異能者 第二部
<第十二章>
−シュレーディンガーの猫−
2004/7/21 久慈光樹
少女たちは走る。
『狂戦士』七瀬留美の部屋に佐祐理を残し、彼女たちは『ラプラスの魔 機構』破壊のためにONE本部の中枢部を目指していた。
「十字路! 北川、次はどっちいけばいいのよぅ!」
「そのまま真っ直ぐだ真琴ちゃん! 後は分岐はないはず、このまま道なりに進めば中枢部だ!」
先頭を走る沢渡真琴に指示を出す北川。だがそんな彼の足取りは重い、なにか右足をかばうような素振りを見せている。
「北川君、足をどうかしたの?」
立ち止まり、そう声をかけるリーダーの名雪。
先ほどの部屋を出てからずっと、北川は一番遅れて走っていたのだ。
「済まん、さっきのでどうも足を挫いたらしい」
先ほどの『狂戦士』との戦いの折、吹き飛ばされた名雪をかばって壁に叩きつけられた北川、その際に右足を挫いたのだろう。口惜しそうに顔を歪める様を見るに、だいぶ酷そうだ。
「ここから先は一本道だ。済まない水瀬、俺も後から必ず行くから先行していてくれないか」
「行こうお姉ちゃん! 時間がないよ!」
切迫する真琴の声、彼女もこの作戦の本質は充分に理解しているのだろう。彼女らがシステムを破壊するのが遅れれば遅れるだけ、祐一たちの生存確率は低くなるのだ。
神ならぬ身の悲しさか。いま正にこの瞬間、祐一の率いるKanon第一部隊が『水魔』によって半壊滅状態に追い込まれていることなど、真琴たちは知る由もない。
「俺に構わず行ってくれ」
苦しげな北川の声。
確かに、この先に迷うような分岐がないのであれば案内役である彼の役目はここまでだ。この先どのような危険が待ち受けているかわからない以上、この先は非戦闘員である彼を連れて行くのは得策ではない。
リーダーである名雪はそう結論付けた。
「わかった、北川君はなんとか脱出して」
「ああ、それとこの先50mほど行ったところに広間のような場所がある、恐らくはそこで……」
2度目の足止めがある。
彼の忠告に一つ頷き、名雪と真琴と栞は、再び走り出した。
彼女らが角を曲がり姿を消したことを確認して、『トリックスター』は立ち上がった。その挙動は滑らかで、右足をかばう様子もない。
そして、その顔には。
まるで能面のように、なんの表情も浮かんではいなかった。
「お姉ちゃん! 広間があるよ!」
先頭を走る真琴の言葉通り、通路の先にエントランスのような空間が見える。
そしてそこに、一人の男が立っていた。
「残念だけれど、ここを通すわけにはいかないよ」
男は、何ら気負うことなく自然体でただそこに立っていた。その声も自然で、まるで親しい友人に語りかけるかのように柔らかい。
自然な立ち姿。だが全身から発っせられる凄まじいプレッシャーは、紛れもなく一騎当千の異能者のそれだった。
「あなたが次の刺客というわけだね」
エントランスに飛び込んだ三人。名雪が相手を挑発するかのようにそう言葉をかける。
だが男は、口元に冷笑にも似た笑みを浮かべて立ち尽くすだけだった。
『折原浩平……?』
いや違う。美坂栞は脳裏に浮かんだその考えをすぐに否定する。
眼前に立つ男は、初めてみる顔だ。『美坂家』をめぐる戦いで実際に矛先を交えたあの『永遠』とは明らかに別人だ。目の前に立つ男はどちらかというと線が細く、あのふざけた外見とは裏腹に内面に鋼の意思を持つ折原浩平とは雰囲気からしてまったく違う。
にも関わらず、どうして男の姿を一目見た瞬間、『永遠の』折原浩平が思い浮かんだのか。
「ゆう…いち……?」
『えっ?』
傍らの真琴の呟きに、栞は思わず彼女の顔を見る。一瞬だけ忘我したような表情を浮かべ、真琴はだがすぐに我に返ったかのように敵意を剥き出しにする。
