わたしは猫が嫌い。



 昔は好きだった。でも今は嫌い。



 猫は
――怖い。

 特に今のような春先、夜中に鳴く猫の声は気が狂いそうになる。



 春先の発情期、夜に鳴く猫の鳴き声をあなたは聞いたことがあるだろうか。
 あれは猫だ、猫の鳴き声だ、と、何度自分に言い聞かせても、その声はわたしに違う物を想像させてやまない。

 そう、それはまるで
――











    もう、ゆるして。

       わたしを、ゆるして。











 


水中花

2006/5/3 Web掲載
2004/4/29 初出 
 久慈光樹


 

 


「あわわ、また寝坊したよー!」
 もう既にどの服よりも着慣れた感のあるスーツの上着を羽織る。左手首に巻かれた不自然なほどに無骨な緑色の腕時計(『じーしょっく』というらしい)は、今日もかなりキケンな、というかもう諦めた方がいいんじゃない? と天使さんが囁いてしまうくらいでんじゃーな時間を指し示していた。
「まずいよー、遅刻したらまた部長にどやされるよー」
「朝食はいいの?」
「食べてる時間ないよー」
「あらあら、明日からはもっと早く起きなさいね」
「前向きに善処する」
 昨日も一昨日もこんな会話があったような気がするが、それどころじゃない。ああっ、もうこんな時間!
 小さなパンプスに足を押し込み、玄関先まで見送ってくれるお母さんに元気に挨拶。
「行ってきまーす!」

 扉を閉めて、腕時計を再度確認。
 ヤバイ、ヤバ過ぎるよ……
「第一のコース、水瀬名雪さん。自己ベスト、駅まで十分。位置について、スタート!」




 大学を出て事務職として小さな会社に就職してから五年。あまりカカトが高くはないとはいえ走るのには適さないパンプスと、窮屈なスーツでの全力疾走にもだいぶ慣れた。いや、慣れちゃダメなんだろうけれど……
「今朝はお化粧のノリが悪かったんだからしょうがない」
 誰にともなく言い訳。
 二八にもなるとお肌の曲がり角をだいぶ過ぎてしまって…… っていけないいけない、ついつい思考がオバさんに。この歳になって彼氏の一人もいないあたりが自分でもかなり情けないものがあるが、まあいまは仕事が忙しくてそれどころじゃないのだ、うん。

「って、今日は出勤表の締日じゃない! うわーん! 間に合ってー!」

 走りながら叫んでいる人は、かなりカッコ悪い。






「水瀬さん、出勤表のチェック終わりました」
「はい、ご苦労さま」
 後輩の女の子が差し出した出勤表の紙の束を受け取る。朝一番で集まった数十枚の出勤表、後輩の女の子に内容をチェックしてもらって、終わったのが午後の一時。いくらなんでも仕事が遅すぎる、ここは少し言っておくべきだろうか。
「まあ、内容を再チェックしてからにしよ」
 要点さえ掴めば出勤表のチェックなどは一枚につきかかっても数分。忌引や代休などの特殊な休みはないか、残業時間の計算は合っているか。タイムカードのない我が社では、基本的に勤怠は社員の自己申告である。中には記載方法や単純な計算を必ず間違えて記載してくる人がいるので、経理部で毎月チェックしているのだ。
「ねえ、ちょっといい?」
 全社員分を再チェックすること一時間、デスクに置かれた出勤表は二つに分類されていた。
「これ、残業時間の計算が違う。こっちは出勤日数が違う。ねえ、あなた本当にチェックした?」
 意識して険しい視線を送る。入社二年目のその子は、うなだれてしまった。
「時間もかかり過ぎだよ、せめて一時間くらいで終わらせてくれないと困るんだけど」
 それから十五分くらいお小言をくれて、間違っているものだけを該当部署に戻すよう指示した。これもわたしがやってしまえばすぐなのだが、それではこの子が仕事を覚えない。
「いい? 三時までには再提出するように言って、そうしないと給与の支払いに間に合わないよ」
 はい、と蚊の鳴くような声で応えて、うなだれたまま自分の席に戻る後輩。
 周囲に流れる気まずい雰囲気。わたしは席を外した方がいいだろうと判断し、お手洗いに行くふりをして席を立った。


「ふう……」
 お手洗いの鏡に映ったわたしは、だいぶ疲れた顔をしていた。
 少しきつく言い過ぎたかもしれない。だが出勤表に限らず、後輩の子の仕事は総じて遅く、なにより正確さに欠けた。事務職にとって正確さに欠けるというのはある意味致命的で、少し厳しくとも今のうちに直させないといずれ致命的なミスを犯すだろう。
 馴れ合うのは簡単だ、わたしだってかわいい後輩に嫌われたくはないし、できることなら怒りたくなんてない。でもそれではあの子のためにならない。
「わたしもよく怒られたっけ」
 思い出して少し笑う。後輩の子くらいの時は、わたしも先輩に毎日のように怒られた。
 あの頃はなんていじわるな先輩だろうと恨んだものだったが、こうして自分がその立場になってみるとよく解る。怒られるよりも、怒る方がよほど辛いのだということが。
 今はもう寿退社してしまった先輩の気持ちが、ほんの少しだけ解った気がした。



「水瀬さん、済みませんでした今日は……」
 退社前、後輩の子がそう頭を下げにきた。決して悪い子ではないのだ、ただちょっと律儀すぎるかもしれないが。
「ううん、いいのいいの、わたしだってよくポカして先輩に怒られたんだから」
「水瀬さんがですか? 信じられません」
「あはは、わたしってドジだから」
 まだ勤務時間中だったが、少しくらいのおしゃべりなら構わないだろう。この子も仕事を離れれば大らかで楽しい子だから、話していて楽しい。
「これ話したっけ? いっかいわたし、給与計算間違えちゃったことあるんだよ」
「えっ! そ、それまずいんじゃ……」
「まずいなんてもんじゃないよ、結局その月は給与の振り込み間に合わなくってね、わたし全部署にお詫びの電話入れたんだから」
「うわ……」
「それに比べたらね、まだまだよ」
「そこ、自慢するところじゃないんじゃ……」
「あっ、言ったな」
 二人であはははと笑う。うん、やっぱり職場は楽しいのが一番だよね。
「そうだ、水瀬さん、今晩いっしょに食事に行きません?」
「今晩?」
「ええ、いいお店見つけたんですよ、こんど彼氏と行こうと思うんですけど、下見に行こうかなって」
「むっ、それはキミ、わたしに対するアテツケかね?」
「ち、違いますよぅ」
 どうせ彼氏もいませんよ、ふんだ。
「でもどうして水瀬さん彼氏作んないんですか?」
「あのねぇ、『作らない』んじゃなくて、『作れない』の」
「えー、だって水瀬さん綺麗じゃないですか、おかしいですそんなの」
「ふう、それはわたしじゃなくて見る目のない男どもに言って欲しいよ」
 そうこうするうちにチャイムが鳴った。今日の仕事はこれでお終いだ、経理部は非生産部門なので残業ができないのだ。仕事が終わらなかったらサービス残業せざるをえないのだが、今日はなんとか残業しないで済みそうだ。
「じゃあ先輩、食事行きましょう」
 あっといけない、まだ返事をしていなかった。後輩の子はもう行く気まんまんで申し訳ないのだけれど。
「ごめんね、今日はちょっと先約があるんだ」
「あ、ごめんなさい、デートでした?」
「まだ言うか。違うよ、相手は女の子。高校時代の同級生でね、久しぶりに時間が取れたから一緒に食事しようってことになってるの」
「そうなんですか、ざーんねん」
「ごめんね、また誘ってね」
「はい!」
 うん、やっぱりいい子だ。
 これで仕事もちゃんと覚えてくれればもっといい子なんだけどね……






