『その向こうにあるもの』
ライラック
<後編>
― 初恋の痛み ―
2000/02/21 久慈光樹
あたしは先ほど聞いた耕一の話を思い出していた。
耕一は色々考えていたんだ。
鶴来屋についての話にも驚いたけれども、それ以上に感じたのは、耕一は千鶴姉の事を本当に大事に思っていると言うこと。
俺は千鶴さんをさらってでも一緒になる
ちくり
なぜだろう、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
あたしはベットに寝返りを打つ。
眠れない。
ふと枕もとの時計を見る。
午前1時。
ふう。
あたしは眠る努力を放棄して、台所に行く事にする。
少し喉が乾いた。
台所でお湯を沸かす。
インスタントコーヒーは我が家ではあまり使われることは無い。
あたしたちは元からあまり飲まないし、耕一も家に帰ってきた時にはコーヒーよりもお茶を好んで飲むからだ。
これも滅多に使われることの無いマグカップにスプーンで2杯、砂糖は入れないことにした。
ヤカンの底を焦がすガスコンロの青い炎を、ぼんやりと眺める。
俺は千鶴さんをさらってでも一緒になる
どうしたというんだろう。
耕一と千鶴姉がお互い好きあっているという事は、楓も初音も、そしてあたしも知ってたことじゃないか。
どうして今更こんな気持ちになるんだろう。
耕一と千鶴姉。
お似合いだと思う。
普段はおちゃらけているけど、いざという時は頼りになる耕一。
やさしくて、綺麗で、あたしの憧れである千鶴姉。
大好きな二人が、あたしたちの本当の家族になってくれるんだ。
こんな嬉しい事はない。
でも今のこの気持ちは……。
「あら? どうしたの梓。こんな夜更けに」
不意にかけられた声に、驚く。
見ると、パジャマの上にカーディガンを羽織った千鶴姉が台所の入り口に立っていた。
「あ、いや、喉が乾いたからコーヒーでも飲もうかと思って」
「そう。じゃあ私も貰おうかしら」
「わかった、じゃあそこにインスタントがあるから自分でカップに入れてよ」
「はいはい」
いくら千鶴姉でも、そのくらいなら大丈夫だろう。
そう思ったあたしは甘かったみたい。
「あらら……」
ばふっ!
「あーあ、何やってんだよ千鶴姉」
「ちょっと手が滑って……」
インスタントコーヒーは7割方テーブル上にぶちまけられてしまっている。
仕方が無いので、お湯が沸く間ホウキとちりとりでそれを片付けた。
「まったくもう、不器用なんだから」
「(しゅん)」
済まなそうに肩をすぼめる千鶴姉を見ていると、自然と頬が緩む。
「はいよ」
「ありがと」
沸かしたてのお湯は熱く、しばらく二人とも口をつけられそうに無かった。
「ちょっとここは寒いわね。ねえ梓、あなたもう寝る?」
「え? いや、まだ寝ないけど?」
「それなら私の部屋に行かない?」
「う、うん」
「じゃあそうしましょ」
唐突な千鶴姉の提案にやや戸惑いながらも、別に断る理由も無いのであたしはマグカップを持って千鶴姉の部屋に移動することにした。確かに台所は寒い。
部屋へ行く途中、前を歩く千鶴姉がふと立ち止まり、縁側のガラスから外を見た。
「どうしたの?」
「雪……」
「あ……」
2月も半ばだというのに、今年は良く雪が降る。
春はまだまだ先のようだ。
しばらくあたしたちは降りしきる雪を眺めていた。
「ねえ梓、あそこにある木、何だか知ってる?」
「え?」
千鶴姉の指差した先を見ると、あたしより少し背の高い木が見えた。
あれは確か……。
「うん、あれってライラックだろ?」
「そうよ、よく知ってたわね」
「だってあれを植えたのあたしだもの」
「うふふ、そうだったわね、さあ、ここは寒いわ、もう行きましょうか」
「うん」
千鶴姉の部屋に入るのもなんだか久しぶりだ。
前に見たときとほとんど変わっていない。
こざっぱりとして素敵な部屋だと思う。
「ふぅ、温まるわね」
「うん」
しばらくは二人とも会話らしい会話も無く、ただ手にしたコーヒーを飲んでいた。
あたしは千鶴姉がどうしてあたしを部屋に招いたのか、その真意を量り兼ねていた。
「ねえ、梓」
「何?」
「9年前の事、覚えてる?」
「9年前?」
「そう、初めて叔父様がこの家を訪れた日。そして私たちが初めて耕一さんと…… いえ、耕ちゃんと出会ったあの日の事」
「耕一と初めて会った日……」
忘れるわけが無い。
あの日、あたしは学校から帰ってきて、玄関に見知らぬ靴があることに気がついた。
お父さんと同じくらい大きな靴と、あたしよりもちょっと大きい靴。
叔父さんたちが来るということは事前に聞いていたから、別に驚きはしなかった。