無論、眼前の男は祐一ではない。それどころかまったく似ても似つかない。
『なのに、祐一さんと見間違えた……?』
栞が折原浩平かと錯覚し、真琴が相沢祐一と見間違えた男が、ゆっくりと口を開く。
「自己紹介をしておこうか、僕は氷上シュン」
聞いたことのない名だった。
『異名なき』氷上シュンの名は、表舞台には決して表れることはない。ONEのメンバーでさえも彼を知っているのはごく一部に限られるほどだ。
相も変らぬアルカイックスマイル。だが普段の彼を知らない名雪たちには、その笑みが肉食獣のそれに見えたかもしれない。
それほどまでに、彼の発する異能力は強烈だったのだ。こうして相対しているだけで鳥肌が立つような圧力。この戦乱の世にあって、どうしてこれほどまでの異能者が表舞台に出てこなかったのか。
「別に浩平くんに借りがあるわけじゃないし、ONEなんて僕には関係ないんだけど……」
淡々とした言葉。
だがその身体からは、徐々に禍々しい漆黒の闇が漏れ出す。
「『永遠の力』……」
栞の眼前で姉の右胸を貫いたあの漆黒の槍がフラッシュバックする。
この感覚。間違いない、あれは折原浩平が、そして相沢祐一が用いた『永遠の力』。
「ちょっとした知り合いが、己が夢を託しているモノが、この先にあるんだ」
男が無造作に右手を上げる。紫煙のようにその腕に渦巻く漆黒。
「さ、散開して!」
「彼女の想いのためだ、可哀想だけれど――」
そして音もなくその右手より放たれる『永遠の力』
「キミたち、ここで死んでよ」
音も無く飛来した漆黒の球体が、散開した名雪たちが立っていた場所を抉る。まるで豆腐かなにかのように穿たれるコンクリートの壁。
それは紛れもない、『永遠の力』。
「何者なのこの人は!」
名雪の叫びも無理もない。現時点では間違いなく世界最強の異能力である『永遠の力』、それを行使できるのは、ONEリーダーである『永遠の』折原浩平ただ一人ではなかったのか。
「ぴろ!」
このあたりの転機は流石と言うべきだろう。回避の後、すかさず攻勢に転ずる真琴。白銀に輝く聖獣が身も竦むような雄叫びをあげて氷上シュンと名乗る男に襲い掛かる。
虚を突かれたのか、まったく回避の動きを見せない氷上。
「とった!」
だが真琴のその勝利を確信した叫びは、すぐに驚愕の叫びに変わる。
「えっ……!」
男を捕らえ引き裂くはずのぴろの鉤爪が、シュンの身体をすり抜けたのだ。まるで幻か何かのように。
それでもぴろは驚愕することもなく、振りぬいた右前足を大地につきそのままの勢いで体当たりを食らわせた。異能力で創り出された生無きモノとはいえ、その質量は軽く100kgを超える。まともに食らえば生身の人間などひとたまりもないだろう。
だが、またしても、その巨体は男の身体をすり抜けてしまう。
「今度はこちらの番だね」
氷上は口元に涼しげな笑みを浮かべ、自らの身体に半ば重なるようにして体勢を崩している聖獣に向けて右腕を振り下ろした。大型のライオンほどもある聖獣をあろうことか素手で殴りつけたのだ。
普通であれば屈強な男が全力で殴りつけても小揺るぎもしないであろうその巨体が、その一撃で吹き飛び、壁に叩きつけられる。
「ぴろ!」
「な、なに…あれ……」
忘我したような名雪の声。視線を辿った真琴も、そこにあるものを見て息を飲む。
氷上シュン、その右腕の肘から先が、異形に変じていた。
筋肉の繊維が浮き出し青黒く変色した右腕、聖獣もかくやと思わせるほどの鉤爪。まるで御伽噺に出てくる鬼の腕のように変じたそれを見て、栞の顔色が変わる。
「『永遠の獣』(エターナルビースト)……」
「へえ、知っていたんだ。そうか、君が『命喰い』美坂栞、浩平くんと祐一くんの戦いを見ていたんだったね」
