夜。

 闇を切り裂く悲鳴。

 断続的に挙がる、救いを求める叫び。

 やがて、痛みを堪えるようなうめき。啜り泣き。

 そして、静寂。

 

 

 

 

 


第二回 かのんSSこんぺ 中編部門 出展作

復讐という名の代償行為

2002/10/07 初展
2003/02/13 改訂

 久慈光樹


 

 

 

 

 

1日目

 

 息を殺し、跳ねる鼓動を感じながら薄暗がりに身を潜める。

 手にはそれ自体が発光しているかのように鈍く光る一振りのナイフ。

 握り締めた掌に汗のぬめりを感じて、そこで初めて俺はナイフの柄をきつく握り締めていたことに気付いた。凶器を左手に持ち替え、右手の強張りを解すように、ゆっくりと握る開くの動作を繰り返す。

 

 焦るな。

 焦り、心を乱しては仕損じる。

 

 ちくり、と、右の二の腕が痛んだ。そこに巻かれた白い包帯に視線を向ける。

 少し煤けてしまっているが、元は純白だった包帯。

 料理の手伝いなどという慣れぬことをしたのが災いし、火傷をした。治療してくれたのは、秋子さんだった。

 名雪は涙ぐみ、包帯を巻かれる俺を睨んでいた。

 

『もう、祐一はそそっかしいんだから!』

 

 穢れを知らぬ純白の包帯。

 今は穢れてしまった包帯。  純白だった包帯は、見る影も無い。

 純白だった彼女は、見る影も無い。

 俺の心に再び燃え上がる静かな青き炎。

 

 殺す。

 そう、必ず――

 

「殺して、やる……」

 

 

 

 

 

「名雪のやつ、遅っせぇなぁ」

 

 ぐーぐーと情けない音を立てる腹を抱えて、うめく俺。

 

「このまま餓死したらぜったいに化けて出てやるからなこんちくしょう」

 

 そのままリビングのソファーに突っ伏す。時計を見ると午後7時になるところだった。

 本人曰く『部長さん』であるところの名雪のこと、またクソ真面目に率先して後片付けでもしてるに違いない

 

「真面目すぎるんだよな、あいつは」

 

 非難の口調とは裏腹に、笑みが漏れた。まぁ、それがあいつのいいところと言えなくもない。

 何事にも前向きで、損するくらい一生懸命で。そしてなにより、純粋で。惚れた贔屓目かもしれないが、それらは紛れもない名雪の美点だ。そんなやつだから、俺も好きになったのだ。

 

「あー、腹減った腹減った」

 

 気恥ずかしさを振り払うように、声に出して繰り返す。

 秋子さんはこの間から出張に出てしまっているため、飯を作ってくれるのは名雪しかいない。

 名雪、早く帰ってこないかな……。

 

 その電話が鳴ったのは、午後9時をまわり、名雪はいったいどうしたのかと心配になり始めた頃だった。

 

「はい、相ざ……水瀬です」

「相沢くん?」

「はいそうですが…ああ、香里か」

 

 毎日学校で聞いている香里の声がすぐには判らなかったのは、それが普段聞くことのない切迫したものだったからだ。

 

「相沢くん、あなたずっと家にいた?」

「は? どうしたんだよいったい」

 

 有無を言わさぬ問い掛けに戸惑う俺に、香里は「答えて」と斬りつけるような声で応える。

 

「学校から帰ってきてからはずっと家にいたぞ。名雪は帰ってこないし、空腹を抱えて危うく白骨になるところだった」

 

 戸惑いながらも冗談めかして返す俺の言葉を聞いているのかいないのか、香里は無言。

 

「おい、どうしたんだよいったい」

 

 沈黙に耐え切れず声をかけた俺に、電話の向こうの香里はこう言った。

 

「名雪が、襲われたの」

 

 おそわれた?

 

「は? なにそれ、どういう意味だよ」

「……言葉どおりよ」

「なんだよ、またいつぞやみたいに学校に野犬でも出たのか?」

「……」

「名雪は大丈夫なのかよ、噛まれて怪我でもしたんじゃ……」

「…………よ」

「あ? 聞こえねえよ。名雪は大丈夫か、おい香里」

「……のよ…」

「あ? なんだって? もうちょっとでかい声で話せ!」

 

 名雪の身を案じ、怒鳴りつける俺の声を圧するように、香里は、叫んだ。

 

「あの子、強姦されたのよ!」

 

 

 

 

 

2日目

 

 午前5時、うっすらと白んできた空から、弱々しい光が射し込む。

 舞い上がる埃がその光に照らされて、不潔さと綺麗さという相反する印象を見る者に植え付ける。

 うらびれた廃工場。そこに俺は潜んでいた。 

 視線の先には安普請のアパート。その一室を昨夜から一睡もせずに睨みつけている。

 手には鋭く光るナイフ。今は銀色のそれが朱色に染まる瞬間を夢想しながら。

 

 名雪を襲った奴が、あそこに、いる。

 

 昨夜は帰ってこなかった、今日も帰ってこないかもしれない。だが、あそこは奴の家だ。必ず奴は帰ってくる。

 俺に殺されるために、帰ってくる。

 

 くっくっく、と。知らず、喉の奥が鳴る。

 

 俺は笑っているのか?  笑っているのかもしれない。復讐、そう、これは復讐という名の、神聖な儀式。  俺の大切な名雪を汚した罪を、償ってもらうのだ。

 脳裏に名雪の姿が浮かんだ。待ってろ、名雪。もう少しだ。

 

 薄暗い場所に身を沈めながら、俺は後から後から漏れてくる笑いを抑えきれずにいた。

 

 

 

 

 病院。生と死と、喜びと悲しみの同居する場所。

 香里から場所を聞き出した俺は、すぐさまその病院に走った。

 夜であるため既に正面の入り口は閉ざされていた。緊急用の外来口から入る。夜の闇に光る赤色灯が血の色を連想させ、気分が悪くなった。

 

「相沢くん!」

 

 ロビーで香里に声をかけられた。

 

「香里! 名雪は、名雪はっ!」

「……こっちよ」

 

 しばらく俺の顔をじっと見たあと、先に立って歩き出す。その後を追いながら、先ほどの電話での香里が発した言葉を頭の中で反芻する。

 

