家族

−水瀬家の四季−

冬 ミラクル

2004/6/27 久慈光樹


 

 

 

 俺がこの街に来て、二年経った。

 二年という歳月は決して短くない。その間、俺は色々な人たちと出会った。

 

 

 

§

 

 

 

「明けまして、おめでとうございます」

「明けましておめでとうございます、祐一さん」

 

 謹賀新年。俺はいつものように台所に立つ秋子さんに、新年の挨拶をする。一年の計は元旦にあり、いかに家族とはいえ、新年の挨拶はきちんとしておかなくちゃダメだ。

 

「祐一さん、お雑煮にお餅はいくつ?」

「うーん、じゃあ二つで」

 

 そんなお正月にお馴染みの会話をしていた俺たちに、朝にしては信じられない声が掛けられた。

 

「祐一、お母さん、明けましておめでとう」

「あぅー、おめでとう……」

 

 名雪と真琴がこんな時間に自分から起きてくるとは、いったいどうしたことだ。真琴はまだぜんぜん眠そうだが、名雪はすっかり目が覚めているようだ。昨晩は夕食後にすぐに寝てしまったが、年越しそばを食べるために午前零時前に一度起きているのだ、普段であれば朝自分から起きてくるなんてことは考えられない。

 

「何かよくないことが起こる前触れだろうか……」

「うー、わたしたちだってたまには早起きするよ。ね、真琴」

「あーうー、ねーむーいー」

 

 そうなのだ、真琴はともかく、名雪のやつはときたま思い出したように早起きをすることがある。とはいえ、一年に二、三回という程度であるから、これから数ヶ月は早起きはしないということになる。

 

「ほら真琴、顔洗ってらっしゃい」

「ふぁい」

 

 おそらく真琴は名雪に起こされたのだろう、こいつは姉ほど寝起きは悪くないが、その代わり年がら年中寝ぼすけだからな。

 

 

「ねえお母さん、祐一、初詣行こうよ初詣!」

「ああん?」

「あっ、行こう行こう!」

 

 雑煮と格闘していた真琴が、脈略のない名雪の提案に賛同する。

 まぁ正月といえば初詣だが……

 

「いいわね、行きましょうか」

「秋子さんまで……」

 

 とりあえずここ水瀬家では男である俺の発言権は限りなく低い、しょうがない、付き合ってやるか。

 

 

 

§

 

 

 

「こうして俺はまた家を追い出されましたよ?」

 

 まぁあいつらと秋子さんの晴れ着を見るのは楽しみといえば楽しみではあるが、こう毎年毎年寒い中街を闊歩せねばならんというのも悲しいものがあるな。

 さてどうするか、ゲーセンも正月は開いてないし、一時間くらいどっかで時間を潰さなきゃならんのだが。

 

「ゆ・う・い・ち・くん!」

「ぐはっ!」

 

 ぼけっと歩いていた俺にかけられる喜色に満ちた声、そして背中に衝撃。

 

「痛てぇじゃねぇかコラァ!」

「うわっ、祐一君がキレた!」

 

 見慣れたダッフルコートに身を包み、俺の背中に飛びついてきたのは、言うまでもなく、あゆだ。

 

「いきなり飛びつくな! 妖怪飛び赤子かお前は!」

「飛び赤子ってなに……」

「雪の降る街に生息し、いきなり背中に飛びついた挙句そのままその凄まじい体重で押しつぶすという恐怖の妖怪だ。ちなみに主食はタイヤキで口癖は『うぐぅ』」

「うぐぅ、ボク体重そんなに重くないもん」

 

 涙目になって俺に抗議するあゆ。どうも妖怪呼ばわりされたことよりも体重を指摘されたことのほうがショックだったようだ。

 こいつは月宮あゆ、見てのとおり小柄な、俺の友人だ。確か今年で小学五年生になる。

 

「ボク小学生じゃないよ!」

「なにぃ!」

「そこ驚くとこじゃないよ!」

 

 こうすぐムキになるあたりがガキっぽいっていうのに。これでも今年で一八になる俺と同い年というのだから、世の中は不思議に満ちている。

 

「で、どうしたあゆ、パパにおつかいでも頼まれたか?」

 

 「初めてのおつかい」とからかう俺に、「ボクお父さんのこと『パパ』なんて呼んでないよ!」と律儀にムキになるあゆ。

 

