家族

−水瀬家の四季−

春 いつだって笑顔!

2003/12/14 久慈光樹


 

 

 

「ふあ〜ぁ」

 

 のっけから大あくびで申し訳ないが、春の陽気のせいとご容赦いただきたい。

 

 俺の名は相沢祐一、一昨年冬よりこの水瀬家にご厄介になっている居候だ。

 我が愛すべきお父上とお母上はただいま北欧で年甲斐もなく新婚気分を満喫していらっしゃることだろう。

 一昨年の秋に急遽決まった父親の海外転勤、当時高校一年生だった息子には両親について海外生活を送る気などはさらさら無く、夢膨らむ一人暮らしへの期待で胸が一杯であったのだ。

 

 ところが、である。

 普段は放任主義のくせして妙に堅いところのある母は、息子に無断で自分の妹である水瀬秋子嬢に相談していたのである。「うちのドラ息子をそちらの家に居候させてはもらえないかしら」と。

 臑かじりの俺には拒否権などというものは存在せず、かくして夢の一人暮らし生活は露と消え、雪降る北の街での居候生活が幕を上げたのが一昨年の冬、それから一年半ほどが経過していた。

 

「あら祐一さん、おはようございます」

 寝起きの頭をボリボリと掻きながら二階の部屋から降りてきた俺を、暖かい笑顔で迎えてくれたこの人が、母の妹である水瀬秋子さんだ。

 早くに旦那さんを亡くされてから一人娘を女手ひとつで育て上げたとても立派な女性である。であるのだが、とてもその外見は高校生の娘が居るとは思えず、十三歳くらいで出産したんじゃないかと俺は密かに疑っている。
女子大生……はさすがに無理だとして、若奥様で十分通用するだろ、この人なら。

 とにかく、この秋子さんがここ水瀬家の家長なのである。

 

「おはようございます秋子さん」

「朝ごはんもうすぐできますから、申し訳ないのだけど……」

「了解、二人を起こしてきます」

 

 水瀬家の一人娘であるところの名雪を起こすのが、朝における俺の日課になりつつある。

 幼い頃に出会い、八年という歳月を経て再会した少女――水瀬名雪は、母親の妹である秋子さんの娘、つまり俺にとっては従兄妹にあたる。

 身内の贔屓目抜きにしてもなかなかの美少女と言えるだろう。普段はボケボケしているが、あれでも春までは陸上部の部長だったというのだからそれなりに運動もでき、人望もあるのだろう。

 腰まで伸ばした髪と陸上で鍛えたスラリとした体つき。悪友に聞くところによると、学年を問わず学校の男子にはかなり人気の存在であるらしい。

 そんな名雪であるが、ひとつだけ重大な欠点がある。

 

「起きろコラァ!」

「くー」

 

 大声を張り上げながら部屋のドアを開け放った俺を迎えたのは、階下まで鳴り響く目覚まし時計たちの大合唱と、その大音響の中で平和な顔して寝こける我が従兄妹殿の安らかな寝顔。

 

「たく、毎度のことながらよくもまあ…… 起きろ名雪! 遅刻すんぞ!」

「うにゅう」

 

 とにかくこの名雪という少女、よく寝るのである。昨晩寝たのは午後九時前だと言うのだから、呆れた寝ぼすけぶりと言えよう。

 『春眠暁を覚えず』とはよく言うが、名雪の場合は春眠どころか一年三六五日、常に暁を覚えないのである。

 

「いい加減に起きんかい!」

「くー」

 

 前言撤回、春になるとこいつは更に暁を覚えない。

 

 やむをえない、こうなれば最終手段を行使するまでだ。

 

「……にゃー」

「ねこ!」(がばっ!)

「ひっ!」

 

 俺の猫を真似た呟きに、機械仕掛けのように身を起こす名雪。怯える俺。

 

「祐一、ねこさんどこ!」

「はて」

「あれぇ、いまねこさんの鳴き声が聞こえたような気がしたんだけど」

「気のせいだろ」

 

 相変わらずの猫狂いぶりを如何なく発揮する名雪を放置し、次なる業務を遂行するために部屋を出る俺。

 

「あ、祐一」

 

 そしてそんな俺の背にかけられる声。

 

「朝は、おはようございます、だよ」

「……ああ、おはよう、名雪」

 

 笑顔に見惚れていた訳では、断じてない。

 

 

 

 

 さて、俺の仕事はまだ終わらない。もう一人の同居人を起こさねばならないからだ。

 

「オラ起きろ真琴!」

 

