「おねーちゃん、おねーちゃん!」
「わっ! びっくりした。いきなり抱きつかないでよぉ」
「えへへへ」
「どうしたのー、しおり」
「えへへへ、おねーちゃん、おねーちゃん」
「もー、しおりは甘えんぼさんなんだから」
「おねーちゃん、だいすき!」
「あははは、おねーちゃんもしおりのことだいすきだよ」
「しおり、ずっといっしょにいようね」
「おねーちゃんと、ずっと、いっしょに……」
異能者
<第二十三章>
−生を司るもの−
2001/10/12 久慈光樹
「香里!」
まるで力尽きたように。
その場に倒れ込む、香里。
「……!」
ペルソナは叫びこそ上げなかったが、噛み切るように強く唇を噛みしめながら、香里に駆け寄る。
「どいて!」
香里を抱き起こそうとする祐一を突き飛ばすように下がらせる。
自らの服を引き裂き、未だ溢れるように出血を続ける香里の右胸に押し付ける。
止血、そして気道の確保。
恐らく栞に応急処置の心得があるのだろう。そして栞の知識と肉体を共有するペルソナは、相変わらず唇が裂けんばかりに噛みしめながら、無言で処置を続ける。
「……しお、り?」
未だ意識があることは、驚くべきことだったろう。
致命傷を負いつつ、“死の奥義”を発動したのだ。普通ならそのまま即死してもおかしくはない。
それは『死神』美坂香里が『美坂家』歴代の当主中でも傑出した異能者であるという証だったろう。
だが、それも限界だった。
妹以上に蒼白な顔色で、香里は妹の名を呼んだ。
「喋っては駄目!」
「ああ、あなた、か」
まるで霞む目を凝らすように細めると、すぐに栞がペルソナだと気付いたように、香里はそう言った。
その声は非常に弱々しかったが、そこに失望の色は無かった。
「……ごめんね」
「え?」
香里の言葉がよほど意外だったのか、ペルソナは一瞬、手を止めた。
「あなたも……栞なのだものね……」
「私、ひどい姉ね……あなたを否定しかしなかった」
「…あなたも……大切なわたし…の……いもうと、な…のに……」
「あ、ああ……」
その言葉に、ペルソナの瞳から一滴だけ涙が零れた。
わなわなと振るえる唇。だがすぐにその唇を噛みしめ、応急処置を続行する。
いま自分がやらねばならぬことは何か、知っているかのように。
「私、が…いなくても……栞もあなたも、平気…よね……」
「もう喋らないで!」
呟きつづける言葉と共に、傷口から血が溢れる。
だが香里はペルソナの叫びが聞こえていないように、呟きつづける。
事実、もう何も聞こえないのだろう。
誰が見ても。
明らかに、手遅れだった。
「しおり…しおり…… 私の大切な…いもうと……」
徐々に、香里の呟きは意味をなさぬものになってゆく。
「しおりは……甘えんぼさん…なんだから……」
既に目も見えないのだろう。
焦点を失った目で、呟くように、まるで熱にうなされるように話しつづける香里。
「喋らないで!」
ヒステリックに叫び、処置を続けるペルソナ。
「おねーちゃん…も……しおりのこと……だいすきだ…よ」
がたがたと震え、がちがち歯を鳴らしながら、それでもペルソナは手を休めない。
「喋らないで! お願いだから!」
押さえても押さえても溢れ出てくる姉の血を、必死に拭いながら、ペルソナは手を休めない。
「ずっと…いっしょに…いよう……ね」
香里の呟きが、徐々に、小さくなってゆく。
「どうしてっ! どうして血が止まらないのよっ!!」
徐々に、徐々に。
聞き取れなくなってゆく。
「……おね…ちゃん……と………ずっと…い……しょ…に……」
呟きが、どんどん小さくなって。
脈打つように吹き出していた真っ赤な血は、まるで流れ尽くしたかのようにその勢いを弱めてゆく。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょうっ!!」
ペルソナはもう半狂乱だった。
そして。
かたかたと、香里の身体が小刻みに震えはじめた。
「いや…… 死ぬのは…いやよ……」
目を見開き、瘧のように震えながら、そして最後の力を振り絞るように、言葉を吐き出す香里。
