異能者 第二部

<第十四章>

彼女たちの見解−

2005/4/7 久慈光樹


 

 

 

 走りながら、息を切らしながら、栞の心中は揺れる。

 

 『ビーストマスター』沢渡真琴は、Kanonのマスコットキャラ的な存在だった。

 天真爛漫。『熾天使』とはまた違った意味で、真琴は純真で、殺し合いに明け暮れる組織にあって常に皆を癒してくれる存在だった。

 

 そして、「水瀬家」の家族たち。

 

 栞は母親の顔をもうほとんど覚えていない。彼女にとって母親とは漠然としたただ暖かいものというだけの存在であり、幼い頃より彼女を守り慈しんでくれたのは、姉である香里だった。

 そんな栞にとって、水瀬家は一つの理想の形だった。

 限りなく優しい母、向こう見ずな長男、意地っぱりで甘えん坊の末娘、そして母親に似て誰よりも優しく家族思いの長女。

 たとえ血は繋がっていなくとも、彼女らは紛れもなく家族だった。

 

 家族だったのだ。

 

 その、はずなのに。

 

 

『後は任せたよ、シンバ』

 

 

 ぞくりと背筋が震える。

 前を走る名雪の背中。表情が見えないことが、よりいっそう栞の心を冷たくする。

 

「名雪さん」

 

 だからこそ、声をかけてしまったのだ。

 

 振り向いた名雪の、その顔に浮かぶ表情。

 

「急ごう、栞ちゃん。時間が無いよ」

 

 普段どおりの、見る者の心を暖かくさせるような笑み。同性である栞ですら見惚れてしまうような魅力的な笑み。

 それは確かに水瀬名雪その人の普段どおりの笑みであり、だからこそ――

 栞は絶望した。

 

 

 

 誰だろう。

 この人は、いったい誰なんだろう。

 

 

 

 この人は、真琴ちゃんのお姉さんだったはずだ。

 妹のことを思い、慈しみ、どんなときでも真琴ちゃんを愛していた、そんな名雪さんだったはずなのに。

 

 

 どうしてこの人は、この状況で、こんな風に笑えるのか――

 

 

 

「着いたみたいだね」

 

 名雪のその言葉に我に返り、立ち止まる栞。その言葉どおり、前方には片開きの扉。

 

「栞ちゃん、準備はいいかな?」

 

 まるで内心の葛藤を見透かしたような冷ややかなその声音に、栞の背筋を再び冷たいものが走る。今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。

 

 

 だが――

 

「行きましょう」

 

 もう彼女は、逃げないと決めたのだ。

 自らの力で姉の命を救った、あのときから。

 

 姉から、美坂の家から、そしてなにより、自分自身から。

 

 もう私は、逃げない。

 

「行きましょう名雪さん、すべてを終わらせるんです」

 

 まっすぐに瞳を逸らさずそう言い切った栞に、名雪はにこりと微笑む。その笑みは普段どおりの魅力的な名雪の笑みだったが、もう栞はそれを怖いとは思わなかった。

 

「じゃあ、開けるよ」

 

 そしてゆっくりと、最後の扉が開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようこそ、栞ちゃん。そして初めまして、水瀬名雪さん」

 

 扉の先にいたのは2人。

 

「あなたは……」

 

 『心眼』川名みさき、そして『沈黙の』上月澪

 

 

 奇妙なことにみさきの両眼はしっかりと閉じられており、傍らの澪に手を引かれている。それは本当の盲人そのものであるように見える。

 そしてその奥には無数のコンソールとディスプレイ。壁面の半分はガラスに覆われ、その向こうには色とりどりのパイプと無骨な鉄の塊に覆われた台座。その部分にはひと一人がすっぽりと入れるだけのスペースが開いている。

 事前に秋子より説明を受けていた二人には、初めて見るその機械が何であるのかを容易に察することができた。

 

「これが、ラプラスの魔……」

 

 そう、これこそがラプラス。ONEの切り札にして、異能力という異形の力を用いて稼働するオーバーテクノロジーの結晶。未来予知という人類史上誰もなし得なかった奇跡を可能とした悪魔。

 だが……

「稼働していない……?」

 

 名雪の言葉通り、それは今や活動を停止していた。無数のディスプレイには灯が入っておらず、コンソールの前にいたであろう技術者たちの姿も今はない。そして何より、台座の中心パーツが欠けている。

 『心眼』川名みさき。彼女こそがラプラス・デーモン・システムのコアたる生体パーツであったはずだ。その彼女が、いまこうして目の前に笑みを浮かべて立っている。

 ラプラスの悪魔は、今やただの鉄の塊として鎮座しているだけだった。

 

 栞の心を絶望の触手が掠める。

 間に合わなかったのか。ラプラスの魔機構が停止しているということは、その役目が既にして終わったことを意味しているのではないのか。

 姉の、そして祐一の、迎撃部隊としてKanonに残留した仲間たちの顔が脳裏に浮かぶ。

 未来予測をする意味がなくなった。それはすなわち――

 迎撃部隊の、全滅。

 

