かぞく[家族]
夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。
社会構成の基礎単位。
(岩波書店 広辞苑 第四版より抜粋)
家族
−家族の定義−
後編
2000/12/03 久慈光樹
そして翌日。
「あぅー、す、涼しい」
「極楽だよ」
「うむ」
遂に直った水瀬家のクーラーは、俺たちを灼熱地獄からパラダイスへと導いてくれた。
「よかったわ、これでやっと涼しくなるわね」
『全然暑がって無かったくせに……』
秋子さんへのツッコミは、恐らく3人の中で見事にハモっていただろう。
あの後、俺はいつも通りだった。
真琴は当然としても、名雪も、そして秋子さんですら普段の俺と同じだと感じているに違いなかった。
考えを内に溜め込んでしまうのは、なにも今に始まった事じゃない。
我ながら損な性格だとは思うが、17年間かけて培った性格が急に変わるわけでは無し、もうあきらめた。
家族になるとは何か?
家族で居続けるとはどういうことか?
未だ明確な解答は出せていない。
「冗談よ」
そう言ってその場を去った香里は、その後一度もそのことを話題にしなかった。
だが、その問いは絶えず俺の中で木霊しており、恐らくは香里もそうなのだろう。
「そろそろ支度しなくてもいいの?」
「あ、そうだった。真琴、用意してこよ?」
「うんっ! ほら、祐一も早く用意しなさいよね!」
「わかったわかった」
今日は午後からプールに行くことになっていた。
やきもちを焼いた真琴と名雪をなだめるために、俺が言い出した事だ。
一旦拗ねてしまうと扱いが難しい2人だったが、3人でどこかに遊びに出るような提案をすれば、すぐに機嫌を直す。
まったく似たもの同士の姉妹だった。
「しかしお前、あれから泳げるようになったのかよ」
「うっ」
やや引く真琴。
対して名雪はちょっぴり得意げだ。
「大丈夫、真琴もすぐに泳げるようになるよ」
「ううー、おねーちゃんだけ泳げるようになってズルイ」
「ふっふっふー」
ますます得意げな名雪。姉の面目躍如といったところか。
だが同じレベルで張り合ってる時点でダメダメのような気がするのだが。
「うー、こうなったら祐一! 今日は特訓だからね!」
「あーん? そう言っていつもすぐに音を上げるのはどこの誰だったかなぁー?」
「うっ、き、今日はばっちしよぅ!」
何が“ばっちし”なのかはわからんが、気合だけは十分のようだ。
「今日こそは、バタ足をますたーするのよっ! ますたーおぶバタ足!」
「あー、わかったから用意して来い」
「軽く流すなぁ!」
「あはは、ほら、祐一も早く用意して」
「しょうがねぇな」
わめく真琴とそれをからかう俺、苦笑しながら仲裁する名雪、そして始終笑顔で俺たちのやり取りを見守っている秋子さん。
ありふれた日常の一コマにさえ、こんなにも暖かな“家族”を感じるというのに。
答えは、出ないのだ。
「ぷーる♪ ぷーる♪」
隣の部屋から、真琴の歌う“ぷーるの歌”が聞こえてくる。
まったく、静かに用意できんのかあいつは。
苦笑しつつ、水着やタオルを詰めた袋の口を閉じる。男の用意なんぞ早いもんだ。
「水着の〜、真琴は〜♪ せくしーだいなまいつー♪」
「ウソをつくな!」
いかんいかん、思わずツッコミをいれてしまった。
「しかしまぁ、プールごときで何があんなに楽しいのかねぇ」
口に出してみるが、それは正直な言葉ではない。
俺は知っているのだ。
真琴と名雪が楽しみにしているのは、プールに行くということではなく、俺たち3人で行くという行為自体なのだと。
それくらいはわかる。
だって、俺自身そう感じているのだから。
家族になるとは何か?
家族で居続けるとはどういうことか?
家族の定義。
俺や真琴や名雪が、恐らく感覚で知っているもの。
だが改めて問われれば、これほど曖昧なものはない。
それは単純で、でもだからこそ最も難解だ。
「祐一ぃー、用意できたぁ?」
バンッ と扉が壊れるのではないかと心配するほどの勢いで、戸を開け放つ真琴。
「まったく、ノックしろって何度言ったら分かるんだ、お前は」
「……」
いつもならすかさず憎まれ口が帰ってくるのだが、真琴は俺の顔を一目見るやいなや、叫びかけた憎まれ口を飲み込んだ。
そして、後ろ手に扉を閉めると、なにやら泣きそうな顔をして俺の前にちょこんと腰を下ろす。
「あん? どうしたんだお前」
「祐一、あの、さ」
ん? どうしたんだ一体。
「あの、さ」
「どうかしたのか?」
「うん……」
どうにも要領を得ない。
だが、俺は急かすことなく待つ。
「あのね、祐一、あのね」
やがて意を決したように、それでも躊躇いがちに話し始める真琴。上目遣いに俺を見るその目は、不安げに揺れていた。
「祐一、この間から少し、おかしいよ」
「えっ!?」
「この間、栞や香里の家に行ってから、なんか変だよ」
不安げに語る真琴。
誰にも気付かれていないと思っていた。だが、真琴は漠然とした不安を感じていたのだろう。
「名雪おねーちゃんも、多分気付いてる」
「そうか……」
となれば、秋子さんが気付かないはずはない。
