかい?」

「そ、そんなことないですよう。私まだ高校生ですよ」

「彼とは毎晩電話しあっているんでしょ?」

「そ、それはそうですけど」

 

 名雪には付き合っている恋人がいるのだが、現在は親と共に外国にいる。

 浩平と留美は彼とも面識があった。

 

「あー。だうー!」

 

 まるで放っておかれた事に抗議するように、みさおが両腕をばたばたと上下させて、声をあげた。

 その様子に3人して笑った後、名雪と分かれ、買い物を済ませた。

 

 

 

 浩平がその言葉を発したのは、帰り道でのことだった。

 

「来週、妹の墓参りに行こうと思う」

 

 本人は、さらりと言ったつもりだったのだ。

 だが、それを聞いた留美は立ち止まり、たっぷり1分近く浩平の顔を眺めた後。

 

「いいの?」

 

 と聞いた。

 それに対し、浩平は穏やかな表情で答える。

 

「ああ、いいんだ。もういいんだ」

 

 浩平は、妹のみさおが亡くなってから今までの17年間、一度もその墓を訪れた事がなかった。

 彼は怖かったのだ。

 もはや妹はいないのだと、嫌でも思い知らされるその場所を訪れるのが怖かったのだ。

 もはや妹はいないのだと、認めることが怖かったのだ。

 留美もそのことをよく知っていた。結婚する前の晩、浩平は自分の生い立ちを全て留美に話したのだ。

 だからこそ、彼女は聞いたのだろう。『もういいのか?』と。

 

「居ないんだ。みさおは、もう居ないんだよ」

「浩平……」

「だけど」

 

 浩平の表情はどこまでも穏やかで、自虐の色は感じられなかった。

 

「俺には留美がいる。小さなみさおがいる。だから、いいんだ」

「……うん」

 

 みさおを抱いた留美がそっと浩平に寄り添う。

 夕暮れの中、地面に伸びた影もぴったりと寄り添い、まるで1本の影のようであった。

 

 

 

§

 

 

 

 翌週、浩平と留美とみさおの三人は電車を乗り継いで遠く離れたその街に来ていた。

 浩平がその街を訪れたのは、17年ぶりのことである。

 生まれ故郷。そう呼ぶにはあまりにも辛いことがあった街。みさおとの楽しい思い出と、辛い別れがあった街。

 父が亡くなり、妹も亡くなり、叔母の元に行くことになった17年前。その時から、浩平は1度もこの地を訪れていなかった。

 

「ここが、浩平の生まれた街なのね」

「ああ、だけど随分変わったよ。なにせ17年ぶりだからな」

 

 それでもやはり懐かしいのだろう。目を細めて街並みを見る浩平の目には、形容しがたい表情が浮かんでいた。

 

「先に今夜の宿を手配しておくか!」

 

 望郷の念を振り払うように、浩平はことさら大きな声でそう言う。

 留美の腕に抱かれ眠っていたみさおが、驚いて泣き出した。

 

「うわっ、ごめんなみさお」

「もう、大声出すから。 ほら、みさおちゃん、大丈夫ですよー」

 

 そんなやり取りの後、三人は近くの民宿に宿を取ることができた。ホテルなどという洒落たものはこの街にはないのだ。

 部屋で少し休んだ後、荷物を置いて墓地のある場所へ向かう。

 その途中にある花屋で、浩平は墓前に供える花を買った。

 

「チューリップ?」

「ああ、みさおはこの花が大好きだった」

 

 季節はずれのチューリップ。

 病に倒れた後も、病室にはいつもこの花が飾られていた。

 浩平のなかで、みさおの笑みは常にこの花と共にあったのだ。

 墓参りには合わない花であろうが、みさおに供えるのにこの花以外は考えられなかった。

 

「綺麗ね」

「ああ」

 

 折原みさおの墓は、街外れの丘にある共同墓地にあった。

 

 

 折原家代々之墓

 

