KANON −if−

1999/10/30 初版
2000/12/04 改定

 久慈光樹


 

 

 

 秋子さんの容態は順調に回復に向かっていた。

 一時は本当に危ないところだったのだ。俺も名雪も医者から覚悟を決めておくように言われた。

 だが秋子さんは助かった。

 しかし重症であることには変わりはなく、俺と名雪が面会を許されたのは事故から2週間以上経過してからのことだった。

 

 俺と名雪は恋人同士といえる間柄になっていた。唯一の肉親を失うかもしれない不安に、名雪一人では耐えられなかっただろう。

 だが、二人でなら耐えられた。二人でなら秋子さんの回復を信じていられた。

 

 その後、秋子さんの容態はもう何日かすれば退院できるまでに回復していた。

 

「ごめんね、祐一」

「いいさ、それに毎日お見舞いに行ってるんだ。たまには部活にも顔を出さないとな」

「うん、じゃあ祐一、お母さんによろしくね」

「おう」

 

 名雪は秋子さんの事故以来、ずっと部活に行っていなかった。

 部長なのにいいのか? とも思ったが、その辺は他の人間がうまくやってくれたようだ。

 まあ、名雪はあの通りおっとりした性格だからな、部長とは言っても実質的な部分はきっともっとしっかりした人間がついてサポートしてくれているに違いない。

 

 俺は部活に向かう名雪の後姿をぼんやりと眺めながら、帰りの用意を始める。

 

 

「あら、今日は一人なの?」

 

 教室を出てぶらぶらと廊下を歩く俺の後ろから、誰かが声をかけてきた。

 

「何だ、香里か」

「何だとはごあいさつね」

 

 香里は両手で左右の肘を抱え込むいつものポーズで、軽く俺を睨み付ける。

 

「で、何だって?」

「今日は珍しく一人じゃないの」

「まあな、名雪のやつは部活だ」

「そう、それで今日も秋子さんのお見舞いに行くの?」

 

 香里は名雪と親友同士ということもあり、秋子さんとも顔なじみだった。病院へも何度かお見舞いに来たこともある。

 

「ああ、そろそろ退院できそうなんでな」

「そう……」

 

 香里はそう言うと俺から目をそらし、窓の外を見る。

 なぜだかその様子からは、苛立ちが感じられた。

 

「どうかしたのか?」

「別に」

 

 おかしい、何かいつもの香里とは雰囲気が違う気がする。

 俺はそう思ったが、あえて追求はせずに話題を戻した。

 

「しかし一時はどうなることかと思ったが、秋子さん、元気になってよかったよ」

「そうね…… 身内に体が悪い人がいると、家族はたまらないわ」

「実感がこもってるな。身内に体の悪い人がいるのか?」

 

 聞いてはいけない話題かとも思ったが、俺はあえて無神経を装って、そう問いかけてみた。

 

「どうしてそう思うの」

 

 そう聞き返す香里の声は、氷のようだった。

 

「いや……」

 

 自ら問い掛けたにも関わらず、その声音に思わず言い淀む。

 香里はそんな俺をあざ笑うかのごとく、冷笑とも取れる笑いを浮かべ、さらに語を接いだ。

 

      ・・・・・・・・・
「秋子さん、良くなるといいわね」

「……どういう意味だ」

「言葉通りよ。他に何か意味があって?」

 

 相変わらずの冷笑。明らかに含みを持たせたその言葉。

 激昂しそうになる自分を、何とか押さえる。

 

「ふん、じゃあな香里」

「ええ」

 

 素っ気無く言い放つ俺に、更に素っ気無い口調で香里が返す。

 そのまま俺は、学校を後にした。

 言いようのない、苛立ちを抱えながら。

 

 

 

 

 香里と別れた俺は、一人、秋子さんの入院している病院へと向かった。

 

 軽くノックをしてから病室に入る。

 秋子さんはパジャマ姿のまま、体を起こして本を読んでいたようだ。 

 俺に気付くと、暖かい笑顔を浮かべてくれた。

 

