雪が降っていた。

 

 重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。

 

 冷たく澄んだ空気に、湿った木のベンチ。

 そこに腰掛けた一人の少年が、身動ぎをした。

 

 もう随分と長いことそうしているのだろう。

 肩に、背に、頭に。

 雪が降り積もっていた。

 

 

 

 

「雪、積もってるよ」

 

 

 

 


KANON −if−

<或る道化の結末>

2001/12/22 久慈光樹


 

 

 

 悲しいかな、彼は道化だった。

 

 彼は過ちを犯したのだ。

 絶対に赦すことはできないと憤慨した、従兄妹の少女と同じ過ちを。

 

 従兄妹の親友。香里という名の可哀想な少女の首を締めている最中、彼は狂気に支配されていたのかもしれない。

 

 頭の芯が嚇として、まるで何かに捕り憑かれたかのようになり。

 気付けば、彼女の首を締め上げている自分がいた。

 呟いた彼女の言葉の意外さに、我に返るのがもう少し遅かったなら。

 間違いなく、彼は殺人者になっていただろう。

 

 そう。

 彼が病室を訪れるのがあと数分遅かったら、殺人者となっていたであろう彼女と全く同じように。

 

 

 第三者的に見て。

 間違いなく、彼は道化だった。

 

 

 

 彼にも言い分はあったろう。

 彼がここ数ヶ月で体験した出来事は、たかだか17かそこらの若輩が経験するにはあまりに過酷で厳しいものだった。

 

 何も知らずに幸せな日々を過ごした。

 安息に満ちた充足された日々。

 

 無知ゆえに幸せで、でもだからこそ、その幸せが偽りの、一人の少女の犠牲のうえに成り立った偽りの日々だと知ってしまった今となっては、苦痛以外の何物でもなかったのだ。

 少なくとも、彼にとっては。

 

 だから壊した。

 

 今までの幸せだった日々も。

 共に歩もうと決めた人も。

 

 全てを壊し、全てを捨て去った。

 

 今の彼にできることは、可能性などゼロに等しい初恋の少女の目覚めを待ち続けることだけだったのだ。

 

 

 他に、道は無かったのだろうか?

 

 

 悪戯に辟易した居候の少女を、もう少し気に掛けてやるべきだっただろうか。

 夜な夜な誰もいない学校に通う少女に、付き合ってやるべきだっただろうか。

 誰にも省みられることなく世を去った病弱な少女と、知り合う機会を持つべきだっただろうか。

 

 そして。

 

 7年ぶりに再開した従兄妹の少女と、そのまま共に歩むべきだったのだろうか。

 

 

 ひょっとして、自分はもっとも悪い道を選択してしまったのではないだろうか。

 

 わからない。

 そして、今となっては全てが手遅れだった。

 

 初恋の少女は、恐らくはこのまま目覚めることなく。

 自分を忘れた少年を恨みながら、眠り続けるのだろう。

 

 そして自分は、1%にも満たない奇跡を信じて。

 罵倒され嫌悪されるであろう相手の目覚めを待ち続けるのだ。

 

 

 道化、だな。

 

 自嘲の呟きは、声にならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「雪、積もってるよ」

 

 どれだけ時間が経っただろう。

 その声は、唐突に掛けられた。

 

 

 既視感。

 

 全てはこの言葉から始まった。

 幸せな日々。

 穏やかな日々。

 そう、全ては彼女のこの言葉から始まったのだ。

 

 顔を上げると案の定、彼女がいた。

 あの時のように制服ではなかったが、向けられた笑顔はあの時と同じく無垢なものだった。

 確かな安息。

 

 逃避だということは解っていた。

 解ってはいたが、その笑顔に救われた気分になったこともまた事実だった。

 なぜ彼女がここにいるのかという疑問はあった。

 あったが、今はただこの笑顔を向けてくれる彼女がいることこそが重要であるように思われた。

 

 笑顔を返そうとして、上手くいかずに苛立った。

 考えてみれば、最後に笑ったのはいつだったか。

 笑い方すらも忘れかけていた。

 

 それでも、ぎこちないながらも確かに笑顔を浮かべたその瞬間。

 

 

 

 

 その笑みは凍りついた。

 

 

 

 

 包帯。

 降り積もる雪のように純白な、それでいて見ていられないほどに痛々しい包帯。

 無垢で純粋な笑顔を浮かべる彼女の左手に巻かれた包帯。

 

 

 

 

 ………てくれ……

 

 

 

あの子の傷にはまったく躊躇いが無かったそうよ

 

 

 

 …やめ…てくれ……

 

 

よほど生きているのが嫌になったんでしょうね

 

 

 

 

 もう

 

 やめてくれ……

 

 

 

 

 手首を包帯に包まれた右手を伸ばして。

 無垢な笑みを浮かべて。

 

 彼女は言った。

 

 

 

「祐一、帰ろう?」

 

「家に、帰ろう?」

 

 

 

 

 とどめ、だった。

 

 

「やめてくれ!!」

 

 発狂したかのように、音階の外れたヒステリックな声で叫ぶ。

 

「もう、たくさんだ!」

 

 

何もかも! もうたくさんなんだよ!

