家族

−水瀬家の四季−

秋 ばとるおぶ演劇祭!

2004/5/8 久慈光樹


 

 

 

 どうしてこんなことになったのか。

 

 純白のドレスを身に纏い、目の前に横たわる名雪。

 緊張のためか頬を高潮させ、キュッと閉じられた瞳の端には涙さえ浮かんでいる。

 閉じられ湿った唇が、俺を誘うかのように少し突き出されている。

 その唇よりわずか数センチの場所に、俺の唇があるのだ。

 

 ごくり。

 

 思わず唾を飲み込む。自分でも思った以上に大きな音がした、名雪に聞こえてしまっただろうか。

 ずっとただの幼馴染だった俺と名雪との関係。今にして思えば、それはとても微妙で、危うい関係だった。

 俺があとほんの十センチほど顔を前に倒すだけで、俺が名雪と過ごした幼馴染としての日々は終わりを告げるだろう。

 

 そして――

 

「あぅーっ、祐一のバカー、祐一をコロシて私もシヌー!」

「えぅ〜、祐一さんなんて嫌いです〜! トリカブトは素人でも比較的容易に精製できます〜」

 

 俺があとほんの十センチほど顔を前に倒すだけで、俺の人生自体が終わりを告げてしまいそうな勢いなのである。

 

 どうしてこんなことになったのか……

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 事の起こりは学食だった。

 天高く馬肥ゆる秋。健全な高校生たるもの、この時期は常に空腹との戦いなのである。四限が終わるのももどかしく、俺たち美坂チームはいつものごとく学食の一角で食事をとっていた。

 

「えんえきふぁい?」

「祐一、口の中に物入れたまま喋っちゃダメだよ、行儀悪いよ」

「(もぐもぐ、ごっくん) ええいやかましい、寝汚いお前に行儀うんぬんを言われると無性に腹立たしいわ、この寝たきり女子高生が」

「寝たきりて…… ふんだ、祐一なんて桃色男子高生じゃない」

「人を色魔みたく言うな!」

「ふーんだ、このあいだ体育の後にクラスの女の子にタオル差し出されてたの知ってるんだから」

「ばっ、バカモノ、あれは貸してくれるっていうから……」

「うー、祐一のタネウマ」

「誰が種馬かっ!」

 

 限りなく脱線していく俺と名雪のやり取りを、ああまた始まったイヤダイヤダ痴話ゲンカは他でやってちょうだいこの万年バカップルが、ぺっ! というような目で見やる香里。北川などはなから黙殺モードまっしぐらだ。俺はいい友人を持った。

 

「で、演劇祭って何だ?」

 

 肉まんのようにフクレ面になり終いには首を締め始めた名雪をうっちゃり、改めて香里に尋ねる。

 

「来月の初めに文化祭があるでしょう、その最終日に学年対抗で演劇をするのよ」

「えんげきぃ?」

「ええそうよ、だから演劇祭」

 

 いつぞやの舞踏会といい、この学校はどうしてこうもわけのわからんイベントが目白押しなのか。

 

「まさか今年はうちらのクラスなんじゃないだろうな」

 

 われ関せずとカレーうどんをすすっていた北川が、急にしかめ面になって香里に問いかける。対する香里も渋面になり、ご明察、と返した。

 

「おいおい、どういうことだよ」

 

 いやな予感がして問いかけた俺に、香里が説明してくれた。

 演劇祭は学年対抗の形式で行われるのだが、実際に劇に参加するのは一クラスだけなのだそうだ。

 演劇ともなればそれなりに舞台やら衣装やら用意する必要があるし、練習だってしなければならない。だれだってそんな面倒なことは御免こうむりたいだろう。ようは厄介事は少しの犠牲で、ということだ。

 で、運悪く今年の犠牲は我がクラスとあいなったわけだ。

 

「そんなんいつ決まったんだよ」

「あたし、クラス委員」

 

 済まなそうに香里。どうやら先日のクラス委員会で決定したらしい。

 

「なにぃ、じゃあ何か、俺らは香里のくじ運の悪さの犠牲者ということに……ごめんなさい香里さん」

 

 俺を一睨みで沈黙させたあと、香里はこう口にした。

 

「まぁ確かにあたしにも責任がないとは言えないわね、そういうわけであたしは責任とってシナリオ書くから」

 

