カチャリ、カチャリ
何かをゆっくりと混ぜ合わせるような音。
ガチャ、ボッ!
火をつけられたのは、ガスコンロだろうか?
ふーん♪ ふふーん♪
鼻歌交じりに手際良く作業を進める。
そう、傍から見ていてもかなりの手際の良さだった。
今日は2月12日。恐らく作っているのはチョコレートだろう。
それ自体は大して珍しい事ではない。今日明日あたりは恐らく多くの女の子が、大好きな男の子のことを想いながらチョコレート作りに精を出していることだろう。
珍しいのは、今が深夜だということだ。
手作り用のブロック型のチョコレートを湯煎し、型に流しこんでそのまま自然に固まるのを待つ。
ここで焦って冷蔵庫になど入れようものなら、まず間違いなくひび割れてしまうのだ。
普段料理をしたことがないような女の子が失敗する2つの罠も、本などに頼らずにするりとかわす。
手早く後片付けをすませると、部屋にこもったチョコレートの甘い香りを十分に換気して逃がす。
そしてまだ固まりかけのチョコレートを、大切そうに部屋へと持ち帰ったのだった。
月ノ光
2000/02/13 久慈光樹
2月13日。
家を追い出された。
いや、別に浮気して千鶴さんに叩き出されたわけじゃないぞ。
第一浮気なんぞしたら、家を叩き出されるだけじゃ済まないに違いない。
……
ぶるぶる
想像したら寒気がしてきた。
梓と楓ちゃんと初音ちゃんに追い出されたのだ。
いや、別に浮気して…… ってしつこいか。
だが家を追い出されたにも関わらず、俺はしごく上機嫌だった。鼻歌の一つも口ずさみたいくらいだ。
昼食を食べた後、こんなやり取りがあったからだ。
「あ、あのさぁ、耕一」
「ん? 何だ?」
昼飯を食い終わって、楓ちゃんの入れてくれたお茶を飲んでいた俺は、梓に声をかけられた。
「いや、その……」
いつもはぽんぽんと遠慮なく言いたいことを言ってくる梓らしくない反応に、俺は怪訝な表情で応えた。
よく見ると、梓の隣に座っている初音ちゃんも、何だかもじもじして俺を見ている。
さらには俺にお茶を出してくれた後、台所に行っていた楓ちゃんまでもがちらちらと俺の様子をうかがっているではないか。
何だ何だ?!
ちなみに何で俺達4人がこんな昼日中に家にいるのかといえば、みんなそれぞれ試験休みやらなんやらで学校が休みだからだ。
当然千鶴さんは今日も鶴来屋でお仕事。社会人ってのは大変だなとつくづく思ったもんだ。
「こ、耕一は今日どっかに出かける予定はないの?」
「「(じー)」」
「べ、別にないけど?」
じーっと俺を見つめる楓ちゃんと初音ちゃんにややビビリながらも、俺は出かける用事がない旨を伝える。
その言葉を聞いて、3人の顔ががっかりしたものに変わる。
「な、なんだよ、俺が家に居ちゃいけないのか?」
「そう言う訳じゃないけどさ……」
「じゃあ何だよ」
「な、何だっていいだろ!」
「何だっていいって…… 気になるだろ!」
「耕一お兄ちゃんも梓お姉ちゃんもケンカしないで」
言い合いを始めてしまった俺達を、慌てたように初音ちゃんが仲裁する。
楓ちゃんも心配そうに見ていた。
「ええい! 面倒くさい! いいから耕一は夕方まで外をぶらぶらしてきな! いい?」
「やだね、なんで俺が……」
「嫌なら夕飯抜き!」
「行かせて頂きます……」
くそっ、やはり食を支配している梓には逆らえん。
俺のその言葉を聞いて、楓ちゃんも初音ちゃんも済まなそうな顔をしながらも、ほっとしているように見えた。
何なんだ? 一体。
だがそんな俺の疑問も、商店街まで来たところで氷解した。
「そうか、明日はバレンタインデーか……」
商店街、特にケーキ屋や食料品店などは、バレンタイン用のピンクの装飾が施され、一見別世界だった。
地元の高校が軒並み休みと言うことも手伝って、店先にはチョコレートを買い求める女の子達でごった返している。
かわいくラッピングされた既製品も人気のようだが、一番売れているのは以外にも無骨なブロック型のチョコレートだった。
なんでこんなものが? とよくよく見てみると、それはどうやら手作り用の素材らしかった。
「ふうん、手作りチョコってわけか」
それらを買い求める女の子達をぼんやりと眺めていたが、ようやく先ほどの梓たちの行動に思い当たる。
「そうか、ひょっとして……」
というわけで、俺は上機嫌になって降山の街を闊歩しているというわけだ。
単純なやつだと笑わば笑え、だが、町内でも知らぬ者の無いであろう柏木家の美人3姉妹が俺の為に手作りのチョコレートを作ってくれているんだ!(推測) これで浮かれないようなやつは男じゃない!