 待つこと二十分、コーヒーのお代わりを頼もうかどうしようか悩んでいたときに、香里が両手を合わせてわたしの前の席に座った。
「ごめん! ちょっと仕事終わらなくて」
 美坂香里、わたしの高校時代の同級生にして今もこうして時たま食事をいっしょにするくらいには友人である女性。
「いいよいいよ、二年目くらいが一番大変な時期だしね」
「そうなのよ、今日もこっぴどくしぼられたわ」
 院に進んだ香里は、卒業後さる有名な商社に入社した。ちょうどわたしの後輩と同じ社会人二年目だったはずだ。
 よほど腹に据えかねたのか、そのまま上司に対する罵倒を高校時代と少しも変わりない小気味よい口調でまくしたてる。
 わたしはでもちょっとその上司に同情してしまった。立場的に同じ二年目とはいえ、わたしの後輩ほど大人しくはない香里(控えめな表現だ、これでも)に仕事を教えるのは大変だろう。南無。
「はいはい、ほらそろそろ注文しようよ」
「む、名雪に流されるとムカツクわね」
「誰かさんが遅れたからお腹ぺこぺこなのっ」
「うっ、悪かったわよ」
「そう思うのなら今日は香里の奢りね、わーなに食べよう」
「ちょっと待ちなさい、割り勘よ割り勘!」
「えー」
「えー、じゃない! だいたいあんたの方が社会人として先輩じゃない、ほんとだったらあたしが奢ってもらいたいくらいよ」
「わたくし香里さまみたいに有名商社勤めじゃないものですから、お給料が寂しいのでございますことよ」
「何語よそれ、ああもう、はいメニュー、早く選びなさい」
「わーい、ごちそうさま」
「割り勘だっちゅーに!」
 怒られた。



「んで? 今日はどうしたよの」
「うん?」
 なかなか悪くなかった食事を終え、コーヒーを飲んでいるときに、香里がそう聞いてきた。
「うん? じゃないわよ、なにか話があったんじゃないの?」
 割合に出不精なわたしをこうして食事に誘うのはいつだって香里からで、今日みたいにわたしから誘うことは稀だった。だからだろう、なにか話があるのだと香里は察しているようだ。
「祐一のこと、覚えてる?」
「祐一って……あの相沢祐一?」
「そう、あの相沢祐一」
 わたしの従兄妹でありクラスメイトだった人の名前を聞いて、香里は驚いたような表情を浮かべる。わたしの口から彼の名が出たことがよほど意外だったのか。
 だがそれも一瞬、すぐにいつものぜんぜん興味ないわって表情を浮かべ、コーヒーを一口。
「そういえばいたわね、そんな人も」
 二年生の頃に転校してきて、三年の春にまたすぐに転校してしまったクラスメイトのことなど、覚えていただけでも大したものよ。いまにもそんな声が聞こえてきそうだ。確かにあれからもう十年にもなる。
「で、それがどうかした?」
 ここまではほぼ予想通り、香里ならきっとこういう素っ気無い態度に出ると思っていた。
 でもこのネタを投げられて、果たして冷静でいられるかな香里。

「祐一ね、こんど結婚するんだって」

 ガシャン、と。
 荒々しくコーヒーカップが置かれる音に、ウェイトレスさんが非難めいた視線を送る。わたしも少しびっくりした。
「結婚する、ですって?」
「そうみたい、驚いた?」
「相手は誰よ?」
「そこまでは知らない」
 短い言葉のやりとり。香里の口調は矢のように鋭い。
「どうして名雪がそんなことを知っているのよ」
「どうしてって、親戚だもん、それくらいの情報は入るよ」
「まさか―― 向こうから連絡してきたの?」
「ううん。ほんとはね、お母さんに宛てに手紙が来てたの、勝手に読んじゃった」
 香里はそれを聞くと「そう」とだけ口にした。
「彼もさすがにそこまで厚顔じゃなかったってことか」
「香里」
 軽く嗜めると、ごめん、と短く口にして、再びコーヒーカップをあおった。
 わたしも同じようにコーヒーを飲む。
 それっきり、しばらく会話が途切れた。
 まさか香里がこんなに怒るなんて思ってなかった。どうもこの話題は失敗だったみたいだ。

「名雪もそろそろいい男見つけなさいな」
「ふんだ、香里にだけは言われたくないよ」
「なによそれ、あたしは関係ないじゃないの」
「関係なくないよ、そろそろヤバイよー? もうあと二年しかないよー?」
「……嫌な事を言うわねあんた」
「困るよー、この間なんか、お母さんにお見合い勧められたんだよわたし」
「大丈夫よ名雪、うちも似たようなもんだわ」
「香里なんてまだいいよ、あんなおっきな会社なんだもん、若い人いっぱいいるっぽいし」
「数いりゃいいってもんでもないわよ、それにあたしなんてまだぺーぺーだしね」
「うちなんて中小だからね、まず選択肢がないよ」
「……やめましょう、この話題は明らかに不毛だわ」
「……同感だよ」

 それからしばらく取り留めのない雑談をして、香里と別れた。
 去り際。
「さっきの話だけど。名雪、あなたもうあの男のことは忘れなさい」
 吐き捨てるようにそう言って、じゃあまたね、と香里は家の方向に歩き去った。
「忘れなさい、か……」
 どうも香里はなにか勘違いをしているようだ。
 彼女の事だ、おおかたわたしがまだ彼に未練を持っているとでも思ったのだろう。
 普通に考えればそう思われてもおかしくない。高校時代の最後の時期にあれだけの騒ぎを起したのだ、あれからもう十年も経ったとはいえ、未だに引きずっていてもおかしくない。
 だが。
「なんとまあ」
 的外れなこと。
 わたしがどんな意図でこの話をしたのか、彼女は解っているのだろうか。
 わたしは楽しみだったのだ、この話をしたときに香里がどんな表情をするのかが。
 結果は少し予想とは違っていたけれど、彼女の取り乱し様は見物だった。普段はめったに動揺を表に出さない彼女だったから、平静を装いつつわたしから必死に目を逸らす様はとても見物だった。
「ああそうか、気付いていたんだね香里」
 わたしがどうして今になってこの話をしたのか、どんな意図をもって香里にその話をしたのか、きっと彼女は解ってた。解っていて、とぼけたんだ。
 わたしが何も知らないと思っていたんだね、だからこそ、わたしに対する罪悪感から取り乱したんだね。
 そりゃ罪悪感も湧こうってもんだよ。
「だって、あの事を広めたのは、香里だもんね」
 そのときのわたしはきっと笑っていたと思う。
 喧騒に消えて今はもう後ろ姿も見えない香里に向かって、またね、と呟いて踵を返した。






 翌日、わたしは会社を早退した。
 具合が悪くなったとかそういうことじゃなく、前々から予定していた事だった。

 今日は、月に一度のカウンセリングの日だ。




「いらっしゃい名雪さん、何か飲む?」
「ありがとう、じゃあ紅茶ください」
 まるで友達に対するようなやりとり。最初のうちこそ戸惑ったが、カウンセリングとは元来そういう物らしい。確かに精神的に何らかの失調をきたしている人には、下手に構えた事務的なカウンセリングなどは逆効果なのだろう。
 まあもっともこの先生とももう十年来からの付き合いになるから、友達といっても間違いではないのだけれど。四十台前半くらいだろうか、その女性の先生は初めてわたしと会ったときよりもだいぶ老けたように思う。
 紅茶を飲みつつしばらくは近況報告。しばらくぶりに会う友人にするような感じで、会社での出来事や家での様子を話して聞かせる。
「最近はどう? よく眠れる?」
「そうですね、いまの薬に替えてからだいぶいいです」
「そう、でもラボナはきつい薬だから、量を減らした方がいいかもしれないわね」
 ラボナというのは俗にいう睡眠薬。バルビツール系なんとかという小難しい名前だったが、商品名でラボナと呼ぶのが一般的だと聞いた。先生の言葉通り、割合に強力な薬らしい。十年近くここに通っているわたしだでさえ処方されるようになったのは最近だ。
 なるほど確かに、たったの一錠飲むだけですうっと眠りに落ちることができる。
 そして何よりわたしにとってありがたかったのは。

 薬での眠りは、夢を見ない。

「どうする? 二錠から一錠に減らしてみる?」
「いえ、やっぱりちょっとまだ不安です」

           ・・
「だから今までどおり、二錠ください」









「ただいまー」
「お帰りなさい名雪、ごはんは?」
「あ、ごめんお母さん、食べてきちゃった」
「あらあら、それだったら連絡くれればいいのに」
「えへへ、ごめん、忘れてた」
「コーヒーでも入れましょうか?」
「あ、うん。先生のところで紅茶飲んできちゃったから、ホットミルクがいいな」
「はいはい、じゃあ着替えてらっしゃい」
「うん」
 トントンと階段を上り、二階の自室に入る。
 処方された薬の紙袋はとりあえず机の上に置く。窮屈なスーツを脱ぎ、部屋着に着替える。
 昔から少しも代わり映えのしない部屋。高校時代から変わったことといえば、枕もとを埋め尽くしていた大量の目覚し時計がなくなったこと、そして、窓際に並べられた色とりどりの水中花の瓶たち。
 水中花、水を満たした小瓶に造花を浸して密封したものだ。造花とはいえ、それは本物の花と比べても何ら遜色がない。むしろ水中に置くことによって本物にはない幻想的な雰囲気を醸し出している。
 赤、青、黄、白、黒…… 色とりどりの、大小さまざまな瓶に入れられた水中花たち。
 わたしはこの水中花が好きだった、本来は水の中になどあってはならない『花』という物体に、えもいわれぬ背徳感と美しさを感じる。
 もう幾度も幾度も、見飽きるくらいに見てきたにも関わらず、見るたびに目を奪われる。
 枯れない花、永遠に色あせる事ない鮮やかな花弁。水中という一種異様な状態に置かれることにより見る者を魅了する永遠の美しさ、そして強さ。