 石碑に刻まれたその文字は、どこまでも冷たい。

 ここにはみさおだけでなく、顔も覚えていない父も眠っている。

 

 浩平は手にしたチューリップの花束を、そっと供えた。すやすやと眠る小さなみさおを抱いた留美が、その後ろに立つ。

 しばらくの間、二人は墓に手を合わせじっと目を閉じる。

 浩平はまるで目に見えない何者かに語り掛けるように、留美が目を開いた後も祈り続けていた。

 

 どのくらいそうしていただろう。

 目を開き、合わせていた手を下ろした浩平が、墓石に向かってポツリと呟く。

 

「ただいま、みさお」

 

 口に出したのは、たったそれだけ。

 だが留美にはその一言に、浩平の全てが込められているように感じられた。

 

 しばらくそのまま墓石に刻まれた文字を見つめ、そして、浩平は気付く。

 17年間参る者もなかったはずのその墓が、綺麗過ぎるということに。

 新しいという意味ではない。

 誰かが定期的に手入れをしているような、そんな感じを受ける綺麗さだった。

 

「誰かが掃除をしてくれていたのかしら」

 

 留美も気がついたらしく、浩平にそう声をかける。

 

「まさか……」

「え?」

 

 浩平の呟きを、留美が聞き返したその時だった。

 

「浩平……」

 

 背後から、彼の名を呼ぶ中年の女性の声。

 振り返った留美の目に、驚きに目を見開いた壮年の女性がとまる。

 女性の手には、花束。恐らくは供え物であろうその花は。

 

 チューリップだった。

 

「久しぶりね、浩平」

「ああ」

 

 応える浩平の声音には、表情が全く感じられない。

 

「お知り合いの方?」

 

 小声でそう聞いてくる留美に、静かに答える。

 

「俺の、俺とみさおの」

 

 ・・・・・・・・
「母さんだった人だ」

 

 その言葉に、憎しみは込められていなかった。

 ただ、事実を事実として報告しているような、そんな口調だった。

 

「そう…… なの」

「……あなたは?」

「あ、私、留美と申します、浩平…さんの妻です」

「あら、そうなのね、じゃあその子は……」

 

 そう言って、女性は。

 かつて浩平の母であったその女性は、留美の腕の中で眠る赤ん坊に視線を向けた。

 

「私たちの娘です」

「そうなの。 お名前はなんていうのかしら」

「あ……」

 

 言ってもいいの?

 傍らに立つ浩平に、視線で問う。

 浩平は、ゆっくりと頷いた。

 

「あの、みさお、です」

「……そう」

 

 それだけを呟き、そっと目を閉じる。そのまま少し俯いたため、その女性がどんな表情を浮かべているのか留美には判断がつかなかった。

 やがて顔を上げ、目を開いたその女性は、先ほどまでと同じ表情だった。

 

「いいお名前ね」

「あ、ありがとうございます」

 

 そして女性は、浩平に視線を向けると、こう問うた。

 

「私も、お参りしていいかしら」

「……ああ」

 

 短くそう応え、墓の前から一歩退く。

 その前を通り、女性は手にしたチューリップの花束を墓前に供える。そしてそのまま両手を合わせると、目を閉じて祈った。

 

「墓、掃除してくれていたのか?」

 

 未だ祈り続ける女性に、浩平が声をかける。

 しばらくそのままの姿勢で祈り続けた後、合わせていた両手を下ろし、開いた目を墓に向けたまま、女性は呟くように応えた。

 

「ええ」

「そうか、ありがとう」

 

 まさか感謝の言葉をかけられるとは思ってもみなかったのだろう、女性は弾かれるように浩平に顔を向けた。

 浩平の傍らに立ち、じっと沈黙を守っていた留美。彼女の目には、女性の表情に僅かな希望が浮かんだように見えた。

 

 だが。

 

 

 

「もうここには来ないでくれ」

 

 

 

