KANON −if−

<断罪>

2001/02/28 久慈光樹


 

 

 

 翌日、祐一は一人で登校した。

 名雪と共に登校しようという気にはなれなかった。

 自室で、恐らくはまだ寝ているであろう名雪に声をかけることもしなかった。

 それが、当然だと思った。

 昨日までとは違うのだ。

 

 なにもかもが。

 

 

 祐一の予想に反し、名雪は目を覚ましていた。

 いとこの少年が何も言わずに家を出て行くのを、じっと自室で膝を抱えながら見送った。

 涙は、出なかった。

 

 

「あら、珍しいわね、今日は一人で登校?」

 

 校舎が見え始めるころ、後ろから声をかけられる。

 祐一は声からその主に見当がついたが、あえて振り返って確認する。

 香里だった。

 

「ああ」

「どうしたの、朝から辛気臭い顔して、名雪と喧嘩でもした?」

「そんなんじゃないさ」

「そう」

 

 それ以上余計な詮索はしてこない。

 何とはなしに、そのまま教室まで一緒に登校した。

 その間、何も会話は無かった。

 

 

 

「おはよー」

「おはよう、名雪。いつもながらギリギリね」

「うー、だって祐一が先に行っちゃうんだもん」

「悪かったな」

「酷いよ祐一、極悪人だよ」

 

 無理がある。

 そう思った。

 祐一も、そして名雪も。

 意識して普段通りの会話をしている。だが所詮は取り繕ったものだ。

 二人の間に流れる雰囲気は酷くぎこちなく、そして余所余所しく。

 香里はそんな二人の雰囲気に、気がついているのか、それとも気がつかないふりをしているのか。いつも通りのポーカーフェイスからは何も読み取れなかった。

 

 緩慢に流れる時間。

 淡々と進む授業。

 普段通りであるようでいて、普段通りではない日常の風景。

 

 やがて、放課後。

 

「じゃあな、名雪」

「あ……」

 

 一応声だけはかけ、祐一はそのまま教室を出た。

 何か言いたげな名雪の声は、無視した。

 

 

 

 

 病院。

 生と、そして死が隣り合わせの場所。

 

 どちらを先にすべきか少しの間迷った後、祐一は叔母である秋子の病室を訪ねた。

 

「祐一さん、お帰りなさい」

「はい」

 

 返事だけをし、ベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける祐一。

 しばらくは祐一も、そして秋子も無言だった。

 昼間の病院に特有のざわめきと、院内放送が遠くに聞こえる。

 

 どのくらいそうしていただろう。

 口火を切ったのは祐一だった。

 

「どうしてですか、秋子さん」

 

 それだけ。

 口に出したのは、ただそれだけ。

 

 だが秋子には伝わったのか、問い返す事もせず、ただ彼女は俯いた。

 

「どうして、なんですか」

 

 祐一のその言葉は、問いかけと言うよりも独白に近い。

 

「思い、出したのね」

 

 囁きの域を出ない、秋子の問いかけ。

 だが祐一は何も答えない。

 そして、それが答えだった。

 

「そう」

 

 またしばし会話が途切れる。

 

「何も、言わない、言ってくれないんですね」

 

 祐一のそれも、囁きに近かった。

 

「それが、答えなんですね」

「……」

「あなたも、名雪と同じなんですね」

「……!」

 

 祐一は“あなた”と言った。

 彼が秋子に対し、“あなた”という呼び方を使うのは初めての事だった。

 だがその他人行儀な呼び方よりも、むしろ名雪と同じと言われたことに秋子は驚いたようだった。

 

「祐一さん、名雪は本当に祐一さんのことを……!」

「いいんです」

 

 病室を訪れてから初めての強い口調で、祐一は秋子の言葉を遮った。

 

「もう、いいんです」

 

 何がいいのか。

 何がもういいのか。

 

「俺、戻ります」

「待って、祐一さん!」

「お大事に」

 

 秋子が呼び止める声は、無視した。

 

