雪もよう、ところによりノスタルジィ

2006/5/28 Web掲載  
2003/12/30 同人誌掲載
2003/11/15 こんぺ初出
 久慈光樹






「ゆーくん、お風呂あいたよ」
「……」
「ん? どーしたの?」
「おまえだれだ」
「わっ、またひどいこと言ってるよー」
「なんだ名雪か、みつあみじゃないからわからなかった」
「うそだよっ、だってゆーくん笑ってるもん!」
「わはは、でもこうみると名雪ってかみの毛すげー長いな」
「ずっとのばしてるもん」
「いいかげん切れよ」
「えー、いやだよぉ」



 夢を見ていた気がする。懐かしい夢を。

 枕もとに手を伸ばし、目覚し時計を止める。設定時刻の二十分前で、目覚まし時計は今日もその役目を全うすることなく沈黙した。冬の冷気が部屋を覆い、暖かな布団から起きだすことが躊躇われる。
 一人暮らしを始めてから、この時計が鳴ることはほとんど無くなった。あれほどに朝に弱かったわたしなのに、今は目覚まし時計が鳴るより前に必ず目を覚ます。

 未だ燻る夢の残滓を振り払うように勢いよくベッドから降り立つ。急激に冷えていく身体と、ぼんやりと霞む視界。枕もとのサイドテーブルに置いた眼鏡をかけると、視界はクリアになった。
 なってみて初めて実感したが、近眼というのはひどくやっかいだ。何をするにも眼鏡をかけていないとままならない。最初は物珍しく、ファッション感覚で縁無しのものを選んだりとちょっとした変身願望を満足させていたそれも、煩わしく感じるようになるまでにさほど時間を必要としなかった。
 パジャマ姿のまま、洗面台の鏡の前に立つ。眼鏡をかけた髪の短い少女が、鏡の向こうからわたしを見返していた。
 ブラシを手にとり髪をとかす。一時はショートカットと呼んでも差し支えの無いほどの長さだったそれも、だいぶ伸びた。無論、昔とは比べ物にならない短さだけれども。
 夢の風景が少しだけ脳裏に浮かび、消えていく。

 髪を伸ばしていた理由、三つ編みを解いた理由。本当に子供じみた、今のわたしでさえ苦笑してしまうような些細な理由。独り善がりの、でもとてもとても大切だった約束。
 同時に脳裏に浮かぶのは、幼馴染の笑顔。そして……

 シャワーを浴びる気にはなれず、そのまま着替えてアパートを出た。

 割と苦労をして入った大学、その修士課程の一年目。研究と実験の日々のなか、たまの座学はいい息抜きだった。
 教授が黒板に書いた公式をぼんやりとノートに書き写していく。朝一番の講義であるためだろう、学生の姿はまばらで、みなどこか気の入っていない表情でぼんやりとしている。よく暖房の効いた室内は心地よく、中にはうつらうつらと舟をこいでいる生徒も見受けられた。

「おはよ、名雪さん」
 小声で後ろから声を掛けられる。振り向くと、わたしと同じくらいの短い髪をした、見覚えのある顔。
「おはよう、珍しいね、この講義に出るなんて」
 わたしも小声で、ちょっぴり意地悪く言ってみる。「だって起きられないもん」と笑いながら彼女。
 講義中にあまりおしゃべりするわけにもいかず、会話はそこまでにしてまた前を向いた。

 わたしがこの街に来て、一番に友達になったのが彼女だった。おなじ研究グループの同級生。一年浪人したと言っていたからわたしよりもひとつ年上のはずだったが、そんなことを気にせず付き合える人懐こい人だ。
 『名雪って名前いいね、雪国の子って感じがしてさ』そういって、以来わたしのことを名前で呼んでくれる数少ない友人の一人。

 講義を終え、構内のカフェテリアでお茶をする。彼女もわたしも次の講義まではまだ時間があった。

「先週のコンパ、どうして出なかったのよう」
 ちょっぴり恨めしそうに彼女。その言葉に、どこかの大学と合同コンパがあってわたしも誘われていたのだということを思い出した。
「わたしそういうの苦手だから」
 少しずり下がってきた眼鏡をくいと直しながら、苦笑交じりに返す。
「それにわたしは居ないほうがいいって言ってたじゃない」
「ぬー、そう思ってたんだけどねぇ」
「何かあったの?」
「や、名雪さん綺麗だからさ、いい男みんな取られちゃうと思ってあんまり強くは誘わなかったんだけど」
 はー、っと大仰にため息をついて、くたっとテーブルに突っ伏す。
「まさか企画したうちの先輩から向こうに話がいっているとは思わなかったよ」
「どういうこと?」
 鈍いねキミも、とジト目を向けられる。
「よーするに、だ。企画したうちの先輩も含め、男どもの狙いは名雪さんだったってこと」
「え? え?」
 その言葉に盛大にずり下がった眼鏡を直しつつ、反論する。
「だ、だってわたし行くなんて一言も……」
「いい道化だったよまったく、先輩なんて『水瀬こないのかー』とか言って幹事役半分放棄しちゃうしさ」
「あ、あはは……」
「まったく、その色白とスタイルは反則だっちゅーの」
 テーブルに突っ伏したまま半眼になってジロジロとこちらを見る彼女の視線から、思わず冬服に包まれた胸を隠す。スタイルは関係ないと思うな……
「でもさー」
 冗談冗談、と笑ってから、彼女はテーブルから身を起こし、不思議そうにこう聞いてきた。
「名雪さん綺麗なのに、男っ気ないよね」
「うーん、なんとなく、ね」
 やれやれ、もったいないもったいない、と肩をすくめる。アイスティーをストローでかき混ぜるわたしに「おちついているようでいて、相変わらずどっかピントずれてるのよね、冬なのにアイスティー飲むくらい」と失礼なことを言って、またため息をつかれた。
「向こうの街にさ、彼氏とか残してきてるんじゃないのー?」
 悪戯っぽくそう聞いてくる彼女。「そんなことないよ」と素っ気なく返すわたし。
 声の震えが伝わってしまった気がしたが、彼女は「ふーん」と呟いただけだった。
 少し居心地の悪い沈黙。先に口を開いたのは彼女だった。
「んで、だ」
「え?」
 少し不安そうな表情になってしまったであろうわたしに、にかっと笑って彼女は言った。
「来週末、またあるのよ」
「な、なにが?」
「コンパよコンパ! 今度は引きずってでも連れてくから」
「えー」
「問答無用! 名雪さんに群がる男ども、それを横あいから捕食する私!」
「食べちゃうんだ……」
「だー、例えだってば例え! まったく真面目そうな顔して名雪さんも存外にえっちだね」
「わわっ、そ、そういう意味じゃ……!」
「わっはっは、赤くなっちゃってもう、可愛いんだからぁん!」
「もう!」
 ぷぅっと膨れて、それから顔を見合わせて盛大に笑う。
 結局、来週末のコンパは出席を約束させられてしまった。


 午前中の講義を終え、お昼は駅前でパスタを食べて。一人部屋に帰り着く。
 朝方のどこか陰鬱な気分も、友人との他愛ないおしゃべりですっかり吹き飛んでいた。我ながら単純と言おうか。
 ただいま、とは言わない。最初の頃はどうしてもその習慣が抜けなくて、返事のない部屋に少しばかり寂しい思いをしたものだが、もういい加減一人暮らしも慣れた。帰りがけに買ってきた牛乳のパックを冷蔵庫にしまうと、ドアに備え付けられた郵便受けからここ数日溜まっていたダイレクトメールの類を引っ張り出した。
 電気料金、ガス料金の引き落とし明細書、いかがわしいDMの類。それらに混ざって『それ』は在った。
 純白の、ちょっと厚めの封筒。宛先には『水瀬名雪 様』そして差出人は――

『美坂香里』

 わたしがこの街に越してきてからは、連絡を取り合うこともなくなってしまった。そんなかつての親友からの、一通の手紙。
それは、結婚式の招待状だった。
 連名で記載されているのは、親友の名と、そして高校時代から彼女を支えつづけた共通の友人の名。
「香里、決心したんだ」
 期せずして、笑みが漏れた。
 高校時代、従兄妹と一緒になって彼女と彼の仲をからかったりした。そのときは香里らしくなくむきになって否定していた。
 彼の態度はわたしから見てもわかりやすかった。従兄妹があの街に越してくるよりずっと前から、彼は香里だけを見ていて、そんなにも想われている香里が少し羨ましかった。
 わたしがあの街から離れる日も、二人揃って見送りに来てくれた。らしくなく涙ぐむ香里を、彼はしっかりと支えてくれていた。
 よかった。本当によかった。
 同封されていた香里からの手紙に目を通しながら、わたしはワンルームの隅に置かれた椅子に腰かける。
 二人とも大学を無事卒業し、就職したこと。就職を期に、正式にプロポーズされたこと、一年間考えて、それを受けたこと。香里らしく、手紙の内容は簡素だったけれど、隠し切れない幸せが文面から滲み出てくるようで、わたしはなんとなく嬉しくなってしまった。
『式にはぜったいに出席しなさいよ』
 手紙はそう締めくくられていて、わたしはまた少し笑った。手紙の最後で我に返り、照れ隠しにキツイ口調になってしまった様が目に浮かぶようだ。変わっていない、香里は。
 式の日付は来週末。研究も一段落ついているし、行くことになっても何ら問題は無い。すぐに手配すれば電車の指定もとれるだろうし、講義をニ、三日休んだところで単位に問題が出るほど普段からさぼっているわけでもない。友人にコンパに誘われていたことを思い出したが、理由を話して断りの電話を一本入れれば済むことだ。
 そう、問題は無い。あの街に、わたしの生まれ育ったあの街に戻ることに、問題は、何一つ無い。
 無い、はずなのだ。

