帰るべき場所
1999/12/07 久慈光樹
静まり返った部屋。
本来の部屋の住人はおらず、静寂のみが支配する冷たい空間。
しかし完全な静寂ではない。
よく耳を澄ませば、表通りを走る車の音や冬の冷たい風が窓をたたく音が微かに響いている。
質素な部屋だった。
いや、質素と言うよりは何も無い部屋と表現したほうが適切かもしれない。
古ぼけた机と椅子が1セット。同じく古ぼけたタンスが1つ。そしてこの時期には必需品とも言える石油ストーブが1つある他はめぼしいものが見当たらない。
空き巣に入った者が逆に困惑してしまうくらいに、この部屋には物が無かった。
あまりに生活感が感じられない。
ガチャリ
扉からカギを回す音が部屋に響く。
どうやら部屋の主が帰宅したようだ。
キィ
軽くきしむような音を上げて、ドアが開かれた。
冬の冷たい風が吹き込み、室内の窓ががたがたと音を立てた。まるで静寂を破った者に抗議するように。
郵便受けに溜まっていたダイレクトメールの類をまとめて引きずり出す。
ふぅ。
部屋の主は靴を脱ぐと、疲れたように一つため息をついた。
見たところまだ歳若い風に見えるが、そのため息はまるで人生に疲れ果てた老人のような趣を漂わせている。
肉体的な疲れから来るものではなく、精神的な、もっと内面から疲れ果てている者にのみ許されるような、そんな仕草だった。
部屋の寒さに辟易したのだろう。まっすぐに石油ストーブの前まで来ると、電源を入れる。
ガチャ
ぶぅぅぅん
石油ストーブに火が入る機械的な音が部屋に響く。
その音に満足したのか、部屋の主は手にしたダイレクトメールの束を机の上に投げ出すと、湯を沸かすために台所に向かう。
そこでお気に入りの紅茶が切れていることに気付き、また軽いため息をついた。
しばらく迷った後、妥協したのだろう、インスタントコーヒーを取りだしマグカップにスプーンで二杯、砂糖は無しのようだ。
そのうちにお湯も沸き、妥協の産物であるコーヒーができあがる。
部屋に戻る頃には石油ストーブの働きで、だいぶ寒さも遠のいていた。
そのまま机にマグカップを置き、椅子に腰を下ろす。
ふと視線を泳がせた部屋の主の目に、床に落ちた白い封筒が映った。
恐らくは机の上にでも置かれていたのだろう、帰宅した際に風で床に落ちたに違いない。
部屋の主は、やや慌てた様子で封筒を床から拾い上げた。
封筒の表紙には手書きでこう書かれていた。
『柏木耕一様』
そして裏の差出人には
『柏木楓』
とある。
その飾り気の無い質素な書き方が、書いた人間の性格を何より雄弁に物語っているように感じられて、部屋の主は口元に苦笑ともとれる笑みを浮かべた。
恐らくは何度も何度も読み返されたであろうその封筒は、良く見るといたるところがしわになっていた。
それでも大事にしているものなのだろう、封筒自体は純白を保っている。
しばらく封筒の宛名を眺めていた部屋の主は、何度かの逡巡の後、そっと手紙を封筒から取り出した。
前略
柏木耕一様。
お久しぶりです。楓です。
早いもので、私が京都に住むようになってもうすぐ丸3年になります。
こちらの生活にもすっかり慣れ、自分なりの生活のパターンができました。
3年前、突然京都の大学に進学したいと告げた時には、さぞやびっくりなさった
ことと思います。千鶴姉さんや梓姉さんにもずいぶん諭されましたが、結局押し切
ってしまったことがもう遠い昔のように感じられます。
最後にみんなと会ってから、もう2年近くになりますね。耕一さんと千鶴姉さん
の子供――千草ちゃんでしたっけ――も、もうすぐ2歳になるんですね。今がかわ
いい盛りだと思います。大切にしてあげてください。
近況を少し。
私は大学3回生になりました。こういう性格ですから、お友達は決して沢山いる
とはいえませんが、何とかやっています。そろそろ就職のことを考えなければいけ
ない時期になりましたが、やはり私はこちらに就職するつもりです。隆山に戻って
来てほしいと千鶴姉さん達には言われていましたが、私自身、心の整理がつくまで
は隆山に戻るつもりはありません。
5年前のあの夏、耕一さんへの想いを信じられなかった時から、私は一生あの地
へ戻る資格を無くしたのかもしれません。
私の中に眠る前世の記憶。あの時の私は自分の耕一さんへの想いが、柏木楓とし
てのものなのか、次郎衛門を慕うエディフェルの想いなのか分からなくなっていま
した。いえ、自分が楓なのかエディフェルなのかすら分からなくなっていました。
自分が自分で無くなってしまうようで、自分が違う存在になってしまうようで怖
