家族

−水瀬家の四季−

夏 赤ちゃんがきた!

2004/4/24 久慈光樹


 

 

 

「あぢぃ……」



 ただひたすらに、暑いのである。

 どうして水瀬家のエアコンは、夏の暑い盛りを見計らって故障するのか。

 というよりも、冬あれだけ寒かったにも関わらず、なぜこの街は夏になるとこんなにも暑いのか。



「おかしいだろうがコラァ!」



 絶叫。

 人間、暑いと思考がエキサイトするのである。

 

「夏が暑いなんて誰が決めた! お前か! お前が決めたのか!」

 

 居間のソファーに鎮座する、名雪お気に入り緑カエルぬいぐるみであるところの『けろぴー』様にネックハンギングツリーを仕掛け、再度絶叫する俺。

 

 

 暑い、ただひたすらに、暑かったのである。

 

 

「くそぅ、ヤツ当たりする相手もいないとは」



 普段であれば真琴あたりにアイアンクローでもかまして憂さを晴らすところであるのだが、あいにくと今は俺一人しか家に居ない。

 真琴と名雪は連れ立ってウインドウショッピングと偽りデパートに涼みに行った。俺もついていけばよかったと思わないでもないが、どうせ女性服売り場になどいられようはずもない。

 秋子さんはといえば、今日は朝からどこかに出かけていった。一応どこに行くのか尋ねたのだが、にっこり笑っただけで答えずに出かけていった。基本的にあの人は謎が多い。

 

「俺もどっかに涼みに出るかなぁ」

 

 開放したけろぴー様の横に腰を下ろし、ぐったりと思考を巡らす。

 サ店はパスだ、そもそも金が無い。夏休みであるのをいいことに、少々遊びすぎであり、既に財布の中には漱石氏が単独で佇んでいるレベルである俺には喫茶店など夢のまた夢、いわばドリームズカムトゥルーといった塩梅である。

 では香里の家にでも涼みに行くという案はどうか。

 いやダメだ。名雪と真琴同伴ならともかく、俺一人で遊びに行ったなどということがあの二人に知られようものなら、明日の朝日さえ拝めないという事態になりかねん。

 

「北川の家は遠すぎるしなぁ」

 

 そもそも、この炎天下、外に出る気にならん。関節の摩擦熱だけで溶けてしまいそうだ。

 いっそのこと冷蔵庫にでも入っていようかしら、などというところまで思考が及んだとき、チャイムが鳴った。誰か来たらしい。

 

「はいはいっと」

「お荷物をお届けにまいりました!」

 

 玄関のドアを開けると、妙に元気のいい宅急便の兄ちゃんが荷物を運んできた。ハンコが無いのでサインで済ませ、受け取る。

 

「ありがとあんしたー!」

「あぃあぃ、ごくろーさんっと。んー? なんだこれ」

 

 宛名を見ると『水瀬秋子様』とある。結構大きなダンボールだが、比較的軽いところを見ると衣類か何かだろうか。差出人は女性だが、知らぬ名だった。

 

「しょうがない、居間にでも運んでおくか」

 

 荷物を手に、踵を返したとき。

 

「ただいま帰りました」

 

 ちょうど秋子さんが帰ってきたようだ。

 

「あ、お帰りなさい秋子さん、ちょうどよ…か……」

 

 振り返り、そして俺は、固まった。

 

「ああ、ちょうどよかったわ、荷物届いてますね」

「あ、秋子さん……」

「はい?」

「それ……なんですか?」

「はい?」

「ですから、手に抱えた『それ』は、なんですか?」

 

 ええと。

 暑さに、俺の目はどうにかなってしまったのだろうきっと。こう暑くちゃ幻覚を見てもおかしくないよな、うん。

 

 必死に現実から目を逸らす俺に、秋子さんは相変わらず朗らかな声で言った。

 

「赤ちゃんですよ」

 

 秋子さんの言葉どおり、彼女の手に抱かれすやすやと眠る『それ』は、どこをどう見ても赤ちゃんだった。

 なぜ秋子さんが赤ちゃんを抱いて帰ってくるのか、あの赤ちゃんはどうしたのか、そもそもどこに出かけていたのか、だいたいから……

 いやまて! 落ち着け、相沢祐一。こういうときは落ち着いていくつか考えられる選択肢を挙げてみて、絞り込むのだ。

 