 何事かといぶかしむ同室の者たちに頭を下げ、そのまま祐一は病室を出ていった。

 そんな彼に向けて上げた手が宙を掴み、そのまま力なく降りる。

 秋子の瞳には、悲しげな光と、後悔の念が篭っていた。

 

 だが、彼女は気がついただろうか。

 祐一が、“帰る”ではなく、“戻る”と言ったことに。

 “家に帰る”のではなく、“戻る”と言ったことに。

 彼の中では、最早水瀬家は帰るべき場所ではなくなりつつあるのだと言うことに、果たして秋子は気がついただろうか。

 

 

 

 

 月宮あゆの病室を訪れる頃には、日も傾き、夕焼けが赤い光を投げかける時間帯になっていた。

 昨日訪れた時と同じく。

 病室は、赤一色だった。

 

 赤い壁。

 赤い天井。

 赤いベッド。

 そして、赤い少女。

 

「あゆ……」

 

 痩せ衰えた少女は、無論その呼びかけに応えることなく。

 病室には、祐一の呟きと、恐らくは生命維持のための医療器具が発する機械的な電子音が響くのみ。

 

 ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けたまま、じっとその寝顔を見つめ続ける祐一。

 

「あゆ、俺は……」

 

 どうすればよいのか。

 自分がどうするべきなのか。

 

 祐一はもう、知っていた。

 

 

 

 

 

 海外に居る両親に国際電話をかけたのは、その日の晩だった。

 自分の考えていること。やろうとしていること。そのために協力してほしいこと。

 全てを、話した。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい祐一。そんなこと急に……」

「急なのは承知のうえさ、承知の上で、頼んでいるんだ」

「だってそんな……」

 

 普段は物事に動じない母も、流石に言葉を無くした。

 当然だろう、あまりにも唐突だ。

 

「と、とにかく、電話じゃなんだから一度そっちに戻るわ」

「いつだ」

「え?」

「いつ、戻るんだ」

「あ、ああ、父さんとも相談してから……」

「なるべく早いうちに来てくれよ、もう……」

 

 いったんそこで言葉を切る。

 その沈黙を不自然に感じた母が問い返す寸前、吐き出すように言葉を継ぐ。

 

「もう、ダメだから」

 

 

「え? ダメって、何がよ?」

「……いや、何でもない。とにかくなるべく早いうちにお願いしたいんだ」

 

 両親とも共働きであり、すぐには決められない。

 また明日の晩に向こうから連絡するということで、電話を切った。

 

 受話器を置いたまま、しばらく立ち尽くす祐一。

 

 そう。

 もう、ダメなのだ。

 

 何も、かもが。

 

 祐一の両親が急遽帰国したのは、それから5日後のことだった。

 

 

 

 

「高校を中退したいとは、どういうことだ」

 

 客間に通された父が、開口一番、祐一に問いかける。

 

 びくり、と。

 お茶を出していた名雪の肩が震える。

 そして信じられないことを聞いたという表情で、祐一を凝視する。

 

「そのまんまの意味さ」

 

 そんな名雪の様子も目に入らないように、祐一は落ち着き払った声で返した。

 少なくとも、表面上はそう見えた。

 

「理由は?」

「電話で母さんに話しただろう」

「だけどね、祐一……!」

 

 言いかける母の言葉を遮るように、父が語を継いだ。

 

「学校を辞めて、どうするつもりだ」

「働くさ」

 

 あたりまえだろう、と祐一。

 

「俺は、この家を出ていく」

 

 瞬間生じる、けたたましい音。

 

「あっ、あっ……」

 

 自らが取り落とした急須が割れる音に、我に帰ったように破片を拾い始める名雪。

 見かねた母がそれを手伝う。

 

「す、済みません」

「いいのよ」

 

 その様子を見るとは無しに見ていた祐一。

 父が再度言葉を発する。

 

「……そのこと、秋子さんには相談したのか」

「いや、していない」

「お世話になっておきながら、そんな大事なことを無断で決めようとしていたのか」

 

