「ねこー、ねこー」
ジリ、ジリ、ジリ
「お、おい、名雪、落ち着け」
「う、うなー」
「ねこー、ねこー」
ジリ、ジリ、ジリ
「は、話を聞け」
「う、うなー」
「ねーこー」
ジリ、ジリ、ジリ
「だから話を……」
「う、うなー」
「ねこーー!!」
がばぁ!
「うおぁ!」
ゴン!
「げふっ!」
「きゅぅ……」
「ふにゃ!」
ガチャ
「ただいまぁー!」
「ただいま」
「ふにゃー!」
「あ、ぴろ、ただいまぁ」
「真琴、買い物したもの冷蔵庫に入れるから、手伝ってちょうだい」
「はーい、おかーさん」
「ふにゃっ! ふにゃっ!」
「ん? どうしたの?」
「ふにゃん!」
「あっ、ぴろ、どこいくのー」
とたとたとた
「わっ! お、お、おかーさーん!」
「あらあら、どうしたの真琴」
「祐一とおねーちゃんが……」
「え?」
「抱き合って寝てるっ!」
「あらあら」
「ふ、ふ、ふ、ふ……」
「真琴?」
「ふけつーー!!」
家族
−てのひらを太陽に−
前編
2001/10/03 久慈光樹
「痛てて……」
氷嚢を額に当てる。
ちくしょう、見事にこぶができてやがる。
あの後、気がついた俺はガンガンする頭を抱えてしばらく動けなかった。
横で「ふけつっ!」だの「けだものっ!」だの騒ぎ立てる真琴を無視して状況の把握に努める。
どうやら、ぴろを見て“ねこトランス状態”になった名雪のダイビングヘッドバットを頭部に食らい、撃沈したらしい。
名雪も同じく撃沈した模様。
一人難を逃れたぴろが不思議そうに鳴く声を遠くに聞きながら、俺と名雪は仲良く折り重なって失神したというわけだ。
「うー、あたまいたい……」
同じく頭に氷嚢を当てて唸る名雪。
「それはこっちの台詞だ」
「祐一がねこさんと遊ぶのを邪魔するからだよ」
「なにぃ、俺のせいだって言うのか?」
「極悪人だよ」
ぷーっ、と頬を膨らませて上目使いにこちらを睨む名雪。
俺か? 俺が悪いのか?
「祐一のけだものぉ!」
「祐一の極悪人っ!」
こ、こいつら……。
ちなみにぴろのやつは身の危険を感じたのだろう、真琴の部屋に遁走している。
名雪の地獄の抱擁から身を呈して救ってやったというのに、なんて薄情なヤツだ。
「ちょっと待て、仮に、仮にだ、百歩譲って名雪にとっては極悪人だとしよう。でもなぜに“けだもの”?」
「だ、だって名雪おねーちゃんと抱き合って寝てたじゃないのよぅ!」
真っ赤になって真琴。
ちなみにあれは寝てたのではなく失神していたと言う。
「わっ、わっ、べ、別に抱き合ってたわけじゃないよ」
こちらも真っ赤になって名雪。
むしろ死屍累々って感じだったと思うぞ。
「うー」
事情を話したにも関わらず、真琴は不満げだ。
何が気に入らないのやら。
「うふふ、真琴はやきもちを焼いているのよ」
「お、おかーさん!」
「あらあら」
秋子さんは笑いながら手に持ったお盆から人数分のジュースを置き、台所へ去ってゆく。
ありゃあ絶対に真琴をからかって面白がっているな。
「むうー」
「うふふ、いいじゃない、真琴はたまに祐一と一緒に寝てるんだから」
「おおおおおねえちゃん!」
「あははは♪」
むぅ、ばれてるし。
まぁなんだ、ありゃあ娘に添い寝してやる父親みたいなもんだ。
もはや完熟トマトのようになった真琴と、楽しそうに笑う名雪。相変わらず仲のいい姉妹だよ、お前らは。
「こらぁ! 祐一もニヤニヤしてないで何とか言いなさいよぅ!」
「そうだなぁ、この真夏にしがみつかれると寝苦しくてかなわん」
「だ、だ、だれがそんなことを言えといったぁ!」
「……祐一、それホント?」
うっ! 名雪さん、目が怖いっす。
な、何がいけなかったんだ? やっぱり“しがみつかれる”のあたりか?