 この都会の街に越してきて、今年でもう五年目になる。ちょくちょく電話を入れたりしているけれど、この五年間、わたしは一度もあの街に、家に、帰ってはいない。
 大学は忙しかった。理系は忙しいと聞いてはいたけれど、毎日が講義と研究で事前に予想していたよりも遥かに時間がなかった。長期休みもあったが、院に進んで学費とアパート代以外の仕送りを断ったわたしにとって、長期の休みはアルバイトに忙殺される日々だった。
 なんとなく。そう、ただなんとなく日々は流れてしまって、なんとなくあの街に帰りづらくなってしまった。
 ただ、それだけのこと。


 結局、コンパの誘いを断る電話を入れたのは、それから三日経ってからだった。





「そう言われるとむしょうに気になってきた、切れよ、かみの毛」
「えー、ゆーくん勝手だよー」
「ずっと伸ばすのか? そのうちにかみの毛が足にからまって歩けなくなるぞ」
「そんなに伸ばさないもん」
「いつ切るんだよじゃあ」
「なんかもう切ることがぜんてーになってる!」
「いいじゃん、いっそのことばっさり行ってまえ」
「うーんとね、じゃあじょうけんがあるよ」
「なにぃ、なゆきのくせになまいきな…… まぁいい、言うだけいってみろ」
「ゆーくんがわたしを……」



 電車の心地よい揺れと程よく効いた暖房に、いつしかまどろんでしまっていたようだ。
 ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 規則的に響く揺れと、窓の外を流れ去る風景。
 新幹線からローカル線に乗り換え、四十分弱。そろそろ目的地に着く頃になって、わたしは目を覚ました。
 目的地の故郷の街まで間もなく、という車内放送を聞いて、網棚から荷物を下ろす。数日分の着替えと、結婚式用のスーツ。結構な量だ。
 しばらくすると軋むような音をたてて、電車が止まる。目的地に着いたのだ。
 ホームに一歩足を踏み出し、そして、その寒さに身を振るわせる。身をきるような、というよりは身体の芯に突き刺さってくるかのような冷気。都会の街とは根本的に寒さの質が違った。そんなことすらも忘れ去ってしまっていたのだ、わたしは。
「あっ……」
 目の前を、一片の雪。
 思わずかざした掌に、それは音もなく舞い降り、音もなくとけて消えた。

「雪もよう、か」

 帰ってきたのだ、五年ぶりにこの街に。

 故郷の街は雪もよう。
 舞い降りる雪の中、吐き出す息が白く空に吸い込まれていった。





 駅から出たわたしを迎えたのは、クラクションの音。
 緑色のミニから顔を出して手を振るのは、香里だった。彼女にだけは事前に電車の時間を伝えておいたのだ。
「ごめんね、迎えにきてもらっちゃって」
「いいわよ、誘ったのはあたしだしね」
 車を降りてわたしの前に立つと、香里はしばらく視線をわたしに合わせて全身をしげしげと眺めた。
「髪の毛、切ったんだ」
「うん、なんとなく、ね」
 そう、と返し、香里は何かとても大切なことを宣言するように、こう言った。
「お久しぶり、名雪」
 居心地の悪さとは違う理由で息が詰まりそうになりながら、「うん、久しぶりだね」と返す。
 昔と変わらぬ、どこか冷めた、それでいて暖かい笑顔。昔から大人びていた顔に本物の大人の笑みを浮かべ、少し伸ばしたウェーブがかった髪もそのままに、香里は、親友は、あの頃と少しも変わりのない笑顔で、わたしの目の前に立っていた。
「乗って、送っていくわ」
 そう言って、駅のロータリーに停めた車に乗り込む。後部座席に荷物を乗せてもらい、助手席に座った。
「ミニだから狭いけど、我慢してね」
「可愛い車だね」
「雪国で乗るには不便すぎるけれどね」
 笑いながら車を発進させる香里。
「久しぶりの故郷はどう?」
「うん、寒いね、すごく寒い」
「やっぱり向こうはこっちほど寒くないのかしら?」
「そうだね、雪も降らないし」
 ちらちらと舞い始めた雪をフロントガラス越しに眺める。都会の街に雪は降らない、そしていつのまにか、それがわたしのなかで当たり前になってしまっていることに気付く。
 雪が好きだった。小さい頃から雪が好きで、雪が降るとはしゃぎまわった。
 雪国育ちの常、雪がただ綺麗なだけじゃなくて、いろいろと面倒なことがあるということは身に染みて知っていたけれど、それでもわたしは雪が好きだった。好きなはずだったのに。
「そういえば」
 まだ一番大事なことを香里に伝えていなかったことを思い出した。
「おめでとう、香里」
 うん、とちょっと照れくさそうに、香里。まさか名雪より先に結婚することになるとは思わなかったわ、と苦笑する。
「そうだね、わたしも香里がこんなに早くゴールインするとは思わなかったよ」
 そう言うと、悪かったわねとこれまた苦笑交じりの、でもとても幸せそうな表情で返された。ごちそうさま。
「まずは家に寄っていくんでしょ?」
「あ、うん……」
 どこか歯切れの悪いものになってしまうわたしの言葉。それを察したのだろう、じゃあそのまえにちょっとだけ付き合って、と香里は車のハンドルをきった。
「少し行ったところに、ちょっといい感じのバーができたのよ」
 なんだか気を遣わせてしまったようで後ろめたいわたしを見透かしたようにそう言ってくれる。
「まだちょっと早いけど、少し飲んでいきましょ」
「でもいいの? 車なのに」
「車は駐車場に停めておいて、明日にでもあいつに取りに行かせればいいわ」
 あはは、ひどいんだ。と笑うと、たまにはいい薬よ、と返される。話によると未来の旦那様はここのところ悪友たちと飲み歩いていて、家にも寄り付かないのだそうだ。独身最後の無礼講ということらしいが、口調から判断するに花嫁さんはひどくご立腹の様子だった。
「まったく、男って幾つになってもバカね」
「あ、あはは……」



 香里の連れてきてくれたバーは、彼女が好みそうなおちついた雰囲気の店だった。照明を絞った店内に、耳障りではない程度にジャズが流れる。まだ早い時間だからだろう、客足はまばらでゆっくりできそうなこの店をわたしも気に入った。
「名雪のいる街みたいに都会じゃないから、物足りないかもしれないけど」
「ううんそんなことない、いいお店だと思うよ」
 それにわたしあんまりこういうお店には行かないし、と言うと。名雪らしいわと笑われた。
 カウンターに座り軽いサワー系の飲み物を頼み終えると、香里は「ちょっと安心した」と言った。
「どうして?」
 返ってくる答えは薄々わかっていたが、それでも口に出してそう問う。そして回答はやはり想像していたとおりのものだった。
「名雪、雰囲気が少し変わった気がしたから」
「そう?」
「そうよ、駅から出てきたときにも、最初は名雪だと気付かなかったんだから」
 ひどいよー、と。ちょっと拗ねたように唇を突き出してそう言うと、ごめんなさいと笑って香里。
 そういうところ、やっぱり変わってないわ。そう言ってくれる彼女に、内心の複雑な感情を隠して、香里のその口の悪いところもねっ! と笑顔で返す。
 大丈夫、わたしはちゃんとできている。ちゃんと、演じきれている。

 それからしばらくは互いの近況報告が続いた。この街のこと、仕事のこと、彼にプロポーズされたときのこと。向こうの街のこと、向こうの友達のこと、研究のこと。
 香里と話すのは本当に久しぶりだったのだけれど、楽しかった。なんだかんだと口では文句を言いつつも、彼のことを語る香里は幸せそうだったし、わたしもそんな香里の話を聞くのは楽しかった。
 鈍感さを装い少し突っ込んだことを聞いても苦笑して許してくれ、話してくれる。でもわたしには気を遣ってあまりつっこんだ内容の話はしてこない。昔からの、昔のままの、これがわたしと香里の関係だった。恐らく香里は気付いてはいない、いや、無意識のうちに気付いているからこそなのかもしれない。いつだってわたしは無邪気でちょっぴり天然で、香里はそんなわたしに苦笑しつつも話を合わせてくれるのだ、笑って許してくれるのだ。わたしと香里はそういう関係だった。会わなくなってから久しかったが、すぐに思い出すことができた、すぐに合わせることができた。
「で、で? 彼氏さんのお家に泊まりにいったりはしたの?」
「ちょっと名雪、飲みすぎよあなた」
「教えてよー」
「はぁ、相変わらず弱いんだから」
 飲みすぎ、そうちょっと飲みすぎかもしれない。四杯目のサワーを持つ手に力がうまく入らない。眼鏡をかけていないときのように、視点も定まらなくなってきている。
「ほら零してる! まったくもう」
「うにゅ」
 自分でもちょっぴり笑ってしまうような情けない声が出た。
 楽しい、こんなに楽しいお酒は久しぶりかもしれない。香里もそう思ってくれているのだろう、わたしの世話を焼きつつも笑顔が途切れることが無い。
「向こうでの生活は、どう?」
「楽しいよー? ちょっと忙しいけど」
「そう……」
 香里の表情が沈む。
 あっ、くるな、と思った。彼女がこういう表情をするときは、大概なにか聞き難いことを聞こうと思っているときだ。わたしが酔っていることを計算に入れて、あえて聞かずにいたことを聞くつもりなのだろう。
「名雪、髪切ったのって、やっぱり……」
 ああ、そう来たか。
「うにゅ? 似合わないー?」
 そんなこと無いわ、眼鏡と合わせると頭が良さそうに見えるわよ。ひどいよー、香里、極悪人だよー。
 そんなどこか空々しいやりとり。今度は香里もわかっただろう、わざと曲解した応えを返したのが、これ以上は踏み込まないで欲しいというサインだったことが。
 そしてわたしが、香里がそう思っているほどには酔っていないのだということも。
 ――なのに。
「相沢くんと会うの、怖い?」
 更に香里は踏み込んできた。わたしの顔を見るその表情は、もう笑ってはいない。
「……どうして、そう思うの?」
 逆に質問で返す。
 ノンフレームの眼鏡越しの視線が厳しくなっていることを十分に承知した上で、香里の目を正面から見つめた。昔からこうすると香里はすぐに話題を変えてくれた。少しきまり悪そうに目を逸らして、ああそういえばね名雪、と。
「あなたが五年間この街に一度も帰ってこなかったからよ」
 しかし今の香里は、話題を変えてはくれなかった。目を逸らすこともしなかった。まっすぐにわたしの目を見て、そう、言ってきた。
 わたしは……