 今にして思えば、だ。

 このときの香里の提案を、俺は不審に思うべきだったのである。

 演劇でのシナリオ書きがいかに面倒かということ、そしてそんな面倒な役を、責任を感じたとはいえ進んで引き受けたということ。香里の態度は明らかに不審に過ぎた。

 ああ、だがこの時の俺は、そんなことに気付くこともなく「ふーん、まぁがんばれ」などと口にして空腹を満たすことのみに専念していたのだ。

 香里の口に浮かんだ、邪悪な笑みに気付くこともなく。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「というわけで、演目は『白雪姫』に決定しました」

 

 学食での会話から一週間後、朝のホームルームである。

 壇上に立つのは我らがクラス委員の香里。今日は演劇祭の演目と配役を決定することになっていた。

 

「い、いや、決定しましたって……」

 

 俺の後ろの席に座る北川が、俺たちの胸中を余すことなく代弁する。

 まだ何も話し合っていないうちから決定って……

 

「あたしが決定しました。意義がある人は?」

 

 ギロリと教室内を見渡す香里。思わず目を逸らす俺たち。

 ネロも真っ青の素晴らしい恐怖政治ぶりである。

 

「特に異議もないようですので、演目は『白雪姫』に決定しました」

 

 いや、まぁいいんだけどな、別に。

 白雪姫ってのは、毒入りリンゴを食って死んでキスされて生き返るってあれだ。7人の小人とか出てくるやつだな。

 

「では次に配役を決めたいと思います、まずは主人公の白雪姫」

 

 さあここからが正念場だ。

 演目なんざ別になんだっていい、問題はいかに面倒な役に当たらないかということだ。大道具あたりになれれば御の字、裏方になればすくなくとも練習なんて面倒事に巻き込まれずに済む。

 

「立候補はないみたいね、じゃあ適任と思う人を推薦してください」

 

 とりあえずこれは女子の役どころなので安全だ。

 北川あたりが女装するってのもなかなか阿鼻叫喚っぽくて面白そうではあるが。

 

「はい、水瀬さんがいいと思います!」

 

 と、男子の一人が挙手の後にそんな意見を出す。

 

「ふぁい!」

 

 名を呼ばれて反応し、ろれつの回っていない素っ頓狂な声を上げる名雪。こいつ寝てやがったな……

 

「え? なに、どうしたの?」

 

 状況が掴めずおろおろする名雪をよそに、多数決の結果ほぼ満場一致で名雪の主役が決まる。

 

「名雪のやつクラスでイジメにでも遭ってるのか?」

「バカ、水瀬なら適任じゃないか」

 

 俺の独り言に、北川がそんな言葉を返した。

 

「確かに名前だけは白雪姫っぽいが…… うむ、考えてみれば寝汚いあたりとかも適任っぽい」

「水瀬なら可愛いから舞台栄えするって意味だ」

「はぁ?」

 

 何を言ってやがるんだこやつ。

 

「お前なぁ、水瀬は結構人気あるんだぞ、クラスだけじゃなく学校中にな」

 

 隣であたふたする名雪に聞こえないように小声で、俺にそんなことを耳打ちする北川。

 

 ……まぁ確かに顔は割といい方かもしれんが。

 

「水瀬に告って玉砕したやつたくさんいるんだぞ」

「そうなのか?」

「そうなのか、ってな…… お前うかうかしてると誰かに取られちまうぞ」

「ばっ……! ぷじゃけるな! 俺は別に……!」

「あーはいはい」

 

 くそぅ、北川のくせに生意気な。

 

「うー、ゆういちぃ、どうしよう」

 

 知るか。

 

「じゃあ白雪姫役は名雪で決まりね」

「む、無理だよー」

「じゃあ次は王子様役ね、誰か立候補は……」

 

 名雪の抗議をスッパリ無視して話を進める香里、そして王子様役の立候補にこぞって挙手する男子。

 

「物好きな……」

 

 というかお前ら、欲望に忠実すぎ。

 

「まぁ白雪姫が水瀬だからな、無理もない」

 

 なんだかしみじみと北川。そしてやつは挙手していない俺を見て、顔を顰めた。

 

「おいおい、お前が手を上げなくてどうするんだよ」

「そういう北川だって上げてないじゃないか」

「俺は勝てない戦はしない主義なんだよ」

「まぁこの競争率じゃなぁ」

「そういう意味じゃないんだが…… っておい、いいのか相沢、水瀬が恨めしそうにこっち見てるぞ」

「げっ」

 