「お父さんと初詣に行ってきたんだよ、それから祐一君の家に行こうと思ってたところ」

「そうか」

「祐一君は?」

「稼ぎが悪いから家から追い出されたんだ」

「えっ! そうなの?」

「ああ」

「じゃ、じゃあボクん家に来なよ、お父さんだってオッケーしてくれるよ!」

「というか信じるな」

 

 まったくこいつは、純粋というか騙されやすいというか。冗談もすぐ本気にするもんだから、ついついからかってしまうんだよな。

 

「本当はこれから遠洋漁業に行く時期なんだ」

「えっ! 水瀬さんの家って漁師さんだったの?」

「ああ、マグロ漁船はいちど港を離れると数ヶ月は帰ってこないからな」

「それは大変だねぇ」

 

 だから信じるなちゅーのに。

 

「今は名雪も真琴も晴れ着に着替えているだろうから、あゆも見物してこいよ」

「ええっ? マグロ漁船に晴れ着を着て乗るの?」

「だからもうその話はいいっちゅーに」

「うぐぅ、また騙された……」

「あゆは晴れ着とか着なかったのか?」

「う、うん、お父さんしかいないから、着せてくれる人いないし」

 

 あゆは現在、父親と二人で暮らしている。

 こいつに父親がいたことは最初俺も知らなかったが、考えてみればずっと入院していたこいつには入院費用やらなんやらがかかっていたわけで、こいつのお父さんはずいぶんと仕事で無理をしていたんだそうだ。

 そう、あゆは一年程前までずっと入院していた。

 

 八年前、いやもう九年前になる、俺がこいつに出会ってから。

 当時のこと、特にこいつが入院するきっかけになった事件のことは、まだ思い出すのも辛い生々しい記憶だ。

 とにかく、こいつは大怪我を負って八年間も病院で眠りつづけたのだ。

 八年ぶりに目覚めたあゆは、最初歩くことはおろか、ベッドから起き上がることもできなかった。当然だ、八年間も動かすことのなかったこいつの身体は、関節から筋肉に至るまで酷く衰弱していたのだから。

 眠りつづけている間の病院側の親切な看護――間接を毎日動かして固まってしまわないようにしたり、床ずれができないように毎日姿勢を少しずつかえてやったり――がなかったら、恐らく二度と歩くこともできなかっただろう。

 だがそれでも、それからのリハビリは過酷なものだった。

 衰えた筋肉は、少し動かすだけでも耐えがたい激痛をもたらし、カルシウムの流出した骨格は自重すらも支えることができない。

 俺たちは何度も見舞いに行ったが、続けられるリハビリは傍から見ている俺たちが見ていられないくらいだった。

 

 だが、あゆは今こうしてここに元気に立っている。今では軽くであれば走ることすらもできるようになった。あゆは今でも週に何度か病院に通い、検査とリハビリを続けている。八年間というこいつの眠りつづけた歳月は、それほどまでに重いものだったのだ。

 

「なあ、あゆ。身体、大丈夫か」

 

 思わずそう聞いてしまった俺の表情は、どんなだったのか。あゆは真顔になって、一字一句区切るように言った。

 

「祐一君、ボクはもう大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」

 

 ああ、でも俺は心配だよ。

 お前はいつだって頑張って、頑張って、頑張りすぎてしまう娘だから。

 

 医者が言うには、八年間も眠りつづけてから後遺症も残らず、一年たらずでここまで回復する例は本当に稀なのだそうだ。

 

『正に奇跡です』

 

 そう言った医者に、俺は激しく反発したものだ。

 奇跡。

 あゆは、月宮あゆは誰よりも頑張った。早く歩けるようになりたい、みんなと同じような暮らしをしたい、そんな気持ちを胸にこの一年、誰よりも頑張ってきたのだ。

 奇跡なんていう都合のいい言葉で、こいつの頑張りを一括りにしないでくれ。

 

「ねえ祐一君、これからどうするの?」

 

 あゆの言葉に、はっとする。少し考え事に没頭しすぎていたようだ。

 

「一時間くらいどっかで暇を潰さないといけないんだが、今日は店も開いてないだろうしなぁ、どうするか」

「あっ、じゃあじゃあ、ボクとお散歩しようよ」

「おさんぽぉ?」

「うわー、すごい嫌そう」

「ふーん、まぁそれもいいか」

「うん!」

 

 その笑顔に、いつしか俺もつられて頬が緩んでいるのは感じたが、嫌な気分ではなかった。

 

 

 

§

 

 

 

「あっ、祐一さんだー」

 

 むっ、このひどくのほほんとした声は……!