『強姦されたのよ』

 

 香里はそう言った。その言葉の指し示すところは明確で、違う意味に取りようもない。

 にも関わらず俺は、それが何かの間違いであることを心のどこかで期待していたのかもしれない。

 だが俺のそんな淡い期待は、病室のドアを開けた瞬間に打ち砕かれた。

 

 ドアを開けてまず目に付いたのは、ベッドに半身を起こした名雪の、その頬を痛々しく被う白いガーゼ。その怯えた瞳。

 確認できたのはそこまでだった。

 

「いや…… いやあああぁぁぁぁっ!!」

 

 静かな病室に響き渡る、名雪の叫び。

 決して広くないベッドから転がり落ちる勢いで、入り口に立つ俺から逃げるように身を捩じらせる。その瞳には、はっきりとした恐怖の色が浮かんでいた。

 

「名雪、俺だ、祐一だ!」

「いや、いやっ! 来ないでっ!」

「俺がわからないのか、名雪!」

「いやああぁぁぁっ!」

 

 歪められた顔、恐怖に彩られた瞳、俺のこともまるで判っていないその様子に、思わず名雪に駆け寄ろうとして、香里に止められた。

 

「相沢くん、ここは私に任せてあなたは外に出ていて。早く!」

 

 室外に出てからも、しばらくは名雪の叫びと暴れる音が漏れてきていたが、騒ぎを聞きつけたであろう看護婦が入っていくと、やがて室内は静かになった。

 

「いいわよ相沢くん、入っても」

 

 無言で再び室内に入る。鎮静剤でも打たれたのか、名雪は眠っていた。

 その寝顔はとても安らかと呼べるものではなく、夢の中でも何かに責めたてられているかのように歪んでいた。

 

「いったい、どうして」

 

 どうしてこんなことになったのか。

 昨日までは、いや、ほんの数時間前までは本当に平和な、何もないけれど平和な日常だったはずだ。

 その俺の言葉を、違う意味に解釈したのだろう。香里が取り繕うように、だが冷ややかな口調で、言った。

 

「『相沢君だから』じゃないわ、今の名雪は男という生き物すべてに怯えているのよ」

 

 その言葉に、先ほど見た名雪の取り乱した様子を思い出す。その瞳を、思い出す。

 

 怯え。

 そこにあったのは、ただ、怯え。

 

 本当に。

 なんだって、こんな、ことに――

 

「警察には病院から連絡してもらったわ」

 

 香里の呟くようなその声に我に返り、そして当惑した。

 警察? どうして警察に?

 俺のそんな表情を察したのか、やや苛ついた口調で香里は続ける。

 

「名雪をこんな風にした奴を捕まえてもらうのよ」

 

 ぼんやりとした思考でその言葉を聞き、やがてその意味が解ってくるにつけ、俺の胸を驚きが満たしていった。

 そう、後から考えれば奇妙な話ではあるが、俺はこのとき純粋に驚いた。なぜそのことを考えなかったのか。

 名雪は強姦された。そして名雪を強姦した奴がいるということに、俺はこのとき初めて気が付いたのだ。

 

 強姦。

 行為として理解はできても、男の俺には女性にとってのそれがどのような意味を持つのか、想像することしかできない。

 秋子さんが交通事故に遭う直前、俺と名雪は互いに愛し合った。だから名雪は初めてではなかったろう。だがそれが慰めになるのか? 見も知らぬ男に暴力で蹂躙され、汚される。そこには処女かどうかなどはたいした問題ではない。

 そして。

 名雪は汚した奴は、今ものうのうと罰を受けることもなく生活しているのだ。

 

 罰? なんの罰を受けさせるのか。刑法に従い、何年かの懲役を課すのが罰なのか。

 

 違う、そんなことでは罰にはならない。その程度では罰になどならない。  恐怖に歪んだ名雪の寝顔。その顔を痛々しく覆う純白のガーゼ。そこにはあの天真爛漫の笑顔など見る影もない。

 

『殺してやる』

 

 俺の胸の奥深くに灯る、青白い炎。

 復讐と、そして殺意の、炎。

 淡々と灯りつづける青白い炎に、業火のような激しさはない。だが盛大に赤く燃える火よりも、青白く燃える炎の方が遥かに温度は高いのだ。

 

「あ、相沢くん?」

 

 そのとき俺はどんな顔をしていたのか。俺の顔を見た香里が驚きと戸惑いの声を挙げるが、俺はそれを意に介さない。

 

『必ず、殺してやる』

 

 胸中の呟きに、胸の奥に灯る殺意の炎がよりいっそう温度を増したように思えた。

 

 

 

 

 

3日目

 

 まだ奴は帰ってこない。

 奴の部屋が見えるこの場所に潜んでから3日目、未だ一度も奴は姿を見せない。

 不思議と焦りはなかった。奴は必ず戻ってくると、何か確信めいたものを俺は感じていたからだ。

 早く戻って来い、ここに戻ってきたときが貴様の最後だ。名雪が感じた恐怖と痛みを、貴様にも味合わせてやる。

 くっくっく、と、また喉から声が漏れた。

 気分が高揚し、ナイフを握る手に力が入る。

 商店街の雑貨屋で買った、刃渡り20センチほどの登山ナイフ。これならば確実に相手の息の根を止めることができるだろう。

 奴の身体にナイフが吸い込まれる様を夢想し、俺はしばらくその妄想に没頭した。突き刺し、抉る。泣き喚くそいつを何度も何度も突き刺す。噴水のように溢れ出る赤い液体をかき回すように、何度も、何度も。

 俺はその想像に興奮し、知らず、勃起していた。

 

 と、ズキンと唐突に頭の奥が痛んだ。

 この3日間、一睡もしていないためだろうか。先ほどの高揚感から一転、不愉快な気分が胸内を満たす。

 眠気など一向になかったが、少し寝ておくべきかもしれない。万が一仕留め損なうようなミスを犯すわけにはいかない。

 大丈夫だ、ここ3日の奴の行動からして、まだ日が高い今の時間に戻ってくることはまずありえまい。

 壁にもたれかかるようにして目を瞑ると、意識は急速に暗闇に落ちていった。

 

 

 

 

4日目

 

 ゆっくりと瞼を開く。目を開けての第一印象は、“暗い”だった。

 まだ夢の中にいるような感覚、だが確かな身体の感触が覚醒したことを俺に伝えていた。尻の下に感じる硬いアスファルトの感触、もたれかかっていた壁もごつごつと不快な感触を背中に伝えている。

 まだ完全に意識が覚醒していない、自分がなぜこんなところにいるのか理解できない。

 

 ここはどこだろう、いまは何時だろう。学校に行かなくちゃ。

 そうだ、名雪を起こさないと……

 名雪を……

 

 名雪!