「ただいまー」
「お帰りなさい、梓。この子が昨日話した耕一君よ」
「うん、よろしくねこういち!」
「うん、ええと君は……」
「あたしはあずさ、かしわぎあずさ」
「あずさか、ヘンな名前だな」
「なにー! 自分だって こういち なんてヘンな名前のくせに!」
「なにをー!」
「ほらほら、二人ともケンカしないの」
ふふっ、思えば初めてあった時から耕一とはケンカばかりしていた気がする。
でもその割には、小さい頃のあたしはいつも耕一と一緒に遊んでいた。
楓と初音はまだ小さかったから、山に行って探検したり、川に行って釣りをしたりするのは、いつも耕一と一緒だった。
夏休みの間だけだったけれど、毎日耕一と一緒になって日が暮れるまで遊んだ。
そういえば、さっき廊下で見たライラックの木もあたしと耕一で植えたんだった。
「覚えてる、忘れるわけ無いさ」
「うふふ、そうよね、あなたはいつも耕ちゃんと一緒だったものね」
「そうだね」
「私はちょっと羨ましかったな」
「え?」
「私は耕ちゃんに嫌われてるって思ってたし、中学生だったから部活もあったしね、毎日耕ちゃんと一緒にいるあなたがとても羨ましかった」
「そうなんだ」
「ええ」
「でも、どうして突然そんな事を聞くの?」
千鶴姉はその問いにすぐには答えず、じっと手元のマグカップに視線を落としている。
「9年前、叔父様が急に帰ることを決めたとき、楓や初音は寂しがって泣いたけど、あなたは泣かなかったわね」
「え? ま、まぁあたしもあの時はもう小学4年生だったからね、泣くのもカッコ悪いと思って」
「うふふ、あなたはいつもそうね、人一倍寂しがり屋なのに、意地を張って、なんでも無いフリをして」
「そ、そんなこと……」
「いえ、私には分かるわ、何年あなたの姉をやってると思ってるの」
千鶴姉にはやっぱりかなわない。
確かにあの時、いつも一緒だった耕一が帰ってしまう事が寂しくて泣き出しそうだった。
でもそれを知られるのが嫌で、わざとそっけない態度を取ったりして。
子供だったんだ。でも今でもそれは変わっていないのかもしれない。
千鶴姉の言う通り。
「さっき台所で見た梓、あの時と同じ表情をしていたわ」
「えっ!」
さっきの台所で考えていた、自分でも理解できない思い。
千鶴姉はその時の表情が、耕一が帰ってしまう日の、あの日のあたしと同じ表情をしていたと言う。
「耕一さんのことを考えていたのでしょう?」
「……」
確かに耕一のことを考えていた。
「梓。耕一さんのことが好きだったのね」
「えっ!!」
思いの他取り乱してしまう。
あたしが耕一のことを? そんな…… そんな事あるわけが無い。
だっていつも耕一とはケンカばっかりで、どちらかと言えばケンカ友達のような、そんな感じで。
あたしは耕一のことを好きなわけじゃない。千鶴姉の考え過ぎだ。
耕一のことを好きなわけじゃない……。
好きなわけじゃない……。
本当だろうか?
それはあたしの本心なんだろうか?
あたしは
あたしは……。
「ひょっとして、自分でも気付いていなかったの? 梓らしいわ」
「あたし……」
「いいのよ、梓。私には分かってた、あなたは9年前初めてあったときから耕一さんに惹かれていたわ」
「9年前……」
「初恋…… だったのね」
「……」
千鶴姉の声は凄く優しくて。
いつもあたしたちを見守っていてくれる千鶴姉そのもののように優しくて……。
だからあたしは……。
あたしは……。
「うっ、うっ、ひっく」
「梓……」
「お姉ちゃん!」
子供の時のように、ぼろぼろと涙をこぼして、あたしは千鶴姉にすがりついて泣いた。
千鶴姉の事を「お姉ちゃん」と呼ぶのは何年ぶりだろう。
初恋。
そう、今なら分かる。
あたしは耕一のことがずっと前から好きだったんだ。
恐らく千鶴姉の言うように、初めて会った時からずっと。
きっとあれがあたしの初恋だったんだ。
「私は…… 耕一さんを愛してる」
「……」
「愛しているの」
すがりつくあたしの頭を撫でながら、少し苦しそうに、でもはっきりと千鶴姉はそう言った。
多分、あたしに負い目を感じているんだろう。
でも千鶴姉はあたしに謝るようなことはしなかった。
それが今のあたしには嬉しい。
謝られたら逆に惨めになるだけだから。
「お姉ちゃん、ううっ」
「かわいそうな梓、いいのよ、今は自分の為に泣いてもいいのよ」
「うわぁーー」
本当に子供のように、あたしは千鶴姉の、ううん、お姉ちゃんの胸で泣きつづけた。
自分の為に、耕一への想いを気付くのが遅すぎた自分の為に泣きつづけた。
泣き疲れて眠ってしまうまでずっと……。