KANON −if−

<儀式>

2000/12/04 久慈光樹


 

 

 

「ちょっと遅くなっちゃったな」

 

 名雪は朝と同じように走っていた。

 本来ならとっくに帰宅している時間だったのだが、今日は思った以上に時間が掛かってしまった。

 

「きっと祐一、今ごろお腹空かしてるね」

 

 秋子が入院中はずっと名雪が食事の支度をしていた。

 祐一と二人で食べる食事は楽しかった。

 本当は三人そろって食べればもっと楽しいのだろうけれども。

 

 でも、祐一がそばに居てくれる。

 ずっとそばにいてくれるって約束してくれた……。

 

 名雪は祐一の言葉を思い出し、幸せな気分に包まれる。

 

「あっ、いけない」

 

 考え事をしていたら、家を通りすぎそうになってしまったようだ。

 

「えへへ」

 

 誰も見ていないというのに照れくさくなり、笑う名雪。

 

「ただいま…… あれ?」

 

 だが玄関のドアにはカギが掛かっていた。

 

「祐一まだ帰ってきてないのかな?」

 

 腕時計を見ると6時過ぎ。お見舞いに行っただけにしては遅い。

 カバンからカギを取り出しながら不思議に思った名雪だったが、あまり気にはしていなかった。どうせまた商店街にでも寄り道をしているに違いない。

 

「今日は祐一の好きな和風ハンバーグにしよっと」

 

 カギを開けて家に入る。

 どうせあと1時間もすれば帰ってくるだろう。

 そう、思いながら。

 

 

 だが、それから2時間経っても祐一は帰ってこなかった。

 

 

「祐一遅いなぁ、何やってるんだろう?」

 

 名雪は時計を見て何度目かのため息をつく。

 

「うーん、さすがにもう病院に電話かけるわけにいかないし」

 

 いつものように夕食の支度を整え、いつでも食べられるようになっている。

 祐一の好物である和風ハンバーグは冷め切ってしまっていた。

 

「もう! 先に食べちゃえばよかった。ほんっっとに鉄砲玉なんだから!」

 

 おかずをラップでくるみながら、頬を膨らませる。

 

「ほんとにもう! いっつも心配ばっかりかけて!」

「だいたい祐一はちょっと目を離すとすぐに一人でどこかに行っちゃうんだから!」

 

 

「……」

「……どうしちゃったのかな」

 

 いつも見慣れている家も、一人でいると広すぎた。

 暖房が効いているはずなのに、薄ら寒い印象を受ける。

 

「祐一…… 早く帰ってきてよ」

 

 食卓に一人で座る名雪。

 

「嫌だよ…… 祐一……」

 

 椅子の上で膝を抱えて座る様子は、まるで幼子のようであった。

 

「もう一人は嫌だよ……」

 

 

 

 

 

 祐一はまだ公園にいた。

 噴水の脇に腰掛け、いつのまにか振り出した雪をぼんやりと眺める。

 額の傷から流れ出していた血は、いつのまにか止まっていた。

 今ごろになって、ズキンズキンと鈍い痛みを発している。

 

「いてぇ……」

 

 口に出してみる。

 

 だが祐一にはわかっていた。

 本当に痛いのは、身体の傷ではないのだ。

 本当に痛いのは……。

 

「どうして忘れちまったんだ」

「どうして俺はあいつのこと忘れちまったんだ?」

「……あゆ」

 

『7年前、この街で俺とあいつは出会った』

『あいつはいつも泣いてばかりいた』

『俺はあいつの笑った顔が見たくて』

『いつも笑っていてほしくて……』

 

「それなのに俺は!」

 

 一旦は去ったはずの激情が再び溢れてくる。

 だがその激情をぶつけるよりも先に、誰もいない公園から人の気配がした。

 

「誰だ!!」

 

 祐一の叫びに答えるように、薄暗い公園の照明の下に姿を現したのは……。

 

「舞……」

 

 舞だった。

 制服に身を包み、手には布に包まれた長い棒のようなものを抱えている。

 

 舞がこれからどこへ行くのか、祐一は知っていた。

 毎晩夜の学校で何をしているのかも。

 前に一度だけ付き合ったことがあったからだ。

 結局付き合ったのはその一度きりで、その後は一度も付き合った事はなかったが。

 

