楽しそうに話す耕一さんと楓。

 楓の笑顔が私の瞳に映る。

 見ているこちらまで幸せになるような、そんな笑み。

 

    あの子はもう大丈夫だ。

 

 そう思う。

 

 耕一さんと再会した夏の日。

 耕一さんの中に眠る鬼を刺激しないように、楓は心を閉ざした。

 元から控えめな子ではあったのだけれど。

 事情を知る私でさえ、いや事情を知る私だからこそ心配したものだ。

 

 でも私の見ている前で耕一さんと笑い合う楓は、どこにでもいる年頃の少女の笑みを浮かべている。

 

 良かった。

 

 本当に良かった。

 

 ありがとうございます、耕一さん。

 あの子に笑顔を取り戻してくれて。

 

 

 

 ……。

 

 

 でもまあ、それはそれとして……。

 

 

 

「こんな時間まで楓とどこに行っていたのですか?」

 

「ひっ!」

 

 

 


『その向こうにあるもの』

家族になるということ

1999/12/05 久慈光樹


 

 

 

 その声は地の底から響いてきたように聞こえた。

 

 楓ちゃんと一緒に寄った甘味屋でついつい話しこんでしまい、あたりはもう真っ暗だ。

 今日来ることを知らせていない俺と違い、楓ちゃんはあまり遅くなるとみんなが心配するだろう。

 そう思い、家路を急ぎながら、それでも楓ちゃんと楽しく会話しつつ柏木家が見えてきた時だった。

 その声が聞こえたのは。

 

 暗さの為今まで気がつかなかったが、門の前に人影があった。

 

 千鶴さんだ。

 

 俺の最愛の人。

 おや? 良く見ると千鶴さんの足元の地面が何センチか陥没しているぞ。

 闇夜でもはっきりと分かるほど赤く染まった瞳と、風も無いのにゆらゆらと空に舞う綺麗な黒髪がいつにも増して魅力的だなぁ。

 あまつさえ千鶴さんのほうから血生臭い、人を枯らすような風が吹きつけてくるし。

 

 うふふっ、それにしても今日は冷えるなぁ。まるで冷蔵庫の中に居るみたいだよ。

 寒くないかい、楓ちゃ…… おや? 楓ちゃんはどこに行ったのかな?

 ああ、あそこにいた。

 一瞬で安全圏まで避難するとは、楓ちゃんもいつのまにか足が速くなったんだなぁ。お兄さん嬉しいよ。

 どうしたんだい、楓ちゃん。そんな悲しげな目をして。え? ゴメンナサイ耕一さん? 楓ちゃんは優しいなぁ。こんな優しい従兄妹を持って俺は幸せ者だよ。

 

 直視したくない現実から必死に目を逸らそうとする俺の耳に、またしても地の底から這い上がるような声が聞こえてくる。

 

 

「耕一さんの浮気者…

 

「ち、違うんだ千鶴さん!! これには訳が…

 

「耕一さん… さようなら

 

 

 

「ぎゃぁーーーー」

 

 

 

 この日の晩、柏木家の近所に住む老夫婦は「まるで締められた鶏のような声が聞こえた」と証言している。

 

 

 

 

 次の日、俺はいつもの居間にひかれた布団の中で目を覚ました。

 少し体が痛いが爽快な目覚めだ。

 鬼の治癒能力は偉大で、ヒビの入った肋骨も張れあがった頬も一晩寝れば元通りさ!(しくしく……)

 

「耕一起きた〜?」

 

 居間の襖を空けて、エプロン姿の梓が入ってきた。

 

「おう梓、おはよう」

「『おう梓』じゃないよ。耕一、千鶴姉と仲がいいのは分かるけど、ちょっとは他人の迷惑ってものを考えろよなぁ」

「それが被害者に向かって言う台詞か…… ところで千鶴さんは?」

「いつも通り部屋で拗ねてるよ」

「はぁ…」

 

 盛大なため息をつく俺。

 俺もようやく最近になって千鶴さんの行動パターンが分かるようになってきた。

 千鶴さんは盛大に怒った後は、大体拗ねて部屋でふて寝してしまうのだ。

 こうなるともう俺が直接行ってご機嫌を取らない限り、部屋から出てこない。

 