俺はそこまで考えて、何か違和感を感じた。
町内でも知らぬ者の無い柏木家の美人3姉妹
柏木家の美人3姉妹
美人3姉妹
3姉妹……
3姉妹?
たら〜り
冷たい汗が俺の背中を滑り落ちる。
忘れていた訳じゃない。
だが、人間嫌なことは無意識の内に考えないようにするものなのだ。
「まさか…… 千鶴さんも手作りなんて無茶なことを考えてるのでは……?」
いや、まさか……。
第一千鶴さんは今日も明日もお仕事だ。
チョコレートを作っている暇などあるものか。
何とかそう思い込もうとするのだが、夏に起きたきのこ事件が俺の頭から離れない。
うきうき気分から一転、絞首台に上る死刑囚のような足取りになって、俺は西日の指し始めた商店街を後にしたのだった。
時間は少し戻って、柏木家の台所
「初音、そのボール取ってくれない?」
「はい、梓お姉ちゃん」
「さんきゅ」
初音と梓姉さんが手際よく作業を進めていく。
2人ほどお料理が得意ではない私は、2人の邪魔にならないように、さっき買ってきた材料をテーブルの上に並べる。
ううっ、私ももう少し普段からお料理を勉強しておくんだった…… せっかく耕一さんに手作りのチョコレートをプレゼントできる年に一度の機会なのに。
手作りのチョコレート
耕一さんに…… 私が……。
耕一さんは喜んでくれるだろうか?
耕一さん……。
ぽー ほぅ……。
「ほらほら、楓、うっとりしてため息なんかついてないで。手早く済ませないと耕一が帰ってきちゃうよ」
そんな笑いを含んだ梓姉さんの声に、真っ赤になってしまう。
「あ、は、はい」
慌てて手伝おうとする私を見て、堪えかねたように吹き出す梓姉さん。
もう! いじわる!
「耕一お兄ちゃん、喜んでくれるといいね!」
初音はどこまでも純粋な笑顔で、無邪気に笑っている。
この子の正直さがちょっぴりうらやましい。
私もひねくれているという訳ではないと思うのだけれど、どうしても恥ずかしさが先にたって何も言えなくなってしまう。
だから、梓姉さんが「皆でチョコレートを作るか」と言ってくれた時には、とても嬉しかった。どうせ私のことだから、耕一さんに手作りのチョコレートをあげたいと思ってはいても、恥ずかしくて行動に移せなかったに違いない。
「どうせ耕一のことだ、東京にいてもチョコなんて貰える当てが無いだろうし、こっちにいる時くらいお情けであげてもバチはあたらないよな」
「そうかなぁ、耕一お兄ちゃんかっこいいから、きっと向こうでもモテるんじゃないかな……」
「(こくり)」
「はは、そんなことある訳ないさ、だってあの耕一だよ? ……あ、ほら楓、そろそろお湯が沸いたからチョコレート用意してくれない?」
「はい」
「初音はかき混ぜ用のヘラをゆすいでおいてよ」
「うん」
沸かしたお湯をボールに入れて、その上に少し小さいボールを浮かべる。小さいボールがお湯で十分に熱せられたら、その中にブロック型のチョコレートを入れ、ヘラで丹念に溶かす。鍋に入れて直接火にかけてしまうとたちまち焦げ付いてしまうんだそうだ。
初めに初音、そして私がチョコを溶かして、あらかじめ用意しておいた型に流しこんだ。そこで冷めてしまったお湯を再び熱湯と取り替え、梓姉さんが最後にチョコを溶かした。
「さすが梓お姉ちゃん、私達とは手際が違うね」
「うん、本当に……」
「あはは、このくらいならどうって事無いさ、二人も初めてにしては随分と手馴れたもんだったじゃない」
「そんなこと……」
「いやいや、大したもんだよ。やっぱり耕一の為にって目的があると違うな」
「そ、そんなことないよぅ……(真っ赤)」
「そ、そんなことない……(真っ赤)」
「あはは、照れるなって!」
「梓姉さんこそ…… いつもよりも気合が入ってた……」
