KANON −if−

<狂気>

2001/10/26 久慈光樹


 

 

 

 病院での、彼にとっては許すことのできない名雪の行動から3日後。

 

 いつものようにあゆの見舞いを終え、帰宅する祐一。

 そのまま誰もいないアパートに向かう。

 疲れから、食事もとらずそのまま寝てしまうことも多かった。翌朝、そのまま起きだして仕事へ向かうのだ。そして病院へ行き、帰宅してまた泥のように眠る。

 彼が一人暮らしを始めてからの生活パターンの、これが全てだった。

 

 だが今日はそのパターンにない事柄が彼を待っていた。

 

「遅かったのね」

 

 安アパートの、その廊下に背をついて彼を待っていたのは。

 

「香里……」

 

 祐一の脳裏に、以前見た瞳に狂気の色をたたえた彼女が蘇る。

 だが少なくとも今の彼女には、狂気の色はまったく感じられなかった。

 

「相沢くん、あなた、やつれたわね」

 

 そう言って、笑みを浮かべる香里。

 

 やつれたと彼女は言う。

 確かに自分はやつれたかもしれない。

 だが、それは香里も同じことだろう。

 

 どこか疲れ果てたような雰囲気を纏う香里に、だが何も言い返さない祐一。

 口に出したのは別の言葉だった。

 

「何の用だ」

「あら、ご挨拶ね。せっかくあなたに伝えることがあって、わざわざ待っていたっていうのに」

 

 鍵を取り出し、扉を開ける。

 

「……上がれよ」

「お邪魔するわ」

 

 先に部屋に入った祐一は、そのまま申し訳程度に設置されている台所に向かう。

 帰りに買ったミネラルウォーターのペットボトルを、使い捨ての紙コップに注いだ。2人分だ。

 

「何にもない部屋ねぇ」

 

 部屋を見回した香里が、呆れたように言う。

 彼女が呆れるのも当然と思えるほどに、その部屋には物がなかった。人の住んでいる部屋特有の生活臭とも呼べる雰囲気が、完全に欠落していた。

 

「部屋を見に来たのか?」

「ぷっ、そんなわけないじゃない」

 

 祐一の皮肉を伴った問いに、吹き出し、笑いをこらえるように答える香里。

 普段から感情をあまり表に出さない彼女らしくない反応だった。

 まるで何かに浮かれているようだ。

 

「あははは、相沢くんって時々天然よね」

 

 堪え切れないと言うように、笑い出す。

 

「香里、おまえ、どうした」

「どうした? どうしたですって? ぷっ、あはははははっ!」

 

 浮かれているどころではない。完全に躁状態だった。

 

「あはははは、はは、あ、あんまり、笑わせないでよね」

「……」

「あははははっ!」

 

 香里の笑いはなかなか止まらなかった。

 祐一は手にしたミネラルウォーターを一口飲むと、言った。

 

「妹、栞って名前だったらしいな」

 

 

バシッ

 

 

 平手だったが、全く手加減のないその一撃で祐一は揺らめく。

 口内を切ったのか、唇の端から血が一筋流れた。

 

「知らないわ! そんな名前知らない! 私に妹なんていない!」

 

 金切り声には、圧倒的な怒りと、そして微量の怯えが含まれていた。

 彼を睨みつける香里の瞳は、まるで灼熱の恒星のようだった。

 

「で、何の用で来たんだ。話があったんだろう?」

 

 紙コップから水を一口含み、シンクへ吐き出す祐一。吐き出された水は、薄く朱に染まっている。

 

「ええ、あなたに話があったのよ、相沢くん。あなたが変なこと言うから忘れてたわ」

 

 そう言いながら、香里は再びくすくすと笑い始めた。

 操状態からの唐突な激発、そしてまた何事もなかったかのように操状態に。

 完全に精神の均衡を失っている。

 

 

 

 

「名雪が、自殺したわ」

 

 

 

 

 

 あまりに唐突な、その言葉。

 祐一は手にした紙コップにミネラルウォーターを注ぎ足すと、ゆっくりとした動作でそれを一口飲み、またゆっくりとした動作で、香里に向き直った。

 

「なに?」

 

「名雪が自殺したって言ったのよ、聞こえなかった?」

 

 

 

 ナユキガ

 

 ジサツシタ?

 

 

 

「ああ、違うわね、こういう場合は、そう」

 

 何が可笑しいのか、今にも笑い出しそうな表情で香里は続ける。

 

「“自殺を図った”って言うべきかしら」

 

ガッ!