「耕一、責任持ってなんとかしてこいよな」

「わかったよ、じゃあ行ってくるか」

 

 まったく、千鶴さんのジェラシーにも困ったものだ。

 まあ、なんだかんだ言っても嬉しいんだけどね。

 

 

 

コンコン

 

「千鶴さーん、耕一だけど」

「……」

「千鶴さーん、話がしたいんだけど」

「……なんですか?」

 

 部屋の戸をちょろっと空けて、不機嫌そうな顔をした千鶴さんが顔を出した。

 唇をちょっぴり突き出して心なし頬を膨らませている。

 

 拗ねた千鶴さんもかわいいなぁ。

 

「そ、そんなこと言ってもごまかされません!」

 

 ……しまった、口に出していたみたいだ。

 でも悪くない反応だ。

 うっすらと頬を赤く染めて、それでも精一杯不機嫌そうな顔をしてそっぽを向いている。

 今回はこのままこの路線で攻めることにする。

 

「いやほんとだって、でもやっぱり千鶴さんは笑顔が一番似合うよ」

「え?そ、そんなこと…… 本当ですか?」

「本当本当、千鶴さんには笑顔が一番だよ」

「そんな〜〜うふふふ……」

「だからさ、機嫌直して一緒に朝ご飯食べようよ」

「はい、でも耕一さん…… その……」 

 

 そう言ってもじもじする千鶴さん。

 

「ちょっと私の部屋でお話しませんか?昨日はせっかく来てくださったのにろくにお話もできませんでしたし……」

 

 たしかに昨日の晩はそれどころではなかった…… というか俺意識無かったし。

 

「そうだね、じゃあお邪魔させてもらおうかな」

「ど、どうぞ」

 

 

 

 私は耕一さんを部屋に招き入れた。

 いつも清潔にするようにしているから、別段見苦しいところは無いはずだ。

 それでも耕一さんに物珍しそうに部屋を見まわされると恥ずかしくなってしまう。

 

「あ、あんまり見ないで下さい」

「ああ、ごめんごめん」

 

 部屋の真中に置かれたテーブルを挟んで、耕一さんと向かい合うようにして腰を下ろす。

 

「耕一さん」

「ん? どうしたの」

「昨日はごめんなさい」

「え?」

 

 突然過ぎただろうか。

 それでも私はずっと気にしていたことを口に出した。

 

「私ついカッとして…… 耕一さん、こんな嫉妬深い女は嫌いですよね」

「……」

「嫉妬深いし、拗ねるし、すぐに怒るし……」

 

 自分で口に出して、悲しくなってくる。

 怒り、嫉妬、妬み、自分の中にある汚い感情。

 他人には絶対に知られたくない、できることなら自分の中から消してしまいたい嫌な自分。

 耕一さんの前ではそんな自分を出したくなかった。

 

 私は怖いんだ、耕一さんに嫌われるのが。

 耕一さんの前では理想の女性を演じていたかった。

 落ち着いていて、でもちょっぴりどじで、そんな大人の自分を演じていたかったんだ。

 大切な、この世界で一番大切な耕一さんの前では……。

 

「確かに、そんなことを言う千鶴さんは嫌いだな」

「え?」

 

 いつの間にか真剣な表情になった耕一さんがそう呟いた。

 表情を引き締めた耕一さんは先ほどとは別人のような雰囲気を漂わせている。

 

 普段はふざけたり、おどけたりしているけれど。

 これが本当の耕一さんの姿なんだ。

 

 こんなときなのに、私はそんな耕一さんに見とれてしまっていた。

 

「千鶴さん。千鶴さんは鶴来屋ではいつも梓としてるみたいに誰かとケンカしたりするの?」

「? いえ、そんなことはしません」

「じゃあ、昨日みたいに何かに嫉妬して怒ったりは?」

「あんなことするわけないじゃないですか!」

「じゃあ、拗ねて会長室に篭ったりは?」

「しません!」

 

 それはそうだろう、私は鶴来屋では「会長」だ。そんなことをしていたのでは社員に示しがつかない。

 私は耕一さんの言葉の意図を計りかねていた。

 