「いらっしゃい、祐一さん。毎日お見舞いに来てくれてありがとう」

「今日は名雪は部活があるとかで、俺一人で来ました」

 

 俺は同室の人達に迷惑にならないよう、少し小声になって秋子さんに答える。

 相部屋に移ってからもうずいぶん経つ。

 秋子さんはすっかり元気そうだった。未だに残る手足の包帯が痛々しいが。

 

 しばらく特に意味もない雑談を交わし、そろそろ帰ろうかと思っていたとき、秋子さんが急に真剣な口調で話し掛けてきた。

 

「祐一さん」

「はい、何ですか」

「これからも名雪のこと、よろしくお願いしますね」

「えっ!?」

 

 思いもよらぬその言葉に、俺は少々取り乱した。

 俺と名雪は、あの晩初めて体を重ねた。 

 秋子さんにはまだ何も言っていない、言っていないが、恐らくこの人には全てお見通しなんだろう。

 

「あの子は幸せ者ね」

 

 微笑みを浮かべて俺を見る秋子さんに、少し赤くなってしまう。

 

「それで祐一さん、あなたはどうなの?」

「え?」

「祐一さん。あなたは今、幸せ?」

「はい、俺はとても幸せです」

 

 秋子さんの質問の意図はよくわからなかったが、俺は自信を持ってそう答えることができる。

 俺は今、間違いなく幸せだった。

 

「そう……」

 

 秋子さんはそこで一旦言葉を切り、じっと何かを考えるように目を閉じていた。

 やがて決心したように、真剣な口調で俺に話し掛けてくる。

 

「祐一さん、実はもう一人お見舞いに行ってほしい人がいるの」

 

 またしても唐突な言葉。

 お見舞い?

 誰か知り合いでも入院しているのだろうか。

 

「俺の知っている人なんですか?」

 

「……ええ、祐一さんの良く知っている人です」

「? はい、分かりました」

 

 俺は秋子さんから病室を聞くと、席を立った。

 

「それじゃあそろそろ行きます」

「ええ、ありがとう祐一さん。さっきのこと、よろしくお願いします」

「はい、じゃあお大事に」

 

 そう行って病室から出ようとした時、秋子さんが、俺を呼びとめた。

 

「祐一さん」

「はい?」

 

「……」

 

「どうかしましたか」

 

「……いえ、何でもないんです。ごめんなさい呼びとめたりして」

「? いいえ、それじゃあお邪魔しました」

 

 

 

 病室を出て行く祐一。

 その後姿を見送りながら、秋子は言葉を漏らす。その瞳には悲痛な色が浮かんでいた。

 

「ごめんなさい…… 祐一さん……」

 

 あまりにも小さなその呟きは、祐一の耳に届くことはなかった。

 

 

 

 

 

「ここか?」

 

 祐一は秋子さんに教えられた病室まで来ていた。

 脳外科の病棟だった、個室なのだろう、入り口には一枚だけ名前の札がかけられている。

 

『月宮あゆ』

 

 名札にはそう書かれていた。

 

 

ドクン!

 

 

 その名前を見たとき、祐一の中で何かが激しく脈打ち始める。

 

 

   何だ?この感じ

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

    月宮あゆ

 

 

 初めて聞く名だった。

 少なくとも祐一にはその名に心当たりはなかった。

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 それなのにどうして。

 

 どうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。

 

 どうしてこんなに不安な気持ちになるのだろう。

 

 

 いずれにしろ病室の前で突っ立っていても仕方がない。

 祐一は未だに落ち着かない鼓動を押さえこむように、病室へと入っていった。

 

 

 

 

 

 病室はまるで別世界のように静まり返っていた。

 ピッ、ピッという医療機器の電子音のみが聞こえてくる。まるでそれ以外の音が存在していないかのように。

 その寒々とした雰囲気に身震いしながら、祐一はゆっくりと室内を見まわす。

 