 急激に覚醒する意識。

 しまった!

 

 跳ね起き、すぐに向かいのアパート、その一室を確認する。

 部屋の電気は――点いていなかった。

 

 ふぅ。

 安堵なのか落胆なのか、自分でもわからぬうちに溜息をついて、再び暗闇に腰を下ろす。

 手探りで腕時計を探り当て、バックライトのボタンを押す。暗闇の中、そこだけがぼんやりと輝く。

 時刻は午前零時をまわったところだった。どうやらだいぶ眠ってしまったらしい、自分でも気付かぬうちに疲労が蓄積していたのかもしれない。

 暗闇に目が慣れてくる。脇に転がっていたナイフを握ると、意識は完全に覚醒し、高揚感が胸を満たした。そしてその高揚感に呼応するように、再び頭痛がした。

 舌打ちをし、頭を振る。ずいぶん睡眠をとったが、頭痛は治まるどころか更に酷くなったような気がした。

 

 

 

 

 久しぶりに浴びる朝日に目を細めながら、俺は近くの公園にいた。朝のまだ早い時間帯、時折犬を散歩させたりジョギングしたりする人が通るものの、全体的に閑散とした印象だ。

 3日間何も口にしていなかった俺は流石に限界を感じ、食料を調達するために街に出た。その道すがら、ふと立ち寄ったのがこの公園である。

 中央にある噴水に光が反射し、キラキラと輝いている。

 その噴水から20メートルほど離れた公園の隅にある一脚のベンチ、その背後はちょっとした林になっており、朝の光も立ち並ぶ樹木に遮られうす暗がりになっていた。入り口から遠いこともあって、この公園では一番目立たない場所といえるだろう。

 

 ここで――名雪は襲われた。

 

 朝でさえこんなに寂しい場所で、身も知らぬ男に辱められた名雪。その苦しみは、痛みは、絶望は、いかばかりだったか。

 

「名雪……」

 

 呟き、右腕に巻かれた包帯にそっと触れる。今はこれだけが、幸せだったあの頃に繋がる物であるように思えた。

 あれから名雪とは顔を合わせていない。一度も病院に見舞いに行っていないのだ。

 復讐を果たすまでは会うまいと思った。敵を討ってやるまでは、と。

 だが、それはあるいは欺瞞だったのではないか。

 俺はあいつと顔を合わせるのが怖かっただけなのかもしれない。

 脳裏には恐怖に歪んだ名雪の顔。

 恋人である俺を相沢祐一と認識することもできず、ただ男に怯える名雪の顔。

 俺はただ、名雪にあの表情で見られることに、あの怯えた瞳で見られることに、耐えられなかっただけなのではないか。復讐を言い訳に、逃げただけなのではないか。

 

「お久しぶりね」

 

 背後よりの声に振り向くと、そこにいたのは香里だった。

 見慣れた制服姿。学校に行く途中だろうか。

 

「久しぶり、というほどでもないだろう」

 

 当たり前のことを口にする。たかだか数日顔を合わせていないだけなのだから、久しぶりというのもおかしな話だった。

 だが俺自身、自分の言葉が偽りであることを自覚している。平穏な日常、気の置けない友人との他愛の無いおしゃべり、そういった物はもう遠い昔に忘れてしまったように感じられる。

 まるで、今も胸に燃えつづける青白い炎がすべてを焼き尽くしてしまったかのように。

 それでもあえて香里の言葉に一般論を返すのは、失われてしまった日常への未練だったのかもしれない。

 俺のそんな未練に気付いたのか、それともあえて気付かないふりをしたのか。香里は短く「そうね」と答え、俺の横に立った。

 

「相沢くん、あなたはいったい何をするつもりなの」

 

 前置きも何もなく、香里は単刀直入にそう問うてきた。

 名雪の見舞いにもいかず、学校に顔も出さず、家にすら帰らず、俺の行動は不信以外の何物でもないに違いない。  ふと、何もかもを香里に話してしまいたい衝動に駆られる。

 名雪を汚した男を見つけ出したこと、そいつを殺すために毎夜暗がりに潜んでいること。

 香里は何と言うだろう。俺を止めるだろうか、それとも……

「別に何も」

 

 だが俺の口から出たのは否定の言葉だった。香里を巻き込むわけにはいかない。

 

 「そう」と素っ気無いほどの口調で応え、ついと俺から視線を外す香里。犯行現場だったであろう茂みを睨み付けながら、まるで独り言のように呟く。

 

「警察はまだ犯人を特定できていないらしいわ」

 

 その言葉を聞き、安堵する。警察などに邪魔はされたくなかった。

 

「でもいくつか証拠はつかんでいるみたいよ」

「証拠ってどんな?」

 

 俺のその問いには応えず、香里は茂みに向けていた視線を俺に向けた。

 その視線の先には俺の右腕。元は純白であった包帯。

 

「どうしたの、それ」

 

 突然話題が飛んだことをいぶかしみながらも、料理の手伝いをしようとして火傷したこと、秋子さんに治療してもらったことなどを伝える。

 それを聞いた香里の反応は、奇妙だった。

 

「秋子さんに? それっていつの話?」

 

 怪訝そうに形のよい眉を顰めつつ、そんなことを聞いてきた。

 

「一週間ほど前だと思ったが…… それがどうかしたのか?」

 

 香里は応えない。ただじっと何かを探るように俺の目を見ている。

 

「秋子さんは、元気にしてる?」

 

 奇妙すぎる問いだった。俺はその意図を測りかね、すぐには返答できない。

 俺の当惑した表情をどう解釈したのか、香里はすぐに質問を変えた。

 

「そういえば、相沢くんは血液型は何型だったかしら」

 

