異能者 第二部

<第七章>

−全面戦争−

2003/9/10 久慈光樹


 

 

 

「未来観測……?」

 

 祐一のその言葉には、驚きよりもむしろ戸惑ったような響きが色濃く感じられた。

 

 確率未来観測制御システム『ラプラスの魔 機構』

 あまりに荒唐無稽な、だがもし真実であればKanonとしては決して無視できぬ情報。ONE偵察より帰還した『トリックスター』北川潤がもたらしたそれに、深夜であったにも関わらず、幹部たちに急遽召集がかかったのは当然の成り行きと言えた。

 信頼する『トリックスター』がもたらした情報でなければ一笑に付していただろう。無理もない、それほどに荒唐無稽な話だったのだから。

 

「確かなの? その情報は」

 

 『死神』美坂香里の、やや懐疑を伴った問い。Kanonに加わってから日の浅い彼女にとって、北川潤という男が未だ信用に足る人物であるのか判断しかねているのかもしれない。

 

「まーな」

 

 自らの厳しい視線など目に入っていないかのようにそう告げる北川のその語調の軽さに、更に視線が厳しくなるのを自覚する香里。

 『トリックスター』北川潤が、どうやら自分のことを慕っているようだという情報は、香里の耳にも届いていた。彼女とて未だ少女と呼べる年齢、自分に好意を寄せてくれる異性のことが気にならぬはずはない。だが肝心の相手が、彼女の基準からすると軽薄に過ぎた。普段であればまだ眉を顰める程度で済まされるその軽薄さも、今はだが、許せる範疇を越えているように思われた。

 

 未来観測。

 近い未来とはいえ、これから何が起きるのかを事前に把握できることが可能だとすれば、それは戦術においてはルール違反とも言える決定打だ。彼がもたらしたその情報がもしも真実ならば、Kanonの存亡に関わるといっても過言ではない。

 Kanon存亡、それは単なる組織解体という意味合いに留まらない。

 Kanonは元来ONEに対するレジスタンスとして発足した組織であり、ONEによる日本国支配という現体制が打破された暁には解体は必定といえる。だがしかし、ONEに屈して組織が消滅させられるという事態になれば、これすなわち構成員たちの消滅と同義なのである。

 ONEリーダーである『永遠の』折原浩平は、敵対する組織を決して許さない。それは過去、ONEに敵対してきた無数の組織が末端の構成員に至るまで殲滅された事実を見ても明らかである。

 

『そのような事態、到底許容できるものか』

 

 香里は密かに、唇を噛む。彼女とて、かつては『美坂家』当主として組織のトップに立っていた。自らの築き上げてきた組織が他者に踏みにじられるのを是とせぬのは当然のことだ。

 にも関わらず、北川の態度はそんな彼女からしてみれば軽薄に過ぎた。

 

 睨みつける、と称してもよいような厳しい視線、だがしかし彼女のそんな視線をものともせず、北川潤は飄々とした態度を崩すことなく、新たな爆弾を投げつけてきた。

 

「設計図みたいなもんをガメてきた」

「なっ!」

 

 これには香里だけでなく全員が絶句した。

 ただ情報を仕入れてきただけではなく、その拠り所となる動かぬ証拠を手にしたというのだ。

 こと情報戦においては世界に冠たる存在である『心眼』川名みさきの“眼”をかいくぐる。一体どのような手段を用ればそのようなことが可能となるのか。

 

「見せてもらっていいかしら?」

「どうぞ」

 

 リーダーである秋子の問いに形ばかりは慇懃に、恐らくは生命を賭して入手したであろう書類をだがまるで興味がないかのように、北川はそっけなくそう応える。

 手に取ったその書類をパラパラとめくる秋子。横あいからそれを覗き込んだ祐一が、白旗を揚げた。

 

「これはちょっと解らないな……」

 

 『ONE技術部門』の噂は聞き及んでいる。かの高名な科学者、住井仁博士。その唯一の忘れ形見である『プロフェッサー』住井護、そして彼のパートナーであり生体工学の権威である深山雪見博士。世界でも間違いなくトップクラスの科学者であろうこの二人を筆頭とし、ONEの技術部門は日本の他組織とは比較にならぬほどの技術力を誇っている。

 戦力という面ではONEに拮抗するまでに成長したKanonであるが、こと技術力という面では未だONEに遠く及ばぬのが現状であった。

 だからこそ、祐一だけではなく、幹部たる名雪、舞、香里、佐祐理、栞、あゆ、その全員が理解していた。

 ONE技術部の、その最先端である技術の結晶である『ラプラスの魔 機構』、その設計図を手に入れたところで、Kanonの何人も利用はおろか理解することすらもできないに違いないと。

 

 否。

 

 倉田佐祐理だけは、違った。

 