 ベットが一台置かれている。

 そこに一人の少女が横たわっていた。

 祐一の位置からは逆光になっていてその顔までも窺い知ることはできない。

 

 ゆっくりとベットに近づいていく祐一。

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 先ほどから自分でもうるさいほどに鼓動が高まっている。

 まるで何かに憑かれたように、ゆっくりとベットまで歩み寄る。

 

「あの……」

 

 自分の声が、不自然なほど大きく部屋に響く。

 

 

 少女は眠っていた。

 口には酸素吸引用のマスク、そして喉のあたりから何かチューブが突き出ている。

 その少女は痩せ衰えていた。肌の色は不自然なほどに白い。

 

 

ドクン!

 

 

 また一つ大きく祐一の心臓が跳ねた。

 

 

 おかしい。

 何か違和感がある。

 何かが……。

 何かがおかしい。

 

 

   『月宮あゆ』

 部屋の入り口にかかっていた名札に書かれた名前。

 

   『祐一さんの良く知っている人です』

 先ほどの秋子さんの台詞。

 

 目の前で眠りつづける痩せ衰えた少女。  

 そして先ほどから感じている強烈な不安と違和感。

 

 

 何かがおかしい

 何か……。

 何か大事なことを忘れている気がする……。

 大事なことを……。

 

 

 

 

 

 

 

産婦人科の野口先生、至急ナースステーションまでご連絡ください。

産婦人科の……

 

 

 

 

 

 

 

 廊下からかすかに聞こえた院内放送で我に返る。

 祐一は、自分がいつの間にかじっとりと全身に汗をかいていることに気付いた。

 

「どうしたって言うんだ」

 

 呪縛を振り払うようにわざと少し大きな声でそう言ってみる。

 ゆっくりと止まっていた時間が動き出していた。

 

 きっと秋子さんが病室を間違えて教えたに違いない。

 なおも湧き上がる不安と違和感を振り払い、祐一は強引にそう思うことにした。

 そして部屋を出ようとした時、ふと頬に風を感じた。

 

「窓が開いている……」

 

 振り返ると病室の窓が四分の一ほど開いているのが目に付いた。春になり、暖かくなってきているとはいえ、さすがに夕暮れ時ともなると気温も下がってくる。

 

「閉めておくか……」

 

 一刻も早く立ち去りたいという気持ちを押さえこみ、窓際まで歩く。

 窓際までたどり着き、窓を閉めた祐一は、ふと真っ赤に染まった空に目をとめた。

 

「今日は夕焼けか……」

 

 外は見事な夕焼け空だった。

 

 

 

 

 赤い。

 

 

 

 

 

 雲も

 

 空も

 

 街も

 

 

 

 世界の全てが赤く染まっている。

 

 

 

 

 

 

ダメダ

 

 

 

 心の奥で何かが警告を発していた。

 

 

 

コレイジョウココニイテハダメダ

 

 

 

「……」

 

 

 

コレイジョウココニイルト

オモイダシテシマウ

 

 

 

「……」

 

 

 

ツラクカナシイコトヲ

オモイダシテシマウ

 

 

 

 

「……帰るか」

 

 そう呟いてドアに向かおうと振り向く祐一。

 だが、夕焼けに赤く染め抜かれた室内を目にして、またも凍りつくように動きが止まる。

 

 

   

 

   

 

   

 

 

 夕焼けに照らされて、室内が、少女が真っ赤に染まっている。

 

 

 

 まるで……

 で染め抜いたように!

 

 

 

ドクン!!

 

 

「うっ!」

 

 突然、祐一を激しい頭痛が襲った。

 

 

ドクン! ドクン!