 北の街ほどではないにせよ、吹きつける風は冷たかった。1月も半ばを過ぎ、冬も本番なのだから当たり前だ。

 その風の中に、まるで時が止まったかのように佇む、3人の大人たち。

 それっきり、浩平はなにも言わなかった。

 女性も、なにも応えなかった。

 留美はなにも言えなかった。

 

 突然、留美の腕に抱かれたみさおが泣き出す。

 

「あ、あらあら、どうしたの?」

 

 留美があやしても、泣き止まない。

 

「どうしたのー? みさおちゃん」

 

 小さなみさおをあやす留美の姿を、女性はじっと見詰めていた。

 今はもう失われた何かを、その姿に見出そうとしているかのような、そんな瞳で。

 

「もう、ここには来ないわ」

 

 女性は、浩平に向き直ると、そう言った。

 

「ああ」

 

 短く、それだけを応える浩平。

 

「留美、そろそろ行こう。ここは寒い、みさおが風邪をひいちまう」

「え、ええ、そうね」

 

 そのまま墓前を去る3人。

 留美は、墓地を出る前に1度だけ後ろを振り返ってみる。女性は、墓前に立ち尽くし、ずっとこちらを見送っていた。

 そして浩平は。

 

 1度も後ろを振り返らなかった。

 

 

 

§

 

 

 

「じゃあお風呂行ってくるわね」

「ああ」

 

 宿に戻りみさおを寝かしつけた後、留美はそう言って風呂に行った。

 残された浩平は我が子の眠る布団の隣にごろりと寝転び、そのまま両手を頭の後ろで組んでじっと天井を見つめる。

 留美はあの後何も聞かなかった。それが、浩平にはありがたい。

 

 17年ぶりに再会したあの女性は、予想以上に老いを感じさせた。やや厚めの化粧をしていたが、そんなことではごまかしきれない老いを。

 浩平もあの女性と顔を合わせる事態をまるっきり想定していなかったわけではない。この街を訪れることを決めた時から覚悟はしていた。

 だが、いざその時になって、自分がどのような態度を取るかは分からなかった。恐らく自分は激昂するのだろうと、そう他人事のように感じていただけだったのだ。

 そして今日、みさおの墓で17年ぶりに再会して。

 浩平の心には、何の感慨も、怒りや憎しみすら、湧いてこなかった。

 子供の頃にはあれほど憎んでいたにも関わらず、だ。

 そう、子供の頃は確かに憎んでいた。

 自分と、そして病身の妹を見捨て、姿を消した母を。

 

 みさおが亡くなったあの時、浩平は永遠を求めた。

 妹がいて、母がいたあの頃が、永遠に続く世界を。

 浩平にとって、それは自衛の手段だったのかもしれない。幼い心が悲しみに押しつぶされ壊れてしまわぬように。

 自分の心を護る為、彼は永遠を求め、そして母を憎んだ。

 永遠を求める心と、母を、いや、かつて母だった女性を憎む心。

 恐らく、このどちらが欠けても幼い浩平の心は壊れていただろう。

 それほどに浩平の母を憎む心は根深かったのだ。

 

 だが、今の彼はその憎しみの対象となる女性を目の前にしても、奇妙なほどに何も感じなかった。

 激昂していればよかったのかもしれない。まだ、ましだったのかもしれない。

 “母”に対し、憎しみを感じたのならば、まだましだったのかもしれない。

 今日再会したあの女性は。

 浩平にとって、既に“母”では無かった。

 

 そのまま目を閉じる。

 まぶたに浮かぶのは、かつての幸せだった日々。

 幼かった自分と、それよりもまだ幼かったみさおと、そして母。

 

 みさおがまだ元気だった頃、母はいつも忙しそうだった。

 女手一つで2人の幼子を養わねばならなかったのだ。ひょっとしたら、夫を失った事実を、忙しさで紛らわそうとしていたのかもしれない。今にして思えば、だが。

 幼い浩平もみさおも、母に「おかえりなさい」と出迎えられた記憶がない。

 二人して学校から帰ると、暖めれば食べられるように用意された夕食と、短いメモがあるのが常だった。

 忙しくて夕食を作る暇が無かったときには、お金が置かれていた。だが、どんな時でもメモは必ず残されていた。

 

 曰く、『お帰りなさい、浩平、みさお

 曰く、『10時には帰ります

 曰く、『浩平、みさおのこといじめたら駄目よ?