 

一.あれは赤ちゃんではなくて、実はぬいぐるみ

二.あれは赤ちゃんではなくて、実は目の錯覚

三.あれは赤ちゃんではなくて、実は幻覚

四.ナショナルジョーバ

 

 

「おいちょっと待て! 四の選択肢はなんだ!」

 

 大混乱の俺。そしていつもどおり微笑みながら、秋子さんは言った。

 

「ちょっと着替えてきますから、この子を抱いていてもらえるかしら」

 

 そうくるか!

 

 なし崩し的に赤ちゃんを抱かされる。

 うわっ、ち、ちいさい……

 

「じゃあお願いします」

 

 いやお願いしますじゃなくて!

 

 慌てて引きとめようとするも、まだ首も座っていないその赤ちゃんは本当に小さく、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうであり、つまりは一歩も動けないのである。

 しかもそんな俺のおっかなびっくり加減を敏感に感じ取ったのか、秋子さんに抱かれているときは気持ちよさそうに眠っていた赤ちゃんが、むずかりはじめたではないか。

 

「う、うわっ、泣かないでくれよ、頼むから」

 

 ゆっくり上下させてみたりしてなんとかあやそうとする。

 秋子さん、早く来て……

 

「ただいまー、あれ祐一、どうしたのこんなところ…で……」

 

 玄関のドアが開き、俺とその腕に抱かれた赤ちゃんを見て、そのまま固まったのは名雪だった。

 

「ゆ、祐一」

「ああちょうどいいところに、何とかしてくれ名雪」

「ま、まさか祐一……」

 

 赤ちゃんを抱いておろおろする俺を見て、何か激しくショックを受けたように立ち尽くす名雪。

 ……激しく嫌な予感。

 

「おい名雪……」

「でもそんなまさかいくら浮気者だからって赤ちゃんなんてでも祐一だし」

「おいお前なんか誤解して……」

「でもでもわたしが祐一を信じてあげなくちゃダメなんだよねそうだこういうときは落ち着いていくつか考えられる選択肢を挙げてみて絞り込むんだよ」

 

 

一.祐一の隠し子

二.祐一の隠し子

三.祐一の隠し子

四.祐一の隠し子

 

 

「祐一! 信じてたのに!」

「ぜんぜん信じてねぇじゃねぇか!」

 

 こ、こいつ……

 

「誰とつくった子なのっ!」

「人の話を聞けコラァ!」

「あゆちゃん? 栞ちゃん? 舞さん? 佐祐理さん? まさか香里なんてことは……」

 

 ああ、俺って信用されてねぇなぁ。ちょっと泣きそうだ。

 

「だから違うって、この子は秋子さんが……」

「まままままさかお母さんとっ!」

「そうくるか!」

「ひどいよ祐一! わたしもう笑えないよ!」

「だから人の話を聞けコラァ!」

 

 大声で言い争いをする俺たち、そして当然のことながら、俺たちの大声に驚いた赤ちゃんは火がついたように泣きはじめた。

 

「わっわっわっ、ゆ、祐一、泣いてるよ」

「そ、そうだな、泣いてるな」

「なな、なんとかしてよ」

「そ、そんなこと言われても」

 

 必死になってあやす俺と名雪。

 だがいかんせん赤ちゃんの扱いなどわからない俺たちだから、一向に泣き止む気配すらない。

 あ、秋子さん早く来て……

 

 だがやがて泣き疲れたのか、そのまま赤ちゃんは眠ってしまった。

 

「よ、よかった……」

 

 ほっとしつつも、疲れ果てた俺たち。

 そして元気よく開かれる玄関。

 

「たっだいまー!」

 

 またやっかいなやつが……

 

「あれ、祐一とお姉ちゃん、どうしたのこんなとこ…ろ…で……」

 

 予想通り、俺と名雪、そして赤ちゃんを見て固まる真琴。

 

「ちょっとまて真琴! これにはわけが……!」

「ち、違うんだよ真琴、これはその……」

「そ、そんな、祐一とお姉ちゃんが」

「人の話を聞けって!」

「でも真琴は祐一とお姉ちゃんを信じてるしそうだこういうときは落ち着いていくつか考えられる要因を挙げてみるのよぅ」

 

