コンコン
静かな病室に響く、ノックの音。
開かれる扉。
おずおずと入ってきた人影は、室内に眠る少女しかいないことを確認すると、そっとため息をついた。
安堵とも、失望ともとれるため息。
名雪だった。
手にした花束を傍らに置き、ベッド脇の椅子に腰掛け、そのままじっと眠り続ける少女を見る名雪。
彼女は、あゆの顔を覚えてはいなかった。
7年も前に、遠くからちらりと見ただけだったから。
幼い祐一と楽しそうに笑い合う少女を、遠くから見ただけだったから。
今、眠る少女の顔にはあの笑顔は無い。
同じ女性として、その姿は目を覆いたくなるばかりだった。
げっそりとこけた頬。
艶の無い肌。
伸ばすにまかせたぼさぼさの髪。
枯れ木のような手足。
微かにアンモニアのすえた臭いが漂う。
「あゆちゃん……」
病室に足を踏み入れてから、初めて口を開く。
掠れたような声しか出ない。
「もう祐一を解放してあげて……」
「……」
「……祐一を…返して……」
「お願い……」
お願いよ、あゆちゃん
最後の呟きは、声にならなかった。
KANON −if−
<決壊>
2001/08/03 久慈光樹
祐一が水瀬家を出て、一ヶ月が経った。
変わらぬ日常。
一ヶ月前とは全く異なった、日常。
あゆは相変わらず目を覚まさない。
医師の話によれば、目を覚ます確立は1%にも満たず、よしんば目覚めたとしても肉体と精神に重大な障害が残る可能性が高いとのことだった。
まさしく絶望的な状況。
希望などまったく見えない日常。
客観的に見て、祐一はよくやっていると言えた。
一人暮らしにあたり両親より生活費を受け取る事を、彼は頑なに拒んだ。
六畳一間のアパート代、毎日の生活費、全てアルバイトでまかなっている。
無理はあった。いや、無理しかなかった。
高校中退である祐一が、生活するために就くことができるアルバイトなどたかが知れている。自然、肉体労働に偏ることになる。
高校時代部活動もせず普段から運動などとは縁がなかった祐一には、辛過ぎる仕事だった。
だが彼はまるで自らの体を痛めつけるがごとく、働いた。
体を動かす仕事は、嫌いではなかった。
体を動かしている間は、何も考えなくて済むから。
身体の苦痛は、耐える事ができた。
ココロの痛みに比べたら、大した事はなかった。
そして
肉体的にも、精神的にも
祐一は徐々に追い詰められていった。
夕焼けの赤い光が病室を照らす。
ベッド脇の椅子に座り、ただじっとあゆを見つめ続けていた名雪だったが、さしこむ西日に目を細める。
カーテンを閉めようと、窓に近づき
そしてふと
室内に目を向けた。
赤い
なにもかもが
赤い
名雪の目は、少女をじっと見つめる。
『祐一を返して……』
先ほど自分の口から出た呟きが、脳裏に木霊した。
「……家に、帰らなきゃ」
だが、家に祐一はいない。
自分を迎えてくれるはずの、ずっと一緒にいてくれると約束してくれたはずの、祐一は、いない。
「どうして?」
この眠り続ける少女が、連れ去ってしまった。
自分の傍から、祐一を連れ去ってしまった。
赤い。
赤い少女。
夕焼けに染まった少女。
まるで
血の赤
どうすれば祐一は帰ってくる?
どうすれば自分の元に帰ってくる?
