みさきと食事に出たのは、もう昼もだいぶまわってからだった。

 

 

 


シカクショウガイシャ


2002/04/09 久慈光樹


 

 

 

 高校を卒業して、私――深山雪見は大学へ進んだ。

 大学のサークルで演劇を続けたかったからこその選択だったが、あまり期待していなかった授業もそれなりに面白かった。

 

 みさきは、進学しなかった。

 私やみさきの両親が勧めた点字翻訳の勉強という道も、結局みさきは選択しなかった。

 いま彼女は、家にいる。

 今日のように私が半ば無理やり誘い出さなければ、家の外に出る事も無い。

 

「ちょっとみさき、痛いって」

「あっ、ご、ごめんね雪ちゃん」

 

 繋いだ手を握り締めてくるそのあまりの強さに、抗議の声を上げる。慌てて手を緩めるみさき。

 ぎこちない笑みを浮かべてはいるが、その顔は明らかに未知の世界への恐怖から、強張っていた。

 

 

 私は……

 

「こないだのようににバカみたいに食べないでね、今月厳しいんだから」

 

 言いかけた言葉を飲み込む。

 

 

 

 わざと怒ったように声をかけると、みさきも乗ってきた。

 

「私そんなに食べないよ」

「みさきの言う“そんなに”は、基準が違うから……」

「うー、雪ちゃん酷いよ……」

「事実よ」

 

 いつも通りのやりとり。

 ここが歩道で、私がみさきの手を引いて歩いているのでなければ、全てが普段通りの光景。

 歩道の中心にある、黄色い突起のついたタイル。

 みさきにその上を歩かせるように、私は歩く位置を調整しながら彼女の手を引く。

 

「みさき、あと4歩先に段差」

「う、うん」

 

 歩道の切れ目、ほんの少しの段差。

 それでも目の見えないみさきには、十分に脅威となりうる段差。

 

「あ、ちょっと待ってて」

「ゆ、雪ちゃんどうしたの?」

「放置自転車。まったくこの辺はマナーが悪いわね」

 

 歩道の中心。

 みさきが歩く黄色いタイルの上に、幾台もの放置自転車が止めてある。

 私はみさきの手を離し、その自転車を道の端に除ける。

 

「ゆ、雪ちゃん?」

「よいしょっと! もうちょっと待ってて、みさき」

「う、うん」

 

 不安なのだろう。

 私の繋いでいた右手を胸に抱えるようにして、立ち尽くすみさき。

 

「ふぅ、お待たせ」

「う、うん。ありがとう雪ちゃん」

 

 またみさきの手を繋いで歩く。

 もう少しで目的の店に着くというとき、向こうから背広姿の大人が、急ぎ足でやってくる。

 腕時計をしきりに気にして、あまり前を見ていない。

 危ない!

 

「ゆ、雪ちゃん」

 

 咄嗟にみさきの手を引いた。

 それが少し急過ぎたのか、みさきはその場に踏み留まるようにして抵抗する。

 結果……

 

「うわっ!」

「きゃっ!」

 

 男性とみさきは、歩道の真中で激突した。

 衝撃で繋いでいた手が離れ、体重の軽いみさきはその場に尻餅をつく。

 

「気をつけろ!」

 

 よほど急いでいたのか。

 信じられないことに、男性は尻餅をついたみさきにそう吐き捨ててそのまま足早に歩み去ろうとする。

 

「ちょっと待……!」

 

 思わず呼び止めようとするが、みさきに止められた。

 

「いいんだよ、雪ちゃん」

 

 そういって手を差し伸べてくるみさき。私はその手を取って立たせてやる。

 

「さあ、早く行かないとお店閉まっちゃうよ」

 

 笑いながらそう言って手を引くみさき。

 

 

 私は……

 

「こんな時間に閉まるわけ無いでしょ、まったく」

 

 また、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 昼時をだいぶ過ぎ、店は空いていた。

 

「点字のメニューのあるお店なんだって」

「そうなの?」

「店の人に言えば持ってきてくれるって」

「そ、そう」

 

 普段であれば、私がメニューを読んで、みさきの注文をしてやる。

 でも今日は点字メニューのある店を選んだ。

 店員を呼び、自分が目が見えないことを伝え、点字メニューを頼む。

 ただ、それだけのこと。

 

「ご注文はお決まりになりましたか?」

 

 丁度いい具合に店員が注文を聞きに来た。

 私は応えない。

 私が応えないので、みさきが応対せざるをえない。

 

「あ、ま、まだです」

「それではお決まりになりましたらこちらのボタンを押してお呼びください」

「は、はい」

 

 じっと黙って見つめる私に、みさきはちょっと膨れっ面で恨めしげに声を掛けてきた。

 