 祐一はそんな父の言葉を聞き、笑い出しそうになった。

 論点がずれている。

 いや、そもそも論ずべき内容が最初から食い違っている。

 もう一度、5日前に電話で母に伝えた内容を繰りかえした。

 

「俺は、この家を出て働く。俺一人食っていくくらい、多分どうとでもなる。だからあいつの…… あゆの入院費用だけは援助してほしい」

 

 祐一はそこで一旦言葉を切ると、確認するように言った。

 

 ・・・・・
「今まで通り」

 

「……知って、いたのか」

「いいや、知らなかったよ、でも今は知っている」

 

 身寄りの無いあゆの入院費用が、秋子さんと自分の両親から出ているものであること。

 入院させ、しかるべき治療を今も続けさせていること。

 祐一は、7年間あゆの担当をしていたという看護婦から全てを聞き出していた。

 

 自分一人が。

 父も、母も、秋子さんも、そして名雪すらも全てを知っていたにも関わらず、自分一人が何も知らず。

 

 全てを知ったとき、失われた7年という年月に、祐一は押し潰されそうだった。

 

「俺は……」

 

「あゆと、生きていく」

 

 

 ひぅっ。

 割れた急須の破片を拾い集めていた名雪が、息を飲んだ。

 噛み締めるように言い切る祐一。

 父も、母も、そして名雪も、しばらく時が止まったように身動き一つしない。

 

「祐一、お前は責任を感じているのかもしれんが、7年前のあれは事故だったんだ」

 

 責任?

 自分は責任感から、全てを投げ出してこれからの人生をあゆに捧げようとしているのか?

 

「……違うな」

 

 そう、違う。

 これは、贖罪…… いや、断罪だ。

 

 7年前から今に至るまで。

 犯し続けてきた罪に相応しい報いを、受けるのだ。

 これから一生かかって。

 

「祐一! 考え直しなさい!」

 

 母の声は、最早悲鳴に近かった。

 

 だがそれでも、祐一の決意は変わらない。

 

「とにかく、すぐに結論を出せるような問題じゃない、よく話し合おう」

 

 逃げ文句とも取れるその父の台詞で、ひとまずこの場での会話は終わった。

 

 

 

「どうして?」

 

 名雪の第一声は、それだった。

 

「何がだ」

「どうして? 祐一」

 

 瘧のように震えて、それでも名雪は問う。

 

「あゆのことか?」

「祐一のことだよ!」

 

 名雪の声は、悲鳴に近かった。

 

「どうして? どうして祐一がずっとあの子の面倒を見なくちゃいけないの?! どうして今までの生活を捨てなきゃならないの?!」

「断罪さ」

 

 口の端を歪めるようにして言った祐一の言葉は、名雪の耳に届くには小さすぎた。

 

「え?」

「お前には関係の無い事だろう」

「関係ないって…… そんな……」

 

 冷ややかな祐一の口調と、その内容に絶句する名雪。

 

「そんな…… ひどいよ、祐一」

「ひどい、だって?」

 

 7年間騙し続けるのは酷くないのか?

 7年間誰からも忘れ去られて病院のベッドで眠り続ける人を忘れ去るのは酷くないのか?

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 親友の妹が死んだことを知らないのは酷くないのか?

 

「ふふ、ふふふふ」

「ゆ、祐一?」

「ふははは、はははははっ!」

「ゆ、祐一! どうしちゃったの? 祐一!」

「あはははははははっ!!」

 

 滑稽だ。

 何もかもが。

 滑稽だ。

 

 初恋の人を7年間も忘れ続けていた自分。

 家族と思っていた人たちにずっと騙されていた自分。

 そんなことは全然知らないで、名雪とセックスしていた自分。

 

 親友の妹があゆと同じ病院で死んでいたことをまったく知らない名雪。

 それどころか、親友に妹がいたことすら知らないであろう名雪。

 そんなことは全然知らないで、俺とセックスしていた名雪。

 

 滑稽だ。

 本当に滑稽だ。

 

 

「あはははははははっ!!」

 

 祐一の狂笑は、しばらくおさまりそうになかった。

 

 

 

<つづく>

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