 わたしもこの水中花のようになれたのなら
――

「名雪ー、ミルク冷めちゃいますよ」
 階下から聞こえるお母さんの声に、はっと我に返る。着替えすら済ませていない格好で、じっと魅入ってしまっていたようだ。
「いまいくー」
 大声で応えて、いそいそと部屋着に着替える。


 夜は、よくない。
 いろいろと余計なことを考えてしまうから。




「会社の方はどう?」
 マグカップを両手で抱えて飲むわたしに、お母さんがいつものようにそう聞いてきた。砂糖を少し入れたホットミルクはとても優しい味がした。
「うん、まぁ忙しいかな」
「そう、あまり無理をしてはダメよ」
 はあい、と気の無い返事もいつものこと。
「そうそう、名雪、今週の日曜日あたりは会社お休みになりそう?」
「日曜日? んー別に休日出勤の予定は無いけど…… なにかあるの?」
「お花見。日曜日くらいにちょうど見ごろだと思うんだけど」
「お花見かぁ……」
 確かに駅前の桜もいま七分咲きといったところだ、週間予報でも来週までまとまった雨はなさそうだから、日曜日あたりにはさぞや綺麗に満開になるに違いない。
 出不精のわたしは正直ちょっと面倒だなんて思ってしまうけれど、お母さんが楽しそうだからたまにはいいだろう。お母さんからこういう話を切り出してくるなんて割合に珍しいことだし。
「いいね、行こうよ」
「香里さんとか、お友達もお呼びしたら?」
「そうだね、香里もたぶん日曜日は大丈夫だと思うけど、連絡しとく」
「よろしくね」
 お花見なんて随分と久しぶりのような気がする。
 前に行ったのは…… そうだ、今の会社に入社した時に新人歓迎会としてお花見に連れて行ってもらったのが最後だ。もう五年前になる。
 あの時は部長たちに慣れないお酒を飲まされて大変だった、いまの若い子はお酒くらい飲めて当然なのだろうが、わたしは未だにお酒がダメだ、恐らくは体質なのだろう。
 だがそれは良かったのではないかと思う。もしもわたしがお酒を飲める体質だったのなら、間違いなくお酒に逃避してしまっていただろうから
――



「ねえ名雪」
 お母さんとはもう長い付き合いだ、ちょっとした声の調子や話し方から、どんな話をしようとしているのかだいたい察しがつく。いまお母さんの声から感じられるのは、躊躇い。話していいものかどうか、自分でも迷っているのだろう。お母さんにしては珍しいことだ。
 そして、お母さんが躊躇うようなことで、いまわたしに話さなければいけない話題といえば一つしかない。

「祐一さんね、結婚されるんですって」

 もし、わたしが何も知らずにその言葉をいまこの瞬間に聞いていたら、果たしてどうしただろう。絶望するのか、それとも泣くのだろうか。
 でもそんな心配は無用だ、だってわたしは既に知っているのだから。
「えっ、そうなんだ」
 少しわざとらしいくらいがちょうどいい。さすがのわたしも勝手に手紙を読んだなんて知られたら気まずい。
「そっかー、祐一に先越されちゃったかー」
 あっけらかんとしたわたしのその言葉に、お母さんは傍から見てもそれとわかるほどにほっとした表情を浮かべる。
 わたしが泣き叫ぶとでも思ったのだろうか、悲嘆に暮れてまた馬鹿な真似をするとでも思ったのだろうか。

 そう、あの時のように。

 でもそれは仕方のないこと。
 いまさらわたしを信用して欲しいなんてのは虫の良すぎる考えだ。
「で、で? お相手はどんな人?」
「そこまでは知らないわ。姉さん
――祐一さんのお母さまから手紙が来ただけだから」
「ふーん」
 気にならないと言えば嘘になる、だが正直いうと相手のことになど興味は無かった。わたしにとって意味があったのは『祐一が結婚する』という一点のみで、それすらもよく知った幼馴染が結婚するという好奇心以上のものではなかった。
「式はいつ頃なの?」
「再来月らしいわ」
「いいなぁ、ジューンブライドかあ。でもよかった、わたし安心したよ」
「え?」
「祐一、幸せなんだね」
「……」
「うん、祐一が幸せになってくれて、よかった」
「名雪……」
「わたしね、お母さん。祐一が幸せになってくれるのなら、それだけで十分だよ」
「名雪、あなた
―― 大人になったわね」
 嬉しそうに、でもそれでいて少し悲しそうにそう呟くお母さん。
 わたしはそれを聞いて
――


 あまりにも馬鹿馬鹿しくて、笑い出しそうになった。


 滑稽だ、あまりにも滑稽だ。
 大人になった?
 笑わせないで欲しい。あと二年で三十になろうという娘をつかまえて『大人になった』もないものだ。それになに? 『祐一が幸せになってくれるのなら、それだけで十分だ』ですって? お笑いだ、わたしは果たして正気だろうか。
 十年前のわたしだったら、純粋にそう思ったかもしれない。
 ああ、素直で純粋だった十年前のわたし! 本当にあの頃のわたしは、もう殺してやりたいくらいに純真だった。
 何も知らず、何も疑わず、世の中はすべてステキなことばかりで、自分の周りの人たちはステキな人ばかりだと信じて疑わなかった愛すべき愚かなわたし!

 この十年で、わたしは変わった。いや、より正確に言うのなら、十年前のあの時点を境にわたしを取り巻く世界はなにもかも変わってしまったのだ。それともやはりわたし自身が変わったのか。
 ああそうか、そうかもしれない、そういう意味でいえば、お母さんの言うとおり、わたしはきっと大人になったのだ。
 お母さんのように優しくて、お母さんのように大らかで、そしてお母さんのように卑怯な、そんな、大人に。
 あの時のお母さんの言葉が未だに忘れられない。
 この世で二人きりの家族、物心ついたときからずっと二人だけで生きてきた。信じていたのだ、他の誰よりも、ひょっとしたら自分自身よりも。
 あの日あの言葉を境に、わたしは変わり、わたし取り巻く世界が変わり、そしてお母さんとの関係も変わった。もうわたしは彼女を無条件で信頼することはできないし、きっとわたしもまったく信用されていない。
 これがいまの、わたしとお母さんの形。

「ごちそうさま、わたしもう寝るね」
「はい、おやすみなさい、名雪」

 おやすみなさいと返して、居間を出際、振り向いて伝えてみようかと思った言葉がある。






ひとごろし





 果たして、お母さんはどんな顔をしてわたしを見るのだろう。
 くすり、と口の端だけで笑って、その言葉は想像の中だけに留めておいた。
 そのまま振り返ることなく、わたしは居間を出ていった。









 部屋に戻ると、わたしをいつも迎えてくれるのは水中花。
 変わることなく美しいそれに、ほんの少しだけ胸を掠めるのは寂寥感。そして、後悔。
「今日はやっぱり、よくないね」
 ひとりごち、そのままベッドに腰掛けた。
 今日は精神状態があまりよくない、ここのところ安定していただけに少しの刺激に過剰に反応してしまっているような気がする。
 カウンセリングで学んだ自己分析。なるべく自己を客観視して精神の内面を探っていく。
 冷静に、冷静に。

 不安定になっている要因はひとつ。
 彼の結婚の報。それは自分で思っていたよりもわたしにとって衝撃だったのだろう。お母さんが申し訳なさそうに彼の結婚を告げたとき、いやもっと言えば彼のお母さまからの手紙を読んだとき、わたしの中に芽生えた感情はいったい何だったか。

