小さな天使

<後編>

1999/12/12 久慈光樹


 

 

 

 私はトイレの鏡に映る自分の顔を見た。

 

「酷い顔してる……」

 

 両目を赤く腫らした顔が映っていた。そのままバシャバシャと顔を洗う。

 バッグを持っていて良かった。

 私はコンパクトを取り出すと、涙の後をファンデーションで覆い隠していく。

 

 お化粧をするようになったのはいつからだろう。

 女がお化粧をするのは、ただ自分を綺麗に見せるだけではなく、本来の自分を覆い隠す意味もあるのかもしれない。

 

 お化粧を終え、再び鏡を見る。

 今度は大丈夫、いつも明るい「長森せんせい」だ。

 

「あ、長森せんせい。だいじょーぶ?」

 

 トイレを出て年長さんのお部屋に戻ると、心配してくれていたのだろう、夕美ちゃんが駈けてくる。

 

「夕美ちゃん。ありがとう、せんせいもう大丈夫だよ」

「そっかー、夕美心配したんだよ?」

「うふふ、ありがとう夕美ちゃん」

「うん!」

 

 園児に心配かけちゃうなんて保母さん失格だね。

 内心苦笑する。

 

「じゃあ夕美ちゃん、お勉強始めるから席についてね」

「はーい」

 

 

 やがてお遊戯の時間になった。

 男の子と女の子がペアになって踊るダンスの練習だ。

 私は夕美ちゃんは当然優矢くんとペアを組むと思っていたのだが……。

 二人はペアじゃなかった。私は不思議に思ったが、そのままお遊戯の時間を進めた。

 

ぐすっ長森せんせー。優矢くんが夕美と組みたくないんだってー」

 

 お遊戯の後、夕美ちゃんが半べそをかきながら私に話しかけてきた。

 

「夕美ね、優矢くんとお遊戯したかったから、一緒に踊ろうって言ったの。でも優矢くん夕美と踊るのいやだよって言ったの。うっ、ぐすっ優矢くん夕美のこと嫌いになっちゃったのかなぁ」

 

 そこまで話して、夕美ちゃんは泣き出しそうになった。

 そういうことか。

 きっと優矢くんは照れくさかっただけなんだ。別に夕美ちゃんのことが嫌いだからではなく。

 さて、これをどう夕美ちゃんに伝えようか。

 

「うーん。夕美ちゃん。優矢くんは別に夕美ちゃんのことが嫌いになったわけじゃないよ」

ぐすっ、でもー……」

 

 言葉を伝えるのは難しい。それが例え小さな子供同士でも、些細なことで誤解を生んでしまう。

 さてどうしよう?言葉の難しさを伝えることは、もっと難しい。

 

「あのね、夕美ちゃん」

うっ、ぐすっ

「私達が口にする言葉にはね、小さな天使さんがついてるんだよ」

ぐすっ、天使さん?」

「そう、天使さん。それでね、この天使さんが私達の口から出た言葉を伝えたい人に届けてくれるの。でもね、この天使さんは時々届けるのを忘れちゃったりだとか、間違えて届けちゃったりするの」

「うっかりやさんなんだね」

「そうだね。だから優矢くんが『一緒に踊るのは恥ずかしいよ』っていうつもりで言った『いやだよ』って言葉も夕美ちゃんには『嫌いだよ』っていう意味に聞こえちゃうんだよ」

「ほんとに?」

「うん。きっと優矢くんは『恥ずかしいよ』って言いたかったんだよ」

「えへへ、よかった。夕美、優矢くんに嫌われちゃったかと思った」

 

 よかった。何とか伝えられたみたい。

 

小さな天使……か

 

 私の小さな天使はどうだろう。

 あの人の笑顔が脳裏をよぎる。

 私の小さな天使は、あの人にちゃんと言葉を届けてくれていただろうか。私の気持ちを届けてくれたのだろうか。

 

 苦笑する。

 届いているはずがない。それ以前に、私は自分の気持ちを言葉に出して伝えたことがなかったのだから。

 どんなに強く想っていたとしても、言葉に出さなければ、いかに天使といえど届けることなどできないだろう。

 

 自分の想いをきちんと言葉にして、あの人に伝えることができていたら。

 結果はどうなったか分からないけれど、少なくとも今みたいに後悔することはなかっただろう。

 

「ねえ、夕美ちゃん」

「なぁに、せんせい」

「夕美ちゃんは優矢くんのこと好き?」

「うん! 夕美、優矢くんのこと大好きだよ!」

 

 元気良く答えてくれる夕美ちゃん。

 恐らく夕美ちゃんの言う“大好き”は私のそれとは違うのだろうけれど……。

 

「そっかー、でも夕美ちゃん。どんなに夕美ちゃんが優矢くんのことを『大好きだよ』って思ってても、それを言葉に出してちゃんと天使さんに運んでもらわないと、優矢くんには分からないんだよ」

「うん」

「だけど小さな天使さんはうっかりやさんだから、ちゃんと届けてくれないかもしれない」

「えー、じゃあどうすればいいの?」

「そんな時はね、いっぱいいっぱい言葉にするの」

「いっぱい?」

「そう。そうすれば、うっかりやさんの小さな天使さんもどれか一つくらいはちゃんと優矢くんに届けてくれるよ」

「そっかー、それはいい“あいであ”だね」 

 

 ちょっと気取って難しい言い回しを使おうとする夕美ちゃん。

 

「それからね、夕美ちゃんがもっと大きくなって、大人になっても優矢くんのことが大好きだったら…… そのときはもう一度きちんと言葉に出して優矢くんに伝えてごらん。『大好きだよ』って。きっとその時は“言葉に出して良かった”って思えるから。言わないで後悔するより、言ってから後悔するほうがよっぽどいいと思えるから」

「夕美ちゃん、後悔だけはしないようにね」

「??」

「ふふっ、ごめんね今のは気にしないで」

「? うん、夕美、小さな天使さんに届けてもらえるようにいっぱいいーっぱい“大好き”って言うね!」

「頑張ってね、夕美ちゃん」

「うん!」

 

 元気にうなずいて、みんなの元へ駆けていく夕美ちゃん。

 

 ふふ、なんか私、最近アドバイスばっかりしている気がするな。

 つい先日も、偶然知り合った水瀬さんの娘さんに同じような話をしたばかりだ。

 その時も私は言った。「後悔だけはしないようにね」って。

 

 後悔…… か。

 やっぱり私は後悔してるんだね。

 

 不思議と先ほど感じたような悲しい気持ちはしなかった。

 夕美ちゃんの元気を分けてもらったのかもしれない。

 

 大学の4年間。そしてこの保育所に就職してからの1年間。

 私は後悔ばかりで1歩も前に進んでいなかった気がする。

 

 でも今日からは……。

 

前に進んでみよう

 

 小声で呟いてみる。

 それは小さな宣言。

 

 私は未だ後悔している。

 あの人のことを思い出にできずにいる。

 

 それでもいい、それでもいいから。

 前に進んでみよう。

 

 一歩ずつ。

 一歩ずつ。

 

 それは暗闇の中を手探りで歩くようなものだけど。

 

 それでも前に進んで行こう。

 

 今はそれでいい。

 いつか、思い出にできるときが来るだろう。

 いつか、笑ってあの人のことを話せる日が来るだろう。

 

 そして……。

 

 いつか、あの人と笑顔で会うことができるかもしれない。

 

 

 

「そうだよね、浩平」

 

 

 

<FIN>