 

「おっ、佐祐理さんと舞じゃないか、明けましておめでとう」

「明けましておめでとう祐一。今年もよろしく」

「明けましておめでとうございます」

 

 この二人は川澄舞と倉田佐祐理さん、俺より一学年上の先輩だ。いや、先輩だったというべきだろう、昨年の春に無事高校を卒業し、現在は近くの大学に二人して通っている。

 実は二人の通っている大学が、俺と名雪の志望校だったりするんだよな。

 

「あゆさんも一緒だったんですね」

「えと、明けましておめでとうございます」

「おめでとう」

 

 俺繋がりで多少面識があったはずだが、年上だからやっぱり緊張しているのだろう、ややぎこちなく舞と佐祐理さんに挨拶するあゆ。

 しかし……

 

「二人とも振袖かぁ、いいなぁ」

 

 俺の言葉に、舞と佐祐理さんは揃って顔を赤らめる。

 着物というのはあまり身体の線が出ないものだが、それでもやっぱり二人ともグラマーだよなぁ。隣ではあゆがなんか膨れてこっちを睨んでいるが、とりあえず見なかったことにしておく。

 

「二人とも、これから初詣か?」

「いえ、もう行ってきました」

「あらそうなのか、随分早いんだな」

「人ごみは嫌い」

 

 舞は相変わらずだな。初めて出会ったときも、ひどく無愛想だったからなこいつは。

 

 俺が舞と初めて出会ったのは、深夜の校舎だった。

 舞は自らを『魔を討つ者』と呼称し、その言葉どおり、夜の校舎で一人戦いつづけていた。

 こいつと戦っていたモノが何であったのか、俺は知らない。その結末がどうだったのかも知らない。だが舞はいまもここに居て、あの頃にはあまり見せなかった笑顔もいまは頻繁に見せる。高校を卒業したいまではもう、校舎に忍び込むような真似はしていないと、聞いた。

 俺は舞の道標にはなりえなかった、俺と舞の進む道は重なり合いこそしたが、そのまま共に歩みつづける道ではなかったのだ。

 だが舞は見つけたのだろう、自分だけの道標。『親友』という名の道しるべを。

 

「でも静かにお参りできたから良かったよね、舞」

 

 舞の道標たる佐祐理さんは、以前にも増して明るい笑みを浮かべるようになった。彼女のことは、実は俺はほとんど知らないに等しい。あまり自分のことを語りたがらない人だからだ。だから彼女に何があって、どうなったのか、俺は知らない。

 でも以前よりも明るくなった笑顔が、何より雄弁に今の彼女の心境を表しているような気がした。

 

 この二人は、乗り越えたのだろう、すべてを。

 それが『奇跡』という名の下にであったのか、事情を何一つ知らない俺にはわからない。だが確実に言えることは、お互いがいたからこそ、お互いがお互いを支え合ったからこそ、乗り越えられたのだろう。

 そこには『奇跡』などという言葉は、必要ないように思えた。

 

「そういえば、今日は二人と一緒じゃないの?」

「なっ、舞お前、俺がいつも真琴と名雪と一緒に行動してると思ってるのか!」

「私は真琴と名雪なんて言ってない」

 

 ニヤリ。

 そう言い表すのが適切と思われる笑みを浮かべる舞。

 くそっ、謀られた……

 佐祐理さんもこういう話になると、途端に目を輝かせ始める。おのれこのジョシダイセーがっ!

 あゆのやつは隣でフグのように膨れつづけている、そのうち爆ぜるんじゃないだろうか。

 

「そういえば去年も一緒でしたものね」

「去年は凄かった」

「そのまま式場に直行の勢いだったもんねー」

「神前だった?」

「『だった?』じゃねぇ! 俺に聞くな!」

 

 くっ、二人ともすっかりからかいモードに入ってやがる、去年の初詣の時に鉢合わせしたのは、さすがにまずかった。

 というかあゆがさっきから俺の脛に蹴りを入れつづけているのだが。

 痛い……

 

「でも本当に、今年はご家族で初詣には行かれないんですか?」

「ああ行くよ、みんなが晴れ着に着替えるからって、追い出されちゃってさ」

「うわー、じゃあ今年も皆さん晴れ着なんですね」

「佐祐理、見に行こう」

「げっ!」

「そうだね、行こっか舞」

「ちょ、ちょっと待った! 二人とももう初詣済ませたんだろ?」

「別に何度行っても構わない」

「そうですよ、祐一さんたちの仲のいい姿を是非とも見せてもらわなくっちゃ」

「マジか……」

「じゃあ神社前で待ってる」

「そうだね、そうしよっか」

 

 俺は何とか阻止しようと試みたが、「楽しみですねー」「式は神前で決まり」とか言いながら、二人は去っていった。くそっ、人の話なんぞ聞いちゃいねぇ。というか舞は神前に憧れているのか?