 おかしい。

 奇妙な違和感を感じる。

 まるで軽く世間話でもするような調子で放たれた質問、口元に軽く笑いすら湛える香里、だが先ほどからその目はまったく笑っていない。

 血液型は何?  内容自体はまるで血液占いでもするときのような気軽なもの。だがしかし彼女の目はそれが冗談や軽い気持ちで発したものではないことを雄弁に語っている。何でもないことを装おうとする本人の努力とはまるで裏腹に。

 

「……Bだ」

 

 ただならぬ様子に嘘を言おうかと思ったが、結局は正直に答えてしまう。

 それを聞いた彼女は半瞬だけ無表情になり、次いでさも興味がないかのように「そう」と呟いた。

 

「で、警察は何をつかんでいるんだ」

 

 自分でも解らない理由で苛つきながら、俺は香里を問い詰めるようにそう尋ねた。

 もしも警察が奴を犯人と特定してしまうようなことがあれば、俺の復讐は水泡と帰してしまう。

 

「ねえ相沢君」

 

 だが香里は問いには答えず、静かに俺の名を呼んだ。

 問い掛けを無視された形になった俺が、素直に「なんだ」と応えてしまったのは、香里のその表情を見てしまったからかもしれない。

 

 香里は――

 

 笑っていた。

 

 

「恋人をレイプされるって、どんな気分?」

 

 

 最初俺は、香里が何を言っているのかわからなかった。

 その言葉の意味を、理解することができなかった。

 だが徐々にその意味が脳裏に浸透して、目の前の彼女が何を言ったのかを理解したとき、俺は――

 

 香里を、殴りつけていた。

 

「……っ!」

 

 人気のない公園に響く、バシンという音。倒れ伏す香里。

 拳ではなく平手だったのは、俺に残された最後の理性が歯止めをかけた結果であったかもしれない。

 

「二度とそんなこと口にするな」

 

 制服姿のまま倒れ伏した香里、前髪が乱れ、その表情は読めない。少しだけ捲れ上がったスカートを直そうともせず、立ち上がろうともしない。

 

 奇妙な既視感。

 前にも、こんなことがあったような気がする。

 少しだけ捲れ上がったスカート。

 倒れ、顔を伏せたまま動かない彼女。  泣いているのだろうか?

 違う。

 

 あいつは――

 

 笑っていた

 

「くっ……」

 

 突然、激しい頭痛が襲い、俺は頭を抑えてよろめいた。

 

「あたし、そろそろ学校に行くわ」

 

 気付くと香里は既に立ち上がっていた。頭を抱えてうめく俺に蔑むような一瞥を投げ、そのまま公園を出て行こうとする。

 そしてそのまま香里は公園を出て行く。

 その寸前、彼女は振り向き、こう言った。

 

「名雪を襲った奴は、B型だそうよ」

 

 彼女はやはり、笑っていた。

 

 

 

 

 

5日目

 

 昨日の快晴とはうって変わり、今日は朝から雨だった。

 

 ぽたり、ぽたり。

 

 打ち捨てられた廃工場の安っぽいトタン屋根から滴る雨の飛沫。うず高く積み上げられた得体の知れぬ何かの缶にあたり、静かな音を立てる。

 

 ぽたり、ぽたり。

 

 最初は気にならなかったが、一旦気になりだすと酷く不快だ。

 陰鬱なこの雨のせいだろうか。神経が過敏になっている気がする。

 

 ぽたり、ぽたり。

 

 うるさいな……

 

 ぽたり、ぽたり。

 

 うるさい

 

 ぽたり、ぽたり。

 

「うるさい!」

 

 立ち上がり、空き缶の山を右の拳で払いのける。

 けたたましい音を立てて崩れ落ち、転がる空き缶の山。その音に更に苛々は増した。

 明らかに神経質になっていることは自覚している。その原因もわかっている。

 

 待てど暮らせど一向に姿を現さぬ標的。

 誓いも空しく復讐を果たせぬ自分。

 そして――昨日の香里。

 

『名雪を襲った奴は、B型だそうよ』

 

 その言葉の指し示す意味が、俺をこの上なく不快にさせる。

 彼女は俺を犯人だと疑っている。いや、確信しているのかもしれない。俺が、恋人である名雪を暴力で犯した犯人であると。  そしてその根拠は、俺が犯人と同じ血液型であるというただそれだけなのだ。

 

「馬鹿げてる」

 

 というよりもむしろ、狂っている。

 

『恋人をレイプされるって、どんな気分?』

 

「くそっ!」

 

 散り散りに乱れていく思考を持て余し、苛立ちが言葉となって口から漏れる。

 その苛立ちを無理矢理押さえつけるように、思考を巡らせた。

 狂気ともいえる香里の思い込み。だがそんなものはどうだっていい、俺が奴を殺せば全てが終わるのだから。

 香里の誤解も、名雪の悲しみも、そして俺の未来も、全てが、終わるのだから。

 右手のナイフを握る手に力を込めた。ただそれだけで、乱れていた思考がすうっと冷えていくのがわかる。

 胸の奥で燃える炎はこんなにも熱いのに、思考だけが冷え冷えと澄んでいく。香里のことも、名雪のことすらも頭から消え、ただ純粋な殺意という感情だけが脳内を侵していく。

 暗がりに身を潜めながら、俺は奴が帰ってくるのを待ちつづける。

 その身体に鋭利なナイフを突き立て、内臓をかき回す様を夢想しながら。

 見ず知らずの女性を襲い嬲るような輩でも、その血は赤いのだろうか。確かめるのが楽しみだ。

 くっくっく、と、喉の奥が音を立てる。

 包帯の下の傷がズキンと痛んだ。

 

 

 

 目の前には名雪がいた。

 見慣れた制服に身を包んだ彼女は、見たことも無いような瞳で俺を見ていた。

 

 

祐一にはわからないよ

祐一になんか、わたしの気持ちはわからないよ

 

 

 叩きつけるようなその言葉に、俺も何かを口にする。だが自分の口から出た言葉であるのに、俺は自分が何を言ったのか認識できない。

 ああ、これは夢なんだ。

 俺の中の妙に冷めた部分がそう結論付ける。知らず、また眠り込んでしまったのだろう。

 しかし夢ならば頷ける。俺は名雪のあんなにも憎しみに満ちた目を見たことが無い。

 自分が夢を見ていることを悟った俺は、しばらくこの奇妙な夢に付き合うことにした。

 何を言ったか自分でもわからないが、俺の言葉を受けた名雪の変化は劇的だった。

 

 

そんな簡単に忘れられるわけないでしょう!