 パラリパラリと頁をめくり眼球をせわしなく文章に走らせる秋子を、探るような視線で見つめる佐祐理。彼女だけは知っている、秋子ならば、秋子であれば、例え『プロフェッサー』の手による設計図であっても理解することが可能であるということを。

 

 なぜなら秋子は、かの住井仁博士直属の助手的な立場にあった科学者であるのだから。

 

 佐祐理の脳裏を、昨晩の情景が過ぎる。

 

 

『私が彼女の母を―― 天野美歌を殺したからよ』

 

 

 ぞくりと、背筋が震えた。

 

 『大破壊』の爪痕から未だ完全には回復していないこの世界。平和だった過去と違い、殺す殺されるといった事象は茶飯事とまでは言わぬまでもさほど珍しいことではない。事実、佐祐理にしてみても幾人もの人間をその手で殺めているのだ、例え秋子が人を殺したことを告白したとて、それ自体は驚くには値しない。

 

 だが。

 

 『魔弾の射手』天野美歌について語る秋子のあの表情。あれは佐祐理にとって馴染み深い表情だった。毎日鏡の向こうで見る表情。あれは佐祐理が親友である川澄舞について語るときの表情に他ならない。

 だからこそ、秋子にとって天野美歌という人物がどれほど大切な存在であったのか、佐祐理にも実感として感じとることができたのだ。

 

 そしてまた、だからこそ。

 

 その笑顔を浮かべたままで、彼女を殺したのは自分であると語る秋子に、佐祐理は怖気を覚えたのだ。

 

 秋子の過去に、何があったのかはわからない。結局あの後、何を聞いても応えてはくれず、養生を理由に退出を余儀なくされたのだ。だから佐祐理の心に残ったのは、言いようのない不安と、そして、Kanonリーダーである『静かなる』水瀬秋子への、払拭し難い強烈な不審感。

 

 過去を一切問わず、自分と親友である舞を組織に迎え入れてくれた水瀬秋子を、今まで佐祐理は好ましく思っていた。佐祐理とて人を見る目はあるつもりだ。短い付き合いであるが、日々見せる暖かな微笑みは母の愛など知らぬ自分を包み込んでくれるようだった。

 

 だが昨夜の、あの時の秋子の表情。

 

 

『私が彼女の母を―― 天野美歌を殺したからよ』

 

 

 またしてもぞくりと、背筋が震えた。

 あの時の秋子は、まるで自分たちとは根本から違った、何か得体の知れない未知の生物のようだった。どのような過去を経験すれば、あのような笑みで、あのような言葉を口にできるのか。

 

 もしかしたら。

 自分は、自分と舞は、とんでもない過ちを犯してしまったのではないか……

 

「倉田さん」

 

 思考の淵に沈んでいた佐祐理は、その呼びかけに弾かれたように顔を上げる。

 そこには――

 

「大丈夫? 顔色が悪いようだけれど」

 

 いつも通りの、いつも通りであるはずの。

 水瀬秋子の、笑み。

 

「な、なんでもありません……」

 

 

 応える声が震えているのは自覚していたが、どうしようもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ONE技術部、プロジェクト『ラプラス・デーモン』中枢部。

 

「今回の課題は?」

 

 いつ聞いても憮然としたような『プロフェッサー』住井護の声に、内心の苦笑をおくびにも出さず深山博士が冷静な声で、手に持ったファイルの内容を読み上げる。

 

「前回起動実験で発覚したパケットの微弱な減衰、その再試験ね」

「原因の目星はついているのかい?」

「ええ、プロトコル遷移時のソフトウェア的な障害」

「で、対策は?」

「ソフトウェア障害それ自体は既にデバッグ済み、ユニットテスト、システムテストまでは終了しているわ、あとは本稼動させて補正データを蓄積するだけね」

「ふむ、さすがだね、ONEきっての才媛だけのことはある」

 

 滅多に人を誉めない住井が手際を賞賛する。さしもの雪見も表情を押し殺すことに失敗し、目を見開いた。

 その様をさも可笑しそうに一笑し、からかわれたと気付き睨みつける雪見に背を向ける住井、そのままコンソールのひとつに歩み寄り、立ったままキーボードをタイプする。

 そのタイプ速度はお世辞にも早いとは言えない、一応はタッチタイプであるようだが、時折手元に視線を走らせ確実に入力していくその様は、コンピュータを少し齧ったことのある学生と言っても通用するだろう。

 その様子を見るとはなしに見ていた雪見は軽く肩をすくめた。別に嘲ったわけではない、逆に、少し嫉妬したのだ。

 

 博士号を取るほどの科学者ともなれば、コンピュータのタイプなどほとんど意識せずに行えるのが当然なのだ。この世界に残った数少ない学院からの叩き上げである雪見もまた、コンピュータの扱いには長けていた。寝食を忘れて研究に没頭し、キーボードが指の延長となるほどに研鑚して初めて他者より一歩先んじることができる。生まれ持った異能力などという訳のわからない力に頼る異能者よりも、よほど厳しい世界なのだ、科学の世界は。