 

一.祐一はうわきもの

二.祐一はケダモノ

三.祐一は色魔

四.名雪お姉ちゃんは意外とえっちなぼでぃ

 

 

「うわーーんっ!」

「色魔ってなんだオイ!」

「えっちなぼでぃって!」

 

 

 そして再び繰り広げられる壮絶な言い争いの嵐。再び火がついたように泣き出す赤ちゃん。阿鼻叫喚である。

 

「名雪お姉ちゃん! いつの間に赤ちゃんなんて!」

「だ、だから違うよ真琴、これは祐一の子なの!」

「俺じゃねぇ!」

「だから祐一と名雪お姉ちゃんの子でしょ!」

「そうじゃなくて祐一の子!」

「俺じゃねぇ!」

「祐一と名雪お姉ちゃんの子!」

「祐一の子!」

「俺じゃねぇ!」

 

 いい加減ループし始めたところで、やっと着替えを終えた秋子さんが戻ってきた。

 

「あらあら、三人ともご近所迷惑よ」

「あ、秋子さん、何とかしてください!」

「お母さん、祐一が赤ちゃんを!」

「お母さん、祐一と名雪お姉ちゃんが赤ちゃんを!」

「ほらほら、よそ様からお預かりした大事な赤ちゃんなんですから、泣かせちゃダメよ」

 

「え?」

「え?」

「え?」

 

 綺麗にハモる俺たち。

 秋子さんは俺の手から赤ちゃんを受け取ると、手馴れた様子であやし始める。

 俺と名雪があれだけあやしても泣き止む気配すらなかったのに、すぐに赤ちゃんは泣きやみ、そのうちすやすやと眠ってしまった。

 

「ええと、秋子さん、説明してもらえます?」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……というわけなのよ」

 

 秋子さんの話によると、この子は職場の元同僚の子なのだそうだ。

 出産のために休職した奥さんだが、この時期にひどい夏風邪をひきこんでしまい、旦那さんは運悪く海外出張中。どうしたものかと思い悩んだ挙句、元同僚だった秋子さんに助けを求めた、という事情らしい。

 

「赤ちゃんにうつしちゃいけないもんね」

「そうなのよ、それで一週間ほど預かることにしたの」

 

 宅急便で送られてきた荷物の中身は、オムツやら哺乳瓶やらのベビー用品だったというわけだ。

 

「まったく、そそっかしいにも程があるぞお前ら」

 

 というかヤキモチにも程がある。どういう思考をすれば俺の子という認識に辿り着くのか。

 

「わ、わたしは祐一を信じてたよ」

「(絶対ウソだ……)」

 

 というか名雪、めちゃめちゃ目が泳いでるぞ。

 

「ま、真琴も祐一と名雪お姉ちゃんを信じてたもん!」

「(絶対ウソだ……)」

「(絶対ウソだよ……)」

 

 明後日の方向を見ながら言っても説得力ないぞ真琴。

 

「でも、かわいいねぇ」

「うんうん、ほんとう」

 

 女性陣は秋子さんの腕の中ですやすやと眠る赤ちゃんを覗き込んで、ご満悦だ。

 ふと、名雪が秋子さんに尋ねる。

 

「ねえお母さん、この子、女の子でしょ?」

「ええそうよ」

「きっと大きくなったら美人になるよ」

「お前よくわかるな」

「だって目元がくっきりしてるし、そういう子は綺麗になるんだよ」

「いやそうじゃなく、よく女の子だってわかったな」

「え? 普通わかるよ」

 

 不思議そうにしているところを見ると、どうやら本気でそう思っているらしい。……ひょっとして、俺がおかしいのか?

 

「あぅ、真琴もわからなかった」

「だよなぁ」

「えー」

 

 そうだよな、普通はわからんよな。

 何となくほっとしながら、なおも不思議そうにしている名雪を見る。

 こいつも思わぬ特技を持っていたものだ。ヒヨコの性別鑑定士か何かに向いてるんじゃないか?