 

「ふん、祐一君のすけべ」

「ちょ、ちょっと待てあゆ、なぜ俺が……」

「鼻の下でれーんて伸ばしちゃってさ、ふん!」

「お、おい待てって」

 

 膨れるあゆを宥めるのために、正月だというのになぜか営業しているタイヤキ屋の屋台で奢らされる羽目になった。とほほ……

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 あゆと二人して行く当てもなくうろついていると、人ごみの中に見知った顔を見つけた。

 

「よう香里、どうしたんだこんなところで、新年早々獲物でも探してるのか? 今宵のナックルは血を欲しておるとかなんとか……こんにちは香里さん」

 

 俺の軽口を眼光一つで封じ、あっけにとられているあゆと新年の挨拶を交わす香里。俺も挨拶してみたが綺麗に無視された。

 

「相変わらず相沢君って馬鹿ね」

「くっ…… と、とりあえずどうしたんだ今日は」

「栞とね、はぐれちゃったのよ」

「栞ちゃん、迷子なの?」

「そうなのよ、まったくいい歳してあの子は……」

 

 形のよい眉を顰めてぶつぶつ言っているが、その表情は心配で心配で堪らないといった様子だ。こいつの姉バカぶりは真琴に対する名雪以上だからな。

 こいつは美坂香里、俺のクラスメイトで名雪の親友だ。妹が一人いて、栞という。どうやら初詣に来て、はぐれてしまったらしい。

 大人びた容姿に相応しい落ち着いた少女で、妹の栞とは対照的だった。栞はお子様だからな……と、噂をすればなんとやらだ。

 

「あっ、お姉ちゃん!」

「栞! 探したわよまったく」

「えへへ、ごめんね」

 

 ストールを羽織った幼児体系のこいつが、妹の栞。俺より一年後輩で、本来なら高校二年生であるのだが、一年留年しているからまだ一年生だ。

 

 こいつが留年したのは、病のせいだ。

 一年前、栞は明日をも知れぬほどの重病を患っていた。詳しい病名は知らないが、比喩ではなく誕生日まで生きていられるか分からないというほどだったのだ。

 身内の者を亡くしてしまうかもしれないという恐怖は、経験したものにしか理解することはできない。俺が真琴を一度は失った時のことを思えば、妹の病に押しつぶされ逃避した香里を責めることなどできようもない。

 

 そう、香里は一度、逃げた。

 病に苦しむ妹から、そして自分自身から。

 

 そうすることしかできなかったのだ、失うことに耐えられないのであれば、初めから何も持ってはいなかったのだと思えばいい。そうして彼女は辛い現実から自らを守るためにこう言った。

『自分に妹はいない』と。

 

 香里の行動が正しいのか間違っているのか、それは誰にもわからない。栞の姉でない者に、香里の行動を責める資格などないのだきっと。

 そんな姉の引き裂かれそうな心を誰よりも理解していたのは、きっと栞だったろう。医者さえも匙を投げた病と闘い、そして勝利を収めることができたのは、自分ではなく誰よりも大好きな姉の身を案じたが故だったのに違いないのだから。

 

『奇跡ですねきっと』

 

 そう言って笑った栞と、そんな彼女に泣きながらいつまでも謝りつづけていた香里。優しさ故に心を押し潰さんとした姉と、そんな姉を想い、自らの十字架を克服した妹。

 奇跡、そんな言葉で彼女たちを言い表すことなど、きっと本人たち以外には許されないことなんだろう。

 

「あっ、祐一さんにあゆさん、明けましておめでとうございます!」

 

 もはや病の片鱗すらも感じ取ることができない栞のその輝くような笑みに、俺も、あゆも、つられて笑みを返す。

 

「明けましておめでとう、栞ちゃん」

「明けましておめでとう栞、いい歳して迷子になんかなるなよお前」

「うっ…… お、お姉ちゃんが歩くの速すぎるんです!」

「あなたはもう少し落ち着きというものを覚えないとダメね」

「落ち着きがないこと、あゆが如しだからな」

「えぅ〜」

「ゆ、祐一君、それどういう意味! 栞ちゃんも落ち込まないでよ!」

 