それを聞いたペルソナも、痙攣するように震える。
「いやよ…しおり……しおり……」
「…しにたく……ないよ……」
「……しお…り………と……ず…と……」
「…………いっしょ…………に……」
そして。
香里の身体から、震えが消えた。
「え…… ねえ、ちょっと……」
それに気付いたペルソナが、恐る恐る、姉に声をかける。
だが。
応えは無かった。
「ちょっと、ねえ! ねえってば!」
応えは無かった。
「ねえ、返事してよ! なに寝てるのよ!」
応えは。
無かった。
「栞、もう……」
姉の身体を揺すり続ける姿を見かねたのだろう、ずっと傍らで見守っていた祐一が、そう声をかけた。
「もう、亡くなった」
その言葉に、ペルソナはゆっくりと振り返る。
そして、唐突に立ちあがると、祐一に掴みかかった。
「ふざけたこと言わないでよ!」
「し、栞ちゃん!」
慌てて止めようとするあゆを振り払い、祐一の胸倉を掴む。
祐一は、負傷した個所に激痛が走るのを耐えながら、されるがままになってた。
「あの人が、『死神』美坂香里が死ぬわけない!」
「栞ちゃん、もうやめて、やめてよぉ……」
「うるさい! うるさい! うるさい!!」
「栞!」
されるがままになっていた祐一が、叫ぶ。
そして掴みかかる彼女の両肩を掴み、ゆっくりと、まるで言い聞かせるように、告げた。
「香里は、死んだんだ」
「……」
「死んだんだ」
「……うそよ」
「嘘じゃない、もう香里は…… いないんだ」
その言葉を聞いた途端、栞は、そのペルソナは、崩れ落ちるように気を失った。
なにも無い世界だった。
生ける者の息吹も。
空も、大地も。
光も、闇も。
なにも、無かった。
そこに彼女はいた。
目を瞑り、口を閉じ、耳をふさぎ。
膝を抱えて、そこにいた。
この何も無い世界で、全てを拒絶して、ただ、存在していた。
栞だった。
ずっとそうしていたかった。
ずっとそうしているつもりだった。
それだけが、望みだった。
だがそんなささやかな望みを、邪魔する者がいた。
「いつまでそうしているつもり?」
いつのまに現れたのだろう。
うずくまる栞の背後に、少女が立っていた。
「そうやって、目を閉じて、口を閉じて、耳をふさいで」
苛立たしげな口調。
栞を詰問する少女もまた、栞だった。
いや、より正確に言うのならば。
栞の、ペルソナだった。
「いつまで、ここにいるつもり?」
栞はペルソナのその詰問に応えようとしない。
耳をふさぎ、ただじっと俯いている。
まるで、そのまま消えてしまう事を願うように。
「美坂香里は…… 死んだわ」
びくり!
初めて、栞が反応した。
「私たちの、身代わりになって」
「……ひっ…ふぐっ……」
「死んだの」
「…ひぐっ……おねえちゃん……おねえちゃん……」
耳を覆っていた手を、両目にあてて。
まるで幼子のように泣き出す栞。
ペルソナはそんな栞をまるで無機物を見つめるように、何の感情も感じさせぬ視線で見やる。
「彼女に、会いたい?」
「……ひぐっ……おねえちゃぁん……」
「もう一度、会いたい?」
「会いたいよ……おねえちゃんに…会いたいよ……」
なんの感情も見えない瞳で、ペルソナは泣き続ける栞を見つめつづける。
何も無い空間に、栞の嗚咽だけが響いていた。
どのくらいそうしていただろうか。
ペルソナが、ぽつりと呟くように、囁くように、言った。
「『美坂家』生の奥義」
「ひっ!」
その一言が栞にもたらした変化は、劇的だった。
涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪め、がたがたと震え出したのだ。
「本当はあなたもわかっていたのでしょう?」
「いや、いや……」
「まだあの人を救う術があることに、気付いていたのでしょう?」
「いや、いやぁ!」
まるでペルソナの言葉から逃れるように、再び両手で耳を覆い、激しく首を左右に振る。
「死の奥義、その対極に位置する、生の奥義」
「いやだ、いやだ……」
「『美坂家』初代以来、途絶えてしまった生の奥義」
「いやだよぉ……」
「あの“力”を用いれば、あの人を…… 美坂香里を甦らせることができる」