 悲しみか、絶望か。怒りか、諦めか。それとも
――殺意か。

 さまざまな色が混じりあいすぎてもうそれがどんな色をしているのかが判別できない。
「もう、十年になるのにね」
 ためいき。
 わたしはベッドから立ち上がり、窓際に置かれた水中花たちの中から一つの瓶を取り上げる。お気に入りの白い花だ。
『なにか熱中できるものを見つけなさい』とカウンセリングの先生に言われ、集め始めた水中花。最初はただなんとなくだったそれも、いつのまにか思いのほか熱中できる趣味になった。街の店などではなかなか手に入らない種類のものは、通信販売を利用してまで手に入れた。
 カタログを眺めながら次はどんな色を飾ろうか、どんな形の瓶を置こうか、そんなことをいろいろ考えるのは楽しかった。
 そしてもう一つ、わたしには熱中できるものがある。
 手に持った水中花の瓶を置き、机の上に置いたままになっていたハンドバックを手にとる。いつも持ち歩いているハンドバック。その中から、なんのラベルもついていない小さな薬の瓶を取り出した。小瓶の中には真っ白な錠剤。
 一旦それを机に起き、今度はお医者さんからもらってきたばかりの薬剤袋を取り出す。中身はラボナ、睡眠薬だ。カウンセリングは月に一度だが、薬自体は一週間分しか処方されないために週に一度は取りに行かなければならない。なぜそんな面倒なことをする必要があるのかというと、ODを防ぐためだ。
 OD、「over dose」の略で、薬物過剰摂取のことだ。
 リストカットと並ぶ自傷行動、わたしが服用しているような睡眠薬は多量に摂取すれば文字通り自殺行為となる。特にいま処方されているラボナはバルビツール系の強力な睡眠薬であり、その致死量はたったの三十粒。わたしの一日の処方量が二粒だから、十五日分ほども溜めれば十分に致死量足りえる。
 もっとも、そんな仮定は無意味だが。
 本当の意味での「睡眠薬」を常用している者は、一晩たりともそれ無しでは眠ることができない。寝つきが悪いであるとかよく眠れないなどといったレベルの患者には、ラボナのような強力な睡眠薬が処方されることは無いのだ。このレベルの薬が処方されるのは、精神的に障害があり、結果として無意識に睡眠を拒否しているような、そんな患者に限られる。
 テレビや本などで言われているほど睡眠薬というものは容易には手に入らない。有名なところでハルシオンがあるが、あれはむしろ睡眠導入剤であり、それすらも現在の社会ではきちんと医師にかからないと手に入れることはできない。ましてやラボナに代表されるバルビツール酸系睡眠薬などは、よほど長く通院している症状の重い患者でさえ医師によっては処方しないし、処方したとしてもその量は必要最低限に限られる。
 このように、現在では睡眠薬と呼ばれる種類の薬は非常に厳しい取り扱いが求められ、医師も昔ほど容易には処方しなくなっている。
 にも関わらず、ODにより自殺を図る者は後を絶たないのが現状である。容易には手に入らない睡眠薬をいかにして大量に入手するのか。
 精神系の病は非常に診断の難しい病である。症状はさまざまだが一番の判断材料は患者からのヒアリングであり、特に不眠の類は自己申告がすべてとも言える。極端な話、ODを意図して患者に虚偽の申告をされたとしても医師は気付き難いのである。
 そうして患者は自分に必要な量よりも多い睡眠薬を入手し、毎日少しずつ溜めていく。

 そう、いまのわたしのように。

 毎日肌身離さず持ち歩いているこの小瓶の中身は、ここ数ヶ月少しずつ少しずつ溜めておいたラボナなのだ。いまのわたしならば精神的に安定している日であれば一錠でもなんとか夜を乗り切ることができる。昼間カウンセリングの先生に言われたとおり、そろそろ一錠に減らす時期なのかもしれない。
 だがわたしは二錠欲しかった。
 なにも自殺しようという明確な意図があるわけではない。毎日の仕事は忙しいなりに充実していたし、人間関係に怯えることもなくなった。
 十年という時間が、わたしを癒してくれた。もう死にたいと思うことは少なくなった。
 これは、お守りのようなものだ。
 逃げ道、と言い換えてもいい。これさえ飲めばすべてから解放されるという精神的な通風孔。
 一般に三十錠で最低致死量といわれるラボナだが、小瓶の中にはまだ二八錠しかない。まあもっとも三十錠が致死量というのはあくまで最低量であり、確実に死にたいのならもっと多量に飲まないとダメだろう。それにただ大量に飲めばいいというわけでもない。強い薬はそれだけ身体が拒否反応を示し、大概は死に至る前に嘔吐してしまうのだ。確実性を求めるのならば、抗嘔吐剤を併用するべきだ。
 だがそこまでする気はない。先ほども言ったとおり、わたしは死にたいわけではないのだから。
 だからこそ、これは「お守り」なのだ。

 しかし、いまはまだ二八錠しかないこの小瓶の中身が最低致死量である三十錠になったとき、わたしはいったいどうするのだろう。
 また自殺を謀るだろうか。
 何の感慨もなく集め続けるのだろうか。
 それとも
――

 いまはまだ、わからない。
 わからないけれど、とりあえずあと二錠。三十錠溜めたからといって何が変わるわけではないのだけれども。

「今日は、どうしようか」

 やめるべきだ。
 今日は二錠飲んで眠るべきだ。
 精神的に不安定になっていることは自覚しているはずだ。
 やめるべきだ。
 今日はぜったいに、やめるべきだ。



 そうしてわたしは、二錠取り出したラボナの錠剤、その片方を。




 小瓶に、落とした。















 そうしてわたしは夢をみる。
 十年前の、夢を。





「祐一の背中、広いね」
 彼の背中に飛び乗って、耳元でそう囁いた。
 春、桜散る通学路。
 わたしはとても、幸せだった。



 幸せだったのだ。




 彼のことを好きになったのは、いつ頃からだったか。
 告白されたときか、この街で再会したときか、それとも、七年前に初めて出会ったその瞬間からだったのか。
 とにかく、水瀬名雪は相沢祐一に恋をし。
 そしてその恋は報われ、わたしたちは恋人同士と呼べるに関係になった。




「ここにいたんだ」
 リビングでテレビを見ていた祐一の隣に座る。
 ちらりとこちらを見ただけでまたすぐにテレビに視線を戻してしまう祐一に抗議するように、抱きついた。
「ゆういちー」
「おいあんまりくっつくな、暑苦しい」
「えへへ、ごろごろ」
 喉を鳴らすな猫かお前は、という祐一の言葉に、ねこさんだよーと甘えてみる。祐一はこれでいて照れ屋で、誰もいない家の居間でさえ少し甘えるとすぐ真っ赤になるので面白い。
「このやろ」
「わっ、くすぐり禁止! あはは、あははは」
 しばらくそうして二人でじゃれあっていたが、ふと、祐一があのわたしの大好きなとても優しい声で言った。
「秋子さん、元気そうでよかったな」
「……うん」
 今年の冬に交通事故に遭ったお母さん。いまはまだ入院中だけれど、退院の日もそう遠くはない。今日も二人でお見舞いに行き、元気な姿を見てきたところだった。
「早く退院できるといいな」
「うん!」
 お母さんがいないのはやっぱり寂しい。早く退院して欲しいと、心から思った。
「あ、でもほんのすこーしだけ、もうちょっといまのままでもいいかな、なんて……」
「なんでだよ」
「だって、祐一と二人っきりなんだもん」
 言って、またぎゅっと抱きついた。ソファーに座る祐一に跨るようにして抱きつき、唇についばむようなキス。
 祐一が押し付けられたわたしの胸に手を伸ばす。まったくもう、エッチなんだから。
「祐一は動いたらだめ」
 今日はわたしが思う存分べたべたするって決めたの。
「えへへ、ゆーいちー」
 首に手をまわして、彼の首筋に顔をうずめる。
「くすぐったい」
 そう言って身をよじる祐一を逃がさないように、身体ごと押し付ける。祐一のにおいがするよって言ったら、このへんたい、と返された。相変わらず失礼だ。
 諦めたのか、呆れたのか、祐一はわたしのされるがままに任せて、髪の毛を撫でてくれる。
 その手が優しくて、嬉しくて。わたしは彼の身体に乗ったまま、さらに身体を密着させる。少しでも多く祐一を感じられるように。
「ねえ祐一、キスして」
「動いちゃダメなんじゃなかったのか?」
「いじわる、んっ……」
 最初はついばむように、やがて貪り合うように、キスを交わす。
 頭の後ろを押さえられて舌で口内に舌を挿し込まれると、頭がジーンと痺れたようになって何も考えられなくなる。
 せっかく優位に立っていたのに、キスひとつで簡単に覆されてしまった。ちょっぴり悔しいのでわたしもがんばるのだけれど、幾度か身体を合わせて祐一はコツを掴んだみたい。いつのまにか右手がわたしの胸にまわされ、下から掬い上げるようにゆっくりと揉まれる。
「んふ……ダメだよ……んっ」
 抗議しようとした口がまた塞がれる。絡められる舌、交わされる唾液。
「んふっ……あっ」
 まだ昼間なのに。
 そんな思考が僅かに脳裏を過ぎったが、そんな理性的な思考はすぐに快楽の波に飲み込まれて消えた。