「そんな、そんな……」

 

 震える膝を支えきれず、その場に腰を落としそうになる。

 間に合わなかったのか。いままでの自分たちの行動はすべて無駄だったのか。命を賭けて自分たちを先に進ませてくれた佐祐理、真琴、その行為自体を自分たちは無にしてしまったのか。

 そして追い討ちをかけるように響く『心眼』の声。

 

「その、まさかだよ」

「……っ!」

「少し遅かったね、Kanonの部隊は里村さんたちが壊滅させたよ」

 

 瞳を閉ざしたままの川名みさきの顔に勝ち誇る笑みはなく、ただ事実のみを告げる冷徹さだけがあった。それがより一層、彼女の言葉に説得力を持たせている。

 

「そ、そんな……私たちは、何のために……」

 

 栞の心を、真っ黒な絶望の闇が覆っていく。

 

「投降しなさい、もう貴女たちに戦う意味はない」

 

 どこまでも冷淡なみさきの声に、今度こそ栞は床に膝を突いてしまう。逃げないと決めたもの、守ろうと決めたもの、そのすべてを無くしてしまったいま、いったい何のために戦うというのか。

 

 もう終わったのだ。自分たちは、Kanonは――負けたのだ。

 

 そうして栞が、身も心もONEの軍門に下りそうになった正にその瞬間。

 

「嘘、だね」

 

 これまで一言も言葉を発しなかった名雪が、そう、言った。

 それは事実を認めたくない表れとしての否定ではなく、隠された真実を告発するかのような、毅然とした声だった。

 

「名雪さん……」

「ふふ、水瀬さん、認めたくない気持ちは解るけれど、ね」

 

 哀れむように微笑を浮かべるみさきにも、だが名雪は動じない。

 

「惑わされないで栞ちゃん、これは時間稼ぎだよ」

「え?」

「よく考えてみて、もし本当に迎撃部隊が壊滅したとしても、ラプラスの魔を止める必要はないんだよ」

 

 止める必要がないとはどういうことか。栞は未だ絶望に支配されかけた心で、名雪の言葉の意味を必死に考える。

 

「私たちが不意打ちされることなく、ここに来れたのはどうしてだったかな? 未来が予測できるのなら、不意打ちで壊滅させられていたはずなのに」

「それは……」

 

 それは、ラプラスの魔を戦場である迎撃部隊の元に向けていたからからではないかと推測したことを栞は思い出す。

 ラプラスの魔機構とは、恐らくごく近しい未来の情報のみを取得することができるシステムなのだろう。つまり自分たち逆撃部隊が潜入する前から、そのルートを特定することはできなかったということだ。だからこそONEは『狂戦士』や『異名なき』を待ち伏せとして配置させることにより、自分たちを足止めしようとしたのだ。しかも未来観測ができるのは一箇所のみで、同時に複数の未来情報を取得することはできない。

 つまり、自分たち逆撃部隊の行動と進行度合いは、ONEには知られていなかったのだ。

 

「そうか!」

 

 もしもみさきの言う通り迎撃部隊が全滅していたのであれば、次にONEは本部に侵入している逆撃部隊の動向を未来観測しようとするだろう。侵入者が全員死亡するか脱出するかを確信しないかぎり、間違ってもラプラスの魔機構を止めるはずがないのだ。

 もう栞は膝を突いてはいなかった。まだ望みはある。

 

「でも実際にはラプラスは停止している。水瀬さん、これはどう説明するのかしら」

 

 みさきは相変わらず瞳を閉じたまま、微笑を浮かべる。その様子からは微塵も動揺は感じられず、自信に満ち溢れているように見える。傍らに控えた澪は表情を消し、そこから何も読み取ることはできなかった。

 そう、それが解らない。逆撃部隊の自分たちが生き残っている現在、ラプラスの魔を停止する意味がないのだが、だからといってそれが迎撃部隊がまだ全滅していない理由にはならない。混乱する栞。

 だが名雪もまったく動じない。みさきと同じように口元には確信に満ちた笑みさえ浮かべている。

 

「川名さんは、どうして先ほどから眼を閉じているんですか?」

 

 どこか揶揄するような名雪のその言葉に、みさきが一瞬で無表情になる。

 

「それになんだか顔色が悪いみたいですね、とても辛そう」

 

 そこで一旦言葉を切り、名雪も同じように微笑を浮かべていた表情を一瞬にして消した。

 

「ラプラスの魔は停止させたのではなく、停止せざるをえなかった」

 

 みさきは答えない。そして名雪も何も言葉を発しない。二人は無表情のまま、ただじっと睨み合うように対峙する。

 

「そうか……」

 

 やっと栞にも、名雪が何を言っているのか飲み込めた。

 