「な、なぜそのことを」
「ふふ、僕は――」
「どいて! 栞ちゃん!」
シュンの注意が逸れた隙をつき、名雪が異能力を発動させる。
「眠れっ!」
最大出力で叩きつけられる『眠り姫』必殺の『醒めない眠り』(ウィッシュレススリープ)
だが渾身のそれも同じようにシュンをすり抜けてしまう。
「そ、そんな……」
手ごたえがまったく感じられない。
まるで幻、よくできたホログラフィを相手にしているよう。だが男は確かに素手で聖獣を殴り飛ばしたのだ、実体であるのは間違いないはずなのに。
「無駄だよ、僕はここに居るけどここには居ないんだ」
謎の言葉を発し、距離を取る栞と名雪を追撃する気配もない。異形に変じた腕はいつのまにか元通りになり、氷上シュンは更に言葉を続けた。
「君たちは、『シュレーディンガーの猫』というものを知っているかい?」
正確には、量子論におけるシュレーディンガーの猫実験なんだけれどね、と、シュンはまるで友人に語りかけるかのように朗らかにそう言った。先ほどまで殺し合いをしていたというのに。
当然ながら返事をしない3人に、ややがっかりしたような表情を浮かべてシュンは言葉を続けた。
「中身が見えない箱に一匹の猫を入れる、そしてそこに放射性物質であるラジウム、放射線を検出するガイガーカウンター、検知器とつながった青酸カリ入りのビンも一緒に入れるんだ」
隙を突いて攻勢に出ようにも、なぜか攻撃はすべて彼の身体をすり抜けてしまう、名雪たちは黙って隙を窺うより他に術はなかった。
「青酸カリのビンにはしっかり蓋がされているのだけれど、ラジウムがアルファ崩壊――まあ早い話が放射能が出てしまうことだね。そうすると放射能を検出してガイガーカウンターが作動し、青酸カリのビンの蓋が開いてしまうという仕掛け」
あくまでシュンは楽しそうだ。殺し合いの雰囲気の中、彼の態度はそれだけで酷く異常だった。
「要するに、ラジウムから放射能が出なければ猫は助かり、出てしまったら猫は死んでしまうということだね」
恐らく無意識だろうが、その言葉に名雪の眉が顰められる。彼女が猫好きだからというわけではなく、突然このような話を始めた氷上シュンの意図が掴めないのだ。
「では1時間後、この箱に入った猫はどうなっていると思う?」
「知りません! そんなこと!」
堪りかねたのか、栞が叫ぶ。対するシュンは、まぁまぁなどと言いながら話を続ける。
「仮にガイガーカウンターが作動する確立を50%とすると、この憐れな猫が生き残る確立も50%ということになるね普通は。1時間後に蓋を開けた時点では、猫は生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。その確立は50%ということになるというわけだ」
氷上シュン、彼を知るごく少数の者がいまの彼を見たら、きっと驚愕するだろう。それほどまでに彼は饒舌だった。
「ところが量子論の立場では、そうは考えないんだ。箱を開けて観察する前、猫は生の状態50%と死の状態50%が合わさった状態、つまり「生と死の両方を兼ね備えた状態」であると考える」
「生と死の両方を兼ね備えた存在……?」
それに反応したのはまたしても栞。生と死を司る『美坂家』直系の彼女だからこそ、それがいかにありえない状況であるのかが理解できたのかもしれない。
「そう、生と死という相反する2つの状態が同時に発生することになる。生きているが死んでいる。生きてはいないが死んでもいない。そして――ここにはいるが、どこにもいない。それが、僕の『永遠』の在り方」
驚く名雪たちに、シュンは更に言葉の爆弾を無造作に投げる。
「水瀬秋子博士流に言うのなら――」