「帰ったぞー」
 リビングで立ったり座ったりを繰り返すこと二十三回、待ちに待ったそのの祐一の声に、飛び出すように廊下に走り出た。
「あらあら、家の中を走っちゃダメよ名雪」
 両手に荷物を持った祐一の後ろから、お母さんがそう言って笑っている。
 頭の包帯が痛々しい、銀色の簡易松葉杖をついた姿がぎこちない。だけどそれでも、お母さんは再びこの家に帰ってきた、帰ってきてくれた。あの交通事故から、三ヶ月後のことだった。
「お帰り、お帰りなさい……お母さん」
「あらあら、泣き虫ね、名雪は」
「そんなことない…よ……」
「……心配掛けたわね」
「うん…うん…… まったく、だよ」
「ごめんね、名雪」
「もう、もういやだよ? どこにもいっちゃ、やだよ?」
「ええ、もうどこにも行かないわ」
「ぜったいだよ?」
「うん、ぜったいに」
「お母さん、お母さん……」
 まるで小さな子供のように抱かれて泣くわたしを、お母さんは優しく抱きしめてくれた。祐一は、そんなわたしたちを優しく見守ってくれていた。

 またこの家で、三人で。
 わたしと祐一と、そしてお母さん。
 三人で、ずっと暮らしていける。

 この時のわたしは、そう信じて疑っていなかった。




 それからの約一ヶ月、お母さんのけがはほぼ完治し、いつも通りの日常がやってきた。
 事故前と変わったことといえば、わたしと祐一が頻繁に肌を重ねていたことだろう。
 そんなわたしたちの逢瀬を、恐らくはお母さんも薄々感づいていただろうが、何も言わなかった。
 わたしたちは、若すぎた。いや、幼すぎたというべきか。
 無軌道とも呼べるほどにわたしと祐一はお互いの身体にのめり込み。



 そして、わたしは妊娠した。



 高校三年生の、春のことだった。



「えっと……」
 公園のベンチで途方に暮れる。手には、十字の印がくっきりと浮かび上がった妊娠検査薬。これ以上はないというくらいにわかりやすい、陽性反応だった。
 生理が十日も遅れるのはあまり重くないわたしにとってはありえないことだったけれど、それでも半信半疑だった。基礎体温とかそういうものはぜんぜんつけていなかったので、ただの生理不順だと思っていた。
「……とりあえず家に帰ろ」
 高校生で妊娠。それはかなり笑えない状況であることを、頭では理解していた。
 だけど正直、実感がなかったのだ。
 だってそうだろう、そんなのはよく見る月曜のテレビドラマの中だけの話で、まさか自分自身がそんな状況になるなんてまったく思ってもみなかった。
「まあ、なんとかなるよね、きっと」
 度し難いことに。
 このときのわたしは、本気でそう思っていたのだ。


「んあ……?」
 わたしね、赤ちゃんできちゃったみたい。祐一にそう伝えた時の、彼の第一声がそれだった。「んあ」はないだろうと思ったが、指摘するのはやめておいた。
「えっと……誰の?」
「叩くよ」
「あ、いや、俺と名雪の、だよな。ああ、わかってるわかってる」
 わかってないよぜんぜん。ためいき。
「ねえ、どうしよう祐一」
 自分以外の人に口に出して伝えることで、やっと少し実感が湧いてきた気がする。問い掛けるわたしの声は、自分でもびっくりするくらい小さくて、不安に揺れていただろう。
「ばか、不安そうな声出すな」
「だ、だってー」
「責任、とるよ」
「え」
 それは心から期待していた言葉だったにも関わらず、すぐには理解できなかった。きっとあまりにもあっさりと望んだ答えをもらえたからだろう。
「祐一、それって……」
「ああ、俺だって男だ、責任を……いや、そんなんじゃないな」
 そう言って彼は、祐一は、わたしに向き直るとこう言った。
「産んでくれ名雪、それから、高校を卒業したら結婚しよう」
「ゆう、いち……嬉しい.……」
 ああ、なんて、ことだろう。
 なんて幼い、愚かなわたし。そして、彼。
 現実も、未来も、このときのわたしたちはなにも見えていなかった。『妊娠』というドラマのような展開に、ドラマのような対応をして、そんな自分たちに酔っていたのだ。自分たちが母親に、父親になるのだということを、まったく解っていなかった。
 この先に待ち受けるであろうどんな困難も、辛い現実も、お互いがいれば渡っていけるのだと、無邪気にそう信じ込んでいたのだ。


 現実は、すぐにわたしたちに牙をむいた。
 その日の夜、わたしと祐一はさして考えることもせず、お母さんに告げた。いままで付き合っていたこと、そしてわたしが妊娠したことを。
 わたしも、そして恐らくは祐一も、お母さんならばきっと認めてくれるものだと思っていた。もちろんお小言のひとつは頂戴することを覚悟してそれなりに緊張してはいたけれど、最後は祝福してくれるのだと信じて疑っていなかった。
 だから、話を聞いて黙り込んでしまったお母さんの態度が理解できなかった。
「あの、お母さん?」
「名雪」
 わたしの言葉を遮るように、お母さんが口を開く。
「あなた、自分が言っていることがどういうことか解っているの?」
 そのときのお母さんの声は、いままで聞いたこともないような厳しいものだった。
「祐一さん、特にあなたに聞きたいわ」
 名前を呼ばれた祐一が、隣でぴくりと身を震わせたのがわかった。
「あなたたちは赤ん坊を産みたいという、それがどういうことか、何を意味しているか、本当に解っているの?」
「わ、解ってます」
 祐一のその返答を聞いて、お母さんは食卓に両肘をつき、両掌を組んで額に当て目を瞑った。まるで何かに疲れ果てたかのように。
「いいえ、あなたは何も解ってはいない。高校生が子供を産んで育てるなんて、現実問題としてそんなことは不可能よ」
「そ、そんな、わたしたちは本当に考えて……」
「名雪は黙っていなさい、私は祐一さんと話をしているの」
 そう言って顔を上げると、お母さんはわたしを一顧だにせず、祐一に言葉を続ける。その険しい視線に、わたしはなにも言えなくなってしまった。
「倫理観的なものはいまは置きましょう。一番現実的な話をするのなら、子供の養育費はどうするつもりなんですか? まさかこのまま両親に負担してもらうつもりですか?」
「い、いや、俺が高校をやめて働いて……」
「高校中退では満足な職に就くことすらできないでしょう、本当にそれで子供と妻を養っていくことができるのですか?」
「そ、それは……」
 言いよどむ祐一から視線を外し、そこで初めてお母さんはわたしに顔を向ける。
「あなたたちは何も解っていない。子供を産むということがどういうことなのか、結婚するということがどういうことなのか、何も」
 その言葉に、その口調に、そしてその視線に、わたしは再び何も言うことができない。そんなわたしと、お母さんは宣言するように言った。
「堕ろしなさい、名雪」
 その言葉を聞いたとき、わたしはいったいどんな顔をしていたのか。目を逸らしたお母さんを呆然と見つめる。
 頭の中が真っ白で、なにを言われたのか理解できない。
 思ってもみなかった言葉。諸手を上げて賛同してくれることを期待していたわけではないけれど、それでも最後は解ってくれると信じていたのに。
「中絶しなさい、いまならまだ……」
「やめてよ!」
 叫んでいた。お母さんの口からこれ以上こんな言葉は聞きたくなかった。
「なんで! なんでなのお母さん! 嫌だよ、わたしそんなの嫌だよ!」
「嫌だとかそういう問題ではないの。名雪、あなたは生まれてくる子供に対し、責任が持てるの?」
「持てるよ!」
「名雪」
「だって決めたんだもん、わたしは祐一と結婚するって、そう決めたんだもん!」
「名雪!」
 何が起こったのか、咄嗟には解らなかった。
 ぴしゃん、という笑ってしまうような音と、頬への軽い衝撃。
 お母さんに叩かれたのだと理解するまでに、しばらく時間がかかった。
「あなたは! 生まれてくる子供のことなんて、なにも考えていないじゃないの!」
 この時のわたしは、お母さんが何を言っているか解らなかった。だから、突然のことに反発すら忘れて、呆然とすることしかできなかった。
 祐一はわたしの横で何も言えずに立ち尽くしていた。そんな彼にお母さんは向き直り、先ほどの激情がまるで嘘だったかのように冷静に告げる。
「これから祐一さんのご両親に連絡します、話はそれからにしましょう」
 言葉通りお母さんは外国にいる祐一のご両親にその場で電話をする。その間、わたしも祐一も何も言葉を発すことができず、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
 わたしたちはここにきてやっと、自分たちがしでかしたのがとんでもない事態だっただということを悟ったのだ。