 

 

 叫ぶ名雪。瞳には先ほどとは比べ物にならないほどの憎しみ。その憎しみは、目の前に立つ俺に注がれていた。

 

 

ずっと二人きりで生きてきたの

いまさらお母さんを忘れられるわけないじゃない!

 

 

 名雪が「お母さん」と呼称するのは秋子さんただ一人。なぜこの夢の俺は秋子さんを忘れろと名雪に言ったのか。

 所詮は夢の中の出来事、整合性を求めること自体が無駄なのかもしれないが、妙にそれが気になった。

 

 

あはは、そっか、祐一は得意だもんね、忘れるの

 

 

 名雪の声音が変わる。

 言葉の内容こそ楽しげだが、その口調はまるで蔑みの色を隠そうともしない。

 

 

7年前のことだって、簡単に忘れちゃったものね、祐一は

 

 

 びくり、と。

 身体が震えたのがわかった。夢の中であるにも関わらず、息苦しさに思わず身じろぎする。

 何だ。名雪は何を言おうとしている。

 

 

あの子も可哀想だよね

 

 

 名雪の蔑みに満ちた笑みは、いっそ悪魔的だった。

 誰だ。

 “あの子”とは誰のことだ。

 

 

好きだった男の子に、忘れられちゃうなんてね

 

 

 目の前の、この女はいったい誰だ。

 俺の目の前で、嫌らしく笑うこの女は、いったい、誰だ。

 

 

可哀想な――

 

 

 言わせるな。

 この先は、言わせてはならない。

 

 黙れ

 黙れ!

 

 

あゆちゃん

 

 

 

 

 

6日目

 

 目覚めは最悪だった。

 べったりと汗で張り付いたシャツが、この上なく不快な感触を俺の体に残す。

 気持ちが、悪い。頭が、痛い。

 視線を目の前のアパートに向ける、もはや日課といってもいい。そして今日もまた、奴が帰宅した様子は無い。

 苛立ちが胸に募る。なぜだ、なぜ奴は帰ってこない。

 このまま帰ってこないのではないか。復讐者の存在に気付き、とっくの昔に姿をくらましたのではないのか。

 

「くそっ!」

 

 苛立ちが言葉となって口から漏れる。こんなにも苛々するのは、昨夜見た夢のせいに違いない。

 おぼろげにしか思い出せないが、酷く不快な夢だったことは覚えている。

 何か――

 そう、何か自分の信じていたことを、全て否定されたような夢だった気がする。

 

 馬鹿馬鹿しい、ただの夢のことで俺は何を苛ついているのか。

 昨夜の夢のことを頭から振り払い、再び奴の住まうアパートに視線を向ける。すると先ほど考えていた懸念が再び鎌首をもたげ始めた。

 奴はいまもあのアパートに帰ってくる気があるのか。俺は酷く無駄なことをしているのではないか。

 いや、それよりも。

 俺はなぜあんなにも、奴が帰ってくることを確信していたのか。

 それ以前に俺はなぜ――

 

「くそっ!」

 

 またしても出口の見えない迷宮に彷徨いこんでしまう思考を振り払うように、俺はその場を離れた。

 

 

 

 

 足は自然とあの公園へ向かっていた。

 公園には、またしても香里がいた。

 犯行現場の草むらに厳しい視線を投げかけながら、じっとそこに立っていた。まるで誰かを待っているかのように。

 

「学校はどうしたんだ」

「たまにはサボるのもいいわ」

 

 俺が声をかけることをわかっていたかのように言葉を返す香里。彼女は俺に顔を向けることもなく、ただじっと草むらに視線を向けている。その横顔からは先日のような蔑みは見て取ることはできなかった。

 少なくとも、表面上は。

 

「相沢くんに聞きたいことがあったの」

「奇遇だな、俺もだ」

 

 「そう」とまたしても俺の言葉を予期していたように呟く。

 

「昨日の言葉、あれはいったいどういうつもりだ」

 

 自分でも、声に怒気が篭っているのがわかる。応えによっては許さない、そんな心境をそのまま声に込めた。

 

「別に、ただちょっと興味があっただけ」

「ふざけるなっ!」

 

 思わずまた殴りかかりそうになるのを、必死で抑えた。だが香里はそんな俺の様子など意に介すことなく、自然体のまま。

 なんとか怒気を抑え、糾弾するように言葉を接ぐ。

 

「親友の不幸が、お前はそんなに愉快か」

 

 その言葉に、香里は初めて俺に顔を向けた。

 それからしばらく、無言で俺の目をじっと見詰めつづける香里。まるで俺の瞳に何かが映っているかのように。

 

「親友、か」

 

 ぽつりとそう呟いた香里の表情は、何と称すべきか。

 羨望、諦め、怒り、そして蔑み、色々な感情が入り混じりすぎてどんな表情をしていいのかわからない。そんな表情だった。

 

「ええ、ええ、親友よ、親友ですとも。あたしと名雪は親友、そう、親友に違いないわ」

 

 まるで狂ったオウムのように親友親友と繰り返す香里。自らに言い聞かせているようであり、その言葉自体を嘲笑っているようでもあり。

 

「だから気になるの、親友が誰に汚されたのか」

 

 そう言って意味ありげな視線を投げてくる香里に、俺の苛々はいや増す。

 

「単刀直入に聞くわ」

 

 そら、来た。

 名雪を襲ったのが俺であるのかどうか。

 答えるのも馬鹿馬鹿しいような問いではあるが、香里がそう思い込んでいる以上、問いはそれ以外には考えられない。

 そう思った俺だったが、続く香里の言葉は少しばかり違っていた。

 

「あなたと名雪はどういう関係だったのかしら」

 

 俺は内心、眉をひそめる。質問の内容もだが、何よりその意図が掴めない。俺と名雪の関係が事件に何の関係があるというのだ。しかも俺と名雪が恋人同士であったという事実は、俺を犯人と疑う香里にとっては自らの考えを否定する証拠に他ならない。