 水瀬真琴、もう一人の同居人。

 冬に出会い、辛い別れ経て再び巡り会った少女。誰よりも純粋で、誰よりも無垢で、そのくせ誰よりも負けず嫌いで意地っ張りな少女。

 初めて会ったときは沢渡真琴、そして今は水瀬真琴。身寄りもなく戸籍すらも無かったであろうこいつを養女にするのに、秋子さんがどれだけ苦労をしたことか。

 しかしその甲斐あって秋子さんは水瀬真琴という名の娘を得、俺と名雪は水瀬真琴という名の妹を得、そして真琴自身はずっと待ち望んでいた春の温もりを手に入れたのだ。『家族』という名の、常春の温もりを。

 

「あぅ、祐一おはよ」

「ああ、おはよう、真琴」

 

 姉ほどには寝起きの悪くない真琴だが、それでもやはり朝は弱い。こしこしと右手で目をこする様がまるで幼子のようで、俺は思わず笑みを浮かべていた。

 

「あうー、スケベそうにニヤニヤしてんじゃないわよ!」

「な、なにを言いやがる、この寝ぼすけが」

「ふん、そんなこと言いながら、寝起きの真琴に『よくじょー』してんじゃないの?」

「風呂場のことか?」

「それは浴場! ふん、相変わらず祐一は物知らずね!」

「お前にだけは言われたくない」

 

 ポンポンと小気味よく交わされる憎まれ口の応酬は、だが互いが互いを信頼して信用している証かもしれない。家族というのはそういうものだろう。

 

「じゃあ俺は先に下行ってるからな」

「うん、真琴も着替えたら行く」

 

 俺と真琴と名雪と秋子さん。

 皆、水瀬家の『家族』だった。

 

 

 

 

「はーるがきーたーはーるがきーたー」

「あら真琴、ご機嫌ね」

「えへへ、だってお母さん、やっと春になったんだもん」

「真琴は春が好きだもんね」

「えへへ、お姉ちゃんは好きな季節はいつ?」

「うーん、わたしは冬かな、あっ、でも春も大好きだよ」

「そうだよねそうだよね! ねっねっ、祐一は?」

「春は虫が出るからキライだ」

「えー!」

「祐一祐一、冬は? 冬は?」

「冬は寒いからキライだ」

「ええー!」

「夏は暑いからキライだし、秋は落ち葉で道が汚れるからキライだ」

「好きな季節なんて無いじゃないのよぅ!」

「世の中の全てを嫌っているダーティクールガイだからな」

「ごちそうさま、じゃあ真琴そろそろ行こっか」

「行こ行こ」

「無視すんなコラァ!」

「うふふ、行ってらっしゃい」

 

 水瀬家の朝は、たいそう騒がしいのである。

 そうこうするうちに家を出る時間になり、俺と名雪は高校に、真琴のやつは手伝いをしている保育所にと出かける。

 今日もまた、一日が始まる。

 

 

 

§

 

 

 

 

「祐一、久しぶりに真琴のとこに行ってみようよ」

 

 名雪が俺にそう声をかけてきたのは、放課後のことだった。

 真琴が手伝いをしている保育所は、高校から歩いて二十分ほどのところにある。家に帰るには少々遠回りなため、最近あまり顔を出していなかった。

 今日は悪友の北川でも誘ってゲーセンに行こうかと思っていたが……

 

「ま、それもいいか」

「うん、きっと真琴、喜ぶよ」

 

 まるで我が事のように嬉しそうな名雪と連れ立って、保育所に向かう。

 学校でのこと、家でのこと、楽しそうに話す名雪につられて話をしながら歩いていると、思ったよりも早く着いた。

 

「まだちょっと早いね」

「中に入って待ってようぜ」

 

 何度も顔を出しているから慣れたもんだ。

 

「あっ、名雪ちゃんに祐一くん、いらっしゃい」

「こんにちは、瑞佳さん」

「はいこんにちは、名雪ちゃん」

 

 この人は、真琴の職場の先輩である保母の長森瑞佳さん。長い髪と笑顔が素敵な、大人の女性である。

 

「こんにちは、長森さん、今日も綺麗で……いててっ! てめぇ名雪、何しやが……ごめんなさい」

「うふふふふふふふふふ」

 

 長森さんの大人びた笑みに内心ドキドキしつつ、ポイントを稼ごうとした途端、名雪に背中をつねられた。

 横目で見ると名雪さん、にこやかに笑いつつも目がまったく笑っていませんよ?