 そして、ご両親の帰国が二日後に決まった。



 わたしは学校を休み、いつかのように部屋に篭った。お母さんと顔を合わせたくなかったし、祐一のご両親と会うのはもっと怖かった。だからご両親が帰国したときに祐一とどんな話をしたのかはわからない。
 おかしな話ではあったが、お母さんに反対されたことでわたしは逆にお腹の子供のことを真剣に考えるようになったのだと思う。いまはまだぜんぜん感じないけれど、自分の中に確かな命が宿っているということをとても誇りに思い、お腹の中の命をとても愛しく思った。
 絶対に中絶などさせない。お腹の中に宿る確かな命、そう、我が子は必ず守り通してみせる。わたしはそう決めていた。
 本当に、このときのわたしはなんて
――




「名雪、俺だ、祐一だ。開けてくれ」
 ドアの外からその言葉が聞こえてきたとき、わたしは飛びつくようにしてもどかしく鍵を開けると、すぐにドアを開けて祐一に抱きついた。
「祐一、祐一……」
 お母さんに叩かれた晩から一週間。学校にも行かず、食事もろくにとらず、誰にも会わずに部屋に篭っていたわたしは、もうどうしようもないくらいに不安だったのだ。ご両親と話をしていたらしい祐一は一度も会いにきてはくれず、同じ家にいるのにわたしたちはばらばらだった。
「ねえ祐一、伯母さんたちは?」
「……帰ったよ、今朝」
 どうだったのか、説得することはできたのか。
 不安で、心細くて、すぐにでもそれを聞きたかったけれど、祐一の声は沈んでいて。悪い予感が寒風のように胸を凍えさせる。
 そして
――
「……来週、親父たちのところに行くことになった」
「え?」
 思いもしなかった言葉。祐一のご両親が滞在しているのは確かスウェーデンだったか。向こうでもう一度話し合いをするのだろうか。
「そ、そうなんだ、それでどのくらい向こうにいるの?」
「ずっとだ」
「え?」

 なにを。

「この家にはもう戻ってこない。俺、両親と暮らすことにした」

 なにをいっているんだろうか、ゆういちは。

「え……? なに、それ……」

 思わず彼の身体から手を離した途端、祐一は、その場に両膝をついて。


 わたしに、土下座をした。


「済まない! 名雪、本当に済まない!」
「ゆう、いち?」
 彼が何を言っているのか理解できない。
 向こうで暮らす? ここから出て行く? だって、結婚するって……
 呆然とするわたしに、彼は。
 祐一は、言った。



「子供は、堕ろして、くれ……」







 それから祐一とどんな会話があったのか、実はよく覚えていない。気付くと部屋にはわたし一人で、ベッドに腰掛けていた。
 祐一はどうしたのだろう。出ていったのか、それともわたしが追い出したのか。思い出そうという気力すらない。
 なにもかもが、どうでもよかった。あれほど感じていたはずのお腹の子を思う気持ちも、もうなにも感じない。それどころか、祐一に対する感情さえも麻痺してしまっているようになにも感じることができない。
「堕ろしてくれ、か……」
 なぜだか急に可笑しくなって、くすくすと笑った。
 お母さんと同じこと言うんだね、祐一。
 最後まで、彼はわたしの目を見なかった。
 それは罪悪感からか、それとも、部屋の外で息を殺してこちらを窺っていたお母さんの手前なのか。
 ああ、もうそんなことはどうでもいい。
 祐一も、お母さんも、お腹の子も、そしてわたし自身さえも。
 もう、どうでもいい。


 子供を堕ろしたのは、それから三日後のことだった。






「じゃあいってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
 中絶から一ヶ月、わたしとお母さんの関係はなにも変わらなかった。広い家に二人きりの家族、わたしの冗談でお母さんが笑い、時にはちょっとしたいじわるを言われてわたしがむくれる。そんないままで通りの関係。
 だがしかし、言うまでもなく、それは表面上のこと。
 一見何も変わりのないわたしたち二人の関係は、その実、内面では今までとはまったく異なっていた。心の奥底ではわたしは彼女をまるでまったくの他人のように信頼することはなく、彼女にしてもわたしをきっともう二度と信用することはない。
 わたしと彼女の関係は、このとき以来まったく変わることなく十年も続くことになる。

「おはよう」
 教室に入っても、誰もわたしの声に応えてくれる人はいない。ちらりとこちらに目線を向ける人はいても、わたしと目が合うのを避けるようにすぐに逸らされてしまう。いじめに遭っているというわけではない。恐らくクラスメイトたちは誰もが、わたしに対してどういう態度をとればいいのかわからないのだろう。
 相沢祐一の突然の転校、そして同居していたわたしの一ヵ月間にも渡る欠席。狭い街のこと、噂はすぐに広まり、登校を再会したわたしに声を掛けてくれる人は誰もいなくなった。
「おはよう、名雪、今日は珍しく早いわね」
 いや、誰もいないというのは間違いだ。
「うん、香里は相変わらず早いね」
 美坂香里、わたしの唯一の親友は、まるで何事も無かったかのように態度を変えることはなかった。
 学校を欠席している間、お見舞いに来てくれた香里には何もかもを話した。正直、どんな顔をされるか恐かったのだが、彼女はわたしのために泣いてくれ、怒ってくれた。彼女だけがわたしの味方だった。
「じゃあまた後でね、名雪」
「うん」
 もう家にも学校にも居場所のないわたしにとって、彼女と顔を合わせている時だけが、生きていることを実感できる時間だったのかもしれない。


「では先生、お世話になりました」
 頭を下げて、職員室を後にする。この日、正式に陸上部を退部した。
 未練がまったくないというと、嘘になる。わたしはそれなりに陸上というものに真剣に取り組んでいた。こんなことで止めなければいけないのを悔しく思う心は確かにあったと思う。
 だが、それ以上に。なにもかもがどうでもよかったのだ。
 わたしにはもう、何もなかったから。

 夕焼けの校舎。廊下を歩き下駄箱に向かう途中で、わたしは教室に忘れ物をしたことに気付いた。部活で使っていたシューズを、忘れてきたのだ。恐らくもう二度と使うことはない。だからこそ、持って帰ろうと思っていたのに。
 どうしようか迷う。別に明日でも構わない、わざわざ教室に取りに戻るほどではない。だが、幾ばくか残る未練を断つためにも、あれを学校に置いておくべきではないような気がして。
 結局、迷った末に取りに戻ることした。



 今にして思えば。
 このとき、教室に戻らなければ。そのまま帰っていれば。



 本当に何もかもを失うことはなかったのに。





「……だよな」
 教室に誰かいる。
 思わず身構えてしまう。少し前までなら笑顔で入っていけた夕暮れの教室、だがわたしにとって、そこにはもう自分の居場所などまったく無かった。
「あの水瀬がなあ、信じられねえよ」
 わたしのことを話している。
 唇を噛みしめ、扉の脇の壁に背中をつけて立ち尽くす。
 聞きたくない、なにを言われているのかだいたい想像がつく。聞きたくない、聞きたくないはずなのに。
「……まあな」
「同居してたんだろ? 遅かれ早かれこういう結果になったんじゃねぇの? 相沢のやつ手ぇ早そうだったし」
「……」
「おっと悪ぃ、お前と相沢は仲良かったんだっけ」
「知らねえよ、あんなヤツ……」
「相手孕ませた挙句に、とっととトンズラしちまうとはなあ」
「……」
「お前、水瀬さんとも仲良かっただろ、辛いよなお前も」
「ああ……」
「まっ、お前が悩んでも仕方ねーよ、元気出せって、北川」
 教室にいたのは北川くんだった。相手の男の子はクラスメイトの一人だ。
 北川くんも、香里と同じくわたしに話し掛けてくれる数少ない友人の一人だ。だが彼に対しては香里に対してほど素直にはなれず、わたしの方から避けていた。この時期、わたしは軽い男性恐怖症のようなものだったのかもしれない。
 帰ろう。シューズは明日持って帰ればいい、このままここにいて顔を合わせることになっては気まずいし、これ以上聞きたくない。
 そう、踵を返したその時だった。
 クラスメイトの男の子の言葉が、わたしの耳に落雷のように響いた。