 それに先日、香里は自らこう口にしたはずだ。

『恋人をレイプされるって、どんな気分?』 と。

 

 しばらく考えたが結局香里の意図は掴めず、ありのままを伝えることにする。

 

「俺と名雪は恋人同士だった。俺はあいつを大切に思っているし、恐らく名雪も同じ気持ちでいてくれるはずだ」

 

 言い切った俺を、彼女は何の表情も浮かべていない瞳で眺め、続いてこう問うてきた。

 

「名雪とSEXはしたの?」

「なっ……!」

 

 まるで臆面もなくそう言い放つ香里に、問われた俺の方が鼻白む。だが香里は真剣だった、女性には口にするのを憚られるであろう「SEX」という単語を口にすることも辞さない。

 

「答えて、あなたは名雪とSEXをした経験はあるの?」

「あ、ああ……」

「それはいつのこと」

「た、確か秋子さんが事故に遭う直前だったか…… それ一回きりだが」

「秋子さん、そう、秋子さんが事故に遭ったのはいつのこと?」

「そんなこと聞いてどうするつもりだ」

「答えて。秋子さんはいつ事故に遭ったの」

「3ヶ月ほど前だ」

「そのあと秋子さんはどうなった?」

「おい、ちょっと待て!」

 

 矢継ぎ早に浴びせ掛けられる質問に、思わず静止の声を挙げる。

 香里から発せられる質問は、俺が予期していた核心に触れるどころかどんどん遠ざかっていくように思えた。もはや何を意図したものかなどという問題ではない、支離滅裂だ。

 

「香里、お前はいったい俺に何を聞きたいんだ」

 

 少し厳しい声でそう尋ねると、香里はそこで口をつぐんだ。その瞳には相変わらずなんの表情も無く、何を考えているのか読み取ることはできない。そしてまた、同じ質問を繰り返すのだ。

 

「交通事故に遭ったあと、秋子さんはどうなったの?」

 

 秋子さんが事故に遭ったことも、その後助かったことも、こいつは知っているはずだ。それでも俺の口からそれを言わせたいらしい。

 俺は観念したように首をすくめ、決まりきった事実を口にする。

 

「秋子さんは助かった」

 

 当時のことを思い出しながら、一言、付け加える。

 

「奇跡的にな」

 

 その単語に、初めて香里の表情が動いた。

 まるで憎むべき者の名を聞いたように顔をわずかに顰め、掃き捨てるように呟く。

 

「奇跡、そう、奇跡、ね」

「相沢くん、奇跡ってね……」

 

 だがそこで香里の言葉は止まる。言いかけた何かを飲み込むように、顔を伏せてしまう。

 どのくらいそうしていただろう、一向に先を続ける様子のない香里に痺れをきらし、俺の質問をすることにした。

 

「香里、お前は俺を犯人だと疑っているのか」

 

 あまりにも馬鹿馬鹿しい質問、普通なら笑い飛ばしてもいいような疑惑。だが先日この場所で会った際に感じた通り、香里がそれを確信しているのならば、正さねばならない。

 顔を上げ、まるで台本を読み上げる大根役者のように平坦な声で、彼女はこう口にした。

 

「さあ、どうかしら」

 

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。

 常の香里がよくするような、はぐらかしを含んだ受け答え。以前は苦笑するだけだったそんな言葉に、酷く苛ついた。

 

「なぜだ。なぜお前は俺が犯人だなんて――そんな突拍子もないことを考えるんだ」

 

 そもそも彼女がなぜそう疑うようになったのかがわからない。

 俺が犯人と同じB型だから? 馬鹿な! そんな根拠こそ馬鹿げてる。俺が恋人である名雪を力ずくで犯したという突拍子もない推理の根拠が、世界に4種類しかない血液型だけだとは!

  名雪が襲われてからの俺の行動は不審だったろう。学校にも行かず、秋子さんの待つ家にも帰らず、名雪の見舞いにすらも行かず、姿をくらました俺の行動は確かに不審だったろう。だがだからといって俺を犯人だと考えるなど、正気の沙汰とは思えない。

 最初は香里が錯乱しているのだと思った、親友を汚され錯乱しているのだと。しかしいまこうして話した限り、何を考えているのかわからない面はあるにせよ、香里は錯乱してはいない。今もじっと俺を凝視するその瞳には、明確な理性の色がある。

 

「相沢くんはいま、何をしているの」

 

 俺の問いには答えず、香里はそんな質問を投げかけてきた。

 数日前ははぐらかした問い、だが今度は正直に答えた。恐らく自分で思っている以上に俺は苛ついていたのだろう、面憎い香里の態度を崩してやろうと思った。

 

「復讐さ。名雪をあんな目に遭わせた奴を、俺はこの手で殺してやる」

 

 言葉の内容よりも、むしろその言葉を発する俺の顔を見て驚いたように、香里は息を呑む。

 彼女のそんな態度に満足しながら、尚も後を接いだ。

 

「見つけたのさ」

「え?」

「見つけたんだよ、犯人を」

 

 今度こそ本当に、香里は絶句する。そんな彼女のリアクションに更なる満足を覚えながらも、俺は内心、首を傾げた。

 目を見開いて俺を凝視する香里の態度に、心なし怯えの色が見えたような気がしたからだ。

 俺はそんなにも、酷い顔をしていたのだろうか。

 

「相沢くん、あなたは……」

 

 それだけ言うと、香里は俯いてしまった。

 そして長い長い沈黙。その末に彼女は顔を上げる。

 その表情にはもう驚きも怯えも見て取ることはできない。だが代わりに、なにか「必死さ」のようなものが感じられ、再び俺は首を傾げる。

 

「あたしがあなたを犯人だと思った理由は2つ、いえ、3つあるわ」

 

 確かにその態度は不信ではあった。だが今はそんなことよりも、今の言葉が気になった。

 

「……聞かせてもらおうか」

 

 香里はそこで、俺の右腕に巻かれた包帯に目を向ける。

 

「犯行の際、名雪はかなり抵抗したんでしょうね、爪に犯人のものと思われる血痕が付着していた」

「なに?」

「血痕はB型、名雪の体内に残された精子のものと一致したわ」

「ということは、犯人は傷を負っているということか」

「そういうことになるわね」

 

 なるほど、そういうことか。

 だがこの包帯の下にあるのは引っかき傷などではなく、火傷の跡だ。秋子さんが治療してくれた。

 そう伝えようとした俺を制すように、香里は続ける。

 

「もう一点。襲われ、犯されるまで名雪はね……」

 

 そこでなぜか笑みを浮かべる香里。俺は先を急かしたい気持ちを抑え、じっと無言で待った。

 

「処女だったわ」

「なっ!」

 

 名雪は、処女だった……?