真琴と名雪の怒りの矛先は、完全に俺に向いてしまったようだ。
秋子さんは台所からそんな俺たちを笑いながら見ている。
夏休みももう終わりに近づいた一日。
そんないつもの水瀬家の風景だった。
「ゆーいちぃー、起きてるー?」
そう言って真琴がぴろを抱えて俺の部屋に入ってきたのは、晩御飯を終え風呂に入り、そろそろ寝ようかと思い始めたころだった。
「ノックしろってもう二千回は言っている気するぞ」
「あ、起きてる」
無視かい。
「うーんとね、ぴろがね、また、祐一と、その…… 寝たいって言うから、その……」
毎回毎回ぴろをダシに使う真琴だ。
そのくせ毎回真っ赤になっている。さぞや血行もいいことだろう。
「あー、わかったわかった。 ほれ」
俺ももう慣れっこだ。そう言って身体をずらし、ベッドを半分空けてやる。
「うんっ!」
「うにゃん」
嬉しそうな顔しやがってよ。
ぴろも礼のつもりか一声鳴いて真琴の枕元に丸くなる。
「じゃあ電気消すぞー」
「はーい」
「うなー」
「……」
「……」
「ねえ祐一ぃ」
「おわっ!」
「な、なによぅ」
「いや、もう寝たかと思ってたから」
「ふんだ、まだ起きてるよー」
「ガキは早く寝るもんだ」
「真琴ガキじゃない!」
「あー、わかったわかった、で? 何だよ?」
「うん、あのね……」
「何だよ」
「あのね、祐一はさ、今さ、幸せ?」
「あーん?」
「ねえ、幸せ?」
「そうだなぁ……」
幸せ、か。
幸せの定義なんてわからない。
他人から見て幸せそうであったとしても、当人にとってはそうじゃない事もあるだろう。
逆もまた然り。
百人いれば百通りの幸せがあり、千人いれば千通りの幸せの形がある。
「真琴はどうなんだよ、今、幸せか?」
「真琴ー? 真琴はねー、しあわせだよー」
眠くなってきたのだろう、段々と声が小さくなっていく。
「真琴がいてー、ゆーいちがいてねー、おかーさんがいてー、おねーちゃんがいてー」
見ると目を閉じて今にも眠ってしまいそうだ。
それでも呟くように、続ける。
「そんでもってー、ぴろもいてー…… だからねー、まことはしあわせー……」
「そっか、真琴は幸せか」
「んー…… ずーとずーーといっしょにねー…… いられたらいーな……」
「そうだな、ずっと一緒だ、俺たちは」
隣からは規則正しい寝息。どうやら完全に寝入ってしまったらしい。
だが構わず続ける。
「俺もな、真琴、俺も今、幸せだと思うよ」
「幸せの定義なんてあいまいで、分からないけれどな」
「俺たちみんな一緒なら、きっといつまでも幸せなんだよ、きっと……」
「きっと……」
そのまま俺も眠りに落ちていく。
そうさ、俺たちはいつまでもいっしょさ。
いつまでも……。
翌朝、なんと俺と真琴は名雪に起こされた。
「朝だよー、朝ご飯食べるよー」
「むー、名雪が俺より先に起きている……」
「ほらほら、起きて起きて」
「……夢か」
「わっ、また寝なおさないで。しかもすごく失礼な事言ってるよ」
「うー、ねむいー」
「ほらほら、真琴も起きて起きて」
「はーい」
真琴も割と朝弱い方ではあるが、寝起き自体はさほど悪くない。
しょうがない、俺も起きるか。
どうやらぴろはいち早く起き出して避難した模様。おかげで朝から阿鼻叫喚の地獄絵図の展開は免れたというわけだ。
「真琴着替えてくるね」
「祐一もほら、着替えて朝ご飯食べるよ」
「わかったわかった」
水瀬家の誇る総天然寝ボケ娘の名雪だが、ごくまれに早起きする事もある。どうやら今日がその日だったらしい。
「うー、わたし総天然寝ボケ娘じゃないよ」
「どこからどう見ても天然だ、色々な意味でな」
それと地の文を読むのはヤメロ。
「うー」
「ほれ、着替えるから出てけ。それとも俺の着替えが見たいのか?」
「わっ、わっ、なに言ってるのー、祐一のスケベ!」
頬を染めて慌てて部屋から出て行く名雪。なぜ見られる側がスケベなんだ?
