「シュン、ねぇ、シュンってば!」

 

 そんな元気のいい声に、シュンはまどろみの世界から引き戻された。

 

「まーたこんなところでサボってる! いい加減にしないと、また博士にお目玉食らうよ!」

 

 目を開けると、そこにはすらりとした肌色の脚と、その先に見える真っ白な布。

 

「……ぱんつ」

「見んなコラァ!!」

「げぅっ!」

 

 思いきり、踏まれた。

 

「あいたたた……佐織はもう少し慎みとか恥じらいとかを覚えるべきなんじゃないかな?」

「うるさいわね! あんたが脈絡も無くスケベ心を起こしてるからでしょ!」

 

 踏みつけられた額を押さえつつ抗議するシュンに、佐織が思いきり激しい口調で噛み付く。だがその頬は真っ赤であり、そのあたりが佐織の佐織たるゆえんと言えた。

 

「まったく、佐織はかわいいね」

「や、やかましい!」

 

 いらんことを言ってシュンはまた蹴りつけられるのであるが、まあ、いつものことといえた。

 

「まったく、相変わらずだな」

 

 佐織の傍らに佇んでいた少年が、そういって笑う。

 

「おや司、いたのなら助けてくれないか」

 

 司と呼ばれた少年は、その言葉を聞いて愉快そうに笑う。

 

「いやいや、一人だけいい目を見た罰だ、蹴られるくらいは甘受して然るべきろう。……で、何色だった?」

「白だね」

「またかよ、まったく色気も何もあったもんじゃないな」

「いや、それはそれで趣があろうってもんだよ」

「シュンはジジくさいな、その年で渋すぎるだろう趣味が」

「あ、あんたらねぇ……!」

「さて、それより急がないと、博士が呼んでるんだろう?」

「……ああ」

 

 シュンの言葉を聞いて、司の表情が曇る。その反応を見て、シュンは『どの博士だい?』という言葉を飲み込んだ。

 

『やれやれ『青』か、それは急がないとまずいね』

 

 『魔女』や『射手』であればまだしも、『青』はまずい。つい先日も命令違反を犯した“弟”の一人が廃棄処分にされたと聞く。

 あの女は僕たちを人間とは思っていない。僕たちが未だ生かされているのは利用価値があるからで、それが無くなればあの女は眉ひとつ動かすことなく僕らを廃棄するだろう。

 だがそれは研究所の中では当然の認識なのだ、むしろ他の2人のように人間扱いしてくれる方が特殊だといえる。

 

「さて、それじゃあ行こうか」

 

 シュン、司、佐織の3人は研究所への坂を上る。

 小高い丘の上に建てられた研究所。

 そこは零式医療研究所(Medical Organization Of Null.)、通称「Moon.」と呼ばれていた。

 

 シュンたちにとって、そこは家であり、故郷であり、そして監獄であったのだ……


 


 

 


異能者 第二部

<第十七章>

−遠いまなざし−

2008/4/13 久慈光樹


 

 

 

 ぐがあああああぁぁっっ!!!

 

 

 びりびりと玄室を振るわせる獣の咆哮。放たれる目に見えぬ破壊の波。

 神速で飛び退るシュンの背後でコンクリートが砕け散る。穿たれたそれはまるで目に見えぬ粉砕機にかけられたように瞬時に粉化し、飛散する。

 単純な物理力によって砕かれたのならコンクリートは大小の礫を撒き散らすだけだろう。単なる衝撃波では説明がつかない奇怪な攻撃。

 そして何より、避けている。それが例え物理系であろうと精神系であろうとすべての異能力を無効にしてみせたシュレディンガーの猫が、『異名無き』氷上シュンが、その攻撃を避けている。

 高い天井まで届く、まるで毒蜘蛛の糸のように広がる9本の光の尾。その中心に仁王立ち、天も裂けよとばかりに咆哮する金色の獣。この世すべての異能力の鬼札たる『永遠の力』を繰るシュンを、確かに真琴は追い詰めていた。

 

『やっかいな能力だね、相変わらず』

 

 それでも口元には笑みを浮かべたまま、またしても飛び退り異能力をかわす。

 着地際、牽制の意を込めて『永遠』の闇を開放しようとするが、まさに獣じみた反射速度で敵は一気に間合いを詰めてきた。流星のように金色の尾を引いて迫り繰る九尾の獣。

 

「くっ」

 

 振るわれる鉤爪の一撃を身をひねってかわす。

 受けられぬ一撃ではなかった、シュンの右腕は本人の意思に関わらずエターナルビースト化している。筋肉の隆起する青白いその腕ならばどのような苛烈な一撃であっても受けきっただろう。だが。

 

『これを受けるわけにはいかない』

 

 勢い余った真琴の鉤爪が硬いコンクリートの床を抉る。

 いや、抉るという表現は間違いだ、先ほどの咆哮と同様、鉤爪が触れた部分は瞬時に粉化し風に乗り消えていく。

 