「ばっ! あ、あたしは別に……(真っ赤)」
耕一お兄ちゃん……(ぽー)
耕一さん……(ぽー)
耕一……(ぽー)
こうして、私達はチョコレートが固まるまで3人揃ってぽーとしていたのでした。
「ただいまー!」
あ、耕一お兄ちゃん帰ってきたみたい。
私はお味噌汁をかき混ぜていたおたまを持ったまま、玄関まで小走りに耕一お兄ちゃんをお迎えに行った。
「お帰りなさい、耕一お兄ちゃん!」
「ただいま、初音ちゃん。どうしたの? おたまなんか持って」
「あ、こ、これは……」
「あっはっは、おたまの攻撃は直線的だから避けられやすいんだよ。ヤカンも織り交ぜて使わないとね」
「?? 耕一お兄ちゃん?」
「あ、ごめんごめん、こっちのこと」
「? まぁいいか。もうすぐご飯できるから、もうちょっと待っててね」
「わかった。ところで千鶴さんは?」
耕一お兄ちゃんは、急に深刻な顔になってそう聞いてきた。
どうしたのかな?
「え? 千鶴お姉ちゃん? まだ帰ってきてないよ」
「そうか…… よかった……」
「何が?」
「あ、いやいや、何でも無いんだよ。じゃあ俺は部屋にいるから」
「? うん、分かった。ご飯できたら呼びにいくね」
「お願い」 と言って、部屋へ戻っていくお兄ちゃんの後姿を見送って私がお台所に戻ろうとした時、表から車の止まる音が聞こえてきた。
千鶴お姉ちゃんかな?
「ただいま」
「お帰りなさい、千鶴お姉ちゃん」
「あら初音、ただいま。どうしたの? おたまなんか持って」
「え? あ、これは…… あはは……」
「おたまで相手を跳ばせるのはいいけど、初音はジャンプ力があるからってあんまり跳び込んじゃだめよ? 対空技の餌食になるわ」
「お、お姉ちゃん?」
「あら、私ったら。気にしないで、こっちのことこっちのこと」
お部屋に戻る千鶴お姉ちゃんを見送りながら、私は狐につままれたような顔をして、つっ立っていたのでした。
一体何の事なんだろ?
「「「「「いただきまーす!(いただきます……)」」」」」
「耕一、今日はどこに行ってたんだ?」
「いや、別にあてもなくぶらぶらとな」
「ふーん」
「あ、楓。ソース取ってもらえるかしら?」
「はい」
「ありがとう(どばば!)」
「うわっ! 千鶴さん、そんなにかけたら……」
「あーあ、これだから味オンチは……」
「こ、これくらい普通よ!」
「あれ? 耕一お兄ちゃん。ニンジン食べないの?」
「いや…… あんまり好きじゃなくて……」
「まったく、ガキじゃないんだからニンジンくらい食べろよ」
「そういう梓姉さんもピーマン食べられない」
「か、楓!」
「ほほう? 梓はピーマンも食えないのか? まったくガキんちょだなぁ」
「うるさいうるさい! あんな苦いもの食べられるか! 大体耕一だって、ニンジン食べられないだろうが!」
「なにをー! あんな甘ったるいモンが食えるか!」
「そうだ! なら、今度私が特製の料理で……・」
「「遠慮します」」
「しくしく……」
「まぁまぁ」
「ごちそうさま」
「「「早っ!!」」」
晩御飯も終わって、私は沸かしておいたお風呂の湯加減を見に行った。
うん、丁度いい湯加減。
「耕一お兄ちゃーん。お風呂沸いたよー」
「ありがとう、初音ちゃん。それじゃぁひとっ風呂浴びるとしますかねぇ」
お風呂には、いつも耕一お兄ちゃんが一番初めに入る。
次が私。耕一お兄ちゃんの入ったすぐ後に入るのは恥ずかしいけど……。
それから楓お姉ちゃん、梓お姉ちゃん。
そして最後に一番お風呂が長い千鶴お姉ちゃん。
はっきりそう決めたわけじゃないけど、いつもこの順番になる。
「そう言えば千鶴お姉ちゃん、今日帰ってくる時に何か買い物してきたの? 荷物があったようだけど」