 

「うん? どうしたの祐一くん」

「い、いや、別に。あははは」

「それにしても祐一くんと名雪ちゃんはいつも一緒だね、羨ましいな」

「え? えへへ、そんな」

「お似合いだよね」

「そ、そんなことありませんよぅ、えへへ」

 

 くそぅ、憧れの長森さんにそんなことを言われるとは。

 

「あっ、でも祐一くんカッコイイから、名雪ちゃんも大変でしょ」

「え、ええ、まぁ」

「うふふ、私も立候補しちゃおうかな」

 

 な、なんですとっ!

 

「……」

 

 長森さんから見えない位置で、ぎゅうっとつねり上げられる俺の背中。

 

 イタイですイタイです……

 

「あははは、冗談だよ冗談、そんなに睨まないで名雪ちゃん」

「も、もう! からかわないでください!」

「あはは、ごめんね」

 

 ちぇ、冗談なのか……

 あ、痛っ、痛いです名雪さん!

 

「二人とも真琴ちゃんのお迎えだよね」

「はい、真琴、ちゃんとやってますか?」

 

 そう質問するちょっぴり心配そうな名雪。こいつは真琴に対しては甘々のお姉ちゃんだからな。

 

「よくやってくれてるよ」

「よかったぁ」

「うん、私たちとっても助かっちゃってるもん」

 

 どうやらお愛想ではなく、真琴はちゃんとやっているらしい。長森さんの言葉は、本当に助かっているという響きがあった。

 

「へぇ、あの真琴がねぇ……」

 

 昨年の冬、真琴はこの保育所の手伝いをし、そしてそれは一週間も続かなかった。あの頃の真琴は、人との触れ合いを極端に恐れ、誰にも心を開こうとしていなかったからだ。人の温もりを求めていたくせに、手の届かない遠い存在として最初から諦めていたのだ。

 今にして思えば、真琴は怖かったのかもしれない。人との触れ合いを、人から与えられる温もりを誰よりも求めるが故に、それを失ったときのことを誰よりも恐れていたのかもしれない。

 いや、もしかすると、温もりそれ自体を……

 

「ねえ祐一くん、保母さんにとって、一番大切なものは何だと思う?」

 

 俯いた俺を見据え、長森さんが少し真剣な表情で俺にそう尋ねた。

 

「大切なもの?」

 

 質問の意図が掴めず、オウム返しの俺の言葉に頷き、長森さんは無言で答えを促すように頷いた。

 

「何でしょう、面倒見の良さ、とか」

「うん、それももちろん必要だけどね」

 

 肯定の言葉とは裏腹に、彼女の表情はそれが完全な正解ではないことを告げていた。

 とすると何だろう、『優しさ』とかそういう単純なものではないのだろうか。

 横に立つ名雪も俺と同じように首をひねっている。

 そんな俺たちを優しく見据え、長森さんは話し始める。

 

「子供ってね、『自分』と『他人』の境界が曖昧なんだよ」

「え?」

「だから、他人の感情にはとっても敏感なの。私たちが悲しい顔をしてれば子供たちも悲しい顔をするし、私たちが怒っていると子供たちもどこか落ち着かない」

 

 何となく言いたいことは解かる気がするが…… いったい長森さんは何の意図をもって、こんな話を始めたのだろうか。

 

「子供たち、笑ってるでしょ?」

「え?」

 

 長森さんの言葉に、彼女の視線の先を追う。

 そこには、満面の笑みで遊ぶ子供たち。そしてそんな子供たちといっしょになって遊んでいる、真琴。

 

「保母さんに一番大切なのはね、笑顔」

「笑顔……」

「そう、それも表面上のものじゃなく、心からの笑顔」

 

 俺と名雪の視線の先で、本当に楽しそうに笑う子供たち、本当に楽しそうに笑う、真琴。

 

「真琴ちゃんは凄いね」

 

 長森さんの言う『凄い』の意味、なんとなくわかるような気がした。

 

「保母さんだって人間だからね、悲しいときや、寂しいときだってあるんだよ」

 

 でも、子供たちの前ではいつだって笑顔でいなくちゃならない。

 保母というのはなんて過酷な職業なのだろうか。

 悲しいときに笑うのは、寂しいときに笑うのは、とても辛いことなのに。

 

「祐一……」

 

 名雪が俺の腕にそっと触れる。気遣わしげな表情。

 ありがとう名雪、俺は大丈夫だよ。

 言葉には出さず、その手に触れて微笑んだ。

 

 ――俺は、知っている。

 いや、俺だけじゃなく、名雪も、秋子さんも知っている。

 悲しいときに笑う辛さ、寂しいときに笑う辛さを。

 