「しっかし本当に驚いたよ、美坂からこの話を聞いたときには」





 みさかからこのはなしをきいたときには






 夕焼けに染まった廊下と、遠くから聞こえてくる運動部の掛け声をよく覚えている。この時のわたしにはそんなものに気持ちを傾ける余裕などあったはずもないのに、なぜかその風景が十年経った今も脳裏にこびりついている。
「あいつは、広めるつもりなんてなかったんだ」
「そうだろうけどさ、こんな話、広めるなって方が無理じゃないか?」
「……」
「俺も含め何人に話したのか知らないけど、もう隣のクラスの奴らだってみんな知ってるぜ」
 ああそうか、そうだったのか。
 いくら狭い街のこととはいえ、あまりにも噂が広がるのが早すぎると思っていた。
 香里が、みんなに話したんだ。
 この時のわたしは、奇妙に冷静だったように思う。ショックが強すぎたのか、それとも薄々は感づいていたのか。本当に、奇妙なほど冷静に、わたしは事実を受け入れた。
「あいつは決して面白半分に話したわけじゃない、あいつは水瀬を本当に心配して……」
 北川くんがまだ何か話していたが、構わずその場を後にした。
 彼の言葉は本当だろう。香里のことだ、わたしのことを心配してクラスの皆に協力を仰ぐつもりだったのかもしれない。それとも単に口を滑らしてしまっただけなのか。わたしには真相を知る術はない。

 確かなことが、ただひとつ。


 わたしはこの日、本当に何もかもを無くしてしまったのだ。



 翌日、わたしは学校を休んだ。その翌日も休んだ。そのまた翌日も、わたしは学校を休んだ。
 部屋から一歩も出なかった。食事もとらなかったし、水も飲まなかった。何度かあの人が部屋の外から声を掛けてきたが、鍵をかけてあるから平気だった。
 もう、わたしには何もない。
 母も、恋人も、友人も、そしてお腹にいたはずの赤ちゃんも。
 なにも、ない。
 またドアの外から声がした。名雪、いい加減に食事くらいはとりなさい、お願いだから。そんな声が聞こえるがわたしは応えない。あの人の言うことなんて聞かない。聞きたくもない。
 部屋が暗かったから、いまが夜だとわかった。春の空気はまだ冷たいけれど、そんなんことはわたしにはまったく関係のないことだった。いまはただ、未だに部屋のドアをノックしつづける音がうるさくて堪らないだけだ。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 ぼんやりとそんなことを考えた。
 そんなに悪いことだったのだろうか、わたしのしたことは。

 わたしはただ
――
 人を好きになっただけなのに。





 その時。



 真っ暗な窓の外から突然、赤ん坊の泣き声が聞こえた。





「ひぃっ!」
 幻聴ではない、確かに、真っ暗でなにも見えない窓のそとから、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
「う、うそ、なに、なんなの!」
 取り乱し窓から逃げるように這いずるが、赤ん坊の泣き声は止むことなく続く。
 カーテンを閉めていなかったのが災いした、月も無く闇が広がる窓の外はまるで死の世界のようで、そこから響いてくる赤ん坊の声は、まるで
――

「いや! いやだ…… いやだよ、ゆるしてよ」
「わたしが悪いんじゃないよ、わたしが殺したんじゃないよ!」
「わたしは産みたかった、産んであげたかったんだよ!」
「いや、いやだ、そんな、そんなに責めないで、責めないでよ!」
「そんなにわたしを責めないでよ……」
「ゆるしてよ、わたしをゆるしてよ……」
「ゆるして……ゆるしてよ……」
「もういや……いやだ……」
「ゆる…して……」


 わたしは猫が嫌い。

 昔は好きだった。でも今は嫌い。

 猫は
――怖い。

 特に今のような春先、夜中に鳴く猫の声は気が狂いそうになる。

 春先の発情期、夜に鳴く猫の鳴き声をあなたは聞いたことがあるだろうか。
 あれは猫だ、猫の鳴き声だ、と、何度自分に言い聞かせても、その声はわたしに違う物を想像させてやまない。

 そう、それはまるで
――









 赤ん坊の泣き声、そのものだ。











 震えるわたしの目に、机の上に出しっぱなしにされたカッターナイフがとまる。
 迷いなど、感じる余裕は無かった。
 転がるように机に駆け寄り、それを手に取る。もどかしく刃を露出し左の手首にそれを当てて。

 一気に、引いた。

 薄れゆく意識のなか、赤ん坊の泣き声がいつまでもわたしを責め苛んでいた。








 そしてそこで、『十年後の』わたしは目を覚ました。
 やはり一錠では足りなかったのだろう、久しく見ていなかった昔の夢を見てしまった。
 ベッドから身を起こさずに、左手首を見る。
 普段は無骨なあの緑色の腕時計に隠されている左手首。そこには一条の、引きつったような傷痕。一生消えることの無い、わたしの罪の象徴。
 十年前のあの日、部屋の外にいたお母さんにわたしは助けられた。わたしの傷は深くて、少しでも処置が遅れていればまず助からなかったらしい。
 結局わたしはそのまま高校を中退した。手首の傷自体はすぐに完治したのだが、精神的にすぐには学校に通えるような状態ではなかったのだ。加えて学校側に対しても、あの自殺未遂は噂を裏付ける決定打となった。形式上は自主退学になったのはむしろ最大の温情だと言ってよかった。
 そしてそれからの一年間、わたしはまるで違う世界にいた。今でも詳細には思い出すことができないが、あの頃のわたしは抜け殻だった。あまり思い出したくない時期だ。
 それからわたしは、睡眠拒否という後遺症を抱えつつも、なんとか社会復帰を果たした。大検を受験して一年遅れで大学に行った。大学を無事卒業していまの会社に拾ってもらった。
 そうして、今のわたしがいる。
 お母さんに対して十年前の関係を改善できず、香里に対しても表面を取り繕うのがやっと。祐一の結婚にこれほどまでに動揺し、そして耳には
―― そう、耳にはあのわたしを責め苛む赤ん坊の泣き声がこびりついたままの、わたし。
「ああ、そうか」
 思わず呟く。なんだ、そうだったんだ。
 お母さん、香里、祐一、会社の後輩、すべての人に表面上だけ取り繕って、綺麗な精神を見せているわたし。内面はこんなにも醜くグロテスクなのに、見た目だけは綺麗に見せる術に長けている。
 暗闇の中、ベッドを降りて窓際に歩み寄る。
窓際には、水中花。月明かりに照らされ、病的にまでも美しい。
 そのひとつを、手に取った。

 わたしは、この水中花のようになりたかった。
 枯れることなき永遠の花、水中という異常な状態にありながら、むしろその異常さがこそ美しい水中花のように、わたしはなりたかったのだ、ずっと。
 わたしは異常だ。それはもう、覆しようのない事実。わたしは壊れている。ココロが壊れてしまっているのだ、十年前のあの日から、ずっと。
 だからこそ水中花のその異常な形に惹かれた。本来は太陽の下にあるべきの花弁が、水中で揺らめく様にこそ惹かれたのだ。造花であればこその偽りの美しさに惹かれたのだ。

 だけど、ああだけど。
 わたしは解ってしまったのだ。

 わたしは、水中花だ。
 お母さんと冗談を言っては笑いあい、会社では笑顔を振り撒いて、たまに会う香里と食事をして、そうやって日々を過ごす。
 わたしはこんなにも、水中花のように
――