気付かれていないと、いつもと同じように振舞えていると思っていたのは俺一人で、結局は皆に心配をかけてしまっていたのだろう。
「ごめんな、真琴」
なるべく優しい声でそう言い、頭をなでてやる。
「ううん、いいけどさ」
「でも、何でもないんだよ」
気持ちよさそうになでられるままになっていた真琴、だが俺のその言葉を聞いたとたん、なでる俺の手を振り払った。
「お、おい、真琴」
「祐一! 真琴のことが信用できないのっ!?」
「え?」
「真琴になんか話しても仕方ないって思ってるの!?」
その様子に、まだこいつが帰ってくる前の、秋子さんに叱られた記憶が重なる。
俺は、あの時初めて秋子さんにはたかれた。
その時にはたかれた頬が、そして未だ傷の残る右拳が、ちくりと痛んだ。
「……祐一さん。あなたは私達の何ですか?」
ああ、俺はまた同じ過ちを繰り返すところだった。
「ごめん」
「……」
「ごめんな、真琴」
「わ、分かればいいのよ」
ちょっぴり涙目になって、そっぽを向き答える真琴。
ふふ、お前が涙目になることはないだろうに。
しばらくは無言で、頭をなで続ける。
やがて、真琴の口から、はっきりと問いかけが発せられた。
「祐一、何か、あったの?」
『真琴はなんて答えるだろうか?』
ふと、興味が沸いた。
もっとも、今更ごまかしたり嘘を言うつもりなど毛頭なかったが。
「あのな」
「うん」
神妙な顔つきでじっと待つ真琴に、思わず笑みが漏れる。
「うー、笑ってないで早く言いなさいよぅ!」
「はは、わかったわかった」
幾分気が楽になり、まるで世間話でもするように切り出す事ができた。
「真琴、俺たちって家族だよな」
「はぁ? そんなこと当たり前じゃないのよぅ」
そうだな、そんなことは当たり前だ。
「じゃあさ、家族って何だろう?」
「え?」
「真琴がこの家に来る前は、俺たち別に家族じゃなかったよな」
「う、うん」
「だけど、今は家族だ。誰がなんと言おうとな」
「うん、うん!」
嬉しそうな真琴。
俺は一旦言葉を切り、そして続けた。核心となるその言葉を。
「家族になるって何だ? そして、家族で居続けるってどういうことだ?」
その言葉を聞いた真琴は、しばらくきょとんとしていたが、やがてため息をついてこう言った。
「はぁ、相変わらず祐一はバカね」
「は?」
思わず間抜けな声を上げてしまう。
こいつ、本当に意味わかってるのか?
「あのな、真琴、俺は別にふざけて……」
「そんなこと分かってるわよ。 はぁ、こんな単純な事で悩んでたなんて…… 心配した真琴たちがバカみたい!」
「なにをぉ。じゃあお前は分かるのかよ?」
「簡単なことじゃないの」
無意味に無い胸を張る。
ふん、どうせこいつのことだ、どんなキテレツな答えが帰ってくる事やら。
「真琴はね、おかーさんのことも名雪おねーちゃんのことも、……ついでに祐一のことも大好きなんだから!」
「俺はついでかよ……」
しかも全く解答になっていない。
意味不明だ。
だが、続きがあった。
「それでいいじゃないの」
「は?」
「お互いがお互いを大好きで、大切に思ってるなら、それでいいじゃないの」
「家族って、きっとそういうもんよ」
「ぷっ…… くくく……」
「な、なによぅ!」
ダメだ、こみ上げてくる笑いを抑えきれない。
「あはははははっ!!」
「わ、笑うことないじゃないのよぅ!!」
「だって、お前、くく…… これが、笑わずに、くくく、いられるかよ。 あははははっ!」
「あぅーっ」
可笑しい。
可笑しすぎる。
自分のバカさ加減が、だ。
俺は何てバカだったんだろう。
そうだ。
真琴の言う通りだ。
単純なことだったんだ。
俺がぐだぐだと難しく考えていることなんて、本当はもっと単純で簡単な事だったんだ。
お互いがお互いを大切に想っているから家族
お互いを大好きだから家族
家族で居続けるには、ずっと大好きであり続ければいい。
それでいいんだ。
家族の定義なんて、本当はそんな簡単なことなんだ。
「もう! 祐一なんて知らない!!」
「ははは、悪い悪い」
真琴の頭をぐりぐりとなでながら言う。
「あぅー、やめてよー」
嫌そうに顔を顰め、でもちょっぴり気持ちよさそうに、文句を言う真琴。
「真琴の言う通りだな」
「え? う、うん。あったりまえでしょ!」
「ありがとう、真琴」
「な、何よ突然……」
「ありがとう」
俺が素直にそう言うと、真琴は真っ赤になって目を逸らし、そのままぷぃっと横を向く。
くくく、照れてやがる。
「わ、分かればいいのよ、分かれば」
真琴の言う、家族の定義。
明日、香里に伝えてやろう。
香里はどんな顔をするだろう。
あいつも感情よりも理論を優先するタイプだからな。
ひょっとしたら怒り出すかもしれない。それとも、案外今の俺みたいに簡単に納得してしまうのかも。
恐らくは後者であろう事を確信しつつ、俺は真琴の頭をなでつづけた。
「あぅー、そんなになでて、ハゲたらどうするのよー!」
「ゆーいちー、まことー、早くしないと置いてっちゃうよーっ!」
一向に降りてこない俺たちに痺れを切らしたのだろう、名雪が一階から呼んでいる。
「よし、行くか!」
「うん!」
今日も暑い。
きっとプールに行けば気持ちがいいに違いない。
夏は、まだまだ続きそうだった。