 唐突に香里のバッグから軽快なメロディが響く。
 軽く眉を顰めてバッグから携帯を取り出し、着信者を確認する。ちょっとごめんなさい、と言って席を外したところをみると、恐らくは彼からの電話だったのだろう。
 ふぅ、と息をついて、グラスをあおった。
 遅かれ早かれ、こうなることはわかっていた。まさか香里から言われるとは思っていなかったけれど、こうなることは覚悟して帰省したはずだ。今更なにを動揺しているのか。
 バーテンさんに少し強めのカクテルなどを注文してみる。これ以上飲むと自分を保てなくなることは承知していたが、飲まずにはいられなかった。

 香里は帰ってこない。
 彼と揉めてでもいるのだろうか、式を前に引っ張りまわしてしまって申し訳ないと思った。もう一つカクテルを注文した、甘くて美味しい。

 香里はまだ帰ってこない。
 『相沢くんと会うの、怖い?』そう香里は聞いた。怖くなんかない、祐一と会うのを怖いと思ったことなんて一度もない。わたしが怖いのは……。カクテルをもう一杯頼んだ。

 香里はまだ帰ってこない。
 お母さん。祐一。そして……

 わたしが覚えているのは、そこまでだ。






 ゆらゆら、ゆらゆら。
 水面にわたしは仰向けなって浮かんでいる。
 伸ばした手足がとても心地よい。どこまでいっても見渡す限りの水平線で、陸地なんか見えない。水は澄んでいるが底なんて見えないくらいに深く、それがとても綺麗で、でも溺れたら間違いなく助からないだろう。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 わたしにできるのは、ただ浮かんでいることだけ。沈まないように、溺れないように。ただ、浮かんでいるだけだ。
 このままずっと浮かんでいることしかできないんだ、きっと。

「まったく、飲みすぎだお前」
 ゆう…いち……?


 目を開いて真っ先に感じたのは、視点が高いな、ということだった。
「ん? 起きたか?」
「祐一……」
 祐一に背負われているのだということに、すぐに気付いた。少し混乱する。
 香里は? どうして祐一が? わたしはどうしたの?
「香里から電話もらったんだよ、たぶん酔いつぶれてるだろうから、迎えに来いってな」
「そうなんだ」
「お前なあ、帰ってくるなら電話の一本くらいよこせ」
「うん……」
「びっくりしたぞ、行ってみたら遠い街にいるはずの名雪が、酔いつぶれて寝てるんだからな」
「うん……香里は?」
「先に帰るってさ、荷物は明日届けてくれるらしいから」
「そっか」
 香里はきっと、最初からこのつもりだったんじゃないだろうか。最初からこうするつもりでわたしを飲みに誘って、わざと飲ませるように仕向けた。あのタイミングで電話が来たのは偶然だろうけれど、なかなか戻ってこなかったのはわざとだったのだろう。わたしが痛飲するであろうことを知っていて、祐一に電話をしたのに違いない。
 穿ちすぎだろうか。でもああ、そうだ、そうだった。香里はああ見えてひどくお節介で、わたしはそんな彼女を少しだけ疎ましく思っていて――
 でもだからこそ、わたしは香里のことが大好きだったんだ。
「ね、祐一」
 だからわたしは、この街に帰ることを決心した理由を。本当の理由のうちの一つを、済ませてしまわなくてはならない。
「少し、寄り道していこうよ」
 背中を押してくれた香里の好意を、無にしないためにも。
「まぁ別に構わないけどな。で、どこに行きたいんだ?」
「学校」
「あん?」
「わたしたちが卒業した、あの高校に行こうよ」
 場所はどこでもよかった。高校というのは思いつきだったけれど、口に出してみると飛びっきり素敵な案に思えた。
「八時まわってるんだぜ? もう閉まってるだろ」
「忍び込んじゃおうよ」
「おいおい、まだ酔ってるのか?」
「酔ってるよー、だからほら、行くの!」
「へいへい、お姫様の仰せのままに」
「あはは、お馬さんお馬さん」
「いてて、暴れるな」
 祐一の背で不自然なくらいはしゃいで、通い慣れた道を学校に向かう。やがて、校舎が見えてきた。
「うー、緊張するね」
「たく、付き合わされるこっちの身にもなってくれ」
 口では文句を言いつつも、祐一もなんだか楽しそうで、わたしは彼の背中でくつくつと笑う。何だよ。何でもないよー。
そうして鍵のかかっていない職員玄関から校舎に入り、そこでやっとわたしは彼の背中から降りた。
「二階に行こうよ」
「二階? 三階じゃないのか?」
 祐一がそう言ったのも当然だ。普通、卒業した生徒が思い出を偲ぶのなら最後に授業を受けた教室を選ぶだろう。三階は三年生の教室だった。
 ううん、二階がいいの。そう言って一歩踏み出すと、ふらりと足元が揺らいだ。
「おい、大丈夫かよ」
 まだ完全にはお酒が抜けていないようだ。祐一が肩を支えてくれる。
 わたしは無言で、半ば振り払うようにしてそんな彼の手から逃れ、そのまま階段を駆け上がる。背後から祐一の呼び止める声が聞こえたが、無視した。
 触れられたくなかった。ううん、触れられたかった。でもだからこそ、触れてほしくはなかったのだ、優しくして欲しくはなかったのだ。
 今なら解る、ぶっきらぼうなのはポーズで、祐一はいつだってわたしを支えてくれていた、背負ってくれていた。わたしはそんな彼に甘えて、甘えていることにすら気付かなくて、いつだって彼に縋っていたのだ。依存していたのだ。


 もうわたしは。
 あのときの、わたしじゃない。

 走って走って、二年生の頃に使っていた教室に辿り着いた。ガラリと。扉を開ける。
 きゅっと目を瞑り、後ろ手に閉めた扉に寄りかかる。

 ゆっくりと目を開けると、そこには五年前のわたしたちがいた。

 ちょっと斜に構えた、前髪の伸びた少年がやれやれとため息をつき。
 髪の長い裸眼の少女が、そんな彼を見てにこやかに笑う。
 声はなく、色合いもない。モノクロームのサイレントムービーのような。それは、幻影。
 リノリウムの床をこつこつと革靴で叩き、隣の席に座る少年に相変わらず笑みを送る幻影の少女に歩み寄る。
「ばか……」
 掠れたような声が、口から漏れた。幸せというものを形にしたような笑みを浮かべる少女に向かって、わたしは言い放つ。
「あなたは、ばかよ」
 彼女が、どんな想いを少年に対して抱いているのか。わたしはよく知っている。
 その想いは、胸のうちに押し込めて、押し殺してはいけないものだったのだ。胸の奥に押し込めれば押し込めただけ、それは質量を増し密度を増す。毎夜毎晩、枕を濡らす雫となって外には漏れても、それによって何ら変わることなく、最後にはどこにも行き場のなくなったそれは、持ち主自身を押しつぶす。
 この先、何年も。少女は己が内に押し込めた想いを抱えて生きていかなくてはならなくなるのに。
 この先、何年も。少女は己がいかに少年に依存していたのかを思い知らされることになるのに。