 言葉が頭の中をぐるぐると回り、何がなんだかわからない。それがどういうことなのか、何を意味しているのか、何も、わからない。

 名雪が処女だったということ、俺の記憶とは明らかに違うその事実をもって、香里が俺を犯人だと思ったということ。

 

「最後の一点」

 

 俺の混乱を意に介さず香里は続ける。いや、続けようとして止める。

 

「……これは自分の目で見たほうがいいかしらね」

 

 香里は俺からついと視線を外すと、両腕をひじで抱え込むようにして、言った。

 

「一度家に、水瀬の家に帰るといいわ」

「なに?」

 

 先ほどの混乱から立ち直れぬままに、反射的に言葉を返す。水瀬家に帰れとはどういうことか。

 

「帰って、客間を見てご覧なさい、それで全てがわかるから」

 

 それだけ言うと、香里は踵を返す。まだ聞きたいことは山ほどあったが、俺はそれを追う気力すら無かった。

 公園を出て行き際、先日のように立ち止まり、しかし振り向くことなく香里は最後にこう告げた。

 

「相沢くん、奇跡って起こらないからこそ奇跡っていうのよ」

 

 去り際、香里がどんな表情をしていたのか。

 ついに俺は、知ることはなかった。

 

 

 

 

 いつの間に降り出したのだろう。気付くと雨が降っていた。

 薄暗い公園にただ一人、俺は立ち尽くしていた。もう随分と濡れているところを見ると、長い間ずっとこうして立っていたようだ。

 既に香里の姿は無く、公園はひっそりと静まり返っていた。雨だけがただ、降り続いていた。

 

 名雪は、処女だった。

 それはいったいどういうことなのか。

 もしそれが真実なら、俺のこの記憶はいったい何だ。

 名雪と心を通わせ、結ばれた、この記憶はいったい何だ。

 

 ありえない、そんなことはありえない。

 なぜなら俺は覚えている。

 名雪の肌の温もりを、その弾力を。

 だからありえない、そんなことは、ありえない……

 

 ぐるぐると回る思考の中、香里の言葉が浮かんだ。

 

『一度家に、水瀬の家に帰るといいわ』

『帰って、客間を見てご覧なさい、それで全てがわかるから』

 

 雨の中、震える足を踏みしめ、俺はもうすっかり日が落ち暗くなった道を水瀬家に向かう。

 一歩、また一歩。水瀬家はこんなにも遠かっただろうか。足が重い、頭が痛い。

 

 そして俺は水瀬家に着いた。

 

「秋子さんは、いないのか」

 

 どの窓からも光は漏れていない。俺は無意識のうちにズボンのポケットを探った。

 あった。  水瀬家の合鍵。俺がこの家の家族であるという証。

 震える手で鍵穴に差し込み、まわす。

 ガチャリという小さな音がやけに大きく響いた。

 

 暗く、人の気配の感じられない家。俺の、家。

 廊下を歩くと、ずぶ濡れの俺が歩いた後はまるで水溜りでもできたように濡れた。ああ、後で拭いておかなくては。そんなことをぼんやりと考えるうちに、居間までたどり着く。電気のスイッチはどこだったろうか。  手探りでスイッチを探り当てる。

 かちり

 瞬間、溢れる光の奔流に視界を閉ざされる。眩しい。

 

 ようやく光に慣れ、薄っすらと開けた俺の瞳に“それ”が飛び込んできた。

 

「何だよ、これ」

 

 それは、位牌だった。

 

「何なんだよ」

 

 そして位牌の隣には、額に入って立てかけられた写真。

 

「何なんだよ、これはっ!」

 

 写真の向こうでいつもと変わらぬ笑みを浮かべていたのは――

 

 秋子さんだった。

 

 

 

 

 

7日目

 

 雨の中、俺は走っていた。

 既に日が変わった暗闇の中を雨に濡れながら。

 

 犯行前までは処女だったという名雪。

 俺の腕の中で幸せそうに微笑んでいた名雪。

 

 位牌と共に写真の向こうで微笑む秋子さん。

 俺の火傷を優しく治療してくれた秋子さん。

 

 何が真実で、何が偽りなのか。何が正しくて、何が間違っているのか。

 

 元は純白だった包帯、元は純白だった名雪、鈍く光るナイフ、白いガーゼ、親友そう親友ね、位牌、血液型は何型だったかしら、殺してやる、青く燃える炎、恋人をレイプされるのは、何なんだよこれは!、不可解な夢、どんな気分かしら?、まだ奴は帰ってこない、強姦、可哀想な――あゆちゃん

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 俺のたどり着いた場所、そこはあの廃工場だった。

 薄汚れたシートの下に隠したナイフを握る。そのまま立ち止まることなく、この一週間監視を続けたアパートへ。 

 全ての元凶、全ての根源。奴を殺してしまおう、復讐を遂行しよう。そうすれば全てが終わる、何もかもが、終わる。

 2階建ての安アパート、1階の一番奥の部屋が奴の住み家だ。表札は出ていない、電気も点いてない。奴はまだ帰ってきてはいないようだ。

 構わない、帰ってくるまでこの部屋に潜んでいよう。ひょっとしたら奴の行き先を示す何かがあるかもしれない。考えてみれば今までが消極的過ぎたのだ、帰ってこないのであればこちらから出向いていってやる、どこまでも追い詰めて、そして必ず、殺してやる。

 

 薄汚れたドアノブに手をかけ――そして俺の動きはそこで止まる。

 

 その考えが俺の脳裏に浮かんだのは、唐突だった。まるで音の無い落雷のように、本当に唐突にその考えは浮かんだのだ。

 “奴”とはいったい誰のことを指しているのか。

 

 俺は――

 