かったんです。
だから私は逃げ出した。
耕一さんから、千鶴姉さんから、梓姉さんから、初音から、そして自分自身から
逃げ出したんです。それがどんなに愚かなことか分かっていたのに。
今の生活が寂しくないと言えば嘘になります。
寂しいです。
とても、とても寂しいです。
今も私の中で泣き叫ぶエディフェルと同じように。
私の心も泣き叫んでいるのかもしれません。
それでも
それでも私はみんなの元には戻れない。
全てを捨てて逃げ出した私にはその資格がないんです。
耕一さん。
この手紙を書いたのは、自分の気持ちにけじめをつけようと思ったからです。
あれから5年。耕一さんのことを想わなかった日は1日もありませんでした。
あなたへの想いと、そして例えようもないくらいの悔恨の中で私は生きてきました。
でも、もう終わりにします。
さようなら
あなたの声を抱いて、これから一人で歩いていきます。
私のままでどこまで届くか分からないけれど。
さようなら
これからも傷ついたり、もしかしたら誰かを傷つけてしまうかもしれない。
それでも私は一人で歩いていきます。
あなたの声を抱いて。
さようなら
耕一さん
手紙はそこで終わっている。
私は読み終えた手紙をそっと封筒に戻した。
出すことの無かった手紙。
耕一さんへの、そして姉妹への想いを断ち切ろうとして書いた手紙。
でも結局それを出すことはできなかった。
断ち切ることなど一生できないのかもしれない。
あの夏の日から5年、みんなの元から逃げ出して3年。
あれから髪も伸びた、体つきも大人らしくなった。でも心はいまだあのときのまま。
この部屋に必要最低限しか物が無いのも、ここが私の居場所じゃないことを無意識のうちに知っているからかもしれない。
一度帰ってみようか。
ふと、そんな考えが脳裏に浮かぶ。
千鶴姉さんと耕一さんの娘、千草ちゃんにも赤ん坊のときに一度会っただけだ。
千草ちゃんももう2歳。千鶴姉さんに似たかわいい女の子になっているだろう。
だめ、帰ることなんてできない。
私は心の奥底で泣きつづけるエディフェルと私自身に言い聞かせる。
耕一さんへの想いを断ち切るまでは、耕一さんに会うことはできない。何のために離れて暮らしてきたのか。寂しい思いをしてまで一人で生きてきた3年間を無駄にすることになる。
そう、逃げ出した私には帰るべき場所なんて無いんだ。
またため息が口を突いた。
癖になってしまっている。
ぼんやりと机の上に視線を泳がせた私の目に、先ほど投げ出したダイレクトメールの束がとまった。
その中ほどの封筒に書かれている文字から視線をはずせなくなる。
『柏木楓 様』
耕一さんの字だ。
梓姉さんや初音からはよく手紙が来るけれど、耕一さんからはこの3年間一度も手紙が来ることは無かった。
私は震える指先でそっとその封筒を取り出して、封を切った。
中には真新しい写真が一枚。それ以外には何も入っていなかった。
写真には耕一さんと千鶴姉さん、梓姉さんと初音。そして小さな女の子。
きっと千草ちゃんだろう。おめかしして、ちょっとおすまし顔で。
みんな幸せそうな笑みを浮かべている。
思わず私も笑みを浮かべていた。
幸せそうな、理想的な家族の写真だ。
写真の裏には耕一さんの字でこう書かれていた。
楓ちゃん、元気かい?
早く帰っておいで。みんな待っているよ。
たったそれだけの一文。
たったこれだけなのに……。
自分でも知らないうちに、私は涙を流していた。
私には帰るべき場所がある。
私を待っていてくれる人達がいる。
そう思えることが、こんなにも幸せなことだなんて。
今まで張り詰めていたものが、一気に堰を切ったように涙となって溢れ、私の頬を濡らした。
手紙を書こう。
想いを断ち切る手紙ではなく。
おもいっきり明るい。家族にあてた手紙を。
今はまだ帰ることはできないけれど、きっといつかはみんなの元へ帰ることができる。
そう信じて。
私は便箋を買うために部屋を出た。
先ほどまで身を切るようだった寒さも、今は逆に心地よく感じる。
手紙には何を書こうか?
そんなことを考えている自分がちょっぴりおかしい。
この3年間、こんな楽しい気分になったことは無かった。
ゆっくり考えよう。時間はたくさんあるんだから。
でも書き出しの台詞は決めてある。
耕一さん、みんな。
お元気ですか?
私は元気です。
寂しいときもあるけれど、みんなのことを思うと元気が出てきます。
出すことの無かった楓の手紙、最後の台詞はスピッツのアルバム「フェイクファー」収録「楓」の歌詞より引用いたしました。