「今日も学校へ行くのか?」

「行く」

「そうか……」

 

「……」

「……」

「なあ、舞」

「何」

「お前、もうすぐ卒業だろ」

「……」

「いつまで続けるつもりだ?」

「魔物を倒すまで」

「本当に倒せるのか?」

「わからない」

「そうか……」

 

 さも当たり前のことのように淡々と話す舞の瞳が、ひどく祐一の印象に残った。

 

 いつ現れるかもしれない、何匹いるかも分からない魔物を倒す。

 それは湖の水をスプーンで全てすくい出そうとするような、そんな気が遠くなるようなことなのかもしれない。

 恐らく舞はこのままずっと夜の学校に通いつづけるのだろう。

 卒業してからもずっと。

 祐一には、彼女を止める資格は無かった。

 今まで彼の歩いてきた人生という名の道には、恐らくいくつもの分かれ道があって、その中には舞と一緒に毎晩学校に通うという道もあったに違いない。

 だが彼はその道を選ばなかった。

 彼は名雪と共に生きる道を選んだ。

 だから祐一には舞を止める資格も、権利も無い。

 

 感情をどこかに置き忘れてきたような冷たい瞳。

 人形のような無表情。

 そんな舞を見ながら、祐一にはその事が痛いほどわかった。

 そしてふと思う。

 舞にも別の道があったのかもしれない、と。

 

 友人との他愛ない会話。

 毎朝親友と呼べる人達と登校したり。

 お昼になれば一緒にお弁当を広げたり。

 そんな別の道があったのかもしれない。

 

 しかし舞はここにいた。

 冷たく、感情を感じさせない瞳で。

 毎晩一人学校に忍び込んで。

 いつ終わるかもわからない魔物との戦いを続ける。

 

 あゆ。

 あゆにも別の道があったのだろうか?

 誰に省みられる事もなく、一人、病院のベットで眠りつづける。

 そんな現実とは別の道が。

 

 

「そろそろ行く」

 

 祐一の思考はそんな舞の台詞で断ち切られた。

 

「そうか」

「祐一は……」

「……」

「……」

「……何でもない」

 

 舞は何かを言いかけてやめると、そのまま公園を出て行く。

 祐一は、そんな舞の後姿をただ見送ることしかできなかった。

 

「俺も…… 帰るか」

 

 帰る。

 どこに?

 どこに帰るというのか?

 

 決まっていた、水瀬家だ。

 名雪の待つ水瀬家が祐一の家なのだから。

 

 

 

 

 

名雪はあゆのことを知っていたのだろうか?

 

 

 

 

 突如として脳裏に浮かんだその考えは、祐一の心に、まるで白いシーツにたらされたインクのように黒い染みを広げていった。

 

 そうだ。

 名雪はあゆのことを知っていたのだろうか。

 知っていて、今まで何も言わなかったのだろうか。

 

 彼女の母である秋子は知っていた。

 知っていて、今までその事を告げずにいたのだ。

 名雪も、そうなのだろうか。

 

 だが祐一は心に浮かんだその考えを必死に否定しようとする。

 

 俺は秋子さんを、そして名雪を信じている。

 秋子さんがあえて俺にあゆのことを伝えなかったのは、きっと俺のことを思ってのことなんだ。

 だからもし。

 もし名雪がそのことを知っていたのだとしても。

 それは俺のことを思ってに違いないんだ。

 

 だが、一旦浮かんだ疑心暗鬼という黒い染みは。

 祐一の心をゆっくりと、だが確実に侵食していった。

 

 

 

 

「ただいま」

 

 祐一が家に着いたときには、すでに12時をまわっていた。

 

「おかえり!」

 

 名雪が台所から駆けより、祐一に飛びつく。

 

「おい、どうしたんだよ」

「何でも、何でもないよ」

 

 名雪は祐一が帰ってきたことに安堵していた。

 ここは祐一の家であり、祐一が帰ってくることは当たり前のことである。

 にも関わらず、名雪は安堵していた。

 祐一が帰ってきたことに、もう一人ではないことに、安堵していた。

 

 だから祐一が、普段とは様子が違うことに気がつかなかった。

 

 しばらくそのまま抱き着いていた名雪だったが、しばらくして離れる。

 そして、祐一が額に怪我をしていることに気がついた。

 

