KANON −if−
<強迫観念>
2001/06/16 久慈光樹
両親が来日し、祐一が自らの断罪を願う、その前日。
祐一の姿は病院にあった。
いつものことだ、流石に今日のように学校をサボってまでということは稀だったが。
「よう、あゆ」
できるだけ、陽気な声を出した。せめて表面上は、陽気を装いたかった。
だがその行為で一番傷ついたのは、他でもない、祐一自身だった。
結局それからはいつものように無言で。
面会時間が終わるまで、ただじっとベッドサイドの椅子に腰をおろしているだけだった。
「相沢くん?」
病院では聞くはずのない声。
「こんなところで会うなんてね」
香里だった。
あゆの病室から帰る途中、内科の病棟で声をかけられた。
「秋子さんのお見舞い?」
「いや……」
あれ以来、秋子の病室には一度も足を踏み入れてはいない。
曖昧な応え。だが香里は「そう」と素っ気無い声を返すのみ。
香里というこの従兄妹の親友は、本当に物事に無関心だと思う。
彼女とそう付き合いがあるわけではない。この北の街に引っ越してきてそれほど長い時間が経ったわけではないのだ。
だが以前はもう少しましだったように思う。歳相応に少女らしい好奇心を持ち合わせていたように思う。
以前より物事を冷静に見る少女だったが、最近のそれは度を越していた。
まるで、世の中の全てに関心を持たぬ世捨て人のような。
つまらぬ舞台を客席から眺める観客のような。
そんな無関心な視線。
だが、今日の彼女は少し様子が違った。
「相沢くん、今、暇?」
祐一をどこかに誘うような素振り。
普段の彼女からは考えられない積極性が感じられる。
「まあな」
内心では驚きつつも、表面上は素っ気無く応える。
「そう、じゃあちょっと付き合ってちょうだい」
彼女のその声には、どこか奇妙な熱が篭っていた。
「ここは?」
連れてこられたのは、病室。
祐一の知らぬ、病室だった。
「紹介するわ、私の妹の、栞よ」
香里が病室のベッドを指し示す。
「栞、この間話したでしょう? 名雪の従兄妹の、相沢くんよ」
「ほら、ちゃんとご挨拶なさい」
「香里……」
「どうしたの相沢くん、変な顔して」
初めて見る、香里の表情。
そのベッドに視線を送る彼女の表情は、慈しみに満ちていた。
でもだからこそ。
祐一は、背筋が凍るほどの恐怖を覚える。
薄氷の上でダンスを踊るような、そんな今にも壊れてしまいそうな危うさ。
いや、もう壊れていたのかもしれない。
祐一は、悟った。
「何の冗談だ」
だから、言うのだ。
その言葉を。
「やめて!」
ヒステリックな拒絶の声。
だが構わず続ける。
「香里、ここには……」
「いや! やめて!」
両耳を手で塞ぎ、その場に膝をつく香里。
何かを必死に否定するように、何かを認めたくないように。
・・・・ ・・・・・・・・・・
「ここには、誰もいないじゃないか」
「いやーーっ!!」
少女の絶叫が、病室に響き渡った。
誰も寝てなどいない、ベッド。
シーツも取り払われ、無機質な姿を晒す、ベッド。
絶叫を聞きつけた看護婦に、香里は連れられて行った。
「やめて、やめて」と空ろな目で呟きながら、香里は連れられて行った。
祐一は、看護婦から全ての事情を聞く。
彼女の妹が、先週までこの病室に入院していたこと。
治療の甲斐なく、助からなかったこと。
それ以来、香里が精神に異常をきたし、通院していること。
初めて聞くその事実に、祐一は圧倒された。
クラスメイトにして、従兄妹の親友である香里。
冷静に見えたその内面に、他人には想像すらできぬ闇を抱え込んでいたのだ。
恐らく名雪はこのことを知るまい。
知っているのならば、あの名雪が平静を保てるとは思えなかった。
死んでしまったという香里の妹。確か栞と言ったか。
姉である香里、あの冷静な彼女が精神に異常をきたしてしまうほどのショックを受けているのだ。
恐らく栞という少女は愛されていたのだろう。
どちらがより、幸せなのだろうか。
ふと、そんな事を考えた。
