自分が覚えている一番古い記憶。
それは試験管だった。
異能者 第二部
<第十三章>
−the fox and the grapes−
2004/9/1 久慈光樹
真新しい木の試験管立てに並んだ、色とりどりの液体を入れた試験管。その中で彼女の一番のお気に入りは、鮮やかな空色の液体を満たした試験管だった。
空色、という概念は当時持ちえなかったように思う。なぜなら彼女は「空」というものを見たことが無かったから。
目に映るのはゆらゆらと自分を包む不快な水の揺らぎと、ときどきごぼりと耳障りな音を立てる気泡のみ。その向こうに見える光景もただ薄暗く、意識を持ち始めたばかりの彼女を楽しませてくれるのはただその綺麗な色をした試験管ばかりだった。
彼女には、弟たちが居た。
彼らは自分と同じように液体を満たしたガラスケースの中で身体を丸めていた。右に、左に、見える範囲でも10人を超える弟たちが、ぷかぷかとガラスケースの中に浮かんでいる。自分の姿を見たことはなかったが、恐らく自分も同じ状態なのだろうということはわかった。
彼らは総じてまだ幼子で、自分のように意識を覚醒させている者は居ないようだった。
『早く目を覚まさないかな』
彼女は思った。
ひとりはつまらない。「言葉」という物をまだ当時の彼女は持っていなかったから、話をしたいという意識は無かった。だが彼らは自分の大事な弟たちだ。彼らに見せてやりたかった、あの綺麗な空色を満たした、試験管を。
空色、空の色。
未だ見たことのない、自由な空の色。
今にして思えば、自分はあの空色に自由を重ねていたのかもしれない。
決して望みえぬ、自由を。
視界が漆黒に塗りつぶされた瞬間、栞は思わず瞳を閉じていた。やがて確実に訪れるであろう死の抱擁に身を委ねるしかなかった。
いや、なかったはずだった。
「こ、これは……」
それは果たして誰の呟きだったか。
シュンの放ち、今まさに三人を包み込もうとしていた漆黒の球体を、金色の光が受け止め、徐々に切り裂いていく。
触れるものすべてを消滅させるはずの『永遠』が、その光を貫くこともできずに切り裂かれていく。
眩い金色の光。
それは、栞と名雪を庇うように立ちはだかった真琴の身体から放出されていた。
「ま、真琴?」
「ぐるるるる……」
放心したように呼びかける姉の声に応えるかのように、獣のような唸り声を上げる真琴。
濃く煎れた紅茶色だった長い髪は金色に染まり、体を包む光にも負けぬほどの金髪に変わっている。背を向けている栞たちには見えないが、その瞳に瞳孔はなく、瞳全体が金色の光を放っている。獣そのものの唸り声、鋭く変形した手足の爪と長く伸びた犬歯。
かつての『水魔』との戦いの際に顕現した、沢渡真琴第二の異能力。
『金色の獣』(ゴールデンビースト)
だが……
「光が、収束する――」
栞の言葉通り、『永遠』の闇を完全に切り裂き霧散させた金色の光が、徐々に真琴の背後に収束していく。
ゆらゆらとまるで陽炎のように立ち昇る金色の光。やがてそれは真琴の背中、腰よりもやや下から伸びる9本の光の帯となる。
獣じみた真琴の様相とあいまって、あたかもそれは9本の金色の尾を生やしたかのようであった。
突然の真琴の変貌に言葉もない栞。
だが事態の推移に対して驚いているのは、ある意味、彼女一人だった。
「そ、そんな…… あれは、あの金色の光はまさか……」
熱に浮かされるように、うわ言のようにそう呟くのは名雪。見開かれた瞳に異形と化した妹を収め、青白く血の通わぬ唇を戦慄かせて彼女は呟きつづける。
「そんな…だってあれは……」
その異常な様子に、栞がすぐに声を掛ける。
「名雪さん、どうしたんですか名雪さん!」
「金色、の…金色の翼が……すべてを……」
名雪は頭を抱えて目を見開いたまま、ぶつぶつと精神疾患に陥った者のように呟き続ける。
その視線は既に焦点を失っており、真琴を見ていながらその姿を捉えてはいない。
なにか――
そう、なにか遠くを彼女は見ていた。遠い、過去を。
そして氷上シュンは、もう笑ってはいなかった。
「そうか、君が相沢祐一の盟約者…… そうか、そういうことだったのか」
常に彼の口元に張り付いてたアルカイックスマイルは今はなく、冷たく氷のような瞳で呟く。
「プロダクションタイプPr-002『ベル』、君がそうだったとは」
ほんの半瞬、シュンの瞳に悲しげな色が過ぎる。だがそれはすぐに消え、生きとし生けるものすべてを凍りつかせるような、極寒の視線が貫く。
「君を浩平くんの下へ行かせるわけにはいかない」
そしてシュンの身体がまるで蜃気楼のようにゆらりと揺らぐ。
『永遠の世界G-III』(エターナルワールド・ゲードライ)
『シュレーディンガーの猫』(シュレーディンガーキャット)
「容赦はしない。忌まわしき8年前の過去を、僕がこの手で断ち切ってやる」
8年前。
その単語に、俯いていた名雪の顔が弾かれたように上がる。
「司も、佐織も、もういない。だから僕が過去に決着をつけるしかないんだ」
「まさか、あの人は――」
「え? な、なにか言いましたか名雪さん」