 誰に復讐しようとしているのか。

 

 

「ひぐぅっ!」

 

 響き渡る金属音。ナイフを取り落とし、ドアノブを右手で掴んだまま、左掌で顔面を覆う。足の先から激しい震えが這い上がり、全身を犯していく。

 

「そんな、だって、奴は……」

 

 奴、奴とは誰だ、誰のことだ。俺は誰に復讐しようとしていた。

 ここはどこだ、なぜ俺はまだ警察すら特定できていないであろう強姦犯の家まで知っている。  いつ、どこで、なぜ、俺はそれを知ることができた。

 

「そん、な……」

 

 今まで立っていた大地が音を立てて崩れていく。拠り所を失った俺は、どこまでもどこまで落ちていく。

 

 身体だけが意志に拠らず動いた。

 右手で掴んだままのノブを、ゆっくりと回す。鍵はかかっていなかった。

 軋み開く扉。

 割れた窓、積もった埃、進入した風雨にぼろぼろになった室内。

 とても人が住んでいた痕跡などない、室内。

 

 処女だった名雪。

 秋子さんの位牌。

 

 

 可哀想な――あゆちゃん

 

 

「ひあああぁぁぁぁっ!」

 

 理性も、決意も、復讐の象徴だったナイフすらも投げ出して。

 俺はそこから逃げ出した。

 

 

 

 

 雨は降り止む気配も無く屋根を叩く。

 天井のそこここから漏れ出した雨の雫が土が剥き出しになった床に水溜りを作っている。

 

 この一週間身を潜めていた廃工場、結局俺はそこに逃げ込んでいた。

 先ほど見た光景、水瀬家で見た光景、公園で聞いた香里の言葉。全てが頭の中でぐるぐるとまるでミキサーにかけられた魚のすり身のようにグロテスクな色を晒す。

 混乱はだいぶおさまった。だが全身の振るえが止まらない、寒い。

 

 結局“奴”は俺の妄想だったのだろう。

 居もしない敵を俺はでっちあげ、そいつに復讐を誓うことで精神の均衡を保っていたのだ。

 そう、もう認めよう、俺の復讐は代償行為だったのだ。

 何の代償行為だったのだろう。罪の意識か、名雪を暴力で蹂躙してしまった罪の意識を、復讐という名の代償行為でごまかしていたのか。

 

「違う!」

 

 俺じゃ、俺じゃない。俺はそんなことしていない。

 俺は、俺は名雪と恋人同士で……

 

 でも、名雪は襲われたときには処女だった。

 

 妄想だったのか、名雪と恋人同士だというこの記憶すらもが、俺の妄想に過ぎなかったのか。

 

「そんな、そんな」

 

 誰か、誰かに。そう、誰かに陥れられようとしているのではないか。

 認めよう、俺はおかしい。居もしない“奴”を犯人だと思い込んだり、実際には肌を重ねたこともない名雪を抱いたと思い込んだり、実際には助からなかった秋子さんが生きていると信じ込んだり。俺は確かにどこか狂っているのかもしれない。

 だがそれを誰かに利用されているのではないか。

 

 誰だ、誰なんだ俺を陥れようとしているのは。真犯人は、いったい誰なんだ!

 

 何かに急き立てられるように、追い詰められるように、思考を進める俺の脳裏に浮かんだのは――

 

 香里。

 

 そうだ、香里だ、香里が犯人に違いない。

 考えてみれば、名雪が処女だったというのは香里から聞いた情報だけではないか。秋子さんの位牌にしてもそうだ、思わせぶりな台詞を口にして俺の疑念を煽ってから、あらかじめ用意しておいた位牌と写真を見せる、俺はそれだけで秋子さんが死んでいるものだと思い込むだろう。事実、そう思いかけているではないか。

 事は強姦であるから、香里が自身で行えるはずもない。しかし共犯者がいればどうか、直接手を下してはいなくても、共犯者さえいれば…… 

 

 だが理由が、理由がない、なんてことだ、香里がそんなことを企む理由がない!  

 

 では俺なのか、犯人はやはり、俺なのか……  

 

 いや、いや、待て、待つんだ!  

 では俺はどうなんだ、名雪を強姦するような理由が果たして俺にあるというのか。そんなものはない、あるはずがない。であれば動機など問題にはならない。

 

  考えろ、考えろ祐一。

 

 ……そうだ、香里の様子はおかしかった。明らかにおかしかったじゃないか。

 名雪のことを親友だと憑かれたように連呼していたあの様子は異常だった、きっと、きっとそうだ、香里は名雪を恨んでいたのだ。理由はわからない、わからないがきっと香里は名雪のことを酷く恨んでいたに違いない。

 ああ、動機、動機が見つかった!

 やはり香里だ、犯人は香里に違いない!

 俺は無実だ、俺は名雪を強姦してなどいないんだ!

 

 そのとき――

 

 ズキンと、まるで自己主張するように、右手に巻かれた包帯の下の傷が痛んだ。

 

 

 この下に、この下にある傷は何なのか?

 

 先ほどまでの興奮がまるで嘘のように凍てついていた。

 

 この包帯の下にあるのは、果たしてどんな傷なんだろう。

 

 俺の記憶にある通りの火傷か?

 それとも香里が言うように引っかき傷か?

 

 この包帯の下の傷を見れば、すべてが終わる。

 俺が狂っているのか、それとも香里が俺を陥れようとしているのか、すべてがはっきりする。

 そう、俺は持っていた。すべてを終わらせることができるジョーカーの札を、最初から俺は持っていたんだ。

 

 ゆっくりと包帯に手をかける。

 手が震えてうまく解けない。

 寒い。どうしてここはこんなにも寒いのか。

 それでもなんとか濡れた包帯を解ききる。

 

 現れたのはガーゼ、それに手をかけ――そして俺の手はそこで止まる。

 

 もしもこの下にあるのが、火傷の痕でなかったら。

 名雪が犯人に負わせた傷痕だったとしたら。 俺はいったい、どうなってしまうのか。

 

 寒さとは別の震えが、俺の左腕を振るわせる。

 

 俺は狂ってなど―― いない!

 

 意を決し、濡れたガーゼを掴み、取り去った。

 

 

 

 そこには――

 

 

 

 

<END>