「ばか」

 わたしの、ばか。



「相変わらず足速ぇんだよこんちくしょう!」
 盛大に息を切らせて彼が。祐一が、教室に飛び込んできた。
 祐一、運動不足だよ。そう言えば太ったんじゃない? 馬鹿抜かせ、このスレンダーなばでぃを前に何を戯言を。
 くすくすと笑って、改めてわたしは彼と向かい合った。
 変わっていない――といったら嘘になるだろう。彼は変わっていた。ちょっと斜に構えた少年は、ちょっと斜に構えた大人になって、いまわたしの目の前に立っている。
「髪、切っちまったんだな」
 切ったんだな、ではなく、切ってしまったんだな。
 似合わないかな? そう言いかけてやめる。いままで意識して何度も使ってきた、逃げの文句。こう言ってしまえば祐一もきっと「そんなことはない」と返してくれるだろうし、わたしはそれを機に話題を逸らすことができる。
 だけど、わたしの口から出たのは違う言葉だった。
「切らない方がよかったかな?」
 髪を指摘されて、初めて使った言葉だった。とても卑怯な言葉だと思った。
口にした瞬間に後悔した。こんな言い方をしたら、いかに祐一だろうと「そんなことはない」と言うに決まっているのに。言ってくれるに決まっているのに。
わたしはまだ、彼に依存する気なのだろうか。依存したいのだろうか。
「そうだな、切らない方がよかったかもな」
 そういう風に返されるとは思っていなかったので、びっくりした。目を見開いて祐一を見ると、彼はなぜかとても憮然とした表情をしてた。
「長い髪の方がよかった。その髪型、名雪には似合わない」
 あっさりと、とてもひどいことを言われた気がした。女性に面と向かってこんなことを言うなんて、とてもひどいと思った。
「……ありがとう、祐一」
 とてもひどいと思ったのに、わたしの口から漏れたのはそんな、感謝の言葉だった。
 ああ、やっぱり。
 ここに居るのは、わたしの目の前で憮然とした表情で立っているのは、祐一だ。
 どんなに歳を重ねても、どんなに大人っぽくなっても、祐一なんだ。
 誰からも、似合わないなんて言われたことはなかった。むこうの街の友達も、先輩も、先生も、みんな誉めてくれた。似合ってるって言ってくれた。似合わないだなんて、そんなひどいことを言うのは祐一だけだ。そんなことを言ってくれるのは、祐一だけだ。
「礼を言うやつがあるか、ばか」
 露骨に目を逸らして、ぶっきらぼうに彼はそう口にする、なぜだか苦しそうに。
わたしも言い返す、なぜだか滲んでくる視界をごまかすように。
「ばかっていう人がばかなんだよ、ばか」
「うるさい、ばか」
「あっ、また言った。祐一のばか」
「だまれ、ばか名雪」
 まるで子供のケンカのようなやりとり。
 だからだろうか、事前に考えていたよりも遥かにすんなりと、その言葉はわたしの口をついた。
「ねえ祐一、覚えてる?」
 やや唐突な言葉に首を傾げる祐一。くるりと背を向け、後ろで手を組んで、わたしは暗い教室の天井を見上げるようにして言葉を続ける。
少しでも言いよどんでしまうと、もう言えない気がした。
「小さい頃、わたしに髪を切れっていったこと、まだ覚えてる?」
「……そんなこと言ったか?」
「言ったよ。まだわたしが祐一のこと『ゆーくん』て呼んでた頃」
 しばらくの沈黙の後、ああそういえばそんなことがあった気がする、という答えが返ってきた。思い出してくれた。嬉しかった。
 まだわたしが三つ編みだった頃、ゆーくんは今と同じく意地悪で、だけどわたしはそんな彼がとっても大好きだった。世界が輝いていた、毎日が楽しい事で溢れ返っていた幼い日々。
「あの時、あんまり切れ切れって言うから条件を出したんだけど、それも覚えてる?」
「ああ確かそうだった、確か俺が名雪を……」
 えーと、名雪を…… と言いよどむ声を背中越しに聞き、苦笑する。まったくもう、肝心なところを覚えてないんだから。
「忘れちゃったんだ」
「ば、ばかもの、忘れてなんかいない」
「じゃあわたしがあの時なんて言ったか答えてみて」
「えーとだな、えーと……」
「あーあ、大切な思い出だったのにな。そっか、祐一は忘れちゃったんだ」
「あ、いや、違う、忘れたわけじゃなくて、ただちょっと、その……」
「……そっか、忘れちゃったんだ……」
「いや、あの、その……」
「……」
「……ごめん」
 もうダメだ。堪えることができない。
 必死に押さえつけていたものが、一気に溢れた。
「あはははっ!」
 可笑しい、お腹が痛い。
 唖然とする祐一を他所に、わたしはお腹を抱えて盛大に笑ってしまった。
「なっ…… てめぇ、謀ったな!」
「あは、あはははっ、だって、だってー、あはははっ!」
 名雪のくせに俺を謀るとは生意気だ! と追いかけてくる祐一から、ごめん、ごめんね、と笑いながら逃げる。
「あはは、あははは」
「笑うなこんちくしょう!」
「『いやあのその』だって、あははは」
「まだ言うか!」
 暗い教室を、月明かりを頼りに逃げまわる。
「甘い!」
 机を盾にして逃げまわったのだけれど、先回りされて捕まってしまった。
「捕まえられちゃった」
 正面から。そのままぎゅっと、祐一の胸にしがみついた。
 額をこつんと彼の胸に押し付け、ぎゅっと。しがみついた。
 駄目だ。わたしはやっぱりこんなにも……
「お、おい……」
「『ゆーくんがわたしを幸せにしてくれたらね』」
 祐一の言葉を強引に遮るように、口を開く。
「え?」
 祐一の戸惑いが、密着した身体を通して伝わってくる。
「髪を切る条件。わたしはあの時そう言ったの」
 ゆーくんがわたしを幸せにしてくれるんだったら、かみを切ってもいいよ。
 幼いわたしはそう言ったのだ。
 ゆーくんは意地悪でうそつきだったから、わたしはいつまでたっても髪を切ることができなかった。だからせめて、三つ編みを解いた。ゆーくんは意地悪でうそつきだったけど、とっても優しかったから、だからいつかはわたしを幸せにしてくれると信じて。
 陸上に邪魔になるから切りなさいといわれても、わたしは髪を切らなかった。切れなかった。だってわたしはまだ、ゆーくんに幸せにしてもらっていなかったから。
「なんで、切ったんだよ」
 胸に顔を埋めているわたしには、祐一がどんな顔をしてその言葉を口にしたのかは見えないけれど。その口調から、震える言葉から、彼がとても辛そうな顔をしていることは容易に想像がついた。
「なんで切っちまったんだよ、お前は幸せになりたかったんだろう? 俺に幸せにして欲しかったんだろう?」
 こくりと、彼の胸の中で頷く。
「だったらなんでだよ、俺はお前じゃなくて、あいつを選んだんだぞ!」
 そう、それこそが祐一が苦しむ理由。そして、抱きつくわたしの背に手を回して抱きしめてはくれない理由。
 でも――
「違うよ」
 違う。祐一はきっと、勘違いしている。
「わたしはね、祐一」
 未練を振り払って、彼の胸から額を離す。彼の身体から身を離す。
 くるりと祐一に背を向け、先ほどと同じように後ろで手を組んで天井を眺めると、先ほどと同じように楽しげな声を出すことができた。
「祐一と一緒に学校に行ったり、この教室でふざけ合ったり、一緒に学食でお昼を食べたり」
 たまに一緒に帰ったり、夕食を一緒に食べたり、テレビを一緒に見たり、朝起こしにきてもらったり。
「幸せだったんだよ」
 そう、わたしは幸せだったんだよ。
「だからわたしは髪を切ったの。わたしは祐一に、幸せをいっぱいいっぱいもらったから」

 だから

「ありがとう、祐一。わたしに幸せをくれて」

 ずっと――
 ずっと言いたかった、言いたかったんだよ。祐一にありがとうって。幸せをありがとうって。
 ごめんね、遅くなっちゃったね。五年間も待たせちゃってごめんね、いっぱいいっぱい苦しめたよね、ごめんね。
「わたしはもう十分、十分だよ。だから今度はあの子に…… あの子に幸せをあげて。あの子を幸せにしてあげて」
「名雪……」
 今度はあの子の番。ずっと幸せに憧れていて、それでも手に入らなくて、一度はすべてを無くしてしまったあの子だから、あの子だったら、わたしは……
 振り返って、祐一の顔を正面から見る。
 大丈夫、わたしは笑えている。

「あの子は、真琴は、わたしのたった一人の大切な妹だから。お姉ちゃんだもん、わたし」

 この街に帰ってくることを決心した理由。
 祐一にどうしても伝えたかった言葉。いまなら、心からの笑顔で言える。

「祐一、わたしの大切な妹のこと、お願いね」

 きっと祐一はわたしがそんなことを言うなんて思っていなかったんだろう。しばらく彼はわたしの顔をびっくりしたような表情で見つめ、一瞬だけ泣き笑いのような表情になって、そして最後はしっかりとした男性の顔になって言った。

「ああ、任せろ」





 校舎から出ると、先ほどよりも少しだけ多く、雪が舞っていた。
 昔は慣れていたはずの寒さに、ふるりと震える。まだお酒が抜けきっていないからだろう、足取りが少しおぼつかない。そんなわたしを見て祐一が、さも興味なさそうな様子を装って、それでいて心配そうな口調で言ってくれた。
「大丈夫かよ、また背負ってやろうか?」
「ありがとう祐一、でも大丈夫、歩けるよ」

 ありがとう、優しいね、祐一は。やっぱり変わってないね、その優しいところ。
 さっきは、あえて言葉にはしなかったけれど。
 あなたの背中は魅力的で、ずっと背負ってもらえたらいいなって思っていた頃もあった。祐一も薄々は気付いていただろうけれど、背負ってもらって、ずっといっしょに歩いていけたらどんなに素敵だろうって、夢見ていた頃もあったんだよ。
 でもね、わたしは気付いたの。わたしはあなたに背負われて歩きたいわけじゃないんだって。
 自分の足で立って、自分の足で、あなたの後ろじゃなくて、横を歩きたかったの。
 結局、あなたのすぐ横をいっしょに歩くのはわたしじゃなかったけれど。でも、だからこそ、背負われて歩くのだけは嫌だった。だからわたしはこの街を出たんだよ。

 ねえ祐一。わたし、あなたの横を歩けているかな?
 パートナーとしてじゃないけれど、伴侶としてじゃないけれど、あなたの横を、あなたと対等に、歩けているかな?

 ねえ、祐一……?