『永遠の世界 G−III』(エターナルワールド・ゲードライ)
『シュレーディンガーの猫』(シュレーディンガーキャット)
「G−III!?」
「……」
三者三様。
恐らくは事前に聞かされていたのだろう。G−IIIに反応したのは栞だった。
『永遠の力』はその形態によってグレードで表される。G−Iの『永遠の獣』、G−IIの『無限の孤影』共に相沢祐一、折原浩平によって確認されている。だがG−IIIとは。
この氷上シュンと名乗る正体不明の男は、あの『永遠の』折原浩平よりも高いグレードで『永遠の力』を行使する存在ということなのか。
斯様に驚くべきシュンの告白。
だが奇妙なのは。
水瀬博士という単語に、名雪も真琴も何の反応も示さないことだった。
Kanonリーダーであり、自分の母である水瀬秋子。彼女の名前がこの男の口から出ること自体が意外。そしてなにより「博士」とはどういうことか? 『静かなる』水瀬秋子の過去を、どうしてこの男が知っているのか。
実子である名雪は、見る者の背筋を凍らせるほどの無表情になって、シュンを見つめる。意図的に表情を消しているのか、それとも咄嗟に地が出たのか。その両目は何の表情も映してはおらず、まるで闇の深淵のようだ。
そして真琴もまた、反応を示さない。
真琴は先ほどから様子がおかしかった。どこか心ここにあらずといった体で放心している。名雪も栞もシュンに注意が行っているために気付いてはいなかったが、普段の溌剌とした彼女からしてみれば明らかにその様子はおかしい。
焦点を失ったかのようにさ迷う空ろな瞳、半開きにされた口。まるで知的障害者のようなその様子はだが、秋子や祐一が見たら血の気を引かせたかもしれない。
そう、それは。
数ヶ月前、金色の獣に変じた後に彼女が陥った後遺症そのもの。
ドクン、と。彼女の心臓が大きく波打つ。
眼前の、漆黒の闇を纏う男を前にして、彼女の心臓は次第に早く、まるで早鐘を鳴り響かせるがごとく、ドクン、ドクンと。
その空ろな瞳が、次第に金色に発色し始めるのを、だがまだ誰も気付くことはない。
「僕はここにいるけれど、ここにはいない。そして、生きてはいるけど、死んでいる」
シュンが呟くようにそう口にすると、その身体から霞のように漆黒の闇が漏れ出す。先ほどよりも更に多く。
同時に、彼の背後の空間にバスケットボール大の黒球が無数に現れる。それらが一斉に放たれれば、避けることもできずに名雪たちはこの世から消滅するだろう。それほどまでの数。
『まずい……』
名雪の背中を、冷たい汗が伝う。
氷上シュンと名乗る男には、一辺の慈悲も、そして油断も慢心もない。彼女たちが付け入る隙はなく、反撃をしようにもこちらの攻撃はすべて通じない。
先ほどの『狂戦士』との戦いも苦戦だった、佐祐理があの場を引き受けてくれなければ全滅していてもおかしくなかったほどの。だが今回の敵、氷上シュンはそれ以上だ。
『永遠の力』は、経験の多寡や異能力の強弱に影響されるような要素ではないのだ。それは言わば、ジョーカーだ。繰り出された瞬間にどのようなカードも無効化され無力化される最強のカード、それが『永遠の力』。一対三であろうと名雪たちに勝ちえる手札は無く、このままではただ殲滅されるのを待つだけだ。
『どうすれば……』
このままでは間違いなく殺される。まるで屠殺される家畜のように無慈悲に、無価値に、殺される。
フラッシュバック。
無価値な死。人間の尊厳も人格も無視された、理不尽な死。
肩から袈裟に両断され内臓を床にぶちまけて、まるでボロクズのように床に転がる男。
怯える幼いわたし。
怒号とサイレン、赤色灯の禍々しい輝き。
わたしじゃ
ないよ
「これで、さようならだ」
そうして、ホールは黒い闇に包まれた。