 ひとしきり笑いあった後、この後の予定を尋ねられた。事情を話すと、栞がいっしょに初詣に行きたいと言い出し、香里も笑って賛同する。こりゃ大所帯での初詣になりそうだ。

 

「じゃあね相沢君、あゆちゃん、また後で」

「早く行こうお姉ちゃん、私たちも晴れ着を着なくちゃ!」

「はいはい」

 

 こうして俺たちは、姉妹と一時、別れた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「もうそろそろ時間だな」

「うん、戻ろうか」

 

 そんなことを言っていた俺たちに、またしても見知った者の声がかけられる。とても落ち着いた、年齢に相応しくないこの声は……

 

「よう、天野。相変わらずオバサンくさいな」

「相沢さんは相変わらず失礼ですね」

 

 少し眉を顰めて苦言するこの少女は、天野美汐。真琴の一番の親友であり、俺の後輩だ。

 

「天野さん、明けましておめでとう」

「あゆさんもご一緒でしたか、明けましておめでとうございます」

「あれ? お前ら知り合いだったのか?」

「人のご縁って不思議なものだよ」

 

 『ご縁』などという古めかしい表現で、腕を組みうんうんと訳知り顔で頷くあゆ。天野のオバサンくささが移ったんじゃねぇか?

 

「ちょうどよかったです、相沢さん」

「ん?」

「この本、真琴に渡していただけますか」

「なんだ、去年もそんなこと言ってなかったか?」

「そういえばそうだったかもしれませんね」

 

 思い出したのか、くすりと笑う天野。こいつもよく笑うようになった。

 

 天野との出会いを忘れられようはずもない。

 真琴に関係したことは、何一つ忘れられない思い出として、俺の胸にしまわれている。

 あのとき、真琴の正体を俺に伝え、自分に関わらないでほしいと言ったときの天野は、笑顔など一度も見せない娘だった。

 自分が過去経験した辛い別れを、他人事とはいえ身近に再び見ることを、何よりもこいつは恐れていた。だから俺や真琴に極力関わりを持つまいと振舞っていたのだ。

 だが真琴を失う寸前、こいつらはもう既に親友だった。そして俺と天野もまた、同じ経験、同じ痛みを共有する「戦友」だった。

 

 天野が過去、どんな辛い別れを経験したのか、俺は詳しくは知らない。こいつもあまり自分のことを語らない娘だから。

 だから天野が、それを乗り越えたのかどうか、俺も推測することしかできない。だがこれだけは言える。真琴は帰ってきたが、天野の大切な人は今も帰ってはこないのだ。

 毎夜うなされ、涙を流して飛び起きるようなあの日々が、今もこいつにつづいているのではないか、そんな危惧は確かに俺の中にあった。

 

 

「この絵本を読みたがっていましたから、きっと真琴、喜びます」

「絵本?」

「ええ、真琴、保育所のみんなにお話してあげるんだって張り切ってましたから」

「ふーん、真琴ちゃん偉いなぁ」

「ええ、本当に」

 

 微笑む天野はまるで母親のようで。俺は自分の危惧が、杞憂だったことを知った。

 天野が過去を完全に振り切ったのかどうかは俺にはわからない、俺は天野じゃないから。だけど少なくともいまこいつには、真琴がいる。再び自分の下に戻ってきてくれた、かけがえのない親友が。

 

 真琴が再び俺たちの下に戻ってきたこと、いや、真琴の存在それ自体は正に『奇跡』と呼ぶに相応しいかもしれない。

 だけど、俺たちの、俺と天野の想いは奇跡なんかじゃない。真琴に戻ってきてほしいと祈り、信じた心だけは、俺たちの物だ。奇跡なんかじゃ、ない。

 

「では相沢さん、お願いできますか?」

 

 そう言って差し出される包みを、だが俺は受け取らなかった。

 

「だったらちょうどいいじゃないか、一緒に行こうぜ」

「え?」

「そうだよ、ちょうどこれから初詣にみんなで行くことになってるんだよ」

「でも私なんかがお邪魔して……」

 

 そういや去年は家族水入らずなのに悪いと言って断っていたな。まったく、こいつは気を遣いすぎる。

 

「ばーか、なに水くさいこと言ってんだよ、天野っち」

 

 俺のその言葉にしばらく考え、やがて天野はふっと息を一つついた。

 

「相変わらず相沢さんは失礼ですね、人を変な名前で呼ばないで下さい」

「ね、天野さん、行こうよ」

「はい、ご一緒させていただきます」

 