 見ると北川の言葉どおり、隣の名雪が「うー、どうして祐一は手を上げてくれないんだよう」って顔して睨んでいる。

 まぁ口に出さない分まだ分別はあるということか。名雪の口からそんな言葉が出れば、北川の言うとおりなら俺はクラス中、いや学校中の男子を敵に回すことになりかねない。

 

「うー、どうして祐一は手を上げてくれないんだよう!」

 

 ……こいつに分別を期待した俺がバカだった。

 一斉に俺に突き刺さるクラス男子の敵意に満ちた視線。

 

「祐一のバカバカ、バカ苺!」

 

 苺って何だ。

 

「大体なんで俺がそんな面倒くさい役をやらなくちゃいけないんだよ」

「うー、わたしだって白雪姫役なんてやりたくないよ」

「知るか」

「ヒドイヒドイ! 祐一なんてもうご飯つくってあげないからね!」

「料理作ってるのは秋子さんだろ」

「わたしだってお手伝いしてるもん、祐一だけ明日から生姜汁だよ、お母さんだって了承してくれるもん」

「本当に了承されそうで怖い……」

「ね、ね、だから祐一も立候補してよー」

「それとこれとは話が別だ」

「うー、もう明日から起こされても起きてあげないんだから」

「それが毎朝起こしてくれる人に言う台詞か!」

 

「あー、そこのオノロケお二人さん」

「誰がオノロケかっ! って、あ……」

 

 香里に言葉に我に返ってみれば、俺に向けられる男子の視線は敵意から殺意にグレードアップしている始末。

 

『えー、やっぱり相沢君と名雪って……』

『やっぱり一つ屋根の下なんだもの……』

『ちょっとショック』

 

 くっ、女子の皆さん、聞こえるように話すのは内緒話と言いませんよ?

 

「収集がつかないので、王子様役は男子全員でのくじ引きとします」

 

 ちょっと待て! 俺は立候補してないだろ!

 だいいちそれじゃ立候補した連中が納得すまい。

 

「よっしゃぁ! やってやるぜ!」

「相沢にだけオイシイ思いをさせてなるものか!」

 

 どうしてこのクラスはこんな愉快な連中ばっか揃ってますか?

 

 そしてくじ引きの結果……

 

「なんじゃこりゃぁ!」

 

 俺の手にした紙片に赤々と書かれた『大アタリ』の文字。

 

「はい、じゃあ王子様役は相沢君で決まりね」

「香里、てめぇ計ったな!」

「あら何のことかしら」

「とぼけるな! 最後にくじ引かされたからおかしいと思ってたんだ」

「言いがかりはやめてちょうだい、じゃあそういうことで」

 

 そういうことで、じゃねぇ!

 公正なる学園生活にあるまじき不正行為を問いただそうと、猛然と立ち上がった俺にかけられる、喜色に満ちた声。

 

「えへへへ、頑張ろうね、祐一」

 

 その名雪の顔を見て、毒気を抜かれた。

 本当に嬉しそうな笑顔。

 たかが演劇、ただ単純に恋人の役を演じるだけ。それでも名雪は本当に嬉しそうだったから。

 

 ちぇっ。

 

「しょうがねぇな」

「えへへへ」

 

 観念した俺に、北川がウインクしながらこう言った。

 

「だから言っただろ、俺は勝てない戦はしないって」

 

 まったくどうしてこう俺の周りはお節介なやつらばかりなのか。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「あぅーっ、祐一のバカバカ! バカ肉まん!」

 

 そして家に帰ればこうなることは目に見えているのである。

 

「肉まんてなんだ……」

 

 いつもながらの騒がしい夕食。

 ふとしたことで話題に上がった演劇祭の配役に、案の定真琴のヤキモチ爆発である。

 男としてヤキモチを焼かれるのは羨ましいことだ、などと思うなかれ、何事にも限度というものはあり、真琴と名雪のそれは一般的に言う「ヤキモチ」とはレベルが違うのである。

 

「どうして祐一が王子様で、名雪お姉ちゃんがお姫様なのよぅ!」

「えへへ、ごめんね真琴、しょうがなくだよ、しょうがなく。えへへ」

「あぅーっ、名雪お姉ちゃん嬉しそう!」

「え? そんなことないよー? えへへへ……」

「あぅーっ!」

 