 祐一とふたり、歩いて家の近くまで来たところで人影があった。こちらにはまだ気付いてはいないようだ。
 電信柱の電灯の下、寒そうに両手に息を吐きかけているその人影。明るい色のちょっと癖のある長髪、どことなく寂しそうに見えるその出で立ち。
「ほら」
 立ち竦むわたしの背を、そう言って押してくれた祐一の手に励まされるように、一歩、また一歩とその子に歩み寄る。さっき祐一を前に振り絞った勇気が嘘のように、わたしの喉はからからに渇いて心臓はタップダンスを踊る。
 会ったら真っ先になんて言おうか、さんざん考えてきたはずなのに、そのどれもが頭の中から綺麗に消し飛んでしまっていた。祐一のときのように不意打ちだったらよかったのに。そんなことまで考えた。
 また一歩。暗い中、近づくにつれてその子の外見が更によく見えてくる。
 出会った頃はどこかまだ幼さの残っていた面影はもうあまり感じない。両手を寒そうに擦り合わせる姿はまだちょっと子供っぽかったけれど、実は密かに羨ましかったくっきりとした瞳や、目じりから鼻にかけてのラインはもう一人前の女性のそれだった。
「あっ……」
 やっとその女性が近づいてくるわたしに気付いたようだ。心臓がひとつ大きく跳ねる。
 わたしの外見はその女性以上に昔とは変わっているはずだ。長かった髪は肩にも届かないくらいに短く、縁なしとはいえ眼鏡までかけている。親友であった香里ですら、遠目にはわたしだと判らなかったというくらいなのだ。

 なのに。
 その子は、わたしの大切なたったひとりの妹は、わたしの顔を一目見ただけで、満面の笑みを浮かべてこう言った。

「おかえりなさい、お姉ちゃん」

 あっ、だめだ。
 そう思う間もなかった。
 先ほど祐一に「ありがとう」と伝えたときにすら我慢していたのに。我慢しきることができたのに。
 まるで堰き止めていた堤防が決壊するかのように、涙が溢れた。
「真琴、真琴……」
「遅いよお姉ちゃん、真琴、待ちくたびれちゃったよ。とっても寒かったんだから、とっても……寂しかったんだから」
「ごめん、ごめんね」
「五年も待たせるなんて、ひどいよ、お姉ちゃん」
「真琴……真琴!」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
 少し離れたところから祐一が見守ってくれる中、わたしと真琴は抱き合っていつまでも泣きつづけた。




「お母さん、ただまー!」
 玄関のドアを開けて、近所迷惑をちょっぴり心配してしまうような大きな声で元気にそう叫ぶ真琴。その様子が女性らしくなったその外見と妙にミスマッチで、わたしはくすりと笑みを漏らした。
「夜にあまり大きな声を出したらご近所迷惑よ」
 そのくせちっとも諌めているようには聞こえないのんびりとした声で、お母さんが台所から玄関に出てきた。
 恐らく真っ赤になっているであろう目をしたわたしたちを見て、お母さんはこう言った。
「お帰りなさい名雪、真琴、祐一さん。外から帰ったらきちんと手を洗ってね」
 五年ぶりに家に帰ってきた放蕩娘に対しても、まるで変わりのない調子。まるで学校から帰ってきたわたしたちを迎えるようなその態度に、やっぱりお母さんには敵わないと心から思った。
 ああ、帰ってきたんだな、そう思った。

 お母さんに言われたとおりに手を洗い、ついでに顔も洗った。持ってきたショルダーバッグからクレンジングと乳液を取り出し、お化粧を落とす。日課といってもいいその作業はだが、この家の洗面所でやると酷く違和感があった。
 お化粧はあまり好きではない。最初の頃は眼鏡以上に変身願望を満たしてくれたその行為も、すぐにただの作業でしかなくなった。自分を覆い隠して他者から己を偽る仮面なのだ、女性のお化粧というものは。でもだからといってこの年になってお化粧をせずに出歩くこともできず、人並みには化粧をしている自分が酷く滑稽に思える。
 なんとなく視線を感じて鏡越しに背後を顧みると、なぜだか少し唖然とした表情の真琴。こちらも鏡越しにわたしを見ていた。何となく気恥ずかしくなって、冗談交じりに「真琴はお化粧とかしないの?」と聞いてみる。彼女は五年前とは比べ物にならないほど大人っぽくなっていたけれど、化粧っけがないのは相変わらずだ。そしてそれがまたよく似合っている。
 きっと真琴にはお化粧など必要ないのだ。自分というものを包み隠す必要がないのだ。
わたしとは、違うのだ。
「一瞬、お母さんと見間違えた」
 真琴が口にしたそのあまりにも突飛な内容に、驚くより先に笑ってしまった。
「真琴、それ本気で言ってる? だとしたら真琴も眼鏡かけた方がいいんじゃない?」
「そうだよね、ぜんぜん似ていないのになんでだろ」
 変な真琴、と笑う。
 わたしはお母さんには似ていない、それは恐らく外見の問題ではないのだ。
 小さい頃は、大きくなったらお母さんのようになれるのだと信じていた。お母さんのように優しくて、お母さんのように素敵な、そんな女性になれると無邪気に信じていたのだ、三つ編みのわたしは。あ
「ねえお姉ちゃん、もう寝る?」
 その真琴の言葉に、顔を洗うため外した腕時計を手にとる。裸眼のために霞む文字盤を顔に近づけて読み取ると、十一時を少し過ぎたところだった。
「そうだね、ちょっと早いけど今日はもう寝るよ」
「えっ! もう寝ちゃうの?」
「ちょっと飲みすぎちゃった」
 そう言って笑うと、真琴は不満そうに「せっかく久しぶりなのに」と膨れる。その様子は昔と少しも変わっていなくて、ちょっと嬉しかった。
 無条件で慕ってくれる妹。今も昔も変わらず優しい従兄妹。そしてお母さん。
 色々なものを捨ててわたしはこの家を出たのだけれど、今もこうして無くしていないものがある。そう思うことで、わたしはこれからも――

 これからも、一人で生きていける。




 荷物を香里に預けてしまっているので、高校の頃に着ていたパジャマを出してもらった。ピンクの生地にカエルがプリントされたパジャマは、懐かしいと同時に二十三歳のわたしにはちょっと気恥ずかしかった。
 わたしの使っていた部屋はよく掃除されていて、布団も干したてとまではいかなかったがそれに近かいほどふかふかだった。お母さんが一人でこの広い家を管理しているということがどんなに凄いことであるのか、一人暮らしをしてみて初めて実感したものだ。向こうの部屋の雑然とした様子を思い浮かべるだけで、お母さんがいかに凄い人であるのかを思い知らされる。

「お姉ちゃん、もう寝ちゃった?」
 布団に入ってぼんやりとそんなことを考えていると、控えめなノックの音と共に真琴がそう声をかけてきた。
「ううん、まだ起きてるよ」
「えと、いっしょに寝てもいい?」
 枕を抱えて不安そうにそう言ってくる様子が微笑ましくて、わたしは笑顔でいいよと伝える。布団はわたしのベッドにしか無くてどうしたらいいか少し悩んだが、結局ベッドで一緒に寝ることにした。
 狭いベッドで、しばらくとりとめもない話をする。そしてなんとなく、話題が途切れた。
「お姉ちゃん……」
 真琴のそのちょっと声のトーンを落とした呟き。
 ああ来たな。そう思った。見るのが嫌で先延ばしにしていた実験の結果を検証するときのような倦怠感。いつまでも逃げられるわけがないのに、それでも逃げてしまうのはわたしの昔からの悪い癖なんだろうきっと。


 五年前の光景が、まるで昨日の事のように鮮やかに脳裏に蘇る。
 わたしではなく真琴を選んだ祐一。わたしはそれに嫉妬した。祐一に対して口では綺麗なことを言ったけれど、わたしは醜く嫉妬したのだ。それまで妹として心から大切に思っていたはずの真琴を憎み、あんな子は居なくなってしまえばいいのにとまで思った。
 真琴が帰ってきてからの二年間、微妙で、すぐにでも壊れてしまいそうで、でもそれでいて酷く居心地のいいわたしたち三人の関係。
 ある日突然そうなったわけではない、祐一にそれと宣言されたわけでもない、だがわたしにはわかっていた。祐一と真琴の間に、わたしが入り込む余地など微塵も無いということが。
 わかっていて、それでも諦めきれなかったのだ。漫画や小説の世界のように綺麗に身を引くことなどできなかった、結果わたしは醜く執着し、滑稽なほどに必死になった。祐一に媚びるように接し、気を引こうと躍起になっていた当時のわたし、傍から見るとなんと滑稽だったことか。
 でも、結果は変わらなかった。わたしの行動はただ、惨めなだけだった。
 そしてわたしは祐一と同じだった志望校を変更し、この街を去ったのだ。



「あたしね、お姉ちゃんがこの街を出てからずっと考えたんだ」
 不思議なほどに静かな真琴の声。どうしてこの子はこんなに静かな声で当時を振り返ることができるのか。
「あたし、頭悪いからわからなかったけど、それでもずっと考えた」
 あんなことをしたわたしに、どうして。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
 ごめんなさい。
 ああそうだ、そうだった。あのときも真琴は「ごめんなさい」と言い、そしてわたしは――激昂したのだ。



 何とか都会の大学に合格し、この街を離れることになった五年前のわたし。
 あれはこの家を出る前日だった、真琴がわたしに言ったのだ。

『ごめんなさい、お姉ちゃん』

 何に対しての謝罪であるのかは明白だった。その頃にはもうわたしと真琴の関係はまるで油の足りない歯車のようにぎくしゃくとしていて、同じ家にいるのにろくに話もしないくらいだったから。