 

「生きているのか! 名雪はっ! 生きているんだな!!」 

「ちょっと、痛いじゃないの」

 

 手にした紙コップをかなぐり捨て、香里の胸倉を掴みあげながら祐一は叫んでいた。

 半分以上残っていた水が畳に染みを広げていく。

 香里は抗議するが、笑いを堪えているかのような口調だった。

 

「言え! 名雪は助かったんだな!」

「痛い痛い! わかった、言うから!」

 

 我に返ったように、胸倉を掴みあげていた腕を解く。

 そして射るような視線で香里の言葉を待った。

 

「生きてるわよ、危なかったみたいだけど」

「そうか……」

 

 その言葉を聞いて脱力したようにその場に座り込む祐一。

 

 その祐一を笑みを浮かべて見る、香里。

 いつしかその笑みは口元を歪めるようなそれに代わり、両手は両肘を抱え込むように組まれ、座り込んだ祐一を下目使いで見下す。

 その笑みは、蔑みの笑みだった。

 

「相沢くんは優しいわね」

「……え?」

 

 未だ脱力している祐一は、その微妙な嘲りのニュアンスに気付かなかったのだろう。素直に問い返した。

 そして続く香里の言葉に、雷に打たれたように身を振るわせた。

 

 

「とても名雪を自殺に追い込んだ張本人の言い様とは思えないわ」

 

 

 

「な……に…?」

 

 呆然とする祐一など意に介さぬように、嘲笑に顔を歪めながら淡々と語る香里。

 

「あの子、浴室で手首を切ったらしいわ」

 

 耳を塞ぎたい衝動に、必死に耐える祐一。

 

「普通、リストカットする人間は躊躇いから余計な傷をつけたり傷そのものも浅かったりするらしいけど、あの子の傷にはまったく躊躇いが無かったそうよ」

 

 聞きたくなかった。

 

「前日に退院したばかりの秋子さんの発見が、後1分遅れていたら、まず間違いなく死んでいたらしいわ」

 

 できることなら耳をふさぎたかった。

 

「よほど生きているのが嫌になったんでしょうね」

 

 だが自分にはその資格がないことを、彼はよく知っていた。

 

 

 

 

「……容態は、どうなんだ」

 

 長い長い沈黙の末、それだけを口に出す祐一。

 答える香里の、相変わらずどこか楽しそうな口調。

 

「輸血さえ受ければ命に別状は無いわ。ただ、やっぱりショックが大きいみたいで、入院だそうよ」

「香里、おまえ、いったいなにがそんなに楽しいんだ?」

「楽しい? そう見えるの?」

「ああ」

 

 押し殺した怒りの声。

 祐一の中で、名雪を自殺に追いやったという指摘に対する罪の意識が、どこかで微妙に捻じ曲がり、楽しげに話す香里への怒りへと転化したのかもしれない。

 

「そうね、楽しいのかもしれないわ」

「親友が自殺を図ったのに、か」

「親友、そう、親友ね」

 

 そう呟いた香里の表情を見た祐一は、不意に恐怖に囚われた。

 

 変わらず口元に笑みを浮かべているにも関わらず。

 いや、だからこそか。

 

 香里は、恐ろしかった。

 

「名雪は幸せそうだったわ」

「あなたといっしょにいる時の名雪は、本当に幸せそうだった」

 

 楽しそうに話す、香里。

 だが、その瞳に浮かぶのは、いつか見た、奇妙に熱を帯びた光。

 

「人の幸福と不幸の量はね、あらかじめ決まっているのよ」

「何?」

「だってそうじゃなきゃ、不公平だもの」

「……」

「名雪は今まで幸せだったわ、だから、これからは不幸になるの」

「ばかなっ!」

 

 吐き捨てるように祐一。

 だが、香里の言葉は止まらない。

 

「あら、現にそうなりつつあるでしょう?」

「くっ……」

 

 

「ねえ相沢くん、名雪はね、知ってたのよ?」

 

 またしても唐突に、話題が飛ぶ。

 

「知っていた?」

「ええ、本当はね、全部知ってたの」

「……何をだ」

「私のことよ」

 

 もう、香里は笑っていなかった。

 その瞳に帯びた熱は、今にも燃え上がるかのようだ。

 

「私のこと、そして」

 

 

 ・・・・
「栞のことも、全て知っていたのよ、名雪は」

 

 

 それは

 紛れも無い、憎しみの炎だった。

 

「知っていた……?」

 

 その言葉は、確かに祐一の虚を突いた。

 

 祐一は知らなかった。

 香里に妹がいることも、そしてその妹が病に苦しんだ末に命を落としていたことも。祐一は知らなかったのだ。

 そして、それは従兄妹も同じだと、そう思っていた。

 

「狭い街だもの、噂なんてすぐに広がる」

「……」

「ましてや水瀬の家とは家族ぐるみの付き合いだもの、名雪も秋子さんも知らないはずがないわ」

「そんな……」

「名雪は知っていて、私を哀れんでいたのよ」

「『香里はなんてかわいそうなんだろう』そう哀れんで…… いいえ、蔑んでいたのよ」

「ばかなっ! 名雪はそんなこと!」

 

