小さな天使

<前編>

1999/12/12 久慈光樹


 

 

 

「まったく、優矢君にも困ったものねぇ」

 

 先輩の保母さんがため息と共にそう言った。

 

「また喧嘩したんですか?優矢くんと夕美ちゃん」

 

 私はその保母さんに聞いてみた。

 

「うーん、喧嘩というよりはいつものように優矢くんが夕美ちゃんをいじめてるって感じね」

「そうなんですか」

「優矢くんにも困ったものね」

 

 優矢くんと夕美ちゃんは家が近くにあり、いつも一緒に保育所に通っている。

 でも、優矢くんはよく今回のように夕美ちゃんに意地悪をしては泣かせていた。

 

「どうしたらいいんでしょうね?」

 

 夕美ちゃんが心配だ。

 

「長森さんは心配性ねぇ。大丈夫、良くあることよ」

「そうなんですか?」

「そうよ、あのくらいの年齢の時にはね、男の子が気になる女の子に意地悪しちゃうものなのよ。長森さんも経験あるんじゃない?」

「私は……」

 

 

 ある。

 

 

ズキン

 

 今思い出すと胸の奥に痛みを伴う記憶。

 意地悪ばかりする幼馴染。

 でもそれはちっとも辛いことじゃなかった。

 だってその行為はきっと……。

 好意と。

 そして寂しさの裏返しだったから。

 

 大きくなっても。

 大人になっても。

 いつも一緒にいられると思っていた幼馴染。

 

ズキン

 

 この胸の奥の痛みは。

 いつになったら消えるのだろうか。

 

 

「……とします…… じゃあ長森さん、それでいい?」

「え?」

 

 そうだ、今は朝のミーティング中だったんだ。

 考え事をしていたら、いくつか聞き逃してしまったみたい。

 

 謝ってもう一度説明してもらった。

 嫌な顔一つ見せずもう一度同じことを繰り返してくれる。

 この保育所の人はいい人ばかりだ。

 

 生まれ育った街を離れ、北の果てのこの街に暮らし始めた頃には色々と不安もあった。

 一人暮しは大学の時からなので初めてではなかったが、不安であることに変わりはない。いや、不安でいっぱいだったと言っていい。

 大学を卒業後、両親には戻ってくるように再三の説得を受けた。

 だけど私はあの街に…… あの人のいるあの街に戻る勇気がなかった。

 

 いつも一緒にいた人。

 一番身近だった人。

 でもあの時はその身近さが堪らなかった。

 あの人の瞳に映るのが私じゃないことに耐えられなかった。

 

 ……今はそのことを考えるのはやめよう。

 もうすぐ園児が来る時間帯だ。

 保母さんは、長森せんせいはいつも笑顔じゃなくちゃいけないんだから。

 

「おはよーございます」

「おはよう優矢くん」

「あ、長森せんせー。おはよーございまぁす!」

「はいおはよう、夕美ちゃん。今日も優矢くんと一緒なんだね」

「うん! 夕美、優矢くんと一緒にいたいもん」

「そうかぁ、夕美ちゃんと優矢くんは仲良しさんなんだね」

「そんなことないぞ」

「えー、仲良しさんだよー。なんで優矢くん、そんなこと言うのー」

「うるさい、ばか」

「ばかっていうほうがばかなんだよぉ!」

「ばかだからばかなんだ、ばか」

うえーん!

「こら!だめだよ優矢くん。夕美ちゃんに謝りなさい」

「うー、ごめんな夕美」

「うん、わかった。……ぐす

 

 私はそんな二人を見て、思わず笑みを浮かべた。

 本当にこの二人はそっくりだ。

 小さい頃の私とあの人に……。

 

 

 

 あの頃に戻ることができたら……。

 

ズキン

 

 再び胸の奥が疼いた。

 

 あの頃に戻ってやり直すことができたなら……。

 

ズキン

 

 ずっと一緒にいて。

 

ズキン

 

 大人になってもずっと一緒にいられると思っていた。

 

ズキン

 

 あの頃に戻ることができたなら……。

 

ズキン

 

 もう一度やり直すことができたら……。

 

ズキン

 

 今とは違う未来が開けていたのだろうか……。

 

 

ズキン

ズキン

ズキン

 

 

「長森せんせー、どうしたの?どこか痛いの?」

「え?」

「せんせー、泣いてる……」

「あっ……」

 

 夕美ちゃんと優矢くんに言われて初めて気がついた。

 

 私は泣いていた。

 もう二度と取り戻せない過去を思って……。

 あの人のことを思って……。

 

「あ、ご、ごめんね、何でもない、何でもないんだよ。ほら、二人ともお部屋に行って、早く早く」

「えー、でもー……」

「はいはい、せんせいは大丈夫だから」

「うー、わかった」

「先に行ってるね」

「はい、せんせいもすぐにいくからね」

 

 二人をお部屋に追い立てるようにして、私はそのまま職員用のトイレに駆け込んだ。

 涙は止まる気配がなかった。

 

 

 もう割り切ったと思っていた。

 今も胸が痛いのは事実だけど。

 思い出にできたと思い込んでいた。

 

 でもそうじゃなかったんだ。

 私はまだ……。

 まだあの人のことが……。

 

 

 

ほら、起きて!学校遅刻しちゃうよ!

 

うー、あと3秒だけ寝かせてくれー

 

……はい、3秒経ったよ

 

ぐぁ、短すぎた……

 

はぁ

 

 

 

 もう二度と戻らない日々を想って……。

 私は一人、泣き続けた。

 

 

 

<つづく>