「……さすがはシンバ、偽りの人格に封じ込められた数年などブランクのうちにも入らないというわけだね」

 

 大きく飛び退り、攻撃範囲の外に逃れた後にシュンの口から漏れたのは、そんなどこか懐かしさを漂わす独白だった。

 

「こうして君と相対するのは――そう、もう十年近くぶりなんだね」

 

 その口の端に浮かぶのは、普段のようなアルカイックな笑みでは決してなく、どこか自嘲にも似た寂しげな笑み。

 

 対する真琴はシュンの言葉など届いていないかのように、その鋭く伸びた牙を剥き出しにして威嚇の唸り声を挙げる。茶褐色だった髪は輝くほどの金髪に変わり、まるで風を孕んでいるかのように靡いている。瞳孔の消失した瞳もまた金色に輝き、金色の九尾も相まってその姿はまさしく金色の獣。

 覚醒が進んでいる。いや、元に戻ってきているというべきか――

 

 

 

 

 

 

 

 『シンバ』と殺し合いなさい『ピノキオ』、と『世界の青』は言った。

 嫌ならいいのよ、貴方でなくとも別によいのだから、と。

 別に殺し合うのが『スティッチ』でも構わないわ、と。

 いえむしろ『アリエル』でも構わない。その方が面白いデータが取れるかもしれないわね、と。あの女は嫌らしく笑った。

 殺してやろうと思った。その薄気味の悪い微笑を永遠の爪で引き裂いて、この世から消滅させてやりたかった。

 実行に移せば、恐らく一秒も要さずそれは達せられる、自分にはそれだけの力があるのだから。

 だが、それはできない。反逆した実験体の末路を、『ピノキオ』は何度も見てきたから。

 反逆者たるプロトタイプの抹殺に駆り出されるはオリジナル・ゼロ。Moon.が提唱する『エターナルプロジェクト』の根幹たるオリジナル体であり、世界の一たる少年。

 実際に目にしたことは一度も無い、だが彼には解るのだ。プロトタイプ・ワンとして覚醒のもっとも進んだ実験体である自分ですら、彼に敵することなど適うまいと、恐らく一瞬にしてこの世から消滅させられるであろうと。『永遠の力』に覚醒した彼だからこそ、それは確定事項として認識できるのだ。

 いや、自分ひとりであればそれでも構わない。このような腐りきった地獄になど未練はない、ここから開放してくれるのであれば、たとえそれが死という終わりであったとしても、むしろまだ見ぬオリジナル・ゼロに感謝してもいいくらいだ。

 だが、それはできない。そのような選択を採ることなど今の自分には出来なくなってしまった。自分の末路はそのまま『スティッチ』と『アリエル』の末路なのだ、彼や彼女がこの世から消えるなどという未来を、どうして選択できようか。

 ならば、戦おう。お望みの通りに殺し合ってやろう。

 相対するはMoon.唯一の雌型実験体『シンバ』、オリジナル・ゼロを祖に持ちながら盟約者の力に目覚めしイレギュラー。相手にとって不足なし、この世から消滅させてやる、その金色を永遠の闇に染め上げてやる。

 

 

 

 

 

 

 獣の唸りが突如として低い、警戒したそれに変わる。金眼は細められ、直立していたその身体が腰を落とした臨戦態勢へと変じる。

 シュンの気配が変わった。

 漆黒のその瞳は夜の闇よりなお黒く、まるで瘴気のように漆黒の闇が全身より漏れ出でる。

 

 

「司は死んだよ」

 

「そして佐織もまた、僕の前から消えてしまった」

 

「『魔弾の射手』天野美歌博士もまた、この世にはいない」

 

「僕たちは、いったいどれだけのものを喪えばいいんだろうね」

 

「ねえ、シンバ……」

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 時は数刻前に遡る。

 

 

 

 

「状況は!」

 

 ますます激しくなる雷雨の中、『剣聖』の逼迫した鋭い声が飛ぶ。

 寡黙と沈着をもって知る彼女ですら叫ばせるほどに、状況は切迫していた。

 

 ONE異能者狩り部隊を半包囲しようとした刹那、千人隊長『紅』の指揮する左翼第一部隊が蒼き異能力に包まれた。

 それは間違いなく『水魔』必殺の『青き波紋』(ブルーインパルス)、術者昏倒必須の極大異能力。ただでさえ将の数で劣っているにもかかわらず躊躇いなくそれを放った敵の意図など知るべくもないが、あの位置では確実に千人隊長たる祐一は巻き込まれたに違いない。

 今すぐにも安否の確認に駆け出したいという私情を唇の皮膚と共に噛み破り、統率を失ったであろう異能者狩り部隊に攻撃を命じたものの、敵部隊は明らかな統率された動きを見せてこれに対応、逆撃を加えてきた。自らの目論見が外れたことを瞬時に悟り、舞は迅速に全軍に一時撤退を命じたが、混乱する前線に命令は徹底されず、特に撤退の遅れた『死神』の右翼第二部隊が痛烈な打撃を被った。