そんな事を考えながら着替えを終えて、部屋を出ようとした時だった。
「祐一、祐一!」
部屋に戻ったはずの真琴が、えらい勢いで飛びこんできた。
「どうした真琴、血相変えて」
「ぴろが、ぴろがっ!」
ただならぬその様子に、俺は後について真琴の部屋に駆け込む。
ぴろは部屋の隅っこに横たわっていた。
「ぴろっ!」
真琴の声に反応し、力なく頭を起こす。
そして、そのまま嘔吐した。
恐らく何度も嘔吐したのだろう、よく見ると周りには吐捨物が散乱していた。
「ぴろっ、ぴろー」
「お、おい、こりゃまずいぞ、秋子さん呼んで来い」
以前のように腹を壊しただけとは違う。嘔吐するとなるとかなり深刻な状態なのではないだろうか。
「う、うん」
とりあえずやる事ができて少しは落ち着いたのだろう、真琴は転げるように部屋を出ると階段を駆け下りていった。
「おいぴろ、しっかりしろ」
俺はぐったりするぴろに手を触れ、その体温の高さに驚く。
これは…… 熱があるんじゃないだろうか。
やがて真琴が秋子さんを連れてきた。名雪も一緒だ。
幸い今日は平日だ、だがまだ時間帯的に動物病院は開いていないだろう。
とりあえず厚めのタオルを何枚かぴろに巻いてやる。がたがたと震えていたからだ。やはり熱があるらしい。
名雪も流石に非常時だと自覚しているのだろう、秋子さんの指示にしたがってテキパキと動く。
そして真琴がそのままぴろを抱えて、とりあえず1階に降りた。
秋子さんが獣医に心当たりがあるという事だったからだ。彼女の広い交友関係がこういうときにはありがたかった。
「ぴろ、しっかりしてよぉ、ぴろぉ」
「大丈夫、きっと大丈夫だから」
半泣きの真琴を名雪が元気付ける。
「今から行っていいそうです、さ、真琴、ぴろちゃんを連れていきましょう」
「う、うん」
「わたしも行くよ」
「俺も行きます」
「分かりました、じゃあ行きましょう、そんなに遠くじゃないわ」
その言葉通り、さほど遠くない場所にその動物病院はあった。
俺たちは朝早くから押しかけた事を詫び、すぐにぴろを見てもらう。
そして待つ事しばし。
「猫バルボ?」
秋子さんも初めて聞く病名だったのだろう、それが、ぴろの病名だった。
正確には『猫汎白血球減少症』という病気らしい。
獣医の先生によると、ウイルスにより感染する病気で、いわば人間で言うところの白血病だということだった。
「は、白血病って……」
名雪が絶句する。
人間で言えば白血病は大病だ、命を落とす危険性も高い。
そして…… それは猫も同様なのだそうだ。
「ぴろ、死んじゃうの……?」
「ばかっ! そんなわけあるかっ!」
真琴の弱気を叱り飛ばすように言った俺だったが、今はなんとも言えない状態だという。
一週間。
一週間持ちこたえる事ができれば、大丈夫らしい。
初期の高熱は2日もすれば平熱にさがるが、その後も嘔吐は続き、後はそれまでに消耗した体力とウイルスの毒素の勝負になるということだった。
熱が引くまでの2日間、ぴろは入院する事になった。その後は自宅での療養になる。
「真琴、後は獣医の先生にお任せしましょう」
「うっ、うっ、ぴろ、ぴろぉ」
「大丈夫だよ、真琴。ぴろちゃんはきっと大丈夫だよ」
「そうさ、ぴろは今病気と戦ってるんだ、お前が泣いていてどうする」
「うっ、うん、うん……」
「それでは先生、よろしくお願い致します」
俺たちは重苦しい雰囲気のまま、動物病院を後にした。
真琴はずっと、泣いていた。
それから2日後、ぴろは退院した。
高熱は下がったが、それでもぴろはぐったりと元気が無かった。
食事も少ししかとらないし、食べてもすぐに吐いてしまうのだ。
真琴はずっとつきっきりで看病している。
あの朝以来、俺たちは真琴が笑っているところを見た事が無かった。
「真琴、少しは休め。お前の方が倒れちまうぞ」
「真琴は大丈夫だよ」
「ダメよ、ここのところあんまり寝ていないのでしょう?」
「お母さんの言う通りだよ、わたしたちが交代でぴろちゃんについててあげるから」
「みんなありがと、でも大丈夫だよ」
俺たちの再三の説得にも、真琴は応じなかった。
家の雰囲気は重い。
今更ながら、ぴろも水瀬家の一員なのだということを痛感した。
「祐一、ぴろちゃん大丈夫だよね?」
名雪も不安そうだ。
「ああ、絶対に大丈夫に決まってる」
俺とて不安な事に変わりはない。
俺と真琴と名雪と秋子さん、そしてぴろ。誰が欠けてもダメなんだ、水瀬家はこの4人と1匹で水瀬家なんだ。
ずっといっしょだって誓ったばかりじゃないか。
絶対に大丈夫、大丈夫に決まってる。
そんな。
そんな俺の言葉が、いかに根拠のないものだったか。
現実がいかに厳しく、そして冷たいものだったか。
思い知らされたのは、それから3日後のことだった。