「――プロトタイプ・ワン」
真琴の変貌、そしてそんな彼女を知っている素振りの謎の男。唯一無二であったはずの『永遠の力』を繰る3人目。そしてそんな彼を知っている素振りの名雪。
一人事態についていけず混乱する栞を、更に混乱させる言葉が、男から放たれた。
「君たちは先に進むといい」
氷のような視線は金色の獣に向けたままで、シュンはそう声をかける。
「なっ……!」
「ここにいると巻き込まれる、先に進むんだ」
「……私たちを行かせていいんですか?」
警戒したような栞の言葉に、ふっと口元を歪ませるシュン。それはまるで自虐の笑みのようだった。
「君たちも、そして僕も、浩平くんの掌の上で踊らされていたのさ」
「え?」
「今回のこの戦争も、ラプラスの魔機構も、すべては彼女をここにおびき寄せるための小道具に過ぎなかったらしい」
「なっ……!」
「……!」
幾度目かの絶句をする栞。そして名雪。
この戦いはすべて仕組まれたものだと、そうシュンは言う。容易には信じられぬその内容、だが敵であるはずの男からの言葉など、信用できるのか。
「信用する必要はないよ、君たち2人はこのまま労せずして先に進める。それでいいだろう」
「もっとも……」と口元だけで薄く笑うシュン。
「このままここにいて、巻き込まれるのは勝手だけどね」
まるでその言葉が合図だったかのように、真琴が動いた。
獣そのものの雄叫びをあげると、金色に揺れる九尾がまるで生ある物のように放射線状に広がった。同時にシュンの両掌には漆黒が急速に収束する。
彼の言葉どおり、このままこの部屋に留まるのは自殺行為であるように思われた。
「名雪さん、ここはひとまず先に進みませんか?」
名雪にしてみれば、妹の真琴を残していくことには同意しないかもしれない。だがこの場はどうしようもないし、なにより時間が無い。真琴を信じて先に進むべきだ。恐らくリーダーとしての名雪であれば最終的にそう判断するに違いない。
そう思い名雪を振り返った栞は、彼女の様子の異様さに初めて気付いた。
険しい表情。視線は鋭く、シュンを捉えている。
そこには先ほどまでの自失はなく、彼女はシュンを睨みつけていた。
それは栞が初めて見る、水瀬名雪の憎しみの表情だった。
「『ベル』、祐一の盟約者…… そう、そういうことだったの」
「名雪…さん?」
自分を凝視する栞に初めて気付いたのか、名雪は表情を消した。
そして栞に向けて、微笑む。
「行こう、栞ちゃん。ここは真琴に任せて」
「……!」
この人はいったい、誰だろう。
この目の前で、人形のような笑みを張り付かせて、氷のような目を真琴ちゃんに向けるこの人は、いったい誰なんだろうか?
「さあ行くよ、栞ちゃん」
この――
名雪さんの顔で、名雪さんの声で
冷たく哄うヒトは、いったい誰なんだろうか?
「じゃあね、あとは任せたよ……『シンバ』」
その言葉を最後に、名雪と、そして戸惑いながらも栞は部屋を出て行った。
「『シンバ』だって……?」
去り際に投げかけられたその声に、少しの間自失していたようだ。
シュンは自らのその呟きで、我に返った。
「『シンバ』、エクスぺリメントタイプP-013f。そうか、君はあの唯一の雌型実験作……まさか生き残っていたなんて」
眼前で金色の尾を展開する獣を、哀れみと奇妙な懐かしみを込めて見やるシュン。だが彼はすぐに、重大なことに気付いたかのように目を見開く。
「なぜだ。あの娘、『眠り姫』水瀬名雪。なぜ彼女がこの子のことを……はっ!」
何かに思い当たったように言葉を切り、そしてシュンはギリと奥歯を噛みしめる。
「そうか、あの娘は……」
「グガアアアアッ!」
血も凍るような凄惨な雄叫びをあげる獣。シュンはすぐに意識を引き戻し、永遠の力を解放する。
放たれる漆黒の闇。それはすべてを無に帰す最強にして最凶の力。
対する獣は、金色の九尾をまるで蜘蛛の巣のように展開させる。
異名を無くした漆黒の男と、九尾の魔獣の戦いが、始まった。
初めて見た空は、あの試験管のような綺麗な空色をしてはいなかった。
赤く。
どこまでも赤く。
夕焼けに染まった空は、いましがた自分が浴びた粘つく液体のように、真っ赤だった。
風に乗って生臭い匂いが彼女を包み、そして彼女はとても不快になる。
どうして。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
一人はつまらなかった。
だから彼女はただ、弟たちが起きて自分を見てくれることだけを欲していたのに。
目を開けて、こちらを見てくれることだけを、望んでいたはずなのに。
どうしてわたしは――
彼らを殺してしまったのだろうか。
遠くで耳障りな警報と、自分以外のニンゲンが集まってくる気配を感じながらも、彼女はその場を動かずに。
ただ、窓から赤く染まった空を、見上げていた。
いつまでも。
いつまでも。
この「事故」により失敗作として廃棄処分されるはずだった彼女が、『シンバ』のコードネームを与えられ、『魔弾の射手』天野美歌博士のラボに引き取られたのはそれから10日後のことだった。