私は耕一お兄ちゃんがお風呂に入っている間に、千鶴お姉ちゃんにそう聞いてみた。
実は少し気になっていたから。
「うふふ、そうよこれを買ってきたの」
そう言って千鶴お姉ちゃんが見せてくれたのは、今日私達が散々見ていたもの。
ブロック型の手作りチョコレートの素材だった。
「「「……」」」
何とも言えない沈黙があたりを包む。
「どうしたの? 私だって手作りチョコレートくらい作れるわよ」
「……千鶴姉……」
「な、何よ梓、その哀れむような目は!」
「……」
「楓、無言で目をそむけるのはやめて……」
「だ、大丈夫だよ、千鶴お姉ちゃんだって頑張ればきっと……」
「初音…… やっぱり私の味方はあなただけよ!」
「初音ぇ…… 顔が引きつってるぞ」
「そ、そんなこと無いよぅ」
「だいたい、無理なんだよ、千鶴姉が手作りチョコなんてさ」
「そ、そんなこと無いわよ! 私だってチョコレートくらい……」
「よく言うよ、去年の事忘れたとは言わせないぞ!」
「あ、あれはその……」
「だいたい、市販のチョコレートを加工して、どうやったらあんなチョコレートができるんだよ!」
そう、去年千鶴お姉ちゃんが作ったチョコレートは辛かったらしい。
チョコを食べた耕一お兄ちゃんは、今でもそのことについては深く語ろうとしない……。
「今年こそは大丈夫よ!」
「はん! 去年もそんなこと言ってたなぁ。はぁ、これだから味オンチは……」
「(むかっ) あ、あらあら、梓ちゃんは貰う側だから作る必要ないものね。楽でいいわね」
「(むかっ) ほ、ほぉー、そういう千鶴姉こそ手作りチョコだなんて、歳を考えた方がいいんじゃない?」
「……」
「……」
「……うふ、うふふふふ……」
「……あは、あはははは……」
ゴゴゴゴゴ……
ああっ! 何時の間にやら大変なことに!
隣にいる楓お姉ちゃんもこころもち青ざめた顔色で二人を見ている。
もうこうなったら私達じゃどうしようもないよぅ! 早く来て! 耕一お兄ちゃん!!
「ふぃー、いいお湯でしたっとぉ!」
初音ちゃんの沸かしてくれた風呂は、いつもながらいい湯加減で、俺は上機嫌で着替えを済ませた。
アパートの風呂じゃこうはいかないからなぁ。やっぱり風呂はいいねぇ。
「おーい、お風呂お先に……」
俺の上機嫌は、台所に入るまでだった。
そこには2匹の鬼がいた。
いつも通りの優しい笑顔をたたえる千鶴さん。でもその両目は素敵に血の色だ。
向かい合うようにして、これもいつも通りのちょっと勝気な笑顔を浮かべる梓。でもやっぱり両目は血が滴るような赤。
ああ…… どこからともなく鬼神楽が……。
「あ、耕一お兄ちゃん! お願い、何とかして!」
「初音ちゃん、これは一体……」
「ええと…… ええと…… チョコを貰う側が辛くて去年の歳を考えるの!!」
初音ちゃん…… 君、少しキャラが違ってるよ……。
大混乱する初音ちゃんと、すがるような目で俺を見る楓ちゃん。
そして向かい合う2匹の鬼。
「大丈夫だ! 俺にいい案がある!」
「奇遇ですね、耕一さん。私もたった今、いい案を思い浮かびました」
「そうか! では早速実行にうつすべし!」
「ほ、本当!? 耕一お兄ちゃん、楓お姉ちゃん」
俺と楓ちゃんは無言で初音ちゃんの腕を両脇から抱えこむ。
「え? え? え??」
「逃げるぞ!!」
「逃げます」
「え? え? えぇーー!!」
そのまま脱兎のごとく台所を飛び出す俺達。
ゴメンな初音ちゃん。でも俺もまだ死にたくないんだよ。
その後、何やら台所からは物の壊れる音や、身も凍る奇声や、水気を含んだ皮袋を叩きつけるような音がしばらく聞こえていたが、そのうち静かになったのだった……。
翌日。
痛む体をおして、朝ご飯を用意する。
まったく! 千鶴姉のバカぢから!