愛する者に惜しまれ、生きる事を切望されながらも生を全うできなかった少女と。
幼心に好きになった少年にすら忘れ去られ、ただ病院のベッドで眠り続ける少女と。
どちらがより、幸せなのだろうか。
どちらがより、不幸なのだろうか。
祐一にはわからなかった。
高校を中退してあゆの面倒をみる事。
水瀬家を出て、一人で生活する事。
その提案は、当然のように両親には反対された。
父も、母も。
必死に祐一に翻意を促し、最後には母の涙ながらの説得が行われた。
だが、祐一の決心は変わらない。
未だ入院する秋子にも、両親は相談したようだった。
彼女が何と応えたか、祐一は知らない。
だが、結局最終的に両親は折れた。
息子一人を日本に住まわせているという負い目もあったのだろう。
祐一は、水瀬家を出、アパートを借りて一人暮らしすることになった。
事が決定する間、祐一と名雪は一言も口をきいていなかった。
祐一が避けていたというのが本当のところだ。
名雪からは何度も話し掛ける素振りがあったのだが、祐一はその度に避けた。
悲しそうな名雪。祐一もどこか苦しそうだった。
やがて両親は外国に戻り。
祐一は、水瀬家を出る。
荷物をまとめ、家を出るそのときも。
名雪と祐一に、会話はなかった。
「知ってる、303号室の患者さん」
「え? あの何年も目を覚まさない女の子?」
「そうそう」
「確か何年も前に木か何かから落ちて、それ以来植物状態なのよね。でもそれがどうしたの?」
「それがね、最近頻繁に面会があるのよ」
「へぇ、ここ何年も面会なんて無かったのにね」
「面会に来るのは高校生くらいの男の子、結構かわいい子よ」
「恋人なのかな?」
「うーん、どうだろ。でも不思議じゃない? もう入院して十年近くになるのに、今まで誰も面会に来たことが無いらしいんだよ?」
「ふーん」
「しかもその男の子、結構思い詰めた感じなんだよね」
「そりゃあね。患者さん、確か月宮さんだっけ? 全然回復の見込みなんて無いんでしょ? そりゃあ思い詰めようってもんじゃない?」
「そうだよねえ」
毎日は、辛い。
回復の見込みの無いあゆ。
生活費を稼ぐためのアルバイト。
あゆの入院費は両親に負担してもらうしかないという現実。
何の考えも無く学校に通い、何の負い目も無く日々を過ごしていた頃。
従兄妹の少女とよく冗談を言い合っては笑い、クラスメイトと他愛も無い話をしては笑い。
もう、遠い昔のように感じられる。
「よう、あゆ」
病室に響く、陽気な声。
それによって一番傷つくのが自分自身であることを知りつつも、いや、知っているからこそ。
「今日はバイトが早く終わったからさ」
「道路工事のバイトもだいぶ慣れたよ、最初は毎晩筋肉痛で動けなかったけどさ」
「ほら、最近じゃだいぶ筋肉付いて、男らしくなってきただろ」
「大変だけど、やり甲斐はあるよ」
自分自身を傷つけることが、罪を償うことになるなどとは思ってはいないけれど。
「そういえば、今日バイト先でな……」
滑稽な、芝居。
自覚はある。
だが、どうしようもないのだ。
「本当に、まいっちゃうよ。そう思うだろ、あゆも……」
それは、一種の強迫観念だったのかもしれない。
自分は、あゆに恨まれているのではないか。
そう思い始めたのはいつの頃か。
最初は違った。
罪の意識を持ちつつも、どこか“他人事”という認識があった。
いや、他人事というのではない。
どこか“立派なこと"をしているのだという自覚があった。
自分を慈しむ気持ち。
“ああ、自分はこんなにも良い事をしている”、“俺はこんなにも立派な事をしている”
どこか、自分に酔っていたのだ。今にして思えば、よくわかる。
今は、違う。
そのような気持ちは、既に消え失せた。
あゆは、俺のことを恨んでいるのではないか?
その自問は、恐ろしかった。
一番考えたくない事項だった。
考えないようにしていた、という方が、より正確かもしれない。
幼い頃に心を開き、信じ合った人に、忘れ去れらるのはどんな気持ちだろう?