 

 そして、メモを締めくくる文字は毎回決まっていた。

 

 『風邪、ひかないようにね

 

 夏の盛りも、冬の終わりも、常に同じだった。

 ちょっと癖のある筆致で書かれたその文字。

 浩平が自分の母親と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、母の顔ではなく、そのちょっと癖のある文字だった。

 自分たちを気遣う母の愛情を、確かにその文字から感じ取る事ができたから、浩平は寂しいとは思わなかった。

 そして恐らくは、みさおも同じであったろう。

 

 

「あら、浩平、寝ちゃった?」

 

 浩平の思考は、その声によって断ち切られた。

 入浴を終えたのだろう、浴衣姿の留美が、横になって目を瞑る浩平にそう声をかけたのだ。

 

「……いや、起きてる」

「起きてたんだ、寝ちゃったのかと思った」

 

 留美はそう言って、眠る我が子にそっと毛布をかけ直した。その姿は、浩平に奇妙な既視感を抱かせる。

 高校の時に出会い、惹かれ結ばれた少女は。

 いつのまにか、母になっていた。

 そして自分もまた、父になった。

 

「留美も、俺も、変わったよな」

「どうしたのよ、いきなり」

 

 何もかも、変わる。

 時がただ、時としての歩みを続けるうちに、少年は父になり、少女は母になる。そしてもう二度と取り返しのつかないものだけが増えてゆくのだ。

 

「変わらないものなんて、永遠に変わらないものなんて、無いんだよな」

 

 浩平の独白めいた言葉。

 

「……そうね」

 

 留美は言った。

 躊躇いがちに。

 

「だから、この先も変わりつづけるのよ。今はまだ、歩く道が遠く離れているとしても、いつかはその道も交わるときが来る。 私は…… そう思うわ」

 

 浩平は、留美が自分とかつて母であった女性のことを言っているのだと悟った。

 

 本当に、そうだろうか?

 

 かつて母だった人。

 子供心に憎み、今ではそれすらもできなくなってしまった人。

 あの女性と、再び道を交えるときが来るのだろうか?

 みさおと一緒に、母の書き残した文字を見ながら晩御飯を食べたあの頃とは、もう何もかもが変わってしまったというのに。

 

 もうあの頃には戻れない。

 戻れないのだ。

 

 

 

§

 

 

 

 翌朝、浩平は一人、みさおの墓に来ていた。

 時間的にまだ早朝と言える時間帯。留美も、小さなみさおも、まだぐっすりと眠っていた。

 

「悪いな、みさお、今日はチューリップは無しだ」

 

 墓石に向かい、そう声をかける。

 なぜ自分は再びここに立っているのだろうか。しかも一人きりで。

 

 浩平は、自分の心を図りかねていた。

 今日、自分たちの住む北の街に帰る予定だった。

 今では自分も仕事を持つ身である、次にここを訪れるのは、恐らく随分と先になるだろう。

 その前に、みさおに何を報告しようと言うのか、何を聞こうというのか。

 分からない。

 自分の心だというのに、分からない。

 微かな苛立ち。

 

 そこで浩平は、墓石に供えられたチューリップの花束に添えられた、白い封筒に気がついた。

 昨日は確かに存在しなかった。

 とすれば、だれが残していったものなのかは明白であった。

 真っ白な封筒。

 そこに書かれた宛名は、浩平の名前だった。

 

「……」

 