 ごめんなさい、この家に居られないようにしちゃって。
 ごめんなさい、家の雰囲気を悪くしちゃって。
 ごめんなさい、祐一を取っちゃって。
 真琴はそう言っていた、「ごめんなさい」というただそれだけの言葉の中に、わたしへの哀れみを込めて。少なくとも、わたしはそう信じた。
 耐えられなかった、純粋なその残酷さに。許せなかった、無邪気なその傲慢さが。

 そして気付けば、わたしは真琴を平手で殴りつけていた。

 床に倒れた真琴はなにか信じられない事態に当惑するような表情を一瞬だけ浮かべ、そして泣きながら自分の部屋に走り去った。わたしはじんじんと鈍く痛む掌を抱えてずっと立ち尽くした。
 翌日、街を出る電車のホーム。見送りに来てくれた人たちの中に、真琴の姿は無かった。



 当時のわたしは何にあんなに激昂したのだろう。なぜあんなことをしたのだろう。
 あのとき、わたしは真琴に哀れまれたことに激発したのだと、ずっとそう思っていたのだけれど。
 それは違うのだ。違ったのだ。本当の理由に気付くまでに五年かかった。

「あたし、子供だった。お姉ちゃんの気持ちなんてこれっぽっちも考えていなかった」
 真琴の声は震えていて、彼女がこの五年間いかに苦しんできたかを物語っているかのようだ。
「あのとき、あたしはお姉ちゃんに『ごめんなさい』なんて言っちゃいけなかった、真琴馬鹿だから、そんなことにも気がつかなかった」
「……」
「だから、ごめんなさい。あのとき『ごめんなさい』なんて言って、ごめんなさい」
 狭いベッド、天井を向くわたしの頬に視線を感じる。真琴は真剣だった。
「ずるいよ」
「え?」
「ずるいよ、真琴は」
 そう、この子はずるい。そんなふうに謝られちゃったら、お姉ちゃんの立場がないじゃない。
 この子はわたしみたいに卑怯じゃない、わたしみたいに狡猾じゃない。いつだって真剣で、一生懸命で、真っ直ぐに前だけ見ている。そのくせいつだって明るくて、笑顔で。
 ああ、真琴はお母さんにそっくりだ。本当に血の繋がっているわたしなんかよりよっぽど、お母さんにそっくりなんだ。ちょっと悔しい。でもそれ以上に、嬉しい。
 わたしは仰向けになっていた身体をもぞもぞと動かし、隣でこちらを向いている真琴を抱きしめた。
「お、お姉ちゃん?」
「真琴が謝る事なんてない」
「……え?」
「悪いのはわたしだよ」
「そ、そんなことない! あれは真琴が……!」
「真琴、ああ真琴、お願い聞いて」
 抱きしめた背中をぽんぽんと軽く叩いて、言葉を遮る。
「あのとき、真琴に『ごめんなさい』って言われて、わたしは情けなかった、哀れまれてるんだって思った」
「……」
「だから叩いた。あのときはね、叩いて当然だって思った」
「……うん」
「だけど、あのとき真琴はお姉ちゃんを哀れんでいたの?」
「そうじゃない! そうじゃないけど……」
「うんそうだよね。本当はね、お姉ちゃんも知ってたよ。真琴がそんなことを言う子じゃないって、知ってた」
 真琴は「お姉ちゃん」と呟き、わたしの腕の中でじっとこちらを見つめる。その純粋な目が辛かった。その目の前で、自分の過去の過ちを認めるのは、とても辛い事だった。
「本当は……」
 でも、言わなくちゃいけない。どんなに辛くてもいまここで口にしないと、わたしはこれから先一歩も前に進めない。
「本当は、わたしを責めていたのは、蔑んでいたのは、わたし自身」
 少し声が震えていたかもしれない。
「情けない、みっともない、そんな人が好きな人を取られてしまうのは当然のこと、そう蔑んでいたのは、わたし自身だったの」
 そう、だからこそ五年前のわたしは真琴の言葉にあんなにも激昂したのだ。自分自身の声に勝手に自分で傷ついて、その憤りを本心から純粋に言葉を発した真琴にぶつけてしまった。いまならわかる、あれは単なるやつあたりだったんだっていうことが。
「そうして、わたしは傷ついたつもりになってた、傷つけられたんだって自分を哀れんでた」
 きゅっと目を瞑る。辛い。過ちを認めることが、自分の愚かさを認めることが、こんなにも辛いことだなんて知らなかった。
「ごめん、ごめんね真琴、あのとき叩いてしまって、ごめんね」
 たったこれだけのことを口にするのに五年もかかった。
 いま同じ立場に立たされてみて初めて実感する。自分の過ちを素直に認めて謝罪すること、こんなにも辛いその行為を素直にできる真琴はわたしなんかよりよっぽど強い。本心では気付いていながら認めることができなくて五年間も逃げていたわたしとは大違いだ。
「ごめんね、駄目なお姉ちゃんで、ごめんね」
 お姉ちゃん、お姉ちゃんと泣きながら抱きついてくる真琴。
 泣かないで、わたしなんかのために泣かないで。大きくなって女らしくなったのに、泣き虫さんなところは相変わらずだね。あなたは変わってないね、昔と変わらず泣き虫で、昔と変わらず優しくて、そしてとっても強い子。お姉ちゃん安心したよ、真琴がいてくれれば大丈夫。
 わたしがいなくてももう大丈夫だよね。
 だから、祐一のこと、お母さんのこと、お願いするね。

 大好きだよ、真琴……






 泣き疲れたのだろう、眠ってしまった真琴の身体からそっと両手を解く。緊張感が抜けたからか、わたしはなかなか寝付けずにいた。
 数時間の電車の旅、そして少し飲みすぎたこともあって、喉が渇いていた。真琴を起こさないようにそっとベッドから抜け出す。部屋の冷気に身震いをして、なにか上に羽織るものを探すと懐かしい猫柄のどてらが見つかった。
 どてらを羽織り、机に置いた眼鏡をかけるかちょっと迷ったけれど、結局そのまま裸眼でそっと部屋を出た。

「あら名雪、まだ寝ていなかったのね」
 裸眼のために霞んだ視界の中、台所にお母さんがいた。洗い物をしている時間ではないから、わたしと同じように喉でも渇いたのだろうか、パジャマの上に見慣れたカーディガンを羽織って、なにをするでもなく食卓にぽつりと座っていた。ちょっと喉が渇いちゃって、と言うとグラスにお水を持ってきてくれた。凍るように冷たいそれをこくりこくりと飲み干す。
「暖かいココアでも入れましょうか?」
 そう言うと、わたしの返事を待たずヤカンをコンロにかけた。手持ち無沙汰になってしまったわたしは、先ほどお母さんがそうしていたように食卓の椅子に腰かける。
 ヤカンのコトコトという音とガスの音しかしない静かな夜。この街の夜はこんなにも静かだっただろうか。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
 見慣れた懐かしいマグに注がれたココアを受け取ると、お母さんも自分の分を食卓に置きわたしの隣に腰かけた。ちょっと猫舌のわたしは、ふーふーと冷まして少しずつそれを口にする。ココアの甘い香りが口内を満たした。
「あったかいね」
「そうね」
 まだ祐一も真琴もこの街に来る前、よくこうしてお母さんにいれてもらったココアを一緒に飲んだことを思い出す。そういうときはたいていお互い何も会話がなくて、でも息苦しいだとか気まずいだとかいうことはなかった。
「こっちはやっぱり寒いね」
「そうでしょうね」
「雪、積もるかな」
「どうかしら、積もらないでくれると嬉しいのだけれど」
 少し会話が途切れる。静かな夜、静か過ぎる夜。
 正面ではなくて、横に座ってくれたのはお母さんの気遣いだろうか。
「そういえばね、さっき真琴がね」
「ええ」
「洗面台の鏡に映るわたしを見て、お母さんと間違えたなんて言うんだよ」
 ちょっぴり苦笑しつつ続ける。
「変だよね、わたし、お母さんに似てないのに」
 外見も、そして内面も。
「ちっとも、似てないのに」
 俯くようにマグカップに視線を落とす。霞む視界のなか、ココアの濃い茶色がゆたっている、眼鏡をかけてくればよかった。
 どのくらいそうしていただろう、呟くようにお母さんが言った。
「そんなことないわ」
 会話は終わったと思っていたわたしは、え? と思わず聞き返してしまった。
「名雪、あなたわたしの若い頃にそっくりよ」
 思わず顔を向けると、いつもこちらを見て話をするお母さんが珍しく俯いていた。先ほどまでのわたしと同じようにマグカップを両手で包み、揺れる茶色を見つめている。
「そんなことないと思うけど」
 お母さんに顔を向けたまま、そう口にする。
 わたしがお母さんと似ているとは思えなかった。わたしを生む前の若い頃のお母さんを知っているわけじゃないけれど、いまのわたしが歳を重ねてお母さんみたいになれるとは思えないのと同じに、いまのお母さんの若い頃がわたしに似ているともどうしても思えなかった。
 五年前に祐一に執着したわたし、真琴に酷いことをしたわたし。いまの卑怯なわたし、臆病なわたし。そのどれもがお母さんとはかけ離れている。
「やっぱり親子ね、そうやってすぐに思い詰めるところなんてわたしにそっくり」
 お母さんは顔を上げ、そういって少し笑った。見つめるわたしの、五年前とは比べ物にならないほど短くなった髪をそっと撫でてくれる。
「みんなそうやって大人になっていくのね」
 そういってお母さんはちょっと寂しそうに笑った。
 大人。二十歳を過ぎれば制度としては大人、そういう意味では二十三になったわたしはもう大人といえるかもしれない。だけど他ならぬわたし自身が一番よく知っている。大人になりきれていないから、こんなにも苦しいのだと、こんなにも辛いのだということを。
「大人になるっていうことは、きっと自分が嫌いになっていくということよ」
「え?」
「名雪は自分が好き?」
「……嫌い、大嫌い」
 好きになれるわけがない。
「だったらそれだけ、名雪が大人になったんだっていうことよ」
「……だけど、大人になってもお母さんみたいになれないよ、わたし」
 幼いころは、大人になったらお母さんのようになれるのだと思っていた。だけどなれない、いつだって悩んで、苦しんで、逃げて。いつになったらわたしはお母さんのようになれるのだろう。
 また俯いたわたしに、お母さんはまた少し笑う。そして言った。
「それは当然よ、名雪はわたしじゃないのだから」
 その言葉に少し驚いて、顔を上げる。お母さんは優しく微笑んでわたしを見ていた。
「大きくなったらわたしになるんじゃないの、名雪は大きくなったら、大人の名雪になるのよ」
「お母さん……」
「いつの間にこんなに大きくなっちゃったのかしらね」
 そう言ってお母さんは立ち上がり、椅子に座るわたしを優しく抱きしめてくれた。
「おかえりなさい、わたしの名雪」
 小さいころにそうしてもらったように、抱きしめて頭を撫でてくれる。暖かな、あのころと少しも変わっていない温もり。
「ただいま、ただいま…… お母さん」
「あらあら、大きくなっても相変わらず名雪は泣き虫さんね」
「そんなこと、そんなことないもん……」
「そういうところは真琴にそっくり」
「…ぐすっ……そう?」
「そうね、あなたたちは姉妹なんだから、似ていて当然ね」
「うん…うん……」
 あとは言葉にならなかった。子供のころにそうしていたように、しゃくりあげるようにしてただ泣いた。自分がいま、悲しいのか嬉しいのかもわからぬままに。
 ただ「お帰りなさい」といってくれたお母さんの声と、頭を撫でてくれる暖かな手の感触だけを感じて、甘いココアの匂いに包まれながら。