 『ラプラスの魔は停止させたのではなく、停止せざるをえなかった』

 

 それはなぜか、その答えは、同じように名雪の言葉にあったのだ。

 

 『なんだか顔色が悪いみたいですね、とても辛そう』

 

 それは、みさきが消耗していることを示している。

 ラプラスデーモンシステム。未来を予測するという前代未聞の見返りの代償は、生体コアである川名みさきの急激な消耗。ラプラスの魔は、生贄を欲するということなのだろう。

 

「これは推測でしかないけれど、ラプラスの魔機構とは、大規模なブースターのようなものだと思う」

 

 『心眼』川名みさきの持つ未来視の能力を、極限まで増幅し、近未来を予測する物なのではないかと、名雪は続ける。

 異能力の増幅と一言でいっても、本来謎に包まれた異能力という力を増幅させるなど科学的にあまりにも高度な技術であり、ONE以外に成しえる技術ではない。だが――

「それは決して無から有を創る技術じゃない。増幅するべき異能力があってこそ、機能する」

 

 であるのなら、異能力の源としてシステムに組み込まれた生体コアには、想像を絶する負荷がかかることになる。

 

「恐らく祐一たちは、Kanon迎撃部隊は、当初の予想以上に奮闘した。そして想定以上に稼働時間が長くなってしまったラプラスに、コアが耐えられなかった。だから一度停止して、コアの――川名さんの回復を待たねばならなかった。違いますか?」

 

 つまり、『ラプラスの魔は停止させたのではなく、停止せざるをえなかった』のだ。

 名雪の指摘に、だがみさきは答えない。両目を閉ざしたまま、表情を消したまま、ただじっと沈黙するのみ。

 

 

 どのくらいそうしていただろう、不意に、沈黙していた『心眼』が含み笑いをした。

 

「さすがは『眠り姫』、なかなか見事な洞察だったよ」

 

 そして、ずっと閉じていた両眼を開いた。

 

「……!」

 

 その瞳を見て、栞だけでなく、名雪も息を飲む。傍らに立つ澪は、辛そうに顔を伏せた。

 

「ご明察、だよ」

 

 両眼から零れ出た真紅の液体が頬を伝う。

 

『心眼』川名みさきの両眼は、血に染まっていた。

 

 過剰な異能力発動のフィードバックだろうか、『真なる瞳』(マナ・アイ)を顕現した時の赤眼とは根本的に違う、血の色をした瞳。毛細血管の破裂か、それとも他の理由か、みさきの瞳からはとめどなく血が溢れ、まるで血の涙を流しているかのようだった。

 

「なるほど、確かに私はラプラスの魔に長時間は耐えられない。水瀬さんの言ったとおりだよ。だけどね……」

 

 血の涙で頬を染めながらも、みさきの顔には再び微笑が浮かんでいた。

 だがその微笑は先ほどまでの自愛に満ちたそれとは違う。

 

 肉食獣の、笑みだった。

 

「だけどそれでも、Kanonを壊滅させるには十分すぎる時間だったよ」

 

 ぎり、と名雪が奥歯を噛みしめる。

 

 そう、名雪の指摘は恐らく真実。だがそれがKanon壊滅を完全に否定する材料にはなりえない。いまこの瞬間、Kanonがどうなっているのかを知る術は、名雪たちには無い。

 

「諦めなさい、もう貴女たちに、帰るべき家は無い」

 

 死刑宣告にも似た断言。

 だが名雪は認めない。認めるわけにはいかない。

 

「わたしは祐一を、舞さんを、香里を信じる。Kanonは未だ敗れてはいない」

 

 断言。

 

「名雪さん!」

 

 私は何を迷っていたんだろう。

 名雪の決意に満ちた瞳を見て、栞は自分が恥ずかしくなる。

 そうだ、わたしたちを信じて、彼らは、彼女らは、未だ戦い続けているはずなのだ。

 ならば、自分たちはそれに応えるのみ。

 

「名雪さん!」

 

 もう一度、自分を叱咤するかのように、叫んだ。

 栞と名雪の高まる異能力に呼応するように、対峙する『心眼』と『沈黙の』二人も異能力が高まっていく。

 もう栞は迷わない。

 『心眼』川名みさきと名雪さんの心理戦はほぼ互角。

 ならば戦闘で雌雄を決するのみ。

 

 

 脳裏に浮かぶのは、美坂の街でのみさきとの邂逅の記憶。

 『死にたいのならば、自分一人だけで死ねばいい』

 あの時はなにも言い返せなかった。自分自身がそう感じてしまっていたから。

 だけど、今は――

 

 

 覚悟を決めた栞にひとつ頷き、名雪は宣言するかのように叫んだ。

 

 戦いの、合図を。

 

 

 

 

「いくよ栞ちゃん、この戦いを、終わらせるんだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 『眠り姫』水瀬名雪。

 

 

 その――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の、戦いだった。

 

 

 

 

 

To Be Continued..