 そう言った天野の笑みは、晴れ渡るこの青空のようだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「たっだいまー」

「あ、祐一お帰りー、あれ? あゆちゃんに天野さん」

「うわー、名雪さん綺麗……」

 

 家に帰った俺たちを迎えたのは、振袖姿の名雪だった。

 去年と同じ振袖に、今年は髪を結わずに後ろでまとめただけの格好。だが去年と変わらず、その、まぁ綺麗と言えなくもない。

 

「やっと帰ってきたわね! って、あれ? あゆと美汐だ」

「明けましておめでとう真琴、綺麗ですよ」

 

 真琴も去年と同じように振袖姿だ。こっちは美容院にでも行ってきたのか、髪を結い上げていた。普段は見えない首筋の後れ毛が、ほんのちょっと、その、い、色っぽいと言えないこともない。

 

「うふふ、祐一さん、顔が赤いですよ」

「そ、そんなことありません!」

「うわー……」

「秋子さん綺麗ですね……」

 

 そして秋子さんである。

 未婚ではないから振袖でこそないが、濃い落ち着いた色合いの晴れ着が何とも言えずよい雰囲気だ。大人の女性の色香を全身で発しているというか、そのくせ十代のような初々しさを醸し出しているというか、いったいこの人は歳いくつよ?

 

「さっさと行くわよ! 祐一!」

「さ、行こ行こ!」

「祐一君のすけべ!」

 

 両腕をがっちりホールドされ、真琴、名雪、あゆに連行されていく俺を、天野と秋子さんが苦笑しながら見守っていた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「明けましておめでとうございます」

「明けましておめでとうございます」

「明けましておめでとうございます」

 

 神社で待ち合わせていた舞と佐祐理さん、そして栞と香里に合流した俺たち。まずは新年の挨拶ということで、もうすっかり耳に馴染んだ感のある言葉が盛んに交わされる。まぁ新年の挨拶ってのは何度交わしても悪くないもんだ。

 

「奇跡……」

 

 今日、皆と出会ってから幾度も脳裏に浮かび、そのたびに否定しつづけてきたその言葉が、ふと俺の口から漏れた。

 

 奇跡。

 なんて安っぽい言葉だろう、人知の及ばぬモノが起こしてくれた、与えてくれた、恵んでくれた、そんなどこか他力本願なニュアンスが、俺は大嫌いだ。

 奇跡なんてものは俺たちには起こらなかった。すべては俺たちが望み、自らの手で勝ち取ってきたものだ。

 俺はそう、思いつづけてきた。

 

 でもそうじゃないのかもしれないな。

 確かに俺たちの願いは適ったが、それは俺たちが勝ち取ったもので、誰かから与えられたようなものじゃない。今のこの幸せは、俺たちの望んだものだ。

 だけど、俺はこの街にきて、ここにいるみんなと出会うことができた。出会い、信頼し、信頼される関係を築くことができた。

 

「ご縁、か」

 

 いつかあゆが口にした言葉、彼女の言葉を借りれば、この「ご縁」こそが、奇跡と呼ぶに相応しいことのように思えた。

 

「出会いという名の奇跡か」

 

 誰にともなく口にした言葉だったが、俺の両脇で腕を掴んでいた真琴と名雪には聞こえてしまったようだ、二人とも俺の言葉の意味がわからずきょとんとしている。

 苦笑してなんでもないと言う俺に、二人は声を揃え、言った。

 

「それって、素敵だね」

 

 ああ、まったくだ。

 それはなんて素敵な奇跡。

 

「カメラ持ってきたから、お参りの前に皆で写真とりましょうよ」

「わぁ、香里さんそれグッドアイデアだよ!」

 

 用意のいいことに、スタンド持参でデジカメを持ってきた香里の提案に、みな笑顔で賛成する。

 鳥居の前に皆で並ぶ。俺がシャッターを切ることになり、スタンドに立てたカメラから、皆を覗く。

 

 真琴、名雪、秋子さん。

 舞、佐祐理さん。

 香里、栞。

 そして天野。

 

 この先、どんなに時が流れても。

 この奇跡が、いつまでも続きますように。

 

「じゃあとるぞー ……それ」

「祐一、こっちこっち!」

「わっわっ、早く早く!」

 

 シャッターを切る音が、冬の街に響いた。

 

 

 

 今年一年が、皆にとってよい年でありますように!

 

 

 

 

 

ミラクル!  了

 

 

 

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