 だが、目の前のこの男はどうだ。当代に冠絶すると言っても過言ではないほどの名声をほしいままにするこの『プロフェッサー』住井護は、キーボードのタイプすらままならぬほどの実地のみで、己が理論を確立したのだ。

 天才。陳腐な言葉ではあるが、生まれ持った天賦の才能というのは、こういうことを言うのだろう。

 

 努力をすれば世の中に適わぬ事など無い。そのような幻想を信じるほどには雪見は純粋ではなかったが、初めてこの天才にあいまみえ、その才能の片鱗に触れたときには、まるで自分の拠って立つ場所が根こそぎ崩れ落ちてしまうかのような思いを味わった。自分が数週間かけての実験から導き出す理論を、口頭で話して聞かせたその場で理解されてしまったときの驚きと絶望。未だに忘れはしない、あの頃は自分自身への絶望感と才能というものへの不公平感から自らを見失ってしまいそうだったのだ。

 ONE技術部の現在の人員は50名強。これは一組織としてはかなり多い印象であるのだが、それでも淘汰された結果であるのだ。当初、稀代の科学者である『プロフェッサー』の名声に惹かれてONEに属すことを望んだ科学者たちはおおよそその10倍はいただろうか。しかしその大半が数週間を待たずしてONEを去った。解任したのではない、彼ら(もしくは彼女ら)は自らONEを去ったのだ。

 そう、本物の才能を前にして、雪見のように自らの才能の限界を感じながらもそれでも我が道を貫く意志を維持できる者は、多くはないのだ。大半のものは当初持っていた志もプライドもすべて絶望感に取って代わられ、去っていく。

 それは、ある意味正しい選択だったのだろう、そう雪見は思う。一部の選ばれし者、そう、目の前でぎこちなくキーボードをタイプしている上司のような本当の意味での「天才」こそが、これからの科学というものを背負って立つ人材なのだろう。

 

 だが、雪見は負けたくはなかった。

 

 雪見博士、ONEきっての才媛。そうもてはやされても彼女は奢らなかった。だってそうだろう、自分の遥か前方には本物の「天才」がいて、自分には彼の背中すらも見えないのだ、どうして奢ることなどできよう。

 他の科学者たちのように、尻尾を巻いて逃げ出したくなることだって幾度となくあった。この道から足を洗おうと思い詰めたことなど数知れぬ。

 

 だが、雪見は負けたくはなかった。

 そう、誰あろう、自分自身に。彼女は、負けたくはなかったのだ。

 

 そうして気が付けば、雪見は名実共に『プロフェッサー』住井護の片腕と呼ばれる位置に居た。

 

 そして現在のONE技術部50有余名は、皆が皆、雪見と同じ絶望感を味わいながらも雪見と同じことを考え、行動し、そしてONEに残ることを自ら選択した科学者たちなのだ。

 ONE技術部が他組織とは一線を画すほどの精鋭である理由が、ここにあった。

 

「補正プログラムの仕様骨子だけはテキストに纏めておいた、あとはこれをもとにプログラミングしてくれ」

 

 住井の声で、我に返った。少し思考が逸れていたようだ。

 雪見は画面に表示されたエディタに表示された『SHIYOU.txt』という何の捻りも無いテキストデータの内容に目を走らせた。

 

「フィードバックのデータ梱包とシスアウトロジックの挿入はいいとして、ここにある“過去全データの複製とディスクへのデータ退避計画”というのはどういう意図?」

 

 それは奇妙な注文だった。現在でも過去データの別媒体退避は定期的に行われている。基盤となる実測データが主であり、全データのバックアップを行っているわけではなかったが、それでも月の初めには数百ギガバイトからなるバックアップ用DAT数十枚に渡る定期保守が行われているのだ。にも関わらず、実運用が開始されてから数週間というこの中途半端な時期に、実測データだけではなくすべてのデータのバックアップを計画しているという。

 データバックアップの重要性は雪見も十分に認識していたが、あえてこの時期にそれを行う意図を、彼女は掴みかねた。

 そんな彼女に対し、『プロフェッサー』はいつも通りの憮然とした口調で告げる。

 

「現障害の補正データフィードバックをもって、プロジェクト『ラプラス・デーモン』は実地稼動に入る」

「実地稼動…… それって!」

「本日、正式に作戦部より通達があった」

 

 

「Kanon侵攻計画が再開される」

 

 

 遂に、来るべき時が来たのだ。

 『沈黙の』上月澪の負傷により延期されていたKanon侵攻計画が遂に本格的に発動されるのだ。ONE技術部が作成した『ラプラスの魔 機構』を実装して。

 

「そう、遂に始まるのね――

 

 

「Kanonとの全面戦争が」

 

 

 雪見の声は、図らずも、震えていた。

 

 

 

To Be Continued..