 いきいきと、死んでいた。










 二日後、土曜日。
 完全週休二日制の会社は休みで、お母さんと約束をしたお花見は明日。香里に電話をして色よい返事を貰い、三人でのお花見が確定した土曜日。相変わらずバッグに忍ばせた小瓶には未だ二九錠しかたまっていない土曜日。
 わたしは今日も、水中花だ。

「わっ、前日からお弁当の仕込みなんて、気合入ってるねお母さん」
「うふふ、そうね、たまのお花見だから」
「楽しみだねっ、明日」
「そうね」
 どこか台本を読み上げるかのような、空虚なやりとり。表面上だけみればどこまでも仲の良い親子の会話。ずっと上手くやってきた。だが久しぶりにあの夢をみてしまってから、何かが崩れてしまったような気がする。


『堕ろしなさい』


 あの日の言葉が、耳から離れない。
 わたしはどうしてしまったのだろう。
「えっと、ちょっとお出かけしてくるね」
「あら、どうしたの名雪」
「ん、なんでもないよ、ただちょっとお出かけしたかっただけ」
「そう。だったら下見をしてきたら? 丘の桜、きっと綺麗よ?」
「そうだね」
 そうして出ていこうとしたわたしは、台所に立つお母さんに、背中越しにこう声をかけられた。
「花は、やっぱり生きている花が一番綺麗なのね」
「え……?」
 思わず振り返る。だが彼女は何事も無かったかのように背中を向け料理に専念している。なにか心を見透かされたような気まずい思いで、わたしはそのまま家を出た。

「下見、か」
 それもいいかもしれない。お花見の予定地は街の外れの丘。昔から『ものみの丘』と呼ばれている桜が綺麗な場所だった。今の時期であればきっと満開だろう。
「ちょっと遠いのが玉に瑕だけれどね」
 一人ごち、道を歩く。家から歩いて四十分というのは決して近い距離ではない。春風のふく街を歩くのは気持ちがいいから構わないのだけれども。


 丘に着く。そこは見渡す限りの桜の園だった。
「うわあ……」
 言葉を奪われるとはこういうことを言うのだろう。
 見渡す限りの、桜、桜、桜。
 まるで何かに憑りつかれてしまいそうな、一面の桜。

 と、一陣、激しく風が吹いた。
「きゃ……っ」
 髪を弄られ、思わず上げた短い悲鳴の合間、そして春の突風の渦巻く音の合間に、それは聞こえた。

 猫の、鳴き声だった。

「確か、こっちから」
 声の聞こえた方に、歩を進める。
 どうしてわたしは、猫の鳴き声など気にするのだろう。猫は嫌いではなかったのか、あれほど恐怖を感じていたのではなかったのか。
 だがわたしの脚はまるで持ち主の意志に反するかのように進み、やがて一本の大木に行き着いた。
「あ……」
 本当に立派な、樹齢にして百年を越えているのではないかという桜の大木。その根元に、声の主がうずくまっていた。
 親猫だろう、両足の間に抱えたまだ小さな仔猫を必死に舌で舐めている。


 その仔猫は、死にかけていた。


 車にはねられたのか、それとも違う理由か。血にまみれ息も絶え絶えに、仔猫は地に横たわる。そのむごたらしい傷を、親猫は必死に舐めていた。まるで舐めていれば我が子が命を失うことはないのだとばかりに。
 いますぐ獣医に連れ込めば間に合うだろう。見たところ確かに仔猫は死にかけているが、すぐにでも親猫から引き離し、人の手に委ねれば命をつなぐことができるに違いない。
 親猫、恐らくは母親は無力だ。死に行く我が子に対し、何もできず、自分の無力さを噛みしめながらただその死を見取ることしかできない。ただ必死に傷を舐めて、そんな己の姿から必死に目を逸らしているだけ。

 ああ、なんてことだろう。
 これではまるで
――

「また明日、来るよ」
 自分でも驚くような、冷たい声。しかしどこか期待の篭った声。果たしてそれは誰に対しての言葉だったのか。
 死にゆく仔猫と、絶望しているであろう親猫に背を向けて。
 わたしはその場を後にした。






 そしてその夜、薬瓶の中身は三十錠になった。






「お母さん、わたし、先に行ってる」
 それだけを告げると、玄関を出た。背中からあの人が何か言っているのが聞こえたが、無視した。いつも持ち歩いているハンドバッグに入れられた薬の小瓶、その微かな重さを確かに感じながら。
 最初は早足に、やがて小走りに。そして丘が見える頃には、全力疾走だった。

 わたしはいったい、なにを期待しているのだろう。
 奇跡が起きて立ち上がっている仔猫の姿か、それとも無残に晒された屍か。
あの母親の猫は、いったいどんな目をしてわたしを見るのか。
 打ちひしがれた悲哀の目か、それとも何事もなかったかのように装う虚勢の目か。
 わたしはそれを見てどうするのか。
 遂に致死量に達した薬瓶を煽るのか、それとも
――


 本当に解らないのは、他の誰よりも自分自身。
 わたしはただ、走り。

 そして、桜の丘に辿り着く。





「はあっ! はあっ! はっ!」
 無様に息を切らして、ゆっくりとあの桜の大木に歩み寄る。震える膝、酸欠に霞む視界。

 そしてそこには
――






 無残に打ち捨てられたゴミのように。


 仔猫の死体が横たわっていた。






「はっ、ははは……」
 そこに、あの母猫の姿はなかった。
「ははは、あはっ、はっ、あははははははははっ!」
 狂ったような笑い声が風にうねり、桜の花びらと共に丘を吹き抜け消えていく。
 期待を裏切られたのか、それとも、期待通りだったのか。
 もうなにも解らない。
 今はただ、可笑しい。本当に、なんて愚かな、わたし。

「あははは! あはっ、はは……」

 哄笑の合間に、風の声に紛れて。なにかが聞こえた気がした。



 あれは。
 猫の……




 ゆっくりと振り向く。
 そこには、あの猫が。あの母親がこちらをじっと見て、立っていた。

 彼女の目は、わたしを捉えて離さない。わたしの目も、彼女のそれに宿る光を見逃さないように離れない。


 彼女の瞳には、わたしの想像していたどちらの感情も宿っていないように見えた。
 打ちひしがれた悲哀の色も、何事もなかったかのように装う虚勢の色も、どちらも宿ってはいなかった。
 ではいったい何が。
 どちらもじっと動くことなく桜の吹雪に身を置きながら、じっと、互いの目を見る。
 わたしが彼女の瞳から読み取ったもの。



 ああ、あれは
――




 どのくらいそうしていただろう。
 やがて母猫は踵を返し、丘の奥に消えていく。
 一度も後ろを、冷たくなった我が子を、顧みることなく。

 わたしは桜の大樹の根元。
 死んでいる仔猫と二人、ただ立ち尽くしている。去っていった母親を思いながら、ただ、立ち尽くしている。

「あなたは、幸せだった?」
 物言わぬ冷たい躯に問い掛ける。
「産まれてきて、幸せだった?」
 問い掛けは、懇願と同意だった。

 わたしの子供はね、この世に生まれてくることすらできなかったんだよ。

 きっとわたしは、この不幸な仔猫に否定を求めている。産まれてきたこの世界は辛いことばかりだったと、産まれてこなければよかったと、そんな回答を期待している。
 わたしはこの仔猫に、免罪を求めている。


 だけれども冷たい躯は、何も答えてはくれず。


 ただひとつの解答は、すでにこの場にはいない、母猫の、母親の、あの瞳。
 わたしはきっと、彼女に自分を重ねていた。だからこそすべてを見届けるためにこの場所に来たのだ。もう一組の母子が、どのような結末を迎えるのかを、わたしは見届けたかったのだ。

 先ほど見た、母猫の瞳を思い出す。
 彼女は、自分を責めてはいなかった、そして、現実から目を逸らしてもいなかった。自分の子供の死に、彼女は最後まで抗い、最後まで責任を全うしたのだ。彼女の瞳は、なんの後悔の色もうつしてはいなかった。


「わたしと似ているなんて、間違いだったんだ」


 そう、彼女は、母親だった。母親にすらなれなかったわたしとは、違う。

 いつか
――
 いつかわたしもなれるだろうか。
 母親になれる日が、来るだろうか。
 水中花ではなく、儚くとも確かに生きている本物の花に、わたしはなれるだろうか。

 ハンドバッグから薬の小瓶を取り出す。

 風がまた吹いた。
 長い髪が風になびいてわたしの顔を隠す。それをかきあげて。








 わたしは手に持った薬の小瓶を。




 丘に、捨てた。








END