 真琴が居ない日々、大切な家族の一人が居ない日々。俺たちはいつだって笑顔で過ごしていた、過ごそうと努力していた。

 寂しさも、不安も、苛立ちも。すべてを抑えて、みんなを不安がらせちゃいけないって、気を遣わせちゃ駄目だって。いつだって笑顔で普段と同じように過ごしてきた。

 辛かった。本当に、辛かった。

 

 子供たちと一緒に笑い合う真琴。

 純粋で、無垢で。辛いことや悲しいことをまだ知らない、輝くばかりの笑顔。

 あの笑顔と再び出会うためだったら、俺たちはどんな辛いことにだって耐えられた、耐えてこられた。

 

「ちぇ、なんだよあいつ、人の気も知らないで、バカみたいに笑ってやがって」

 

 心の内を隠した、憎まれ口。

 でも名雪は、幼馴染の少女は、すべてわかっているように微笑んで、俺を優しく見守ってくれていた。

 ちぇ、こいつこういう顔すると秋子さんそっくりだ。

 

「祐一くん?」

 

 事情を知らない長森さんの怪訝そうな声に、何でもないと返し、知らず潤んでしまっていた目をごしごしと擦る。

 

「それにしても真琴のやつ、ああしてるとどっちが保育されているのかわからないっすね」

「あはは、真琴ちゃんに言いつけちゃお」

「げげ、ちょ、ちょっと待った」

 

 俺のヘタクソなごまかしに乗ってくれたのだろう、長森さんが調子を合わせてくれる。

 彼女の柔らかな笑みに暖かくなる俺のこころ。

 

 ……そして、激痛を訴える俺の背中。

 名雪さん、つねらないでください、つねらないでください……

 

「長森さーん、お遊戯終わったよー、って祐一とお姉ちゃん」

 

 そうこうするうちに、真琴のやつがとてとてと走ってきた。約束していたわけでもないのに揃って迎えに来た俺たちを見て、目を丸くしている。

 

「ご苦労さま、じゃあ終わりの会にしよう」

「はーい」

「祐一くんと名雪ちゃんはもうちょっと待っててね」

「ういっす」

「はい」

 

 長森さんの優しい笑み、そして真琴の本当に楽しそうな笑顔。このふたりが受け持つ子供たちもまた、心からの笑みを浮かべているように見えた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「うふふ、真琴、ご機嫌だね」

「祐一とお姉ちゃんが迎えに来てくれるの、久しぶりなんだもん」

 

 帰り道、迎えに来てもらったことがよほど嬉しいのか、真琴はいつも以上に落ち着きがない。並んで歩く俺と名雪を追い越したかと思えば、くるりと振り返ってそのまま後ろ向きに歩いたり、かと思えば名雪の腕にぶら下がるように歩いてみたり。

 

「前見て歩かないと転ぶぞ」

「うっさい、子どもあつかいしないでよね!」

「どこをどう見てもガキじゃねーか」

「そういうこと言うのはこの口かー!」

「いででで!」

「あははは、真琴も祐一も、危ないよ」

 

 さほど近いわけでもない帰り道、だけど三人でじゃれあって帰ればあっという間だった。

 

「ただいまー」

「おかえりなさい、あら今日は三人一緒だったのね」

「お母さん、晩御飯の用意手伝うね」

「あー真琴も真琴もー」

「やめとけ、この前みたいになりたいのか」

「あ、あぅ、あれは……」

「あはは、今度は大丈夫だよね真琴。一緒にお手伝いしよ?」

「うんうん!」

 

 苦笑しながら助け舟を出す名雪。いまさら言うまでもないことだが、基本的にこいつは妹には甘々だ。

 なし崩し的に俺も手伝うことになり(とはいえ俺にできるのは皿を並べるくらいだが)そのまま夕食。

 学校でのできごと、保育所でのできごと、からかえばすぐムキになる真琴を苦笑交じりに名雪がなだめ、そんな俺たちを秋子さんが笑いながら見守る。

 いつもどおりの、水瀬家の食事風景だった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「ちょっと食い過ぎたな」

 

 ベッドに寝転がり、膨れた腹を撫でる。秋子さんは料理が上手いからな、油断すると食べ過ぎちまう。

 

「食べてすぐ寝ると馬になるわよ」

 

 いや牛だろ。

 というかなんで真琴が俺の部屋に当たり前のように居るのか。

 

「真琴がどこに居ようと真琴の勝手でしょー」

 

 カラスの勝手でしょーという歌があったよな、などと満腹で回転の鈍くなった脳でぼんやりと考えつつ、適当に受け答えする。真琴も何をするでもなく、ぼんやりと床に座っていた。

 互いが互いを常に意識しているわけでもなく、かといって無視しているわけでもない。互いが同じ空間に存在することが自然に思える関係。

 こういうのってなんかいいよな。

 