 いつもながらニコニコと微笑む秋子さんにまぁまぁと宥められ、なんとか落ち着きを取り戻す真琴。なんかごっつこっち睨んでるんですけど。

 

「白雪姫って、七人の小人が出てくるお話ね」

 

 そんな真琴を、困ったものねと温かい目で見ながら秋子さん。

 

「確か毒リンゴを食べさせられちゃうんだよね」

 

 横目でこちらを睨みつけながら真琴。

 

 そしてとろんと夢でも見ているような目で呟く名雪。

 

「うん、それから王子様のキ……」

「秋子さんおかわりっ!!」

「はいはい」

 

 くっ、頼むからこれ以上真琴を刺激するな……

 

「キ?」

 

 くっ、真琴も突っ込むな!

 

「えへへへ、白雪姫はね、王子様のキ……」

「ああああ秋子さんお味噌汁おかわりっ!!」

「はいはい」

 

 だー! 真琴を刺激すんなって!

 

 向かいに座った名雪に、必死になってバチバチとウインクを送る。

 

「?」

「あら、祐一さん目をどうかしたの?」

「い、いや別にそういうわけでは……」

 

 くっ、この親娘にジェスチャーなど通じないということか。

 

「えへへ、練習しなくっちゃね、祐一」

 

 どうやら危険な話題を通り過ぎたようだ。俺はいっぱいになった腹に無理矢理おかわりのごはんと味噌汁を詰め込みながら、適当に返事をする。

 

「キ、キスシーンの練習も、し、しなくちゃね」

 

 ぐはっ!

 

「キ…ス……?」

「わたしと祐一はね、白雪姫と王子様だから、キスシーンがあるんだよ」

「キス…シーン……?」

 

 ごごごごごご……

 

「ま、まて真琴! 『フリ』だ、キスする『フリ』をするだけだ!」

「えー、わたしは、その……フリじゃなくても……」

 

 くわっ! 真っ赤な顔して何を口走ってやがるんだこやつは!

 

「……」

「ま、真琴? 真琴さん?」

「ゆ……祐一をコロして真琴もシぬーーっ!」

「ま、待て! 早まるな!」

「祐一の浮気ものー! けだものー!」

「だ、誰がケダモノかっ!」

「えへへ、ダメだよ祐一、そんな、舌入れたら……」

「おめーはなに妄想してんだ!」

「うわーん! 祐一のばかー!」

「ま、真琴、落ち着け!」

「ゆぅいちぃ…ふあっ……」

「どこまで妄想してんだお前はーーっ!」

 

 こうして阿鼻叫喚の夕食は、それから3時間も続いたのである。

 というかニコニコしてないで止めてください秋子さん……

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 俺は鏡にうつった我が身を見て、泣きたくなった。

 小道具担当が用意したという王子様の衣装、まるっきり保育園のお遊戯会のノリである。

 

「なぁ香里、ひょっとして俺ってクラスでイジメられてんのか……?」

「さあ?」

 

 るーるーるー

 

「わぁ、祐一似合うよー」

「どこが似合うんだ…よ……」

 

 聞き慣れた従兄妹の声に怒鳴りつけようとして振り向いた俺は、そのまま固まってしまう。

 

「えへへ、どうかな?」

 

 ドレス、とは少し違う。

 もっと質素で、純朴で。でもその衣装は名雪によく似合っていた。こいつの持つ純粋さみたいなものを、よく引き立てていた。

 

「えへへ、ゆーいち!」

「あ、ああ…… いいんじゃねぇか?」

 

 情けないことに、それだけ言うのがやっとだった。

 そしてそんな俺のぶっきらぼうな言葉に、頬を桜色に染める名雪。

 

『うぉ、水瀬さんカワイイ……』

『俺このクラスになってよかった……』

『つーか相沢コロス……!』

 

 男子の皆さんは相変わらずブッソウである。

 

「はいはい、じゃあ衣装付け終わったみたいだから、もう一回通し稽古いくわよ」

 

 シナリオを書き終え、すっかり監督役に納まった香里がパンパンと手を叩いて場を仕切る。こいつこういう役に向いてるよな。

 

 

 あれから他の配役やら衣装やらですったもんだしたが、なんとか来週は演劇祭というところまで来ていた。

 最初はへたっぴぃだった俺と名雪の演技も、まぁ何とか形になりつつある。

 最初はぶつくさ言っていたクラスの連中も、練習を重ねるうちにやる気になってきたのか、そこそこ熱の入った練習をしている。

 まぁ相変わらず男子連中の俺に対する視線は厳しいが、そろそろ諦めて配役を受け入れたようだ。

 

