異能者 第二部
<第十八章>
−永遠回廊(後編)−
2009/4/8 久慈光樹
人間だった頃に「真琴」と呼ばれていた金色の獣は、間合いを計っていた。
彼女には既に人間としての自我など残っていなかったが、獣の本能が、目の前にいる敵を脅威だと認識する。
対するシュンは無言。全身から漆黒の闇を溢れさせて。
先に仕掛けたのは金色の獣だった。鋭い犬歯の覗く顎(あぎと)をまるで咆哮するかのように開く。だがしかし、そこから漏れ出るのは大気を震わす咆哮ではなく、次元そのものを震わす振動だった。
それは色も音も無く、だがしかしその次元振動は確実にシュンを襲う。
『不可視の力』限定Levle3
『狐の慟哭』(ブリューナク)
空間に拠らず、次元そのものを振動させる多次元振動。
次元そのものの揺れは、空間次元世界では遮るもの全てを粉砕する恐るべき現象となる。対象の硬度や軟性など何の問題ともしない。
金色に変じた真琴が抉った床や壁が瞬時に粉化したカラクリがこの能力だった。
それに指向性を持たせ、まるでケルトの英雄が持つ長槍のように対象に向けて放射する。
もしもそれが人の肉体を貫いたのであれば、肉も骨も血液もなく、すべてが次元振動により粉化するだろう。
だがシュンは避けない。
避ける必要が無い。
ブリューナクは貫いた。
シュンをすり抜け、その背後の壁を。
多次元振動の槍は、シュンの背後の壁をなんの抵抗もみせず抜け、通路の空間を抜け、その先の壁を抜け、その先の空間を抜けて行く。
ぽっかりとまるで冗談のように大きく開いた穴は1mほど。
そこから傾きかけた夕焼けが差し込むが、だがその光もシュンの身体を背後から照らすことなく前方の床に抜ける。光が彼を透過している。彼の身体越しに後ろの風景が見える。
氷上シュンは生きてはいなかった。だが、彼は死んではいなかった。
氷上シュンは其処に存在していなかった。だが、彼は其処に存在している。
『永遠の世界』GIII
『シュレーディンガーの猫』(シュレーディンガーキャット)
だけど僕はまだ、貴女についていくことはできません、先生
その呟きも既に大気を揺らさない。
其処に存在しないものに、声を発することはできない。
いつからそこに在ったのか、20代後半と思われる美しい女性が笑みを浮かべてシュンの横に立っている。その笑みは微笑だったが、見る者の心をどこか掻き毟るような、そんな笑みだった。
漆黒の闇、ヒトを超越した微笑み。
彼女こそ、折原浩平にとっての折原みさお。永遠の守護者、エターナルガーディアン。
彼は潜りすぎたのだ。
実際のところ、彼はぎりぎりのライン上にあった。これ以上潜れば“飲み込まれる”だろう。だがそこまで潜らねば『不可視の力』は無効化できない。
『永遠の世界』がすべての異能力に対するジョーカーなのであれば、その鬼札へのカウンターパワーこそが『不可視の力』なのだ。
かつて慕った先生の笑みをぼんやりと見ながら、意識は更に希薄化する。
希薄化し、いまにも飲まれそうなシュンの意識は、遠けき過去に同化する。
ああ、思えば『シンバ』が、エクスぺリメントタイプ P-013_KOU_fが、『不可視の力』を発現したとの報告はMoon.を揺るがしたものだった。科学者たちは勿論のこと、あの『時の魔女』や『世界の青』すら驚愕を露にしたのをよく覚えている。
彼女たちが驚いているところなんて生まれて初めて目にしたのだ。あいつらにも一応は感情なんてもんがあるんだな、なんて司は悪態をついたものだった。
まあ博士たちをして驚きに捕らわれるのも無理はない、なにせ『シンバ』は“彼女”の■■■■ではなく、オリジナル・ゼロの■■■■なのだから。今までの仮説が正しいのであれば、シンバが顕現すべきは『不可視の力』ではなく『永遠の力』であるはずなのだ。
戯れとまではいかなくとも、結果など期待してはいなかったはずの雌型実験体がこれまでの仮説を覆すほどの成果を残したのだから皮肉なものだ。
シンバの残した成果はこれからの研究に多大な貢献を果たすだろう、だがしかし、それによって今後のロードマップが大きく変わることはありえない。
司、プロトタイプ T-079_KOU『スティッチ』。
佐織、プロトタイプ T-021_MIZ『アリエル』。
そして自分、プロトタイプ T-001_KOU『ピノキオ』、プロトタイプ・ワン。
エターナルプロジェクトは実験体(エクスペリメントタイプ)を経て試作体(プロトタイプ)に至り、遂には制式実装体(プロテクションタイプ)へと達した。
あの制式実装体たち。唾棄すべき偽善者である『時の魔女』水瀬秋子博士から人間名として■■■■という名を与えられた『ビースト』、■■■■という名を与えられた『ベル』、そして■■■■という名を与えられた『オーロラ』。
あの可哀想な子供たちの完成をもって、エターナルプロジェクトは実験段階から実地試験段階へと移行するだろう。
結局のところ、『シンバ』の成果は多大だったとはいえあくまで彼女はイレギュラーだったのだ。
声にならぬ声。
ああ、なんだ
そうか、キミはボクと同じなんだね
プロトタイプ T-001_KOU『ピノキオ』、試験体の最初の一体にして最高性能体。
T-100までナンバリングされた試作体たちは結局のところ彼の性能を凌駕することができず、その中でも比較的性能の良かったT-079を残して全廃棄処分。
結局彼をベースとして制式実装体へと移行することとなったいわくつきのイレギュラー。そんな彼を評してMoon.の科学者が曰く――
Prototype ONE
同じモノであるのであれば
キミを連れて行くことが
ボクの役目なんだろう
連れて行ってあげるよ
永遠の世界に
彼は潜りすぎたのだ。
恐らくはもう――戻れない。
ほとんど存在の無くなった彼の右手が、金色の獣に向けられる。
既に存在を無くしかけている者に、空間的な距離など何の意味があろう。距離にして数mは離れていた両者の距離は零になる。
シュンの、シュンだったモノの右手が、金色の獣の、真琴だったモノの胸をすり抜ける。がああああああっ! という金色の獣の咆哮は、既に大気を震わすことは無く。
虚数は整数を飲み込み、すべてを虚数へと還し――
部屋には、そして誰もいなくなった。
「あ、れ……?」
深山雪見は、Kanon襲撃に際してあらかじめ決められていた通り避難を完了した先の居室で思わず声を挙げた。
「どうした?」
彼女の上司たる『プロフェッサー』住井護が声をかけてくる。一緒に避難していた科学者たちも何事かと彼女に視線を向けていた。
「あ、いえ、何でもありません」
「そうか」
いま何か。
何かがおかしかった。
言葉には言い表せない。
まるで――
まるでそう、なにか自分の中の大切だった物がごっそりと抜け落ちてしまったかのような――
『やれやれ、こんなことを考えるなんてどうかしてるわね』
Kanonに直接本部を襲撃されるという非常時だ、気が高ぶっているだけなのだろう。
こんなとき、自分を守ってくれる素敵な男の人でも近くにいてくれると違うんだろうけどね。
まぁそんな年甲斐も無い空想をしてしまうのも仕方の無いことなのかもしれない。
何せ今まで自分は――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
好意を持った男性など一人もいなかったのだから。