異能者 第二部
<第十八章>
−永遠回廊(前編)−
2009/4/7 久慈光樹
「戦況はどうだ、茜」
「概ね予定通りです、浩平」
戦況を決定付ける切り札、劣勢に立つKanonにとっては死神に他ならぬ漆黒の男は、短く「そうか」とだけ口にして、遠方に視線を向けた。
視線の先には、降りしきる雨の中、未だ収まらぬ土煙。
『水魔』渾身、一撃必殺の広範囲異能力は、敵の第一部隊中心を違わず射抜き、死と、破壊と、絶望を顕現させた。
無秩序に襲い掛かってきた敵第二部隊を痛撃し、相応の被害を強いた今、すぐに攻勢に打って出れば敵右翼を壊滅させることができるだろう。そうなれば数においての劣勢は一気に逆転し、勝利は揺ぎ無いものとなる。
だが、茜は動かない。
まるでそれが、もとより決定していたことであるかのように。
「そろそろ、だと思います……」
彼女の言葉が終わるか終わらぬかという刹那。
グオオオオオオオン!
それは、起きた。
「始まったか」
土煙を圧して沸き起こる漆黒の闇。そしてそれは急速に収束し、その中心に禍々しき獣を顕現させる。
「川名さんの予知はここまでです」
茜は視線を遠方の獣に向けたまま、硬い声で告げる。握り締めた拳が小さく震えるのは、恐怖のためか、それとも別の理由か、意図的に抑えられた声音からは容易に判別できない。
「ここから先は未知の世界です。どうか浩平、お気をつけて」
「ああ」
「浩平が出撃(で)ます! 全部隊、進撃開始! 敵をこちらに引き付けます!」
そう叫ぶ茜の傍らには既に折原浩平の姿はない。
どうか、お気をつけて…… もう一度だけそう呟き、茜は全軍に進軍を命じた。
草木も全て灰燼と化した荒涼たる大地の中心に、漆黒の獣が吼える。
そしてその前に立つのは、漆黒の服装に身を包んだ『永遠の』折原浩平。
「さすがに今回ばかりは自我を保っていられなかったようだな、祐一」
浩平は目の前で猛り狂う獣に向かい、皮肉めいた口調で話しかけた。
彼の言葉通り、永遠の獣へと変じたのは相沢祐一だった。
『水魔』必殺の『青き波紋』の直撃を受けた祐一は、一瞬のうちに塵と化すはずであった。その一瞬、彼は神に祈ったであろうか、だがしかし、彼を救ったのは神ではなくその対極に位置するものだった。
「『美坂家』の秘奥義だけでなく、うちの茜の奥の手まで防ぎきったか、我ながら馬鹿げた生命力だ」
くくっ、と喉の奥から掠れた音を出して笑う。
それは彼の側近たちの前では決して見せない、いやに老人めいた笑いだった。
いや、笑い方だけではない、その視線からして普段とは違う。
殺意ではない、敵意ですらない、その瞳の奥で鈍く光るのは、捕食する対象を前にした蛇のそれ。
「もういいだろう祐一、俺ももう待ちくたびれたよ」
くくっ、と、蛇の笑み。
「もうここまでにしよう、その力――」
「俺が、喰ってやるよ」
漆黒の獣はまるで捕食される子鼠のように、身動き一つとれずにいる。あれほど猛っていた叫びも既にない。
祐一の自意識など残っていない、だが獣は正に獣であるがゆえに、動くことができない。そこにあるのは絶望的なまでの力の差、捕食するものとされるものの構図に過ぎない。
獣に一歩近づき、二歩目を踏み出そうとして、浩平の足はそこで止まった。
まるで待ちわびていた恋人を迎えるように、穏やかな声で浩平は囁く。
「……やはり、来ましたね」
それはありえない光景だった。
それは、線だった。
浩平の1mほど手前の空間に、まるで幼児が画用紙にクレヨンで引いたかのような、まっすぐな緋色の線が引かれたのだ。
まるでなにか悪い冗談のような光景に、だが浩平はまるで驚くこともなく、声のした方向――自らの背後を振り返る。
野生の獣を前にして、それはあまりにも無謀な行為だった。蛇の視線から開放された漆黒の獣は、まるで恐怖を振り払うかのように大きく咆哮すると大地を蹴って、自らに背を向ける浩平に襲いかかる。それは常人であれば目視すらできないほどの速度だった。
だが、獣の突進はそこで止まる。