「どうすればいいの?」
簡単な事。
簡単な事だ。
「ああ」
こんなにも、簡単な事だった。
「そうなんだ」
赤く染まった病室を、ゆっくりと、少女に向かって歩く。
憑かれたような瞳。
呟き続ける声には、どこか奇妙な熱が篭っていた。
その声は
同じ病院で、一ヶ月前に、彼女の親友が祐一に向かって妹を紹介したときと、同じ熱が篭っていた。
ベッドの脇まで歩み寄ると、歩みを止める。
熱を持った視線は、眠り続ける少女の、不自然なほどの白さを湛えた首に。
ゆっくりと、両手が上がる。
簡単なこと。
そう、簡単な事だ。
月宮あゆ。
・・・・・・・・・・・・
彼女さえいなればいいのだ。
「嫌ね、また急患かしら」
秋子は、多少落ち着きの無い院内放送に眉を顰めた。
外科の医師に至急連絡を求める放送だった。また急患が運び込まれたのだろう。
昼の病院は、決して静かな場所ではない。
医師や看護婦の熱気、院内放送、外来患者、見舞いに訪れた家族と入院患者の談笑。
雑多に溢れるこれらの音が、だが秋子は決して嫌いではなかった。
それは、命を感じさせる喧騒だからだ。
病院という、ある意味もっとも“死”に近い場所。でもだからこそ、喧騒と熱気はことさらに“生”を感じさせてくれる。
少し前までは、水瀬の家も活気と喧騒に溢れていた。
名雪と、祐一と、そして今はいなくなってしまった真琴という少女。
喧騒と言い争いと、しかし活気と慈しみに満ちていた水瀬家。
いつからだろうか。
それらが全て、無くなってしまったのは。
秋子自身が事故に遭ってからか。
それとも、真琴が…… そう、沢渡真琴と名乗ったあの記憶喪失の少女が、恐らくは記憶を取り戻し、皆の前から消えてしまってからか。
いま家に、祐一はいない。
真琴もいない。
そして、秋子自身もいない。
名雪だけが、一人ぼっちであの広い家にいるのだ。
秋子は、明日退院を予定していた。
あれだけの大事故だったにも関わらず、幸いなことに命に別状は無く、さらに幸いなことに後遺症もない。
正に奇跡ですと言った医師に、祐一と名雪はずいぶんと憤慨していたものだ。なにを無責任な、と。
そのときの様を思い出し、知れず秋子の顔に笑みが浮かぶ。
「もう少しの辛抱よ、名雪」
ぽつりと声に出しての呟き。
そう、もう少しで名雪のそばに居てやることができるようになる。
祐一のことは、今はどうしようもない。
でもいつかきっと、あの子もわかってくれる。
根拠の無い思い込みかもしれないが、そんな気がする。
そうしたら、また三人で暮らそう。
ひょっとして真琴だって帰ってくるかもしれない。記憶を取り戻したあの子が、照れ笑いを浮かべながら遊びにくるかもしれない。
色んな物を失った。
色んな物を失いつつある。
だけど、きっといつかは皆幸せになれる。
名雪も、祐一も、真琴も、そしてあゆちゃんも。
きっといつか、幸せになれる。
秋子は、そう信じていた。
日雇いのアルバイトを終え、いつものようにあゆの病室へ。
既に陽は傾き、夕焼けの赤い光が病院の廊下にさしこんでいる。
いつもよりも遅くなってしまった。もう面会の時間はあまりない。急がなくては。
303号室。
自分以外に面会など無いため、なんの躊躇いも無く扉を開け放つ。
ガチャリ
そして、眼前に広がる光景に、絶句する。
「名雪っ!!」
久しぶりに従兄妹の名を呼んだその声は、詰問と断罪の叫びだった。
どこか憑かれたような瞳をした名雪。
あゆの眠るベッドの傍らに立っていた。
そしてその両手は
眠りつづけるあゆの、白い白い首に……。
「名雪ぃ!!」
「きゃっ!」
駆け寄り、引き剥がし、突き飛ばす。
突き飛ばされ、病室の隅にしりもちをついた名雪は、あっけにとられたような、しかしどこか呆けたような表情をして、祐一を見上げた。
あゆの容態を確かめ、異常が無いことに安堵し、そして振り返り名雪を見る祐一。
険しく、それでいて氷のような視線だった。
「ゆう…いち……?」
「……何をしていた」
「え?」
静かな、だが氷点下の冷たさを伴った祐一の問い。
やっと我に返ったのだろうか。名雪の表情は呆けたようなそれから、みるみる狼狽と恐怖に取って代わっていく。
「ゆ、祐一、違うの、わ、わたし……」
「何をしていたと聞いている」
祐一の名雪を見る目は、もはやかつてのような恋人を見る目ではなく、罪人を見る目だった。
「わたし、わたし……」
激しい憎悪の視線に、名雪は言葉を接げない。
そのまましばらくは両者とも無言の時が流れる。
やがて
「帰れ」
吐き捨てるような言葉に、名雪の体がびくりと震えた。
縋るような目で、祐一を見る。
だが、視線は緩まない。
「帰れ、もう二度とここに現れるな」
「祐一!」
悲痛な、悲鳴にも似た叫び。
だが
「もう二度と、俺の前に現れるな」
「……!!」
ひぅっ、と喉を鳴らし、硬直する。
まるで信じられない言葉を聞いたように、立ち尽くす。
それっきり、祐一はまるで名雪など居ないかのように、眠るあゆの傍らに移動するとベッド脇の椅子に腰を下ろした。
眠るあゆの前髪にかかる髪を、優しく払う。
その視線は先ほどまで名雪に向けていたそれとは比べ物にならぬほど優しく、暖かだった。
放たれた言葉よりも、祐一があゆに向ける視線にこそ、名雪は打ちのめされた。
まるで夢遊病者のような足取りで、全てに絶望したかのように、ゆっくりと病室から出ていく名雪。
それを見ようともしない祐一。
病室の扉が、静かに、閉まった。
3日後。
アパートを訪ねてきた香里から、祐一はその事実を知ることになる。
「名雪が、自殺したわ」
<つづく>