 凄まじい速度で黄色いヒヨコを次々と掴み、オスメスオスメスと繰り返す名雪を想像し――俺は萎えた。

 

「名雪、強く生きろよ」

「え? え? え?」

「ね、ね、お母さん、この子なんてお名前なの?」

 

 名雪の未来を思いさめざめと泣く俺をよそに、真琴が秋子さんに尋ねる。そういえば俺もまだ名前を聞いてなかったな。

 

「夕実ちゃんよ、夕の実りと書いて、夕実ちゃん」

「あはは、保育所にもいるよ、夕実ちゃんて名前の子」

「あら、そうなの」

 

 楽しそうに、夕実ちゃんみたいにかわいい子になってね、なんて言いながら、小さい夕実ちゃんの頬をつついている。真琴は自分がガキのくせして子供好きだからな。

 しかしそれにしても、夕実ちゃん、か。

 

「いい名前だな」

「うん」

「そうだよね」

 

 

 こうして、水瀬家に一週間だけ家族が一人、増えたのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 夕実ちゃんは、とても元気な子だった。

 よく泣き、よく笑い、よく眠り、ミルクだってたくさん飲む。

 

「赤ちゃんて、大変なんだねぇ……」

 

 泣き疲れてやっと眠った夕実ちゃんをベビーベッドに寝かしつけた名雪が、ぐったりとソファーに身を沈める。

 

 夕実ちゃんが水瀬家に来てから、瞬く間に三日が過ぎた。

 一週間仕事を休む予定だった秋子さんだが、俺たちが説得した結果、仕事は休まないことになった。ちょうど夏休みで三人とも家に居るのだから、面倒を見ようと思ったのだ。

 そう提案したこと自体は後悔なんてしていないけれど、どうも俺たちは育児というものを甘く考えていたらしい。

 

「あぅぅ」

 

 きゃっきゃっとはしゃぐ夕実ちゃんに髪の毛をさんざんひっぱられ、真琴はまだ涙目だ。さすがに子供好きのこいつも、相当ぐったりしているな。

 

「世のお母さんってのは、偉大なんだな」


 かく言う俺も、昨日はぶんぶんと振り回された手で顎にクリーンヒットをもらい、危うくそのままノックダウンするところだった。

 正に育児というのは戦争だ。

 

「でもかわいいよねぇ、夕実ちゃん」

「うんうん! さっきもね、寝ながらわたしの手を離さないんだよ」

「えへへ、真琴だってさっきだっこしてあげたら、いっぱい笑ってたよ」

「俺なんか昨日、お風呂に入れてやったんだぞ」

「……祐一のえっち」

「……祐一のすけべ」

「なにゆえ!」

 

 などと話していると、玄関から秋子さんの声がした。

 

「おかえりない、お母さん」

「おかえりなさーい」

「ただいま、夕実ちゃんは?」

「たったいま、寝たところですよ」

「そう、ありがとう三人とも、いま晩御飯にしますからね」

 

 そしてすぐに夕食。

 この三日間、食卓の話題は夕実ちゃんのことばかりだ。

 

「明日は仕事お休みだから、夕実ちゃんといっしょにいられますね」

「あ、そうなんですか」

「お母さん、今日ね、夕実ちゃん機嫌が悪かったみたい」

「うんうん、ずーっと泣いてたもんね」

「あらあら」

「そりゃお前、真琴があんまりほっぺを突っつくからだろ」

「うっ…… だ、だってぷくぷくしててかわいいんだもん」

「そうだよねぇ、ぷくぷくでつるつるだもんねぇ」

「えへへ」

「えへへ」

 

 姉妹してにへらにへらしている様は傍から見て非常にアレであるが、夕実ちゃんをだっこしている時の俺もきっと同じ顔をしているだろうから、あえて突っ込むまい。

 

 いつもどおり賑やかな夕食を終え、テレビを見たり風呂に入ったり真琴のやつをからかったりしているうちに、名雪も真琴も眠るために部屋に引っ込んだ。名雪は言うまでもないことだが、真琴も割合に早く寝るからな。

 惰眠シスターズと違って健全な高校生であるところの俺は、そんな早い時間に眠れるわけもなく、一人居間に残って深夜テレビなんぞを見るともなく見ていた。

 

「しかし、あちぃ……」

 