 しばらく迷った後、それを手に取る浩平。

 中には、1枚の便箋。

 見覚えのある、ちょっと癖のある文字。

 間違いなく、あの女性の字だった。

 無言で、その手紙を読み進める。

 そこに書かれていたのは。

 謝罪、もうここへは来ないという約束、そして悔恨。

 あの女性は、自分の犯した過ちを手紙中で悔いていた。

 だが、その文字を見ても、浩平の心は揺らがない。

 自分でも戸惑うくらいの冷めた心で、見覚えのあるその文字を眺めるように、浩平は手紙を読み進めた。

 そして、その視線は最後の一文で止まった。

 

 

風邪、ひかないようにね

 

 

 過ぎし日の言葉そのままに。

 かつて自分たちに愛情を注いでくれた言葉そのままに。

 少し癖のあるその文字は、浩平の心に焼きついた。

 先ほどまでの冷めた心が嘘のように、自分が動揺している事を悟る。

 

「いまさら…… いまさら……」

 

 うわ言のようにそう繰り返す。

 目の前が真っ暗になったような錯覚。

 

風邪、ひかないようにね

 

 頭の中でぐるぐると繰り返される、その文字。

 

風邪、ひかないようにね

 

 過ぎ去った遠い日。もう取り戻す事などできない。

 

風邪、ひかないようにね

 

 もうここには来ないでくれ。

 

風邪、ひかないようにね

 

 みさおは、幸せそうだった。

 

風邪、ひかないようにね

 

 そして、自分も確かに幸せだった。

 

風邪、ひかないようにね

風邪、ひかないようにね

風邪、ひかないようにね

 

 

ばかやろうがっ!!

 

 頭の中でぐるぐると回るその文字をかき消すかのように、叫ぶ。

 誰に対しての言葉なのか。

 母だった女性に対してか。 自分と妹を見捨てた、母だった女性に対してか。

 自分に対してか。 再会した母を拒絶する事しかできなかった、自分自身に対してか。

 わからない、わからない。

 

「ばかやろうが……」

 

 もう一度そう呟き、浩平は、その場に立ち尽くした。

 

 

 

「やっぱり、ここにいたのね」

 

 どのくらいそうしていただろう。

 背後からの声に、浩平はゆっくりと振り返る。

 そこには彼の最愛の妻、そして娘。妹の名を受け継いだ、最愛の娘。

 

「朝起きたら姿が見えないんだもの、探しちゃったわよ」

「ああ、すまん」

 

 そう応えながらも、浩平の視線は留美に抱かれた我が子へと注がれていた。

 

 みさお。

 お前はこれからどんな人生を歩む?

 俺と留美、父と母の愛情を受けて幸せになるか?

 それとも、俺や妹のように……?

 

 母の腕に抱かれて眠る我が子は、浩平のその胸中の声に答えることはない。

 だが、その寝顔は安らかだった。

 母の腕に抱かれて眠るみさおは、幸せそうだった。

 

 そうか、みさお。

 お前は今、幸せなんだな。

 

 二人に背を向け、再び墓石に向き直る。

 

 俺は……。

 

「留美」

 

 墓石と向き合ったまま、背中越しに妻に声をかける。

 

「これから、この街を去る前に…… 会ってほしい人がいるんだ」

 

 留美は何も応えなかった。まるで、そうなる事が分かっていたかのように。

 浩平も構わず語を接ぐ。

 

「留美と、それから、みさおに…… 会ってほしいんだ…… その人と」

 

 その言葉は途切れ途切れで、何もかも割り切った様子とは程遠かった。

 だが、それでも最後まで言い切った。

 彼は、一歩を踏み出したのだ。

 分かたれた道が、再び交わるであろう、一歩を。

 

 

 

 浩平たちが去った後、人気の無くなった墓地。

 その墓地の一角で。

 供えられた二組のチューリップが、風にそよいで揺れていた。

 いつまでも。

 いつまでも。

 

 

 

<FIN>