「私は認めません!」

「うおっ!」

 

 回想シーンにツッコミを入れるという秋子さんバリの荒業をこなしたのは、栞である。

 

「名雪さんとの、その……キ、キスシーンなど、言語道断!」

「言語道断と言われてもなぁ。まぁ『フリ』だけだし」

「あ、あたりまえです!」

「というか、なんで栞がこんなところにいるんだよ」

「そんなことどうでもいいんです! 祐一さん、私と逃げましょう!」

「は?」

「いいんです、私にはわかっているんです、きっとこれはお姉ちゃんお得意の策謀と裏工作の結果に違いないんです! さあ祐一さん、腹黒いお姉ちゃんに捕まる前に私と一緒に愛の逃避行を……はうっ!」

 

 バッタリと前のめりに倒れる栞。その後ろには右手を手刀の形にした、実の妹の首筋に当て身を叩き込む姉。

 

「さあ練習を続けてちょうだい」

 

 ああなるほど、ああいうのを「目でコロス」と言うのだな、なんてことを思いつつ、冷たい汗をかきながら練習に戻る俺。

 振り返る間際に見た気絶したまま引きずられていく栞は、なんかとても幸せそうな表情だった。

 

 

「うわーん、白雪姫が死んでしまったー」

「どうしよう、どうしよう」

「やや、誰か来たぞ」

「私はこの国の王子だが、いったいどうしたというのだ小人たち」

「白雪姫が毒リンゴを食べて死んでしまったのです」

「やや、これはなんとウツクシイ娘だ」

 

「ちょっと相沢君! もうちょっと感情を込めなさいよ!」

「へいへい」

 

 監督の香里に叱咤される。

 こいつは完璧主義だからなぁ。

 

 

 

『ぬるま湯、か……』

 

 あーでもない、こーでもないと演技に注文をつける香里の顔をぼんやりと見ながら、俺は昨日香里に言われたことを思い出していた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 それは連日の放課後練習を終えて家に帰る途中でのことだった。

 いつも一緒に帰っている名雪が、すでに引退した部活に顔を出すということになり、俺は珍しく香里と二人だけで帰途についていた。

 

「あーあ、いよいよ来週かー」

「まあ何とか形にはなってきたわね」

「厳しいな、香里は」

「どうせやるならキチンとした劇にしたいじゃない」

 

 なんとも香里らしい言葉に、内心で苦笑しながら「まぁな」とだけ返す。

 それから、なんとなく話題が途切れた。

 

「真琴ちゃんは」

 

 やや躊躇うように、そう口にした香里は、やがて意を決したように俺に向き直ってこう言った。

 

「真琴ちゃんは今回の話を聞いてどうしたの?」

 

 香里の質問の意図を掴みかね、やや戸惑いながらも俺はため息まじりに返す。

 

「あれから口もきいてくれん」

「あはは、真琴ちゃんらしいわ」

「ったく、香里のせいだぞ」

「あら、何がかしら?」

「お前がズルして俺を王子様役になんかするから……」

「だから真琴ちゃんが嫉妬した?」

 

 予想していたのとは違う真剣な声に、戸惑う。

 いつしか香里の顔から笑みは消えていた。

 

「相沢君、いい加減ちゃんとしたら?」

「え?」

「名雪と真琴ちゃん、どちらか選んであげたら?」

「お、おい香里」

「今の状態はね、ぬるま湯」

「ぬるま湯?」

「そう、ぬるま湯。相沢君、あなたはね、逃げているのよ」

「俺が、逃げてる?」

「名雪と真琴ちゃん、どちらからも好かれ、でも自分からはどちらにも意思表示をしない」

「それは……」

「ぬるま湯は確かに気持ちがいいわ、熱すぎもせず、寒すぎもせず」

「……」

「でもね、いつまでもぬるま湯ではいられない」

「……」

「いつまでも逃げてばかりでは、いられないのよ」

 

 辛辣なその言葉の内容とは裏腹に、香里の声に俺を責めるような鋭さはなく、むしろ自らに言いきかせているようにも感じられた。

 

「私たちはまだ大人じゃないわ、でももう子供でもない。いずれは選ばなくっちゃならない、どちらか一方をね」

「……」

 