 エアコンが故障中であるため、この熱帯夜はひどく過ごしにくい。湿気がさほど高くないのがまだ救いではあるが。

 

「寝る前になんか冷たいもんでも飲むか」

 

 妙にアメリカンテイストな怪しさ大爆発の通販番組にも飽きた。俺はテレビを消すと冷蔵庫のある台所に向かった。

 と、そのとき、微かに聞こえる赤ちゃんの泣き声。夕実ちゃんだろう。

 夕実ちゃんは秋子さんの部屋で寝ているはずだ、こんな時間にどうしたんだろうか。

 

「秋子さん」

 

 一応ノックをし、秋子さんの部屋のドアを開けると、夕実ちゃんの泣き声が大音量で聞こえてきた。

 

「あらごめんなさい、起こしてしまったかしら」

「いえ、まだ起きてましたから」

「入って、それから戸を閉めてもらえるかしら、名雪と真琴が起きてしまうといけないから」

「あ、はい」

 

 これしきであの二人が起きるくらいなら俺も毎朝苦労はしないんだが。そんなことを思いながら、言われたとおり部屋に入り、扉を閉める。

 

「夕実ちゃん、どうしたんですか?」

「別にどうしたというわけではないのよ、このくらいの赤ちゃんは夜になると泣き出すものよ」

 

 夜泣き、というやつだろうか。

 

「え、じゃあいままでもずっと?」

「そうね、今日は少し早かったわね」

 

 笑いながら秋子さん。知らなかった、夕実ちゃんは毎晩夜泣きして、秋子さんはそれを毎日あやしていたのだ。

 

「大変ですね、赤ちゃんて」

「うふふ、そうね、でも名雪のほうがもっと大変だったわよ」

「名雪のやつも夜泣きしたんですか?」

「ええ、毎晩夜になると泣き出して、私もあの人も毎日寝不足だったわ」

 

 当時のことを思い出しているのだろうか、秋子さんの視線はどこか遠くを見ているかのようだった。

 

 あの人。

 きっと、亡くなった旦那さんのことだろう。

 それ以上は踏み込んではいけない気がして、俺は盛大に泣きつづける夕実ちゃんに視線を移した。

 

「よく泣くなぁ」

「うふふ、赤ちゃんが泣くのは元気の証だもの。ああごめんなさい、立ってないでどこか適当に座ってちょうだい」

「あ、はい」

 

 言われるまま、フローリングの床にそのまま腰を下ろす。

 秋子さんは泣きつづける夕実ちゃんをあやしながら、ゆっくりと子守唄を歌いはじめた。

 

 

 

ねんねんころりよ、おころりよ

坊やはよい子だ、ねんねしな

 

 

 

 俺も聞いたことのある、ポピュラーな歌詞。

 ゆっくりと、まるで夕実ちゃんに話しかけるように、秋子さんは歌う。

 

 

 

坊やのお守りはどこへ行た

あの山越えて里へ行た

 

 

 

 その歌を聴きながら、ふと、いまは外国にいる母さんのことを思い出した。

 母さん、元気でいるだろうか。

 

 

 

里のお土産になにもろた

でんでん太鼓に笙の笛

起き上がり小法師に豆太鼓

 

 

 

 気付けば、夕実ちゃんは泣き止み、眠っていた。秋子さんは起こさないようにそっと夕実ちゃんをベッドに横たえ、タオルケットをかけてやる。なにげない仕草、だがそれは『母親』というものを、見る者に感じさせずにはいられない、優しい、本当に優しい仕草。

 

「やっと眠ってくれたわね」

「秋子さん、やっぱりお母さんなんですね」

 

 思ったことが、そのまま口に出てしまった。ちょっとびっくりしたように軽く目を見開いた秋子さんを見て、俺は自分の言葉が急に恥ずかしくなってしまった。

 

「あ、いや、なに当たり前のこと言ってんだろ俺」

「うふふ」

 

 そんな俺に優しく微笑み、秋子さんは戸棚から数冊のアルバムを取り出し、俺の横に座った。

 

「アルバム、ですか」

「そう、こっちは名雪の小さい頃の写真」

「見せてもらっていいですか」

 