独白するように語を接ぐペルソナ。
「無理だよぉ…… 私には、無理だよぉ……」
それに反応し、首を振りつづける栞。
「死ぬのは嫌……」
うわ言のように、呟きつづける。
「殺すのは嫌」
「力を使うのは嫌」
「嫌われるのは嫌」
「嫌うのは嫌」
「生きるのは…… 嫌」
その言葉を聞いた途端、今まで何の感情も見出せなかったペルソナの瞳が、燃え上がった。
「甘ったれるな!」
「ひっ!」
耳をふさいでいた栞の右腕を、掴み上げた。
怯える栞。だがペルソナは激しい怒りに我を忘れたかのように、叫ぶ。
「あんたが、私が、やらなくちゃ、美坂香里は本当に死ぬんだよ!」
「あの人と、もう二度と会えなくなっちゃうんだよ!」
・・・・・・
「おねえちゃんが、死んじゃうんだよ!」
おねえちゃん。
その言葉に、はっと、ペルソナを見上げる、栞。
「あ……」
泣いていた。
栞と同じように、涙で顔をぐちゃぐちゃにして、その少女は泣いていた。
「いやだよぉ、おねえちゃんといっしょにいられないなんて、いやだよぉ」
そこにいたのは、幼い頃の、栞だった。
彼女を責め苛む存在だったペルソナの姿は、いつしか幼い頃の栞の姿に変わっていた。
「おねえちゃん、おねえちゃぁん」
泣きじゃくる、幼い自分。
ああそうだ、思い出した。
栞は、その姿を見て思う。
私はいつも泣いてばかりだった。
両親に叱られたとき、友達に意地悪されたとき、可愛がっていた小鳥が死んだとき。
いつも、泣いていた。
そんな私をいつも慰め、元気付けてくれたのはお姉ちゃんだった。
時に優しく、時に厳しく。
お姉ちゃんは、いつも私を見守ってくれていた。
ずっとずっと、生まれたときからお姉ちゃんと一緒だった。
死ぬのは怖い。
力を使うのは怖い。
そして何より。
生きるのは、怖い。
だけど。
「お姉ちゃんに、もう一度、会いたい」
『美坂家 生の奥義』
死の奥義の対極に位置する、もうひとつの“力”。
『美坂家』は死を司るとされている。それは正しかったが、事実の全てを表しているわけではなかった。
『美坂家』が真に司るは“死”、そして“生”。
生があるからこそ死があり、死があるからこそ生がある。光と陰が互いに対になるように、生と死は表裏一体の存在であるのだ。
死の奥義があれば、生の奥義もある。
死の奥義は対象者に絶対的な“死”を与える力であり、生の奥義は“生”を与える力。
その力は絶対であり、例え“生”を失った存在であろうとも、強制的に再び“生”を付与する。
つまり、生き返るのだ。彼女たちの目の前で死んでしまった姉を、蘇らせることができるのだ。
だが先ほどペルソナが言ったように、生の奥義は『美坂家』初代を最後に喪われた存在だった。
奥義それ自体は伝承されている。直系女児である栞も、発動は可能だろう。
ではなぜ喪われた存在とされているのか。
それは、初代以降、何人も成功した事例が無いからだった。
死の奥義同様、発動者の生命と引き換えになる可能性が高いばかりでなく、生の奥義は効果が発動すらしなかったのだ。
今までは。
栞は、一度も試したことがないそれを試すことが怖かった。
失敗したとき、いや、万が一成功したとしても、自分が死んでしまうことが怖かった。
自分の持つ異能力が怖かった。
自分の持つ異能力で、他者を殺傷してしまうことが怖かった。
だが、いま一番怖かったのは。
姉を蘇らせられるたった一つの可能性を、自ら無に帰してしまうかもしれないという事だった。
だから可能性がまだ残されていることを知りつつも、この場所で膝を抱えていただけだった。
だが……。
「おねえちゃん、おねえちゃぁん……」
泣きじゃくる幼い自分。
いつも慰めてくれた姉は、いない。
今ここに居るのは、姉に比べれば遥かに頼りない自分だけ。
いつも泣いてばかりいた自分だけ。
幼い頃に比べ、体だけは大きくなった。身体だけは成長した。
だが果たして、心は成長しただろうか?
いつも助けてくれていた姉を、今度はこの頼りない自分が助けねばならない。
果たして、そのようなことが本当に可能だろうか?