 

 

 脈打つような激しい頭痛。

 こみ上げる嘔吐感。

 

「ぐうぅっ」

 

 記憶の奥底に閉じこめた記憶。

 光の差さぬ心の深海に封じこめた7年前の記憶。

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

『……どうしてお別れって、こんなに悲しいんだろうね』

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

『ぼくのこと…… 忘れないでください』

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

『約束…… だよ』

 

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

……

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

赤い

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

 

赤い空

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

赤い街

 

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

 

赤い雪

 

 

 

 

ドクン! ドクン! ドクン!

 

 

 

 

 

真っ赤に染まった雪

 

 

 

 

 

ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!

ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!

ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!

ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真っ赤な血

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あゆの……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁああああぁあああああぁ

 ぁあああぁぁぁぁぁぁああああぁああああああぁぁあああぁぁぁ

 ぁぁぁああああぁあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁああああぁ

 あああああぁあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁああああぁああ

 ああぁぁあああぁあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁああああぁ

 ああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁああああぁあああああぁぁぁぁ

 ぁああああぁあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁああああぁああ

 ああぁぁあああぁああああぁあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁ

 あああぁあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁあ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    ・

    ・

    ・

    ・

 

 

と、とりあえず…… キミの名前は?

…ぁ…ゆ……

……あゆ、か?

 

 

    ・

    ・

 

しょっぱい……

それは、涙の味だ

……でも ……おいしい

 

    ・

    ・

 

それなら、明日の同じ時間に、駅前のベンチで待ってるから

……やくそく

ああ、約束だ

  

    ・

    ・

    ・

    ・

 

 

 

 

 

 

 

 どうやって病院を出たのかは覚えていない。

 

 気がつくと祐一は噴水のある公園に一人、放心したように立ち尽くしていた。

 あたりはすでに夕暮れに包まれている。

 

 

「……」

 

 

 

                        。         

              真っに染まった雪。

                     真っ赤に染った。      

          めはつもいてばかりいたあ。    眠りあゆ。                         木意だったあゆ

 

 

 

 

 思考が定まらない。

 頭の中でぐわんぐわんと釣鐘が狂ったように鳴っている。

 

 

 

ドウシテ

 

 

 

 頭の中でまた誰かの声が聞こえた。

 

 

 

ドウシテ

 

 

 

 うるさいな。

 

 

 

ドウシテ

 

 

 

 

 うるさいな、何がだ?

 何が“どうして”なんだ?

 何に対しての“どうして”なんだ?

 あゆがああなったことに対してなのか?

 忘れてしまったことに対してなのか?

 

 それとも……

 

 

 ・・・・・・・・・・・
 思い出してしまったことに対してか?

 

 

 

ドウシテ

 

 

 

 ……

 

 

ドウシテ

 

 

 うるせぇ

 

 

ドウシテ

 

 

 うるせぇな

 

 

ドウシテ

 

 

 

 

「うるせぇーっつってんだろ!!!」

 

 

 

 

ガゴッ!!

 

 

 

 祐一は突然、噴水の縁に頭を思いっきり打ち付けた。

 

 

 

ツツー

 

 

 

 ふと額に生暖かい感触を感じて、頭に手をやる祐一。

 ヌルリとした感触があった。

 

 いかぶしげに手についた液体を見やる。

 

 

「赤い……」

 

 

 

 赤い……

 

 

 赤い……

 

 

 赤い……

 

 

 赤い……

 

 

 赤い…… 

 

 

「うっ! ぐえぇええぇぇ」

 

 赤く染みのついた噴水の縁に嘔吐する。

 

 何度も何度も吐いて、やがて胃液しか出なくなる。

 祐一は、嘔吐のためににじみ出た涙を拭い、そのまま地面に座り込む。

  

 だが拭ったにも関わらず、涙は後から後から溢れ出てきた。

 

「…う……ぐっ……」

 

 どうして?  

 どうしてこんなことになっちまったんだ……?

 

 もうすっかりと日が沈んだ公園に、祐一の嗚咽がいつまでも響いていた。

 

 

 

 

 

<つづく>

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