 「どうぞ」と差し出されたアルバムを受け取り、開く。

 写っていたのは、今とあまり変わらない秋子さんと、その腕に抱かれる小さな赤ちゃんの姿。きっとこれが名雪だろう。

 

「へえ、名雪ってこんなだったんですね」

「よく泣く子だったわね、あの子は」

 

 懐かしそうな秋子さんの声を聞きながら、ページをめくる。あ、この人が秋子さんの旦那さんか、初めて見た。

 

 写真のその人は、泣いている名雪を少し情けない顔をして抱いて、おろおろしていた。ははは、なんだかその気持ち分かるなあ。

 ページをめくると秋子さんと名雪と三人で写っている写真や、先ほどよりは少しだけ手馴れた様子で名雪を抱いて微笑む様子がたくさん写っていた。本当に幸せそうな、家族の写真。

 

 そして。

 あるページを境に、彼の姿は写真からぱったりといなくなってしまう。

 

 それは、つまり……

 

「名雪の名前を考えたのは、あの人だったわ」

 

 いっしょにアルバムを見ていた秋子さんが、ぽつりと、言った。

 俺は何も口にすることができない、だがきっと秋子さんも俺からの言葉なんて期待していなかったろう。なぜだか、そんな気がした。

 俺は無言で、ゆっくりとページをめくる。

 何ページか見ていて、俺は名雪を抱く秋子さんの表情が以前とは少し異なっていることに気が付いた。

 優しそうな笑みはそのままに、何か言葉では言い表せない部分で、写真の中で秋子さんが浮かべる笑みは、三人で写っていたときのそれとは異なっていた。

 三人で写っていたときの写真がとても幸せそうに見えただけに、小さな名雪と秋子さんの二人だけで写っている写真は何か物足りなく、寂しげに見える。

 

 秋子さんは何も言わない、だから俺も何も言わなかった。

 

「あ、これ……」

 

 アルバムは二冊目に入り、保育園児くらいになった名雪が、同年齢くらいの男の子といっしょに写っていた。

 

「うふふ、祐一さんが初めてこの街に来てくれたときですね」

「うわっ、やっぱりこれ、俺ですか」

 

 なんだかまだちょっとぎこちない感じで並んで立つ、俺と名雪。でもぎこちなさが感じられるのはそれ一枚きりで、以降の写真では名雪はどれも嬉しそうな顔をしていた。

 対して俺はというと、なんかものすげー嫌そうな顔をしていたり、拗ねて膨れた顔をしている写真がほとんどだ。うへぇ、これなんて露骨に顔を顰めてやがる、かわいくないガキそのものじゃないか……

 

「祐一さんはあまり写真が好きではなかったですものね」

「そうでしたっけ……」

「名雪が『お写真とろうよ』って言っても、いつも逃げてばかりでしたよ」

 

 自分の小さな頃の写真って、人に見られたくないもんだな…… とりあえずアルバムを見せてもらったことは、名雪には内緒にしておこう。

 小学生くらいになっても、相変わらず嫌そうな顔をした写真が多い俺。でもいっしょに写っている俺がそんなでも、写真の中の名雪は、本当に嬉しそうな表情だった。

 

 そして俺は、一枚の写真に目が止まる。

 

「これは……」

 

 小学校五年生の冬にとった写真。

 俺がこの街で月宮あゆという少女に出会った年の写真だった。

 そしてこれ以降、俺と名雪が一緒に写っている写真はぱったりと無くなってしまう。
俺が、この街に来なくなるからだ。

 写真の中の俺は、この後に起こることになる辛い現実を知らず、珍しく名雪と一緒に笑っていた。

 

「祐一さん……」

 

 思わず目を閉じた俺の手に、秋子さんがそっと掌を重ねてくれる。

 

「ありがとう秋子さん、大丈夫、俺はもう大丈夫です」

「祐一さんは、乗り越えたのね」

 

 秋子さんのその言葉は、限りなく優しく、自らの子に対する母親の言葉そのものだった。
ありがとう、秋子さん。

 息を一つつき、三冊目の最後のアルバムをめくりはじめる。

 小学校の卒業式、中学校の入学式。名雪の写真が続く。

 そして俺はまたしても気が付いた。

 どの写真でも同じように笑う名雪、でもその笑顔が、俺が一緒に写っていた小さい頃の写真とは少しだけ異なっていることに。その笑顔は、旦那さんを失って以降に秋子さんが浮かべていた笑顔と、ダブって見えた。