でも、苦労の甲斐あって、千鶴姉のキッチン進入は何とか阻止する事ができた。
「あ、おはよう梓お姉ちゃん。私もお手伝いするね」
「お、初音。おはよう、いつも悪いね」
「ううん、それより昨日は大丈夫だった?」
「ああ、まったく千鶴姉にも困ったもんだよ…… あいたたた……」
「くすくす…… じゃあ私はお皿並べるね」
初音に手伝ってもらって、朝食の用意を進める。
用意が整った頃に、丁度千鶴姉が起き出してきた。
「おはよう」
昨日の晩、アレだけ激しくケンカしても翌朝になれば何事も無かったような笑顔。
私は千鶴姉のそんなところが大好きだった。
「おはよ、千鶴姉。丁度よかった、耕一を起こしてきてくれよ」
「わかったわ♪」
やれやれ、スキップでもしそうなくらいの勢いで、台所を出ていったよ。
「じゃあ初音は楓を……」
「……おはよう……」
噂をすれば何とやらだ。
楓は低血圧なので、自分から起きてくる事は珍しい。
今も寝ぼけまなこをこしこしと手の甲で擦っている。
普段の楓からは想像もつかない赤ん坊のようなその姿は、我が妹ながらとてもかわいらしく、思わず笑みがこぼれてしまう。
しばらくすると、耕一も起き出してきて、いつも通りの5人の朝食が始まった。
「「「「「いただきまーす!(いただきます……)」」」」」
「お、今朝は目玉焼きか、梓、醤油とってくれよ」
「何言ってんだよ、目玉焼きには塩胡椒って決まってるだろ」
「何ぃ! 目玉焼きには昔っから醤油って決まってるんだぞ」
「はん、古いねぇ耕一は」
「なにをー! ……って初音ちゃんはソースなんてかけてるし……」
「えぇ! 目玉焼きにはソースかけるものだよ」
「違うわ初音、目玉焼きにはマヨネーズ」
「えぇぇ!」
「楓ちゃん…… 君って……」
「絶対に変!」
「3人ともヒドイです…… コクが出ておいしいのに……」
「ま、まぁ人の好みはそれぞれだからいいんじゃない?」
「そ、そうだな」
「あれ? 千鶴お姉ちゃんは何をかけてるの?」
「え? みりんだけど?」
「「「……」」」
「ごちそうさま」
「「「「またしても早っ!!」」」」
「じゃあ行ってくるわね」
「「「「いってらっしゃーい」」」」
千鶴姉が出掛けるのを皆で見送って、私たちは台所に戻った。
さて、いよいよだな……。
見ると、楓と初音もやや緊張気味だ。
「あ、あのさ、耕一……」
「ん? どうした」
「あ、あのさ…… 耕一はこれからどっか出掛ける予定ある?」
「何だよ、また今日もどっか出掛けろってのか?」
「あ、いや、そうじゃなくて…… 今日は家にいてよ」
「はぁ? まぁ別にいいけど……」
「じゃ、じゃあさ、後で、あの…… は、話があるから、部屋にいてくれないかな」
「ははーん……」
「な、何だよ!」
「いやいや、何でもない何でもない。じゃあ俺は部屋に行ってるから! じゃ!」
そう言って、耕一は意気揚揚と部屋に引き上げていった。
う。なんかやり難いな……。
やっぱり今日が何日か知ってればバレバレだよな……。
まったく! なにが 『じゃ!』 だ!!