「やっと春になったねー」

「あー」

「あったかいねー」

「あー」

 

 ……ただダラけているだけかもしれんが。

 

「もうちょっとあったかくなったらさー」

「あー」

「もうちょっとあったかくなったら、みんなでピクニックに行こうよ」

「あー?」

 

 いきなり何を言い出すのかと、ベッドで寝転んだままちらりと真琴に目を向ける。

 真琴はベッドに背をつけ、どこか遠いところを見ているかのようにぼんやりと宙を見ていた。

 

「……丘に」

 

 そして、ぼんやりとしたまま、呟くように言った。

 

「あの丘に、みんなで行こう」

 

 その言葉に、俺はベッドから跳ね起きる。

 

 あの丘。

 

 真琴がどこのことを言っているのか、俺には予測がついた。

 それは、真琴の口から出るにはもっともふさわしい場所であり、同時に、もっともふさわしくない場所。

 

「ものみの丘……か?」

 

 俺の声は、震えていたかもしれない。

 

「うん、真琴と祐一が、初めて会った場所」

「真琴お前、まさか……」

「そして、お別れした場所」

 

 それっきり、俺は何も聞けなくなった。

 こいつは、真琴は、覚えているのだろうか。

 

 すべてを…… 覚えているのだろうか。

 

 

 俺と真琴が初めて出会った場所は、この街で一番見晴らしのいい、小高い丘だった。

 ものみの丘、と、この街の人はその場所をそう呼んでいた。

 その場所で俺は『真琴』に出会ったのだ。

 

 『真琴』と後に俺が名付けた仔狐に、俺はその場所で出会ったのだ。

 

 もう十年以上前の話だ。その頃の俺は、長期休みのたびにこの街に遊びに来ていた。

 怪我をしていた仔狐を、俺はこっそりと水瀬家に連れて帰り、手当てをした。そして怪我がよくなるまでいっしょに暮らした。しばらくして怪我が完治したその仔狐を、俺は丘に帰し、そして休みが終わり俺はこの街を去った。

 たったそれだけの昔話。たったそれだけの、どこにでもあるような昔話だったのだ。

 

 だけど狐は。

 人の温もりというものを知ってしまった狐は、それから八年も後になって、再びこの街を訪れた俺に、逢いに来た。

 

 人の姿を伴って。

 すべての記憶を失って。

 

 ものみが丘の妖狐。

 おとぎ話の中だけの存在。

 人の温もりを求め、すべての記憶と、己が生命のすべてを投げ出して、ただひとたびの奇跡を起こす存在。

 

 真琴が、その妖狐だったのかはわからない。

 だが奇跡が終わり、一度は俺たちの前から消えてしまったこいつは、戻ってきた。再び俺たち家族のもとに戻ってきたのだ。

 

 そのときのこいつは、俺たちのことを覚えていた。

 まさか、すべてを覚えていたのか。

 自分が人ではなかったこと。

 ただひとたびの奇跡の代償に、一度はすべてを失ったこと。

 こいつは、覚えていたというのか。

 

「真琴、お前……」

「なーに泣きそうな顔してんのよ! 似合わないわよっ!」

 

 こいつは――なんて顔で笑うんだろう。

 

 怒り、拗ね、泣き、笑う。

 真琴は驚くほど表情の豊かな娘だ。

 だけど、こいつのことを思い浮かべるとき、俺はいつだって笑顔を思い浮かべる。

 いつだって笑顔。真琴は、そういう娘だった。

 

 俺は勘違いしていたのかもな。

 ふと、思う。

 保育所で、長森さんが真琴の笑顔を凄いと言ったとき。俺は、その笑顔は真実を知らないものが見せる、無垢で純粋な笑いだと思っていた。

 だけどこいつはすべてを知っていて。

 それでも真琴は、笑顔なのだ。すべてを知って、すべてを受け入れて、すべてを乗り越えた笑顔。

 こいつは、なんて強い娘なんだろう。

 なんて凄いやつなんだろう。

 

「行こうな、ピクニック」

「え?」

「みんなで行こうぜ、弁当でも持ってさ」

 

 本当のところは、わからない。

 真琴がすべてを覚えているのか、どうなのか。

 だけどそんなこと、今の俺たち家族にはどうだっていいことだ。

 

 真琴がいて、俺がいて、名雪がいて、秋子さんがいる。

 それで、いいじゃないか。

 

「うん! 行こっ!」

 

 

 そう言った真琴は。

 普段どおりの、輝くような笑顔だった。

 

 

 

 いつだって笑顔!  了

 

 

 

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