 唇を噛み、俯くことしかできない俺に、香里はふっと一つため息をついて声のトーンを変えた。

 

「やれやれ、我ながら柄でもないことを言ったわ」

「香里……」

「誰かさんのお節介が移っちゃったのかしらね、ふふふ」

「おいおい、誰かさんて誰だよ」

「ふふふ、言葉どおりよ」

 

 いつもどおり楽しげな声が、香里がもうこれ以上この話をするつもりはないことを告げていた。

 俺もそれに合わせ、普段どおりにおどけた言葉を返す。

 結局それっきり、香里と別れるまでこの話題が出ることはなかった。

 

 

『俺ってやっぱり、ズルイ男なんだろうな』

 

「どうしたの祐一?」

「……なんでもねーよ」

「こらっ! 私語厳禁!」

 

 こうして本日の練習は終わりを告げた。

 来週はいよいよ、演劇祭だ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「祐一さーん、差し入れに来ましたー」

 

 開演一時間前、すでに楽屋裏と化した教室に響く、明るい声。

 ちなみに会場は体育館であり、あと三十分ほどしたら移動しなければならない。

 

「おっ、誰かと思えば一年ダブって二回目の一年生であるところ栞じゃないか」

「えぅ〜、祐一さん説明口調ですー」

「説明しないとわからんからな」

 

 「そんなこと言うひと嫌いです!」というお決まりの文句と共に差し出されるタッパー。そういや差し入れとか言ってたな。

 

「何を持ってきてくれたんだ? 蜂の子かなんかか?」

「そんなモノ持ってきません!」

「なんだ? レモン?」

「レモンスライスの蜂蜜漬けです、疲れがとれます」

 

 いやまだ疲れてないし、なんてことを思った俺の後ろから、タッパーに伸ばされる手。

 

「おおぅ、美味美味」

「北川さん!」

 

 行儀の悪いやつめ。

 

「んー、蜂蜜の甘さとレモンの酸っぱさが渾然一体となって絶妙のハーモニーを……(バッタリ)」

「うぉっ! どうした北川! って栞、お前これ何か入ってるだろ!」

「北川さん疲れてるんじゃないですかー?(……ちっ)」

「お前いま舌打ちしただろ!」

「いえ、してません」

「めちゃくちゃ目が泳いでる!」

「ええい問答無用です! 名雪さんとのキスシーンなんて認めません!」

「開き直りやがった……」

 

 つーか既に手段を選ばないということか……

 

「さあ祐一さん、今度こそ逃げましょう! うねうね髪の魔女に捕らわれた王子様を颯爽と救い出す病弱なヒロイン! ドラマみたいでステキで……はうっ!」

「相沢君、そろそろ移動するわよ」

 

 バッタリと前のめりに倒れる栞。そして何事もなかったかのように声をかけてくる香里、またしてもその右手は手刀である。

 というかこの姉妹はいつもこうなのか……?

 

「あら、北川君どうしたの?」

「いやなんと言うか……」

「まぁ彼は大道具だから大勢に影響はないわ、さっさと移動しましょ」

「ひでぇ……って、なんだあれ?」

 

 教室の隅に置かれた、ひっくり返された巨大なザル。

 その片側には棒が立てかけられ、ザルの下には皿に乗ったバナナ。

 そして棒の真ん中には紐が結び付けられ、その紐は教室の扉の向こうに。

 

「ふっふっふ、さあ祐一、罠にかかるのよぅ」

「……オイ」

「うわぁ!」

「なにやってんだ真琴……」

「くっ、この完璧な罠をよくぞ見破ったわねっ!」

「なにか人間としての尊厳を根こそぎ否定された気分だ」

「もんどーむよー!」

「つーかなんで真琴がここにいるんだよ」

「ふんっ、甘いわね祐一! お姉ちゃんとの、その……キキキキスなんて、おてんとーさまが許しても、この真琴が許さないのよぅ!」

「はぁ」

「この水瀬真琴が、月に代わって成敗!」

 

 またなんか古いアニメの再放送でも見やがったな。

 

「あっ、真琴、来てくれたんだね」

「あぅ、お姉ちゃん」

 

 妹の声を聞きつけたのだろう、既に衣装に着替え終えた名雪が嬉しそうに歩いてきた。

 

「わぁ、お姉ちゃん、キレイ……」

「えへへ、そんなことないよ」

 