「じゃあどうして家では怒ったり、嫉妬したり、拗ねたりするの?」

「それは…… 家族の前なので気兼ねする必要が……」

「うん、そうでしょ? それでその家族の中には俺も含まれているんだよね?」

「! はい! もちろんです!」

 

 私は耕一さんの言いたいことを察して、力強くそう答える。

 

 耕一さんはそこで一旦言葉を切り、ほんの少し悲しげな表情になって言葉を続ける。

 

「千鶴さん、俺ね、家族ってなんだか分からなかった」

「……」

「親父のことずっと恨んでいたからね」

「……! 耕一さん! それは……!」

「うん、分かってる。今では誤解だったって良く分かってる。でもね、母さんは夜いつも一人で泣いていたよ。俺はまだ小さかったから、何もできずにただこっそりそれを見ていることしかできなかった」

 

 いかにやむを得ぬ理由があったとはいえ、愛する人と離れ離れにならねばならなかった叔母さま。

 その悲しみはいかばかりだっただろう。

 そしてそんな叔母さまをずっと近くで見て育った耕一さん。

 

「……ごめんなさい耕一さん、私たちのせいで……」

「勘違いしないで。別に親父や千鶴さん達を責めてるわけじゃないんだ。今では仕方のないことだったんだってわかってる」

「……」

「母さんが死んでから、俺は親父を拒絶した。一緒に住もうって言って差し伸べてくれた親父の手を振り払った。これからは一人で生きていこうって、ずっと一人で生きていこうって思ってた」

 

「耕一さん……」

 

 耕一さんのお母様が亡くなった時、叔父さまが一緒に住もうと誘ったことは聞いていた。

 そしてそれを耕一さんが拒絶したことも。

 

 

     妻と息子を同時に失ってしまったよ

 

 

 夜もふけた台所で、お酒のグラスを傾けながら叔父さまはそう言っていた。

 叔父さまは確かにその時、涙を流していた。

 離れて暮らすことになった家族のことで、叔父さまが涙を見せたのは後にも先にもあのとき一度きりだった。

 

 叔父さまのこと、叔母さまのこと、そして幼い耕一さんのことを考えて暗い気持ちになっていた私は、知らず知らずのうちにそれを表情に出していたのだろう。

 耕一さんは私の頭に手を乗せて、ゆっくりとなでてくれていた。

 

「もう! 私は初音じゃありません」

 

 照れくさくなって拗ねた振りをしてみる。

 でも不思議と心が落ち着くのを感じる。

 暖かく包みこまれるような感触。 

 

 そんな意地っ張りの私に、耕一さんは苦笑しながら話を続ける。

 

「でもね、千鶴さん」

 

「ここに来て。初音ちゃんと、楓ちゃんと、梓と、そして千鶴さんと再会してから俺は変わってしまった。

 もう一人では生きていけそうもないよ。

 ずっと知らなかった…… いや、違うな、ずっと忘れてた家族のぬくもりって奴を思い出してしまったからね」

 

「耕一さん……」

「だからさ、千鶴さん。俺の…… 家族の前ではいつも通りの千鶴さんでいてよ」

 

「正直言って、『家族になる』ってのがどういうことなのか、未だに俺自身完全には理解できない。たぶん俺一人じゃこの先もずっと理解できないままかもしれない」

「でも私がいます」

「うん。そしてみんなもいる」

「はい」

 

 私はそっと耕一さんの側に寄り添った。

 耕一さんが私の肩を力強く抱いてくれる。

 

 

 

 恋人と言える関係になった私と耕一さん。

 

 この関係が終着点だと思っていた。

 

 でもそうじゃなくて。

 

 さらにその向こう。

 

 その向こうにあるもの。

 

 

 家族になるということ。

 

 恋人よりも近しく。

 

 血の繋がりを超えて。

 

 誰よりも近しい存在になること。

 

 

 私と

 

 耕一さんと

 

 梓と

 

 楓と

 

 初音

 

 かけがえの無い家族になるということ。

 

 きっとなれる。

 

 私達ならきっと。

 

 

 耕一さんの腕に抱かれながら、私はそう確信していた。

 

 

 

<FIN>