 思わず声を荒げる祐一。

 名雪はそんな娘じゃない。そう思った。

 

 香里はそんな祐一を一瞥し、再び口元に笑みを浮かべる。

 蔑みの笑みを。

 

「あら、あなたの口からそんな言葉を聞くとは思ってもみなかったわ」

「くっ……」

 

 唇を噛みしめる祐一。

 名雪に自殺まで決意させるほどに追い詰めたのは、他でもない、自分自身だった。

 その負い目が、祐一から言葉を奪う。

 

 だが、香里の言葉の意味は、それとは少し異なっていた。

 

「あなたも私と同じよ、相沢くん」

「なに?」

「月宮あゆさん、だったかしら?」

「……!」

 

 香里の口から出るはずのない名前。

 思わず息を呑んだ祐一に、香里は続ける。

 

「秋子さんは助かったのに、栞は死んだ」

「秋子さんが助かったのは確かに嬉しいわ、あの人はいい人だもの」

「だけど、栞は何か悪いことをしたの?」

「死ななければならないほど、あの子は悪い子だったの?」

「秋子さんはいい人だから助かって、栞は悪い子だから死んだの?」

 

「……やめろ」

 

 祐一の口から漏れる、力ない否定の言葉。

 だが、香里の言葉は止まらない。

 

「月宮あゆ」

「……やめろ」

「あの人は、目を覚まさない」

「やめろ」

「秋子さんは助かったのに」

「もう、やめろ」

「あの人は、助からない」

やめろ!

 

 叫ぶ祐一。

 香里の言葉も、止まる。

 

 堕天使の笑みを浮かべたまま、香里は最後に、言った。

 

「だから名雪が、憎かったのでしょう?」

「幸せそうな名雪が、憎かったのでしょう?」

 

違う!

 

 香里の言葉に、彼は思いの外動揺し、それを打ち消すために叫んだ。

 祐一は激昂した。

 それは、彼女の言葉が、正に真実を突いていたからだったのかもしれない。

 

「違う! 違う!」

「違わないわ、相沢くん、あなたは私と同じなのよ」

「違う! 違う! 違う!」

 

 必死に否定するように、半狂乱で叫ぶ祐一。

 そんな彼を哀れむように、あざ笑うように。

 香里は、やがて声を立てて笑い始めた。

 

「滑稽よ、本当に滑稽、あはっ、あはははははっ!」

「笑うな!」

「あははは、あははははっ!」

「笑うな!」

「あはははははははっ!!」

 

 狂笑は止まらない。

 そして、祐一の中で、何かが音を立てて切れた。

 

笑うなっつってんだ!!

 

バシッ!

 

 平手だったのは、まだ理性が働いた結果だったかもしれない。

 だが、倒れ付した香里が未だ笑い声をあげているのを見て。

 祐一の理性は完全に吹き飛んだ。

 

「黙れ」

 

 倒れた香里に馬乗りになり、笑い続ける香里の首に、手をかける。

 

「黙れ」

 

 香里は、抵抗しなかった。

 まるで、それを望んでいたかのように。

 

「黙れ」

 

 香里の口からは、ひゅーひゅーという音が漏れるだけ。

 顔は苦しげに歪み、口の端からは涎が漏れる。

 

「黙れ」

 

 だが、瞳だけは。

 その瞳だけは、笑っているように見えた。

 

「黙れ」

 

 だから、祐一は手を緩めない。

 渾身の力で、その首を締め上げた。

 

「黙れ」

 

 香里の顔色が、だんだんと紫色に変わっていく。

 

 

 

 その時

 

 もう声を上げることもできない、香里の唇が

 ただ、唇だけが、動いた

 

 

 

 

 

こ の ま ま

こ ろ し て

 

 

 

 

「!!」

 

 まるで憑き物が落ちたように。

 自分のしていることに、ようやく気が付いたように。

 祐一は、香里から飛び退った。

 

「げはっ! げほっ!」

 

 がたがたと、瘧のように震える祐一。

 何も無い部屋に、香里のむせる音だけが響く。

 

「うっ……」

うわあああああああぁぁぁぁぁあああああぁぁ!!

 

 叫び、そのまま香里から逃げるように。

 祐一は、部屋を飛び出していった。

 後にはただ、咳き込み続ける香里だけが、残される。

 

「げほっ! げほっ!」

 

 涙と、涎と、鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして。

 ぼさぼさになった髪を、ぐちゃぐちゃになった顔に張りつけて。

 香里が、ぽつりと呟いた。

 

 

 

 

「殺してよ」

 

「私を…殺してよ」

 

「誰か…私を……」

 

 

「殺してよ」

 

 

 

<つづく>

<戻る>