 前々から不思議に思っていたのだが、こいつらは互いにヤキモチ焼く癖して関係がギスギスしたりすること無いんだよな。二人とも演技してそうできるほど器用じゃないから、恐らく地なのだろう。

 まぁ、姉妹仲がいいのはよいことだ。

 「なにニヤニヤしてんのよぅ!」「う、うっせー、ニヤニヤなんてしてねぇ!」なんてことを言い合う俺たちを、まあまあと諌めていた名雪が、秋子さんの姿を見止めて声を上げる。

 

「あっ、お母さんも来てくれたんだね」

「うふふ、自分の子供たちの晴舞台だもの、母親なら見に来るわよ」

 

 演劇祭は文化祭の一環として行われるため、一般の人にも公開されているのである。

 

「さあ真琴、邪魔にならないように体育館に移動しましょう」

「はーい、じゃあお姉ちゃん、頑張ってね」

「うん、頑張るね」

 

 「祐一は頑張らなくていいからね!」などと失礼なことを言い、真琴は秋子さんと一緒に教室を出て行った。

 

「さあ祐一、わたしたちも移動しよっか」

「そうだな」

「祐一は緊張してない?」

「んー、さっきまでは少し緊張してたけどな」

「あはは、わたしも。でも真琴やお母さんと話してたら、いつもどおりになっちゃった」

 

 まったくだ。

 四人でわいわいと話しているだけで、俺たちはいつだって、どこでだって、いつもどおりの俺たちでいることができる。

 ひょっとしたら、それってすごいことなのかもな。

 

「よっしゃ、じゃあ行くか!」

「うん!」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 こうして幕を開けた演劇祭。

 学年対抗で行われる演劇祭は、一年生から順に上演となる。一年生の『ピーターパン』、二年生の『ロミオとジュリエット』が終わり、いよいよ我ら三年生の『白雪姫』の上演である。

 とはいえ、俺には当分出番が無い。これは俺も後から気付いたことだが、白雪姫の劇において、王子様なんて最後にちょろっと出るだけの端役に過ぎないのである。いまも俺は舞台の脇から、級友たちの演技を見守っているだけだ。いやー、楽な役でよかった。

 しかしこうして改めて見ていると、香里の脚本はよくできているな。上手い具合に現代風にアレンジしつつも、古典劇の王道は外していないというか。

 演じる名雪たちも楽しんで演技しているし、観客の受けも上々のようだ。

 

「相沢君、そろそろ出番よ」

 

 おっと、そうこうするうちに出番がまわってきたようだ。

 

「あっ、祐一さんが出てきましたよ真琴さん」

「うっわー、なにあの格好、おっかしー」

 

 客席から聞きなれた声。くそっ、あいつら後で覚えとけよ。

 

『私はこの国の王子だが、いったいどうしたというのだ小人たち』

『白雪姫が毒リンゴを食べて死んでしまったのです』

『やや、これはなんと美しい娘だ』

『王子様、最後に花を供えてあげてください』

『うむ、そうさせてもらおう』

 

 造花を手に、横たわる名雪に近づく。目を閉じた名雪の身体が、少し強張ったように見えた。

 

『ううむ、見れば見るほど美しい』

 

 いよいよか……

 俺が名雪のそばに身を屈めると、先ほどよりも目に見えて名雪の身体が強張った。くっ、『フリ』とはいえ、いざとなると緊張するな。

 改めて名雪の顔を見る。閉じられた瞼が僅かに震え、目の端には涙さえ浮かんでいる。

 改めて見ると、薄化粧のせいもあるがなんだか本当のお姫様みたいだ。

 ううっ、なんかすげー緊張してきた。

 クラスメイトだけじゃなく、気のせいか、観客の男子全体が殺気を込めて睨みつけているような気がする……

 

「あうーっ、あうーっ、祐一のケダモノー」

「えぅーっ、えぅーっ、祐一さんの淫逸ー」

 

 外野はなんかエキサイトしてるし……

 

 くぅ、ダメだ、いざとなると身体が動かん。俺ってやっぱり、度胸無いのかも。

 くそ、しっかりしろ俺。なにも本当にキスするわけじゃないんだ、それによって俺と名雪の関係だって変わるわけじゃない。この劇が終わればいつもどおりの俺と名雪で、いつもどおりの俺たちなんだから、なにも戸惑うことは……

 

 

 ……

 ……

 

 

 俺はいったい、何をこんなにも恐れているんだろうか。

 こんなに躊躇うほどに、俺は名雪のことが嫌いなのか? いや違う、俺は名雪のことを大切に思っている。

 じゃあ好きなのか? 俺は名雪のことを、一人の女性として大切に想っているのか?

