家族

Another Story

−偽り−

<後編>

1999/10/10 久慈光樹


 

 

 

やめろおおおおおおおぉぉぉっ!!

がしゃぁぁんっ!!

 

 

 一階からの突然の叫びと共に、何かが激しく壊れるような音が響いた。

 その音に名雪は目を覚まし、慌てて一階の洗面所に駆け込んだ。

 

「祐一!!」

 

 多分備え付けの鏡を殴りつけたのだろう。右手の拳から真っ赤な血を流し、まるで痛みを感じていないかのような空ろな瞳で視線を空にさまよわせる祐一がそこにいた。

 

「祐一!!」

 

 もう一度強く名前を呼んで肩をつかむと、祐一はびくりと肩を振るわせ、ゆっくりとその瞳を名雪に向けた。

 

「あっ……」

「祐一ぃ……」

 

 名雪は、祐一の瞳の奥にある悲しみと、そしてわずかな脅えに居たたまれなくなって、彼の胸にすがり付いて涙を流した。

 

「名雪……?」

「ゆういち、ゆういちぃ……」

「どうしたんだ、名雪。ああ、悪かった、驚かせちまったな。俺は大丈夫だから、大丈夫だからもう泣くな」

 

 そう言って、泣きじゃくる名雪の頭をなでる祐一からの瞳からは、先ほど見えた悲しみも、そして脅えも何も見て取ることはできない。

 ただ空ろな、何も映さないガラス玉のような瞳で名雪を見ている。

 

 いったい何が起きたのか、名雪には分からなかった。

 

 いや、本当は分かっていたのかもしれない。

 

「大丈夫、俺は大丈夫だよ。俺は強いんだから。こんなにも強いんだから」

 

 

 違う。

 祐一は、祐一は自分を騙しているだけなんだ。

 本当は、本当は祐一はわたしが思っていたほど強くないんだ。

 誰よりも真琴のことが好きで。

 だからきっと誰よりも不安で。

 でもわたし達に、そして誰より真琴に心配かけないように、強く生きている自分を演じて。

 いつだって明るく陽気な自分を演じて。

 そして、自分を追い詰めて。

 

 ごめんね。ごめんね祐一。

 気付いてあげられなくて。

 励ましてあげられなくて。

 あの時と一緒だね。

 7年前のあの時と。

 

「ごめんね。ごめんね祐一、ごめんね……」

「大丈夫、俺は大丈夫だよ」

 

 まるでうわごとのように繰り返し泣きじゃくる名雪を、同じようにうわごとのように慰める祐一。

 いつの間に下りてきたのか、そんな二人に秋子が声をかけた。

 

「祐一さん、名雪」

「秋子さん……」

 

 この洗面所の惨状を見てもまったく動揺した様子が無い。

 

 

 やっぱり秋子さんはマイペースだな。

 

 俺の脳裏にそんな場違いの考えが浮かぶ。

 思考がうまくまとまらない。

 頭がぼんやりする。

 それでも俺の口は勝手に言葉を吐き出しつづける。

 

「すみません、秋子さん。夜中にお騒がせして。でも俺は大丈夫ですから」

 

 俺のその言葉を聞いた秋子さんの顔が、心なし引き締められたように思った瞬間。

 秋子さんの振り上げた平手が、俺の頬に振り下ろされた。

 

 パシン!

 

「お母さん!?」

 

 驚いた名雪が俺の胸から顔を上げ、秋子さんの顔を見る。

 俺もはたかれた頬の痛みを自覚することさえ忘れて、秋子さんの顔を見ていた。

 秋子さんは、はたかれた俺よりも辛く苦しそうな表情をしていた。

 

「……祐一さん。あなたは私達の何ですか?」

「……」

「私達はあなたの何ですか?」

「……」

「真琴がこの家から居なくなって、あなたがずっと苦しんでいたことは知っていました。たとえあなたが普段と変わりの無い様子を演じていても」

「え……?」

 

 俺はその言葉に、伏せてしまった顔を上げ、再び秋子さんを見つめた。

 秋子さんは、相変わらず辛そうな、そして今にも泣き出してしまうような、そんな顔をしていた。

 俺の始めてみる表情だった。

 

「朝言ったでしょう? 母親は自分の子供のことは何でもお見通しだって。名雪も、真琴も、そしてもちろん祐一さんも。 私の大切な子供なの」

「秋子さん……」

「だから私には分かるわ、真琴はきっと帰ってくるって。大好きな家族の居るこの家に帰ってくるって。それなのに肝心の私達がそれを信じてあげなくてどうするの」

「でも、でも秋子さん。俺は、俺は……」

 

 今まで心の奥底に、自分でも気付かないくらい深いところに押し込めていた感情がせきを切ったように溢れ出してくる。

 

 不安、戸惑い、絶望。

 無意識のうちに心の奥底に閉じ込めていた想い。

 暗く、汚く。

 他人には絶対に知られたくないような、だからこそ決して表には出さない、俺の汚い部分。

 ガキのように顔をぐしゃぐしゃにしながら、俺は秋子さんに自分の感情をぶつける。

 

「俺は、真琴が帰ってこないことが、真琴と会えないことが悲しい……。

 悲しいんだけど、ほんとは違うんだ……。

 ほんとはそれだけじゃなくて……。

 自分が辛い想いをするのが嫌なんだ……。

 これ以上悲しい想いをするのが嫌なだけなんだ……。

 だから自分を騙して、名雪を騙して、秋子さんを騙して。

 真琴は絶対に帰ってくるんだ、だからそれまで悲しいのを我慢すれば楽になれるんだ…… って

 そうやって自分のこと慰めて。

 自分のことだけ考えて。

 そんなずるい人間なんだ。

 ぼくは……」

 