 

 

 立ち上がって叫び、肩で息をする少年。

 そんな彼を見つめる少女。

 

 やがて少女が、呟いた。

 

 

「そっか……」

 

「また、なんだね」

 

「また、振られちゃったんだね」

 

 

 俯く少年を見つめるその瞳は、不思議な色彩を湛えていた。

 恨むでもなく、蔑むでもなく。そして、悲しむでもなく。

 

 そして唐突に、少年の名前を呼んだ。

 

「祐一」

 

 反射的に顔を上げた彼は、少女が右手を腰の後ろにまわしていることに気付く。

 

 何かを持っている?

 

 だがその疑問は、続く言葉の意外さにかき消された。

 

 

 

「さよなら、祐一」

 

 

 

 意外でも何でもない言葉のはずだった。

 だがその言葉を意外に思ったのは、込められた感情に拠ってだったのかもしれない。

 

 

 だから

 

 

 反応できなかった。

 

 

 

ドン

 

 

「あ……」

 

 

 

 身体ごと自分にぶつかってきた少女。

 下腹部に灼熱感。

 

「あ…う……え…?」

 

 間の抜けた声だ、と。

 自嘲するような余裕は無かった。

 灼熱感はやがて凄まじい激痛に変わり、少年を襲った。

 

「うぎ……っ!」

 

 痛い!

 痛い!

 痛い!

 

 何が起きたのか、とか。

 どうしてか、とか。

 

 そんなことは何も考えられない。

 ただ、痛い。

 思わず腹部にあてた手にナイフらしき物の柄が当たり、更なる苦痛を生んだ。

 

 

「さよなら、祐一」

 

「あゆちゃんと、仲良くね」

 

 

 雪の積もり始めたアスファルトに倒れ伏し、真っ赤な液体を腹部から垂れ流しながらのたうつ少年の耳には、少女の言葉は届いていなかっただろう。

 それでも声に反応したのか。

 痛みのために玉のような汗と涙を流してぐちゃぐちゃになった顔で、少女を見上げる少年。

 

 

 突然の凶行に及んだ少女の瞳には

 

 あの狂おしいまでの熱は篭ってはいなかった。

 

 

 それどころか、苦しむ少年の様子を痛ましげに見やるその様子は、普段の少女と何ら変わるところも無いように見えた。

 右手に飛んだ返り血を、ポケットから取り出したハンカチで拭う。

 まるで、食事中にちょっとソースが飛んでしまった。

 そんな様子で。

 

 

「わたし、帰るね」

 

 そう言って、踵を返す。

 去り際、振り返らずに少女は呟いた。

 

 

「さようなら、祐一」

 

 

 そして少女は去った。

 一度も後ろを振り返ることなく。

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく失神していたらしい。

 少年は痛みで目を覚ました。

 

 どのくらいそうしていたかわからない。だが仰向けに倒れた身体には、薄っすらと雪が積もりつつあった。

 流れ出る真っ赤な血はもうだいぶ弱まり、それに伴い痛みも薄れてきていた。

 いや、痛みだけでなく、全ての感覚が薄れつつあった。

 

 ああ、死ぬんだな。

 

 痛みが和らいだからか、それとも思考すらも薄れつつあるのか。

 妙に冷静に、そんなことを思った。

 

 自分を刺した少女が去り際に見せた表情をふと思い出す。

 激痛のためによくは覚えていなかったが、瞳にあの熱が篭っていなかったことだけはわかった。

 

 彼女は、狂いはしなかった。狂ったが末の凶行ではなかったのだ。

 ああ、彼女は自分などよりよほど強い人間だった。

 

 恨みは無かった。

 辛いことしかない現実から解き放ってくれたのだ、むしろ感謝したいくらいだ。

 

 ああそうか。

 

 また気付いた。どうも最後になって色々なことに気付く。

 

 生きることから逃避しようとしている自分は、なんと弱い人間なのだろう。

 例え一時は死を望んだとしても、最終的に彼女の出した結論は違ったのだ。

 

 彼女は生きることを選んだ。

 そして自分は、死ぬことを望んだ。

 

 こうなることは、必然だったのかもしれない。

 

 

 

 もうよく動かない腕で、腹部をまさぐる。

 そこに突き立ったナイフを、弱々しく、それでも渾身の力を込めて抜き去った。

 もう痛みは感じなかった。

 そのまま、また渾身の力を振り絞ってうつ伏せに姿勢を変える。

 

 ゆっくりと

 ゆっくりと

 まるでナメクジのように

 

 動かぬ四肢を使い、前に進む。

 

 

 

 行かなくちゃ

 行かなくちゃ

 行かなくちゃ

 

 きっと待ってる

 一人ぼっちでずっと待ってる

 

 

 

 誰が待っているのか?

 どこに行こうとしているのか?

 

 少年自身、わかってはいなかったかもしれない。

 

 それでも、彼は前に進むことをやめない。

 次第に意識が混濁してきた。

 もう前に進んでいるのか、その場に留まっているのかすらわからなくなって。

 

 そして少年は、動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 意識が完全に闇に落ちる寸前

 

 

 誰かの笑い声が聞こえた気がした

 

 

 

 

 

 

 

<END>

 

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