一人ぼっちで何年も、こんな病室に取り残されるのはどんな気持ちなのだろう?
寒い。
どうしてこの病室はこんなにも寒いのか。
「そう言えば、昨日の晩はチャーハンを作ったんだけどさ……」
震える声で。
強張る顔で。
必死に陽気な声を作る祐一は、酷く滑稽に見えた。
そんな彼の目前で、眠り続ける少女。
痩せこけ、積年の面影すら見いだせないその姿。
喉に直接穴を開け通された太いチューブ。鼻には栄養摂取のための流動食用の細いチューブ。毛布で見えないが、腰には排泄物のためのカテーテル。
見る影も無い。
あの可憐だった幼き日の記憶などは、見る影も無い。
幼き頃に憧れ、初恋の対象であった少女は、見る影も無い。
それこそが、彼の罪の象徴。
「まったく、まい、る、よな……」
いつしか。
祐一の声は、聞き取れないほどに、震えていた。
「お母さん、どうして?」
名雪の声は、静かだった。
責める響きも、詰問する激しさも、その声音からは感じられない。
その問いかけに、秋子は同じように静かな声で応える。
「ごめんなさい、名雪」
だが、それは、答えではなかった。
秋子は決して名雪の目を見ようとはしない。
「答えて、どうして?」
まるで秋子の応えなどは無かったかのように、静かに語を重ねる名雪。
「どうして、祐一に話したの」
夕焼けに彩られた病室。
四人部屋のその病室は、検査の時間帯なのか、ただ一組の母子がいるだけ。
それっきり、無言のままの、母子。
どれほどそうしていたのか。
やがて、母が口を開いた。
「……祐一さんは、今、幸せだと言っていたわ」
「……」
「話したのは、それが祐一さんとあゆちゃんのためだと思ったから」
それが免罪符にならぬことは、他でもない秋子自身が一番よく知っていた。
だがそれでも、言葉を続けた。そうすることしかできなかったから。
「あゆちゃんは、今もずっと一人ぼっちで眠り続けているのよ」
偽善。
「……知らない…よ……」
搾り出すように、憎しみすら込めて放たれる言葉。
その憎しみは、果たして誰に向けられたものか。
「……そんなこと、知らないよ」
「名雪?」
「あの子のことなんて知らないよ、知ったことじゃないよ」
「名雪!」
母の叱咤の声。
その声に触発されたかのように、知らず俯いていた顔を上げ、睨みつけるようにして叫ぶ。
「知らない知らない! そんなこと知らない! どうして、どうして祐一に話したの?! ねえお母さん、どうして!」
「名雪、落ち着きなさい!」
「ねえ、どうして! どうしてなの!」
憑かれたような目で、壊れたラジオのように繰り返し叫ぶ。
どうして! どうして! どうして!
なんとかして我が子を静めようとしながら。
秋子は悔いていた。
やはり、言うべきではなかった。
まだ早すぎたのだ。
名雪も祐一も、まだ自分の心を制御できる年齢ではなかった。
名雪は母の事故から。
祐一は7年前の事故から。
まだ立ち直ってなどいなかったのだ。
裏目に出てしまった。
祐一のことを思い、彼とあゆのためを思っての行動は、娘と、そして息子のように思っていた祐一の、その忘れ去られた心の傷を広げる結果にしかならなかった。
秋子は、己の行為を悔いていた。
だが、違うのだ。
秋子自身、もう耐えられなかったのだ。
ひょっとすると、ひとり眠りつづける少女に、もっとも強迫観念を抱いていたのは秋子だったのかもしれない。
月宮あゆ。
彼女に一番恨まれ、謗られるべきは自分であるかもしれないという認識。
7年前の事故の真相を知り、それを隠しつづけてきた彼女にとって、月宮あゆという少女の存在は、恐ろしかった。
そう、恐ろしかったのだ。
己の罪を意識する事が。己の罪を認めることが。
だからかもしれない。
秋子は、祐一に真実を告げたその行為が、彼とあゆのことを思うが故の行動であると、本心からそう思っていた。思い込んでいた。
彼女は、大人だったから。