 前線にない舞には知る由も無かったが、これは第二部隊の千人隊長『死神』が先の第一部隊半壊滅を目の当たりにして激昂したためである。美坂香のクールな外見とは裏腹な情の深さと仲間を想うその性格を、付き合いの浅い舞は見抜けなかった。

 ここにきて、Kanon部隊は急激な組織拡張に伴う指揮官同士の連携不足という弱点を曝け出していた。

 

 

「状況を早く報告!」

 

 再び飛ぶ叱咤。

 傍らに佐祐理がいないのが今更ながらに悔やまれた。軍指令の周りですらこうも指揮伝達が徹底されていない。

 

「ほ、報告します!」

 

 ようやく報告の声が挙がる。

 軍伝令としてつい今しがた本隊に到着したばかりの『熾天使』月宮あゆ自らが、報告の口上を述べる。

 

「美坂さんの第二部隊は、敵の攻撃により約300の損害、隊長の美坂さんは健在! 現在一時退却して部隊を再編成しています!」

 

 一時的に激して遅れをとったとはいえ、さすがは『美坂家』後継者たる『死神』だと舞は内心で賞賛の念を確かにする。致命的な判断ミスをよくカバーした、300の損害であれば僥倖というべきであろう。

 だがそれでも1000のうち3割の兵を失ったのだ、恐らくは百人隊長のうちの何名かは戦死しているはずだ、しばらく『死神』の左翼は部隊の再編に時を費やさねばならないだろう。

 

「右翼は! ゆうい……『紅』の第一部隊は!」

「……祐一くんの第一部隊はほぼ壊滅……隊長の祐一くんは、生死……不明…」

 

 あゆの血を吐くような報告に、舞はぎりと奥歯を砕けるほどに噛み締める。

 どのような策を用いたのかは解らない、だが『水魔』は全軍にて中央突破と見せかけて、それに対応しようとする左翼第一部隊の中枢に忽然と姿を現し、その最大の異能力で第一部隊を壊滅させた。そしてそのまま昏倒することなくまたもや瞬時に自らの軍に舞い戻り、攻勢に出た第二部隊に痛打を加えたのだ。奇策を用いたとはいえそれは理想的な各個撃破戦法だ。

 

『やはり読まれていたということなのか! 部隊編成も! それをどう展開するのかも!』

 

 『ラプラスの魔』は、違えることなくKanon迎撃部隊の心臓を撃ち抜いたのだ。

 

『祐一! 祐一! 祐一!』

 

 心が砕け散りそうだ、自分がいま立っているのか座り込んでしまっているのかすら判らなくなる。

 

 ……恐らく、彼は生きてはいないだろう。

 あれだけの至近距離でまともに食らったのだ、青き波紋は彼の存在それ自体を分子のレベルに還元させてしまっただろう。

 心のどこかで冷静にそう判断する自分を斬り殺したい。

 

『どうして、どうしてこんなことに!』

 

 こんなに苦しいのだったら、心なんて持つのではなかった。あの頃の、『死剣士』のまま、ただ生きるために殺戮を繰り返していた方がまだましだった。こんなに苦しいのだったら!

 

「舞、さん……指示を」

 

 あゆのその言葉に、舞は弾かれたように顔を上げる。

 一瞬で真っ青になったところを見ると、自分は恐らくひどい顔で彼女を睨んでしまったのだろう。ひょっとすると殺気を込めてしまったのかもしれない。

 だが、あゆは後ずさりかける足をその場に留め、長身の舞を見上げるようにして告げた。

 

「指示を出してください、まだ、戦いは……終わっていません」

 

 容赦のない殺戮を是とした『死剣士』の殺気を受けてなお、あゆは、『熾天使』月宮あゆは、青ざめた貌のままそう言い切った。お前が指揮官なのだと、いまお前が崩れれば、Kanon全軍がそれに続くのだと、そう、言い切った。

 あゆの祐一に向けるひたむきな好意は、その手の話に鈍い舞ですら気付いていた。そのあゆがこの状況で堪えているのだ、自分も負けてはいられない。

 

「……すまない、ありがとう、あゆ」

 

 初めて下の名前を呼ばれたことにも驚いたが、ここにきて舞が笑ったことに、さしものあゆも驚いた。

 

「敵の部隊の動きは!」

「は、はい! 敵も一時体制を整えるようです、第二部隊に呼応するよう一時引いています」

「ならば今のうちに、私の本体は第一部隊の救援に向かう! 『熾天使』はその旨を第二部隊に伝令!」

「はい!」

 

 あゆが飛び去った後、舞は誰に言うとでもなく独白する。

 

「……勝とうあゆ、この戦い、絶対に」

 

 

 

 

 このときはまだ、舞も、あゆも、気付いていなかった。

 

 戦場に、更なる絶対的な絶望が訪れたのだということに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戦況はどうだ、茜」

 

「概ね予定通りです、浩平」

 

 

 

 

To Be Continued..