 どのくらいそうしていただろう、ちょっぴり気恥ずかしくなってわたしはお母さんから身を離した。
「えへへ、ごめんねお母さん変なこと言っちゃって」
「いいのよ」
「うん、じゃあもう寝るね」
「ちゃんと歯を磨いてから寝ないと駄目よ?」
「うー、わたしもう子供じゃないよ」
 少し笑ってそう言うと、そうね、とお母さんも笑う。
「じゃあおやすみ、お母さん」
「はい、おやすみなさい」
 洗面所で歯を磨き、赤い目をごまかすように冷たい水で顔を洗う。顔を上げると、ぼんやりとした視界の中で鏡の中のわたしが目を細めてこちらを見返していた。
『名雪は大きくなったら、大人の名雪になるのよ』
 なれるだろうか、わたしは大人のわたしに。
 いまはまだ、自分のこともままならない情けないわたしだけど、いつかはお母さんのようなわたしに、大人のわたしに、なれるだろうか。
「頑張ろう、ね」
 鏡の中のわたしは、にっこりと微笑んでこちらを見返していた。

 洗面所から出ると階段を通るために食卓にあるリビングを横切る。ちらりと見ると、お母さんはまだ食卓の椅子にぼんやりと腰かけていた。
 もう一度おやすみを言おうとしたわたしの耳に、聞こえるか聞こえないかの呟きが聞こえてきた。
「また少し寂しくなりますね、あなた」
 息が詰まった。
 こんな寂しそうなお母さんの声を聞いたのは初めてだったから。
 お母さんは最初からお見通しだったんだ。わたしが何のために五年ぶりにこの街に帰ってきたのか、この家に帰ってきたのか。お見通しだったのに、わたしには何も言わず、ああして一人で寂しさを堪えている。
 敵わない、やっぱりお母さんには。そう思うと同時に、決心が揺らいでいることにも気付く。あんなにも考えて考えて考え抜いた末のことなのに。祐一にも真琴にも、ちゃんと伝えなくちゃいけないことを伝え終えて、もうなにも考えることはないはずなのに。

 ――これから一人で生きていけるはずなのに。

 部屋に戻り、眠る真琴を起こさぬよう布団に入ってからも、迷いはたちこめる霧のように晴れることはなかった。




 純白のブライダル。
 ウェディングドレスの親友はとんでもなく綺麗で、わたしも真琴も思わずため息をついてしまった。新郎はちょっと緊張しすぎで、祐一はお腹を抱えて笑っていたけれども。
 ライスシャワーのなか、香里の投げたブーケが晴れ渡った空に孤を描く。
「お姉ちゃん、やった! あたしが次の花嫁さんだー!」
 わたしの隣に立つ妹が、興奮した様子でブーケを手に笑う。次らしいよ、どうする祐一? と従兄妹をからかうと、真っ赤な顔でそっぽを向かれた。
 披露宴ではわたしと真琴で歌を歌ってちょっぴり恥ずかしい思いをしたり、祐一たち新郎の悪友さんたちの余興で恥ずかしくて泣きそうになったりした。
 そうして、新婦の妹さんである栞ちゃん。ときおり声を詰まらせながらも、おめでとうお姉ちゃんと結んだ彼女のスピーチには万雷の拍手。同じように瞳から大粒の涙を流す花嫁さんを、新郎の彼がしっかりと支えた。
 懐かしい面々、数年ぶりに顔を合わす友人たち。時間を忘れて楽しんで、そして結婚式は終わった。
 お幸せに。


 翌日、わたしが帰る日。
 引き出物は割れ物でないことを確認して荷物と一緒に郵送したので、来る時とは違って身軽なものだ。駅までは大した距離じゃないので、歩いていくことにした。
「そろそろ行くね」
 玄関先で三人に告げる。駅までの見送りは断った、お母さんは相変わらず微笑んでいたけれど、祐一と真琴を納得させるのは大変だった。
 次はいつ帰ってくるの? と真琴。そんな捨てられた子猫さんみたいな顔しないで真琴。決心が鈍っちゃうよ。
「研究が忙しいからわからないけど、なるべく帰ってくるようにするよ」
 ちらりとお母さんを見る。わたしの言葉の真意を恐らく察しているだろうけれど、お母さんは何も言わなかった。
「それでもたまには帰って来いよな、ここがお前の家なんだから」
 ちょっと怒ったように祐一。ぶっきらぼうに聞こえるけれど、その実、わたしを心配してくれているのがわかる。ありがとう、と心の中で告げて、そうするよと口に出して応えた。
「じゃあ、もう行くね」
「ああ、行ってこい」
「いってらっしゃい、お姉ちゃん」
「いってらっしゃい」
「うん」
 玄関を出て、半べその妹と、少し悲しげなお母さんと、不機嫌そうな従兄妹に手を振る。
「じゃあね」
 いままでありがとう、そして。

 ――さよなら。





 駅へ向かう道すがら、懐かしい風景を目に焼き付けるように歩く。昨夜も少し降った雪は晴天に溶けて跡形もない。雪景色だったらよかったのに、そんなことを思った。

 恐らくはもう、この街には帰ってはこない。
 決めていたことだ、この街に戻る前から。
 真琴にも、祐一にも、伝えなくてはならないことはすべて伝えた。心残りはない、ないはずだ。お母さんの言葉に少し心が揺らいだけれど、結局わたしはこの街を去ることにしたのだ。当初の予定通りに。
 別に何か悲壮な決意があるわけじゃない。鳥だっていずれは巣立ちをするのだ、それがほんのちょっとだけ早まっただけ。本当はずっと前にこうなるはずだったのだ、後悔を残してしまったがために五年も遠回りしてしまったけれど、こうして心残りを解消することができて本当によかった。なんの後悔もなく、わたしは一人で生きていくことができる。
 真琴と祐一はやがて暖かい家庭を築くだろう、お母さんがお婆ちゃんになる日だってそう遠くないかもしれない。わたしはわたしで、遠く離れた地でいずれは家庭を持つことになるのだ。まだそんな気には当分はなれないけれども。
 見慣れていたはずの景色が、妙に懐かしい。高校のころにはこの道をよく通った、通学路からは外れていたけれど、この道は真琴が当時お手伝いをしていた保育所からの帰り道なのだ。学校が終わってからよく祐一と一緒に真琴を迎えに行った。三人ではしゃぎまわりながら帰った、真琴はいつだって元気で、祐一はそんな真琴をよくからかって、わたしが注意しないといつまでも言い合いをしていた。
「懐かしい」
 思わず言葉が漏れる。
 あのころは、楽しかった。
 長森先生って綺麗だよな、なんてことを口にした祐一を、わたしと真琴で睨みつけたり。結局ダイエットできなかった真琴を祐一がからかって、怒った真琴に追いまわされたり。わたしが前にお酒を飲んでしまって酔っ払った様子を祐一が口にして、怒ったわたしが追いまわしたり。
 ああ、なんて幸せな日々。
なんてかけがえのない日常。

 あのころは、毎日こんな日々が続くんだって、明日もまた今日と同じ明日なんだって、無条件に信じていた。日々の大切さはもう十分に知っていたけれど、いつまでもその宝石のような日々が続くのだとずっと確信していたのだ。
 後悔はない、ないけれど、ちょっとだけ寂しいのは仕方がないことなのだろう。人はいつまでも変わらないままではいられない。別れがあるから出会いがあり、出会いがあるからこそ別れがある。いつかは一緒にいられなくなる日が来る。それはもう、どうしようもないことだ。
「さようなら」
 呟きは過ぎ去った日々に対して、そして、故郷の街に対して。
 いつの間にか頬を伝う涙は、きっと過去の幸せだったわたしに対して。