「じゃあ梓お姉ちゃん、私自分のチョコ持ってくるね!」
「あ…… 私も……」
それでも初音と楓は嬉しそうに自分のチョコを部屋に取りに行った。
うふふ…… あんなに嬉しそうに笑って。
よっぽど耕一に自分の手作りチョコを上げるのが嬉しいんだろう。
……でもまあ、私も人のことは言えないか。
初音と楓と私、3人で連れ立って耕一の部屋の前まで来た。
それぞれの手には昨日苦労して作った手作りのチョコレート。
各々綺麗にラッピング済みだ。
「耕一お兄ちゃん。お邪魔しまーす」
「おう! いらっしゃい!」
うっ、だめだ。
いざ耕一の顔を見たら、気恥ずかしさが先に立ってどうも照れてしまう。
恐らく今の私は頬が真っ赤になっているだろう。
もっともそれは私だけでは無いらしく、隣にいる楓と初音も真っ赤になっている。
「あ、あのね耕一、き、今日はバレンタインだろ。だ、だからその……」
「分かってるって。俺にチョコレート作ってくれたんだろ。ありがとう、梓、楓ちゃん、初音ちゃん」
しどろもどろになる私を気遣ってくれたのだろう、耕一は茶化すでもなく穏やかにそう言ってくれた。
いつもは私と同じレベルで軽口を叩き合う耕一だけど、こういう面を見ると、やっぱり私よりも年上なんだなって思う。
優しく、そして大きく包みこんでくれるような…… そう、それはまるであの人のような……。
「う、うん。はい、耕一お兄ちゃん」
「ありがとう、初音ちゃん。初音ちゃんに手作りのチョコなんて貰ったら、初音ちゃんのクラスの男子に恨まれちゃうかな?」
「そ、そんなこと無いよぅ、だって私耕一お兄ちゃん以外の男の人にチョコあげた事無いもの」
「あはは、それは光栄だなぁ」
「耕一さん…… これ……」
「うん、ありがとう、楓ちゃん。楓ちゃんは今年受験だね。勉強のほうは大丈夫? 分からない事があったら力になるよ」
「はい。ありがとうございます、耕一さん」
「かわいい楓ちゃんの家庭教師だったら、金払ってでも買って出たいねぇ」
「そ、そんなこと…… 無いです……」
「あははは」
「こ、耕一、これ……」
「ありがとう、梓。梓のチョコはおいしいからなぁ、毎年楽しみにしてるんだぜ?」
「そ、そう? ありがと……」
「大学のほうはどうだ? 自宅から通える大学受かってよかったよな」
「うん、やっぱり私はこの街が好きだからね」
「そうか……」
それから私達は、耕一の部屋で色々なことを語り合った。
学校での出来事。
将来の夢。
時の経つのも忘れて、私も初音もそして普段は寡黙な楓でさえも夢中になって話した。
耕一は、穏やかに、そして真剣に私達の話を聞いてくれ、そして励ましてくれた。
「なんか今日は色んなことをお話しちゃったね」
夕食の用意をしながら、初音はやや上気した様子でそう話し掛けてきた。
「そうだね、やっぱり耕一も腐っても年上だからね」
「うふふ、梓お姉ちゃんたら」
「あはは」
ただいまー
「お、丁度よかった、千鶴姉も帰ってきたみたいだね、後はいいから皆を呼んできてよ」
「はーい」
5人での騒がしい、でも楽しい夕食の風景。
耕一が頻繁にこっちに来るようになってから、もう見なれてしまった幸せな家族の食事。
毎年あげている手作りのチョコレート。
でも今年は特別忘れられないチョコレートになった。
夕食を終えて、お風呂に入った私は千鶴姉にお風呂が空いた事を伝えようと、部屋の前まで来ていた。
こんこん
ノックをしたけど、中から返事はない。
何処に行ったんだ?