「雪ちゃーん」

「ちょっとみさき、あんた点字メニュー頼みなさいよ」

「だってぇー」

「……」

「いつもみたいにしてよ、お願い!」

 

 冗談に紛らわせるように。

 ちょっとおどけて私に手を合わせるみさき。

 

 

 私は……

 

「……わかった」

 

 また、言葉を飲み込んだ。

 

 

 

 

 

「みさき、ちょっと話があるの」

 

 私がそう切り出したのは、食事を終え、みさきの家に着いた時だった。

 玄関に入り、繋いでいた手が離れる。

 

「えっと、ごめん雪ちゃん、私この後ちょっと用事があって……」

 

 もう長い付き合いだ。

 私が何を言い出すのか、悟ったのだろう。みさきはばつが悪そうに、そう言った。

 「聞きたくない」と。

 無言のうちにそう言っていた。

 

 

 私は……

 

「みさき、あなたわかっているの」

 

 今度こそ、言葉を飲み込みはしなかった。

 

 

 

「やめて……」

 

 みさきが弱々しく呟く。

 私が今まで聞いた中で、一番力の無い声だった。

 

「あなたの目は、もう二度と見えないのよ」

 

 痛い。

 心が痛い。

 

「やめて!」

 

 溜まりかねたように叫ぶみさき。

 でも私の言葉は止まらない。止めるわけにはいかない。

 

「ずっとそうやって生きていくつもり?」

「やめて! 雪ちゃんやめてよぉ!」

 

 みさきは裏返った声で叫ぶ。

 

「目が見えるように振舞って、ずっと私に頼って、これからずっとそうやって生きていくつもりなの? あなたは」

「どうして? 雪ちゃん、どうしてそんな酷いこと言うの?」

 

 痛い。

 胸の奥がズキズキと、痛い。

 

 いつかは言わなきゃいけない事だった。

 

 みさきが白い杖を持ち歩かないこと。

 一人では決して出歩かないこと。

 店で注文するときに、私にまかせっきりにしていること。

 

 何より

 目が見えないことを、周りに知られたくないと思っていること。

 

 誰よりもまず私が。

 彼女の一番の友達である私が、言わなきゃいけないことだったんだ。

 ずっと今まで、先延ばしにしてきた。

 言わなきゃ、指摘しなきゃいけないことはわかっていて。

 それでも、先延ばしにしてきた。

 

『一番の友達だから、みさきを傷つけたくない』

 

 偽善だ。

 そんなのは偽善。

 本当はわかってた。

 本当は、傷つきたくなかったのは私。

 本当にみさきのことを思っていたのなら、私はすぐにでもこうするべきだったんだ。

 

『みさきを傷つけるから』

 

 その言葉を、口実にして。

 私はずっと、逃げてた。

 一番の友達を傷つける事で、私自身が傷つく事から、逃げてたんだ。

 

 でももう逃げるのはやめよう。

 はっきり、言おう。

 

 

「あなたは視覚障害者なのよ、健常者とは…… 違うの」

 

 

 そう言った途端、鼻の奥がつーんとして、喉の奥がカッと熱くなって。

 涙が、溢れた。

 

「雪ちゃんに何がわかるの!」

「普通に目が見える雪ちゃんに、何がわかるの!」

 

 バタン、と。

 私の目の前で、扉が閉まった。

 

 拒絶。

 

 膝が崩れた。

 閉じられたドアにもたれかかるように、私は嗚咽と共に呟く。

 

「ごめん…… みさき、ごめんね……」

 

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 

 ココロが、痛い。

 

 

『みさきはきっとわかってくれる』

 

 ひょっとしたら、私は心のどこかでそんな虫のいいことを考えていたのかもしれない。

 甘かった。甘すぎた。

 

 みさきから見れば、私は身体に何の障害も持たない健常者で。

 その点では、周りの見も知らぬ他人となんら変わりのない存在に過ぎなかったのだ。

 私はみさき気持ちをきっと本当には理解できなくて。

 みさきも私の気持ちをきっと理解できない。

 

 友達なのに。

 親友なのに。

 

 ただ、目が見える、見えないというその一点だけで、私とみさきはお互いを本当には理解できないのだ。

 

 悔しい。

 悔しい。

 悔しい。

 

 どうして私は目が見えるのだろうか。

 どうしてみさきは目が見えないのだろうか。

 

 「目が見えないなんてそんなの大したことじゃないよ」って。

 いつも態度で示していた、示してくれていた。

 私は間違っていたのだろうか。

 現実からただ目を逸らしているだけだと思っていた。

 私は間違っていたのだろうか。

 

 もう、わからない。

 何も、わからない。

 

 

 涙と、ココロの痛みは。

 いつになっても、止まらなかった。

 

 

 

 

<END>