 

 

 ――相沢君、あなたはね、逃げているのよ――

 

 

 不意に。

 いつか香里に言われた言葉が脳裏に浮かんだ。

 逃げていると、俺が逃げていると、あのとき香里はそう言った。

 俺はなにも言い返すことができなかった。

 

 ――本当はわかってた。

 

 ぬるま湯。

 俺はぬるま湯の気持ち良さに身を任せているだけだ。

 名雪の気持ちも、真琴の気持ちも知っていながら、知らないフリをしていた。

 香里に言われるまでもない、わかってたんだ本当は。

 俺が逃げているだけだってこと。

 

 俺は、怖かったんだ。

 俺たちの関係、家族という名の最高に気持ちのいい今の俺たちの関係が形を変えてしまうことを、何よりも恐れていたんだ。

 だからこそ、意識して俺は名雪と真琴の『兄』であろうとし、『家族』であろうとした。

 一度手に入れてしまった温もりは、再び失うにはあまりにも惜しいものだったから。

 

 そっと、客席に目を向ける。

 真琴のやつが両の拳を握り締めてこちらを睨んでいる。

 

「ごめんな、真琴」

「え?」

 

 俺の呟きを聞きとめたのだろう、じっと目を瞑っていた名雪が、目を開いてこちらを見ていた。そしてその瞳には、戸惑いと、僅かな悲しみの色。きっと俺の言葉をこれからの行為に対する真琴への謝罪と解釈したのだろう。

 

「ごめんな、名雪」

「え? え?」

 

 謝って許してもらえるなんて思わない。本当なら俺は、真琴や名雪にどんなに罵倒されても文句は言えないほど、卑怯な人間なのだから。

 

 だけど――

 

「もう少し、もう少しだけ……」

 

 『家族』で、いさせてくれないかな?

 たとえぬるま湯でも、もう少し、身を委ねていたいんだ。

 

「ほんとに、ごめんな」

「祐一……」

 

「えうー、この妙に長い間が、非常にいい雰囲気を演出してますー!」

「……」

「許せませんー、祐一さんなんて嫌いです! って、真琴さん?」

「……祐一」

「え?」

「ほんとに、バカなんだから、祐一は……」

 

「ほんとに、祐一はバカなんだから」

 

 優しい顔でそう呟き、名雪は客先から見えない角度で俺の衣装の裾を引いた。

 

「祐一、劇の最中だよ、ちゃんと台本どおりに続けて」

「あ、ああ」

 

 言われるままに、横たわる名雪に顔を近づける。右手を名雪の口元に置き、少し角度をずらして台本どおりに。

 こうすると客先からは俺と名雪がキスをしたように見えるのだ。客先から歓声が上がった。

 そして名雪が身を起こす。

 

『うわーい、白雪姫が生き返ったー!』

『王子様のキスで生き返ったー!』

 

 喜びの声を上げる七人の小人たち、そして白雪姫は笑顔を浮かべ、王子様にこう言った。

 

『ありがとうございます、王子様』

 

 そして王子様は言うのだ。

 

『白雪姫、私の妃になってください』

 

 白雪姫はそれを快諾し、ハッピーエンドで終劇である。

 

『ええ、喜んで! ……でもその前に』

 

 ん? そんな台詞、台本には無かったぞ。

 戸惑う俺をよそに、白雪姫はこう言った。

 

『これは、わたしの気持ちだよ』

 

 そうして白雪姫は、立ち尽くす王子様に近づき、小声でこう呟いたのである。

 

「えへへ、ごめんね真琴。これくらいは許してね」

 

 俺の顔に手を添え、ちょっと背伸びをするようにして名雪は。

 頬に、キスをくれた。

 

「ああー! お姉ちゃんズルイ!」

 

 客席から聞こえてきたそんな声も耳に入らず、呆然とする俺に、ちょっと顔を赤らめた名雪は、とびっきりの笑顔で言った。

 

 

『これからもよろしくね、わたしの王子様!』

 

 

 

 

ばとるおぶ演劇祭!  了

 

 

 

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