空間に引かれた一本の緋色き線に阻まれて。
「『緋色き線』(バーミリオンライナー)、その線はたとえ今の貴方であっても越えることはできません、祐一さん」
振り向いた浩平の目の前に立っていたのは、髪を一本の太い三つ編みにした女性。
水瀬秋子だった。
「お久しぶりね、折原浩平」
「ええ、10年ぶりくらいでしょうか」
ONEリーダーである『永遠の』折原浩平と、Kanonリーダーである『静かなる』水瀬秋子は、この戦争に先立つ数ヶ月前に顔を合わせている。初回のONEによるKanon襲撃の際、浩平が密かに彼女の寝所に忍び込み、邂逅を果たしているはずだ。
にも関わらず、秋子は「お久しぶり」と言い、浩平は「10年ぶり」と返した。
それはつまり。
ここにいる秋子は、『静かなる』水瀬秋子ではないということだ。
つと、秋子の視線が浩平を外れ、緋色の線に捕らわれた漆黒の獣に向けられる。
その瞳が、一瞬だけ金色の光を放ったように見えたのは果たして錯覚であったのか。しかしそれによってもたらされた変化は急激だった。
エターナルビーストの姿が徐々に変貌していく。獣のそれから人のそれへ。
数秒後、大地に倒れていたのは間違いなく人の姿をした相沢祐一であった。
それを見届け、秋子は再び浩平に視線を向ける。
「やはり貴方の狙いは祐一さんだったのね」
「さて、どうでしょうか。ひょっとしたら全ては貴女をおびき出す狂言に過ぎないのかもしれませんよ」
対する秋子は無言。
ふっ、と笑って浩平。
「動じないですね、さすがに数百年の時を生きた魔女だけのことはある」
その言葉に、秋子の瞳がすっと細められる。
そんな彼女を見て、浩平は目を閉じてまた少し笑う。
笑いを収めて再び目を開けた時、そこには明確な殺意があった。
「『時の魔女』水瀬秋子、そろそろ茶番は終わりにしようじゃないか、あんたが何のためにKanonなんて組織を作り、祐一とあの子たちを自軍に引き入れたのかは知らん、ああそうだ、そんなことはどうでもいい、俺にとってあんたが何を考えているかなんてことに興味は無いんだ、あんたがまた昔のようにあの研究を進めるつもりだろうと、哀れな子供たちをどう扱おうと、ああそうだとも、俺にはそんなことまったくこれっぽっちも興味が無いんだ、俺はただ――」
まるで何かに取り憑かれたかのようにまくし立てる浩平。
そしてその尋常ではない瞳のままに、彼は血を吐くように言い捨てた。
「俺はただ、瑞佳さえ取り戻せるのなら、それでいいんだ!」
その叫びと同時に、急速に収斂した闇が浩平の右手から放たれる。
永遠の力、全ての異能力の頂点に立ち、全ての異能力の鬼札たるそれを、だが秋子は避けようともしない。
いつからそこに在ったのか、ただ立ち佇む彼女の前方には、またしても緋色の線が。
そしてその線に触れた途端、漆黒の闇は光に溶けるように消えて失せた。
其は『緋色の線』(バーミリオンライナー)
線は全てを遮る絶対の領域。
その線の内に世界は無く、その線の外に世界は無い。
ウチとソトは相容れぬ隔絶されし存在。
次元を超えられぬ限り、渡ること叶わず。
己が放った永遠の世界が隔絶される様を目の当たりにしてもなお、浩平には驚きは無く、焦りも無く、怒りも無く。
まるで先ほどの一瞬の激昂が嘘だったかのように、彼は冷静に呟いた。
「なるほど、さすがは『不可視の力』、やはりいまの俺ではまだ貴女を捉えることはできないというわけか」
『不可視の力』、その言葉に今度こそ秋子の表情が動く。
まるで100年も恨み続けた敵の名を告げられたかのように。
「レベル2での顕現ですら俺には貫けないのであれば、限定的とはいえレベル3で顕現したあの子には、さすがのシュンも手を焼いているでしょうね」
「……! あなたまさか」
「さて、今回俺が自ら足を運んだ本当の目的はなんでしょうか。Kanonを殲滅することか、祐一を喰らうことか、貴女をおびき出すことか、瑞佳を取り戻すことか、それとも――」
「あの娘を、貴女から引き離すことか」