 さようなら、祐一。
 さようなら、真琴。

 そしてさようなら――


 過去の、わたし。



 少し遠回りをして、駅に着く。電車の時間には十分に余裕をもって家を出たから、ちょうどいいくらいだった。
 さほど大きくない駅のこと、ホームまでもすぐの距離だ。目的の電車はこの街が始発なので、既に入線していた。
「ふう」
 よく暖房の効いた車内に腰を落ち着けると、自然とため息が出た。まさか泣くとは思わなかった。それもただ、街並みを眺めただけで。
 祐一や真琴へ伝えたかったこととは別に、この街に帰ってくるときに心に決めたことがある。それは、決して泣くまいということ。
 悲劇の主人公を気取るのは嫌だった、そして自分に酔うのはもっと嫌だった。だから決して泣くまいと決めて、わたしは故郷の街に帰ることを決めた。
 だけど駄目だった。妹の顔を見たとき、そして一人で過去を想って街を歩いたとき、わたしは誓いを破ってしまった。なんて情けない。そう思うと同時に、これでよかったのかもしれないという思いもある。涙を流す弱いわたしを、この街に置いてくることができたから。
もうわたしは泣かないだろう。この街に帰ることのないわたしは、恐らくはもう泣くことはない。


発車までは十五分あまり、途中で文庫本でも買ってくるべきだったかもしれない。乾燥した空気に、十分も経つと喉が乾いてきて、飲み物を買いに行こうかとホームに目を向けたときだった。
 祐一と真琴がホームに駆け込んできたのは。
「え?」

「ちょっと祐一! お姉ちゃんどの席よ!」
「知るかそんなもん!」
「使えないわね! あーあと五分しかない!」
「こうなりゃ片っ端から探してくしかねー!」
 わたしは慌てて席を立つと、乗車口まで走ってそこから二人を呼んだ。
「真琴、祐一!」
「あっ! お姉ちゃん!」
 走り寄ってくる二人。家からずっと走ってきたのか、二人とも息を切らして苦しそうだ。
「ど、どうしたの?」
「…伝え……忘れたこと、が…あって……」
 はあはあと苦しそうに息を接いで、真琴が途切れ途切れにそう言った。そしていち早く呼吸を整えた祐一が言う。
「秋子さんから伝言だ」
「お母さんから?」
 なにかあったのだろうか。
「春になったら桜を見にまた来るように、だってさ」
「……」
「来ないと仕送りストップだそうだ」
「そ、そんな無茶な……」
 思わず情けない声をあげてしまったわたしの頭を、祐一がげんこつでぽかりと叩く。
「あいたっ!」
 衝撃でずれてしまった眼鏡を直しつつ抗議する、なにするの祐一!
「ばーか、お前の考えてることなんてな、バレバレなんだよ」
「えっ」
「ふん」
 不機嫌そうに鼻を鳴らすと、祐一はそれっきりそっぽを向いてしまった。
 わたしの考えていることがバレバレと祐一は言った。そしてお母さんからの伝言、その真意。
「お、お姉ちゃん」
 まだちょっと苦しそうだったけれど、何とか息を整えて真琴。
「出て行くときの挨拶、間違えているよ」
「え?」
 思ってもみなかった言葉に、また聞き返すことしかできない。戸惑うわたしに、真琴はちょっと怒ったような表情をしてこう言った。
「家を出るときの挨拶は、『いってきます』でしょ!」
 『いってきます』とは、『行って来ます』のこと。行ってから、また来るということ。また家に帰ってくることを伝えるための挨拶。
 家を出るとき、確かにわたしは意識してその言葉を使わなかった。だってもう帰ってくる気が無かったから……
 でも。
「そっか」
 バレバレだったんだね、わたしの考えてることなんて。
 それでも二人はわたしを追いかけてきてくれたんだね。
「でも、わたし……」
 ごちん、と、また祐一にげんこつで叩かれた。
「い、痛いよ祐一」
「デモもストライキもあるか、アホかお前」
 いいか、一度しか言わないからよく聞けよ、と。なんだかとっても偉そうに、祐一は言った。
「俺たち、家族だろうが」
「え……」
 それから彼は、不機嫌そうに、でもこの上なく真剣にこう言った。

「いいか、新しく家族ができることはあっても、家族が家族じゃなくなることなんて無いんだよ」

「お姉ちゃん!」
「真琴?」
「また帰ってきてくれなくちゃ嫌だ!」
 叫ぶ。真琴は泣いていた。
「あたし許さないから! お姉ちゃんがまた帰ってきてくれなきゃ、許さないから!」
 ああ、馬鹿だなわたしは。
 本当はなにも変わっていなかったんだ。祐一と、真琴と、わたし。三人で歩いたあのころと、本当はなにも変わってなんていなかった。わたしが勝手に変わってしまったと思い込んでいただけだったんだ。
「わたし、わたしは……」
「あっ!」
 発車のベルがホームに響く、何を伝える暇もなく電車のドアが閉まった。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
 真琴の必死な声を聞きながら、車内を走って、がたがたとたてつけの悪い窓を全開にした。
 さあっと、身を切るような、でもそれでいて心地よい冷気がなだれ込んでくる。
「真琴! 祐一!」
 わたしの行動に気付いた二人が駆け寄ってくる。が、徐々に加速する電車にその距離は縮まるどころか広がっていく。
「わたし、わたし……!」
 頭の中が真っ白で、まるで言葉を忘れてしまったようになにも浮かばない。お姉ちゃんと叫ぶ真琴の声と、ちょっとくらい待ってくれてもいいだろうが、と電車に悪態をつく祐一の声が徐々に遠くなる。
 なにか、なにか言わなくちゃ!
 せっかく来てくれた二人に、なにか言わなくちゃいけない、なにか、なにかを…… そして咄嗟にわたしは、こう叫んだ。


「いってきます!」





 駅はホームを離れ、新幹線の停まる駅に向けてのんびりと走りつづける。
 祐一と真琴にはわたしが最後に叫んだ言葉は聞こえただろうか。
 いってきます。
 最後に叫んだ言葉。行って来ます、また帰ってきます。そう叫んだのだわたしは。
 祐一の言葉を思い出す。「新しく家族ができることはあっても、家族が家族じゃなくなることなんて無い」と、従兄妹はそうわたしに言った。
 なにが正しいのか、正直言うとわからない。考えて考え抜いて出した結論を、すぐに覆すことはできそうもない。
 だけどわたしは二人に言ったんだ、『いってきます』って。
 家族に嘘をつくのは嫌だ、だからわたしはまたこの街に、故郷の街に帰らなくてはならない。
 それまで考えよう、毎日は忙しいけれど、考える時間くらいはいくらでもあるはずだ。もういちど故郷に帰るまで、ちゃんと考えるんだ。結論はそれからでも遅くはないだろう。



 がたんごとんという単調な電車の音と心地よく効いた暖房。
 その手紙に気付いたのは、涙で崩れてしまったお化粧を直そうとバッグを開けたときだった。

 『わたしの娘へ』

 表題はこんな簡素な文章で、内容はもっと簡素だった。

 『春になったら、また丘にピクニックに行きますよ』

 たったこれだけ。
 お母さんの手紙。いつの間に入れたのだろう、ぜんぜん気がつかなかった。お母さんらしい質素な封筒に、それ以上に質素な言葉。だがわたしが目を奪われたのは、同封されたそれだった。
「これ……写真?」

 ああ、なんてことだろう。
 せっかくお化粧を直そうとしたというのに、これじゃまったく台無しだ。
「お母さんの、バカ」
 どうしてこんな写真を入れるのか。まったくお母さんは本当に意地が悪いと思う。
『こらぁ祐一! あたま抑えないでよっ!』『うむ、ぴろが乗りたがるのがよく解るな』『わわっ、ケンカしたらダメだよ』『あらあら』
 ダメだよ、こんなの。反則だよ。

 それは、春に丘にピクニックに行ったときの写真だった。
 平らな場所がなかなか無くて、三脚を立てるのに祐一が苦労していた。そんな彼を口では急かしつつも、真琴はなんだかとてもハラハラしてて、わたしとお母さんは微笑ましくってくすくす笑いながら見てた。よっしゃこれでオッケイ、早くしなさいよね! ほら祐一早く早く、祐一さんほらこっちに。

 やっぱりわたしはお母さんには敵わない。
 こんな写真を見せられたら、こんなみんなの笑顔を見せられたら、わたしは割り切ることができるはずがないじゃないか。わたしがどんなことを決意してあの街に帰ったのか、どんなことを割り切って去るつもりなのか、お母さんにはぜんぶ解っていて。
 それで、この写真を忍ばせたのだ、きっと。

 大切な、本当に大切な家族の写真を、わたしは胸に抱えた。向こうの街に着いたなら、真っ先に額縁を買おう、この写真を入れる用に。
色はそうだ、白がいい。初雪のような、真っ白な色だったら、それを見るたびにわたしはきっととても幸せな気分になれるだろう。

 眼鏡が邪魔で、流れ落ちるそれを拭うこともできなかったけれど。ただでさえ崩れてしまったお化粧が更に大変なことになるのは解っていたけれど。
わたしは、その写真をずっと胸に抱えて、俯いて歓喜に震えることしかできなかった。




「いってきます、頑張ってきます」

「待っていてください。わたしは絶対に帰ってきます」


「だからそれまで――」



 さようなら



 車窓の外は、ぬけるような冬の晴天。
 雪の降る気配は、もうなかった。









END