 

 名雪、ごめん。

 俺はお前を、こんな笑顔をさせてしまうくらいに苦しめてしまったんだな。

 

 自分のことしか考えていなかった当時の俺を、殴りつけてやりたい。

 そんなことを思いながら、渋面でアルバムをめくっていた俺の目に、一枚の『写真』が飛び込んできた。

 

「あっ……!」

 

 今までのスナップ写真とは異なる、小さな一枚のシール。

 

 

『水瀬家一同』

 

 

 下手くそなピンク色の字で書かれたその言葉。

 四人で写っている、家族の写真。

 それは、あの冬に真琴と一緒にとった初めてのプリクラだった。

 俺と名雪と秋子さん、そして真琴。このときとったプリクラは、俺も机の中に大切にしまってある。

 真琴ととった初めての写真、秋子さんは自分たちの思い出が全て詰まったこのアルバムに、貼ってくれていたのだ。

 そしてこれ一枚じゃなかった、去年いっしょに海に行ったときの写真、秋に紅葉狩りに行ったときの写真、冬にみんなで雪合戦をしたときの写真。真琴も、名雪も、俺も、秋子さんも、みな笑顔で写っている写真がたくさん貼られている。

 

「ありがとう、秋子さん」

 

 ちょっと声に詰まったその俺の言葉に、秋子さんは微笑みながら言った。

 

「お礼だなんて、おかしなことを言いますね祐一さん、家族の写真をアルバムに収めるのは、当たり前のことですよ」

「は、ははは、そうですね、そうですよね」

 

 秋子さんの言葉に、胸がいっぱいになって、鼻の奥がツーンとして。

 はは、何だよ俺、ここは泣くような場面じゃないだろうが。

 悔しいから天井を見上げて、涙がこぼれないように我慢した。

 嬉しかった。写真を貼ってくれていることもそうだし、俺たちを当然のように家族として受け入れてくれていることもそうだが、何よりも、名雪と秋子さんの笑顔が昔のように本当に輝いたものだったから。嬉しかったのだ。

 

 これ以上ここにいると本当に泣いてしまいそうだったから、俺は秋子さんに礼を言って部屋を出た。

 自分の部屋に戻る前、名雪と真琴の部屋のドアにそっと呟いてみる。

 

「これからもたくさん、写真とろうな」

 

 家族の写真を。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 一週間は本当にあっという間に過ぎた。

 夕実ちゃんはいつも元気で、俺たちに笑顔をくれた。

 でもその夕実ちゃんとも今日でお別れだ、元気になったお母さんが夕実ちゃんを迎えに来た。

 

「ううっ、元気でね夕実ちゃん」

「ほら名雪、泣かないの。また遊びに行かせてもらいましょう」

「うん、うん」

 

 名雪のやつはぽろぽろ泣いて、夕実ちゃんとの別れを惜しんだ。

 

「ほら真琴、夕実ちゃん行っちゃうぜ」

「……ふん、真琴にはかんけーない!」

 

 真琴のやつは相変わらずのアマノジャクぶりを見せて、ぷいと背を向けたままだ。でもその背中が微かに震えているのと、返す言葉が震えているところを見ると、こいつもぼろぼろ泣いているに違いない。

 夕実ちゃんのお母さんは俺たちに何度も礼を言い、いつでも遊びに来てほしいと行ってくれた。今度みんなでお邪魔しよう。

 

「じゃあね、バイバイ」

「……夕実ちゃん、バイバイ」

「またな」

 

 夕実ちゃんは玄関先で手を振る俺たちに、きゃっきゃと笑ってくれた。

 

 こうして、一週間だけの家族だった夕実ちゃんは去っていった。

 また会おうな、夕実ちゃん。

 

 

 

 

 水瀬家のアルバム。

 その最後のページに、一枚写真が増えていた。

 夕実ちゃんを抱いた秋子さんと、俺と名雪と真琴。四人でとった、一枚だけの写真。

 

 

 みんな、笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

赤ちゃんがきた!  了

 

 

 

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