「おねえちゃんに、あいたいよぅ……」
泣きじゃくる幼い少女の声。
できるかどうか、わからない。
でも、やらなくてはならない。
だって私も同じだから。
眼前で泣きじゃくる幼い少女と、思いは同じなんだから……。
“死”は、滅多なことで覆るほど甘いものではない。
全てを代償に投げ打ったとしても覆らぬほどに、“死”とは、そして“生”とは、重いものだ。
生と死を司る『美坂家』の出である栞だからこそ、その事実は身に染みていた。
チャンスは一度だけ。
そして、必ず自分も生き残らねばならない。
例え成功したとしても、自分が死んでしまったら意味が無い。姉といつまでも一緒にいられないのなら、同じ事なのだから。
「行こう?」
少女に向けて、手を伸ばす。
「ひぐっ、ううっ」
泣きじゃくる少女。だが栞は急かすことなく、手を差し伸べ続ける。
少女が自分の意志で、差し伸べた手を掴むことを待ちつづける。
「お姉ちゃんに会いたい?」
先ほどペルソナがした問いと、まったく同じ言葉。
「お姉ちゃんに、もう一度会いたい?」
「あいたいよぉ、おねえちゃんに、あいたいよぉ」
泣きじゃくる少女が返した応えも、先ほどの栞とまったく同じ。
同じ問い、同じ応え。
当然だ。
2人とも栞なのだから。
泣きつづける少女も、手を差し伸べる少女も。
2人とも、美坂栞なのだから。
「だったら、会いに行こう?」
「……おねえちゃんに、また、会えるの?」
真っ赤に泣きはらした縋るような目を、栞に向ける少女。
その視線を受けて栞は。
まるで彼女の姉のように優しく、微笑んだ。
手を差し伸べる少女と、その手を掴もうとする少女。
2人の栞の手が。
ゆっくりと、繋がれた。
栞が失神していたのは、時間にして5分にも満たなかった。
「あっ!」
突然跳ね起きた栞に、あゆと祐一は驚く。
「し、栞ちゃん…… 大丈夫?」
「あゆさん! お姉ちゃんを蘇らせます!」
「お、おい、栞」
その言葉に、祐一とあゆは絶句する。
栞が正気を失っていると思ったのだ。
そして同時に、その様子にも驚いていた。
口調や仕草を見るに、いま表面に出てきているのはペルソナではない栞だろう。
だがその瞳にある、揺るぎない意思と決意はどうだ。それは今までの、あのどこか怯えたような栞の視線とは全く違うものだった。
「説明している暇は無いんです!」
動揺する二人に構わず、既に事切れた姉の亡骸に歩み寄る。
「邪魔だけは、しないでください」
「う、うん」
「わ、わかった」
眼光に気圧されるように頷く。
「……お姉ちゃん」
呼吸を止めた姉を見て、ぽつりとそう呟く。
そして、瞳を閉じた。
「わっ!」
「こ、これは」
急激に高まる異能力と共に、栞の体を眩い光が包む。
姉である『死神』美坂香里が“死の奥義”を発動した際に感じた、あの凄まじい異能力の高まり。それを更に凌ぐほど、栞の異能力は高まっていた。
『命喰い』美坂栞が異能力を行使する様を幾度か目撃している祐一だったが、いまの栞は段違いだった。
「これが…… 栞の、真の実力なのか」
まだだ。まだ、足りない。
既に限界は超えていた。
だが、まだ足りなかった。
まだこの程度では駄目だ。もっと、もっと、力を高めなくては。
身体の各所に耐えがたい苦痛が走る。許容量を超えるほどに高められた異能力が、自身の身体を軋ませる。
普段の栞であったら、決して耐えられなかったろう。だが、栞は耐えた。
きつく結んだ両目には、姉の笑顔が浮かんでいる。
この笑顔を再び見るためだったら、耐えられる。
噛み破いた唇を、血が伝う。
既に祐一たちが栞を直視できないほどに、栞を包む光は激しくなっている。
そして……。
栞が目を、開いた。
「『希望の生樹』(ユグドラシル)!!」
光が、弾ける。
大地に横たわる香里の骸を、眩い光が包む。
同時に、栞の身体の奥深くから、温もりと共に“何か”がごっそりと削り取られていく。
「くぅ……」
身体の芯から凍えるような寒さが、栞を包む。
だが、構わず力を放出し続ける。
「お姉ちゃん……」
そして、栞は叫んだ。
「還って来なさい!」
最後に全ての力を振り絞って。
栞の意識は、そこでぷっつりと断ち切られた。
意識を失う寸前。
大好きだった、姉の笑顔を見たような気がした。