「ゆ、祐一、怪我してるじゃない!」

「ああ」

「ああ、じゃないよ、大丈夫? 今手当てするから」

「ああ」

 

 とりあえず祐一に台所で待つように告げると、救急箱を取りにいく名雪。

 シンクの上にある棚を、ごそごそと漁っている。

 

「あれー? 救急箱どこにあったかなぁ…… あっ、あった!」

 

 その名雪に祐一が声をかけた。

 唐突に。

 

「今日、病院であゆに会ったよ」

 

ガシャン

 

 手にした救急箱を取り落とす名雪。

 その姿をどこか虚ろな瞳で眺める祐一。

 どちらも動かない。

 まるで時が止まってしまったかのような静寂。

 だがその呪縛は、祐一の次の一言で解かれた。

 

「知って、いたんだな」

 

 それは問い掛けではなく、確認だった。

 名雪の様子を見れば、知っていたことは一目でわかる。

 事実、祐一に背を向けたまま、名雪は微かに頷いた。

 

「どうして、黙っていたんだ」

 

 詰問するのではなく、静かな口調でそう問う祐一。

 だが名雪は答えない。

 

「どうして俺に黙っていたんだ」

 

 今度は少しだけ強い調子で繰り返す。

 だがそれでも名雪は答えない。

 

「そうか」

 

 それだけ呟くと、祐一はゆっくりと立ちあがり、2階にある自室へと歩いていった。

 後に残された名雪。

 

 名雪は結局、何も言わなかった。

 いや、何も言えなかった。

 

 いつかはこの時が来ると思っていた。

 祐一が全てを思い出し、そのことを、名雪が何も言わなかったことを責められる時が来ると思っていた。

 それでも名雪は何も言えなかったのだ。

 

 名雪にとって、7年前の記憶は思い出したくもない記憶だった。

 あの時祐一に何があったのか、後から秋子に聞かされた。

 だが名雪にとっては、あゆのことなどはどうでもよかったのだ。

 名雪にとって重要なのは、自分が振られたことと、そして祐一がもう2度とこの街に来ないであろうということだけだったのだ。

 

 そして7年の時を経て。

 もう2度と会えないと諦めていた祐一が、この街を訪れることになって。

 更には恋人と呼べる関係になって。

 名雪は喜んだ。

 素直にその事を喜んだ。

 そして同時に恐れたのだ。

 祐一が、また自分の前から姿を消してしまう事を。

 7年前の記憶を取り戻し、自分の前からいなくなってしまうことを。

 名雪は、恐れたのだ。

 

 そして今。

 

「どうして?」

 

 立ち尽くし、俯いたままの名雪の口から、呟きにも満たない言葉が漏れる。

 

「どうして、今になって思い出すの?」

 

 膝が崩れ、その場に腰をつく。

 床に放り出された包帯を見つめる。 

 

「どうして?」

 

 キッチンに、名雪のすすり泣きの声だけが響いた。

 

 

 

 

 

 一人部屋に戻った祐一は、ベッドに腰掛けると虚ろな視線を足元に注ぐ。

 

「否定しないんだな、名雪」

 

 名雪に、否定して欲しかった。

 全然知らなかったと、言って欲しかった。

 もし知っていたとしても、例え偽善だったとしても、祐一の為を思ってのことだったと言って欲しかった。

 

「もう、ダメなんだな」

 

 そう、もうダメなのだ。

 昨日までの、幸せに満ちた日々。

 無知だったが故の、満ち足りた日々。

 もう、戻れない。

 全てを知ってしまった、いや、全てを思い出してしまった今では、もうあの頃には戻れない。

 昨日までの幸せは、あゆという生贄の上に成り立った偽りの幸せだったのだ。

 

「あゆ」

 

 少女の名を呟く。

 病院で見た少女は、7年前の記憶とは違っていた。

 痩せ衰えた四肢。こけた頬。

 口を覆う呼吸器、喉に直接通されたチューブ。

 

「あゆ」

 

 もう一度だけ呟く。

 それは、儀式だった。

 

 昨日までの幸せだった日々への決別と。

 明日からの日々。

 幸せかどうかはまだわからないが、昨日までとは違うであろう明日からの日々。

 

 昨日から、明日へ。

 変わるための、いや、変えるための。

 

 それは、儀式だった。

 

 

 

 

<つづく>

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