ジャンル別連作『雨の二人』

ジャンル:シリアス

−雨脚はいつだって遠く−

 

 

 

 

「ああちくしょう、とうとう降ってきやがったか」

 

 朝からぐずついた天気だったことを考えれば、よく夕方までもったというべきだろう。

 映画館では邪魔になるだけなので傘は持ってこなかったが、失敗だったかもしれない。あゆのやつはしっかりと折り畳み傘を持っていたから、いざとなれば入れてもらえばいいと考えていたのだが。

 

「たく、降るならあゆと一緒のときに降れってんだ」

 

 口に出してから、それが随分と恥ずかしい台詞だったことに気付いた。思わず周りを見渡してしまい、またそんな行動を取ってしまったことに赤面する。

 そうこうする間に雨脚はよりいっそう強くなってきた。

 まだ家まではだいぶある。仕方がない、少し雨宿りをしていこう。商店街の外れ、目に付いた空家らしい店舗の軒下に走り込んだ。

 

「ふぅ」

 

 ハンカチなんて持っていないので、まるで犬のように頭を振って雨の雫を払う。

 雨のやむ気配は無い。あゆは濡れずに家までたどり着いただろうか。

 

 人通りのない商店街。雨音だけが、まるでこの世界の王様気取りで尊大なオーケストラを奏でる。

 こうしていると、まるでこの世界でただ一人俺だけが存在しているかのようだ。

 雨に閉ざされた街、すべてが灰色の街。

 7年以上前に俺が見限った街、辛いことがあった街。再会、そして……

 

 

ばしゃばしゃばしゃ

 

 

 俺しかいない世界に、その足音はひどく異質で、でもまるで救いの主が差し伸べる福音のように、響いた。

 雨に煙る街を俺と同じように雨に打たれながら、誰かが走ってくる。

 その誰かは俺に気付く様子も無く、だが俺と同じことを考えたのだろう、俺の立つ軒下に足音も高く滑り込んできた。

 

「ゆう、いち?」

「名雪か」

 

 思いもかけぬ偶然。従兄妹の少女は、雨に濡れた前髪を額に張り付かせ、不思議そうな顔で俺を見ていた。

 

「ここ、いいかな?」

「ああ」

 

 私服のポケットから取り出した真っ白なハンカチで頭についた雫を拭う名雪。ぼんやりとそれを眺めていた俺だったが、雨に濡れた名雪が随分と刺激的な格好であることに気付いた。

 すぐに目を逸らす。だが瞳はしっかりとその様子を焼き付けてしまっていた。

 春先によく着ている白のワンピース。濡れそぼったそれは容易に体の線を透かせ、肌色とも白ともいえない色彩を放っている。雫をたらす前髪、しっとりとした首筋、下着の柄まで判るほどに濡れそぼったワンピース。

 普段は意識していなかった、いや、意識しないように努めていた従兄妹の異性としての存在感に、知らず、俺の胸は一オクターブ高い鼓動を刻む。何の脈略も無くあゆの笑顔が脳裏に浮かんで、ギリと唇を噛んだ。

 

 そんな俺の様子を知ってか知らずか、名雪は無邪気にハンカチを差し出す。

 礼を言い、受け取ろうと伸ばされた手は、だが途中で降ろされた。

 

「いや、いい」

「そっか」

 

 お節介なこいつらしくなく、俺の素っ気の無い拒絶の台詞に素直にハンカチをポケットにしまう。

 その仕草になぜだか後ろめたさを覚えて、俺は軒下から空を眺めた。

 降り続く雨、すべてが灰色の世界。

 それからしばらくは、二人して無言で空を見上げた。

 

「今日は楽しかった?」

 

 突然の名雪の言葉。

 思わず顔を向けた俺の視線の先には、楽しそうに笑う、名雪。

 あゆちゃんとデートだったんでしょ? と聞くその様子は自然で、何も含むところなどない。

 なのに。

 俺は視線を逸らした。

 

「まあ……」

 

 なぜか言葉が出てこない。

 居心地の悪さに、身じろぎをした。

 

 なにを躊躇うことがある。俺とあゆが恋人同士という間柄であることは名雪だって承知しているはずだ。今日だってちゃんとあゆと映画を見に行くことを伝えて、家を出てきたはずだ。

 なにを、後ろめたく感じることがある。

 

 だが相変わらず俺の口からは、何も言葉が発せられることは無かった。

 名雪もそれっきり無言で、また二人して空を見上げて雨音の中に身を置いた。

 

「くしゅん!」

 

 隣から聞こえた、いかにも女の子らしい小さなくしゃみ。

 それはあたかも、重苦しい雰囲気を払拭する魔女のステッキのようで。

 俺は苦笑しながら、羽織っていたジャケットを脱ぎ、差し出した。

 

「ほら」

「え……? でも……」

「なに遠慮してんだよ、着ろって、風邪ひくぞ」

「……うん」

 

 ずいぶんと濡れてしまっているが、それでも何もないよりはましだろう。なんだか照れくさくなってあらぬ方向を向きながら差し出したジャケットを、くすりとひとつ笑って名雪は受け取った。

 袖は通さず、肩から羽織るようにして名雪は無言で俺のジャケットを着込んだ。少し俯いたその表情は、濡れた前髪に隠されて見えなかった。

 そしてまた、それっきりお互いに無言。ただ降り続く雨音だけが響く。

 

 どのくらいそうしていただろう。

 

「祐一って、優しいよね」

 

 雨音にかき消されそうな小さな声で、名雪がそう、呟いたような気がした。

 聞き返そうとした俺の耳に、先ほどより更に小さい呟きが聞こえてきた。聞こえて、しまった。

 

「……残酷だよ」

 

 それっきり。

 名雪はなにも口にせず。

 俺も、なにも口にできず。

 

 

 嫌な、雨だった。

 いつになったらこの雨はやむのだろうか。

 

 

 

 

<END>