長い廊下を引き返しながら、私は庭のほうから話し声が聞こえる事に気がついた。
千鶴姉と、耕一の声だった。
「耕一さん、これ……」
「ははは、ありがとう千鶴さん」
どうやらチョコを渡しているみたい。
私はなんとなく期を逸して、そのまま廊下から二人を眺めていた。
2月も半ばとはいえ、まだまだ外は寒々としている。
そして今夜は満月だった。
中天の月は青々とした光を大地に投げかけ、静かに佇む二人を照らしている。
それはとても幻想的な光景だった。
「今日ね、梓達と色々話したよ」
「そうみたいですね」
「正直びっくりした。もう梓も楓ちゃんも初音ちゃんも小さな子供じゃないんだなってね」
「うふふ、耕一さんたら」
耕一はそこで一旦言葉を切って、また静かに語り始める。
「千鶴さん、いつまで“ふり”を続けるつもりなんだい?」
「……」
「料理が出来ない“ふり”。洗濯が出来ない“ふり”。掃除が出来ない“ふり”」
「……気がついて ……いたんですね」
「ああ」
分かってた。
私だってずっと前から分かっていたんだ。
千鶴姉が私達に気を使って、家事全般が出来ない“ふり”をしていた事を。
一昨日の晩も、夜中に耕一への手作りチョコを作っていた千鶴姉。
次の日も仕事だというのに、睡眠時間を削って。
「あの子達とはどんな話をなさったんですか?」
「色々な話をしたよ。今までのこと、そしてこれからの事」
「そう……」
「あの子達もこれからの事をしっかりと考えている。もう子供じゃないんだなってつくづく思ったよ」
「そう…… ですよね」
「ああ」
「分かってるんです、でも私の中ではあの子達はまだ小さな子供のまま……」
「どうして?」
「……」
千鶴姉はその問いには答えず、ふわりと耕一に背を向けて立つ。
月明かりに照らし出されるその姿は、鳥肌が立つほど幻想的で、私は思わず見とれてしまった。
「昔、そう、丁度私が小さな耕ちゃんと再開した少し後。私は内なる鬼に目覚めました」
「……」
「あの時、味覚が狂って料理が出来なくなったんです。一時的にですけど」
「味覚が?」
「ええ、叔父様に後で聞いた話では、柏木家の女性は鬼に目覚める時に皆そうなるのだそうです」
「じゃあ、梓や楓ちゃんも?」
「梓はまだ完全に鬼が目覚めていませんから。楓は私よりも鬼の力が目覚めるのが早かったですから、特に問題は無かったんです」
「そうか……」
「それまで、体の弱かった母に代わって、私が家事を全てやっていました。でも、そんな事があって、まだ小さかった梓に手伝ってもらうようになりました」
そう、あの時のことは今でも覚えている。
もっとも、まだ本当に小さかった楓や初音は覚えていないだろうけれど。
今まで本当においしかった千鶴姉の料理が、ある日を境にまったく口に出来ないくらい酷いものになってしまって。
幼いながらにとても不思議に思ったのをよく覚えている。
「まだ小さいあの子に苦労をかけたくは無かったんですが…… でも、しばらくするうちに、私は自分の考えが間違っていることに気がついたんです」
「間違っていた?」
「ええ。私の代わりに料理を覚えていく梓は、本当に楽しそうだった……」
別に料理が楽しかったわけじゃなかった。
大好きな。
そう、大好きな千鶴姉の力になれることが本当に嬉しかったんだ。
「だから私は味覚が戻っても、そのまま料理は梓に任せるようになりました」
「そうだったんだ……」
「それから、梓を手伝って、初音や楓も家事をしてくれるようになって」
楓や初音も多分私と同じような気持ちだったに違いない。
私も、楓も、初音も、千鶴姉の事が大好きだったから。
でもまだ小さかった私達は千鶴姉に守られる事しか出来なくて……。
どんな些細な事であれ、千鶴姉の力になれることが嬉しくて仕方が無かった……。
「でも、もうあの子達も守られるばかりの子供ではないのですものね……」
月を眺めながらそう呟く千鶴姉の後姿は、どこか物悲しく感じられた。
「ああ、でもきっとそんな千鶴さんの気持ちだってわかってくれているさ」
「耕一さん……」
「ふふ、ちょっぴり羨ましいな。俺には兄弟がいないから」
「うふふ、耕一さんはもう私達の家族の一員じゃないですか」
「ありがとう、千鶴さん」
「耕一さん」
月明かりに照らされる二人の影がそっと重なる。
まったく、寒い中よくやるよ。
私はそのままその場を後にした。
天井を見上げてそのまま自分の部屋に向かう。
そうしないと涙が溢れてしまいそうだったから……。
部屋に戻り、窓から月を見上げてみた。
月は真円を描き、煌々と大地を照らす。
その光は、なんだかとても暖かく、千鶴姉そのもののように感じられたのだった。
「こら! 千鶴姉! 耕一起こすのにいつまでかかってんだよ!」
「あ、あら梓」
「あ、梓、おはよう」
「まったく朝っぱらから二人して何してんだか」
「あ、梓! 私達は別に何も……」
「そ、そうだぞ!」
「ふーん……」
「何よ、その疑いの目は!」
「べっつにー?」
「くっ、まあいいわ、じゃあ朝ご飯にしましょうか」
いつも通りの朝
いつも通りの姉妹との軽口
でもそれはかけがえの無い
かけがえの無い日常の一コマ
私はこんなかけがえの無い日々の中を生きている
それはとても素敵な事なのだと
それはとても大切な事なのだと
今の私は
知っている