 そして何かにすがるように、助けを求めるように秋子さんに問い掛ける。

 

「ねえ、秋子さん、真琴、帰ってくるのかなぁ。

 本当にぼく達のところに帰ってくるのかなぁ。

 ぼくはそれまで我慢すればいいのかなぁ。

 でもだめだよ……。

 みんなこんなぼくは嫌いなんだ……。

 みんなが知っているぼくは。

 明るくて、陽気で。

 そんな相沢祐一なんだ……。

 でも、でも違うんだ。

 そんなぼくは偽りのぼくなんだ。

 ほんとのぼくはこんなにもずるくて。

 身勝手で。

 自分のことしか考えていない。

 だから……。

 だからこんなぼくはみんな嫌いなんだ!!

 真琴だってこんなぼくのところになんか帰ってこないんだ!!!」

 

 泣きじゃくりそう叫ぶ祐一を、名雪はずっと泣き濡れた目で見ていた。

 

 

 祐一が泣いている。

 7年前のあのときのように。

 あの時わたしはなにもできなかった。

 祐一を救ってやることができなかった。

 そして祐一はわたしの前からいなくなってしまった。

 もういやだ。

 もうあんな想いをするのは嫌だ。

 今度はわたしが救ってあげなくちゃいけない。

 ひょっとするとそれはとても傲慢な思いあがりなのかもしれない。

 ひょっとするとわたしが祐一を慰めるのは自分のためなのかもしれない。

 きっとそうなのだろう。

 祐一だけじゃないんだ。

 わたしも自分が悲しい思いをするのが嫌なんだ。

 

 

 でも。

 それでも……。

 

 

 さっきお母さんが言ってた。

 わたし達はみんなお母さんの子供なんだって。

 わたし達は家族なんだって……。

 

「祐一」

 

 わたしは祐一に声をかける。

 でも祐一はこちらを見ようとしない。

 まるであのときのように……。

 

「私は祐一のこと嫌いになんかならないよ」

 

 わたしのその言葉に、初めて反応して、ゆっくりとこちらに顔を向ける。

 

「だって家族ってそういうものでしょ?」

「……」

 

「きっと誰だってそうなんだよ。

 きっと誰だって人に嫌われるんじゃないかって。

 そうやって自分の汚い部分を隠してる。

 自分を偽って生きてる。

 わたしだってそう。

 でもね、祐一。

 わたし達やお母さんには、そういう汚い部分を隠さなくてもいいんだよ。

 自分を偽らなくてもいんだよ。

 祐一の暗い部分、汚い部分。

 そんな部分も全部ひっくるめて。

 わたしも、お母さんも、そしてきっと真琴も。

 祐一のことすきなんだよ。

 家族ってそういうものでしょ?」

 

「名雪……」

 

 そんな二人を見守っていた秋子が、祐一に声をかける。

 

「祐一さん、真琴はね。居なくなってしまう前に私のこと“おかあさん”って呼んでくれたわ」

 

「真琴が……?」

「ええ、覚えているでしょ。もう言葉もろくに話せなくなって、そして熱を出して、祐一さんとこの家を一緒に出ていったあの最後の日」

 

 俺はまだぼんやりする頭で、秋子さんの言葉を反芻する。

 

 最後の日。

 

 そうだ、たしかに玄関まで見送ってくれた秋子さんに対して、もう言葉を話せなくなってしまった真琴は、唇の動きだけで何かを伝えようとしていた。

 秋子さんが、急に後ろを向いてしまったために、何を伝えたかまでは分からなかったけど。

 

 

    おかあさん

 

 

 真琴はそう言ったという。

 

「祐一さん。真琴のこと、待っていてあげましょう。一人だととても辛いわ、でも私達三人でなら互いに励ましあいながら待っていられる。さっき名雪が言っていたこと、私も同じ意見ですよ。家族である私達の前では、自分を偽らなくてもいいの。強い自分を演じなくてもいいのよ」

 

 秋子さんの言葉に、俺は今まで頭の中で濃くたちこめていた霧が、朝日を浴びたようにゆっくりと晴れていくのを感じていた。

 

 

自分を偽らなくてもいい

家族である私達の前では

 

 

 そうか、俺は誰かにこう言ってほしかっただけなのかも知れない。

 誰かに無条件で認めてほしかった。

 それとも叱ってほしかったのか。

 

 

真琴のこと、待っていてあげましょう

 

一人だととても辛いわ

でも私達三人でなら互いに励ましあいながら待っていられる

 

 

 待っていよう。

 俺達三人で。

 いつかまた、今日みたいに挫けそうになるかもしれない。

 いつかまた、自分を偽ることに疲れてしまうかもしれない。

 それでもいい、それでもいいと二人は言ってくれる。

 だから三人で。

 三人で待っていよう。

 家族の一人が帰ってくることを。

 真琴が帰ってくることを。

 

 

 秋子さんと名雪に抱かれて、俺はガキのようにいつまでも泣きじゃくっていた。

 

 今思えば。

 

 俺達三人が初めて本当の家族になったのはこのときだったのかもしれない。

 

 

 

<エピローグへ>

<戻る>