かなしいことがあったんだ
とっても、かなしいことが
怒号、悲鳴
いまはもうおぼえていないけれど
とてもかなしいことがあった
警報、赤い光
ぼくはぜつぼうして、全てに耳をふさいだ
全てから、目を逸らした
閃光、爆音
果たして、それで良かったのだろうか?
衝撃
今はもう覚えてはいないけれど
何か、大きな過ちを犯してしまった気がする。
鮮血
俺は……
約束、だよ……
異能者
<第二十章>
−二匹の獣−
2001/07/14 久慈光樹
祐一くん!
その叫びは、救いだった。
折原浩平より放たれる、圧倒的な闇の波動。
呑まれ、果てしなく落ちていこうとする寸前、その叫びが耳に、いや、心に響いた。
また、繰り返すのか。
また、過ちを犯すのか。
大切な人を守れないのか。
大切な人を傷つけるのか。
8年前のように……。
グガアアアアァァァァ!
闇が弾ける。
漆黒の闇に包まれた後、姿を現した祐一。
身体は二回り以上大きくなり、手足の爪は鋭く、漆黒の頭髪は地面に届かんばかりに伸びている。
身体の各所より、収まりきらぬ闇が、まるで陽炎のように立ち昇る。
異形の獣。
だが、以前『剣聖』と『狂戦士』を圧倒したときのそれとは明らかに異なっている箇所があった。
まるで肉食の猛獣のように鋭い牙を晒した顔。
だがその双眸には、明らかな理性の色がある。
「馬鹿な…… 制御しているというのか…… 『永遠の力』を」
初めて聞く、折原浩平の驚愕の声。
その声には普段のような余裕は無く、まるで信じられない事項を目の当たりにしたような響きを隠せずにいた。
ほんの一瞬の自失。
だが『永遠の獣』(エターナルビースト)を前にして、その隙は致命的だった。
「ガアアァァァァッ!」
荒ぶる獣のような、だがしかし明らかな理性の響きを持った叫びを放ち、祐一は襲い掛かる。
眼前に立つ男に向け、鋭い爪を振り下ろす。その動きは人の目に捕らえられる限界を遥かに超える速度だった。
「くっ」
精神バリアを展開する愚を冒さず、『永遠』の力を借りた瞬間移動でその爪をかわす浩平。
こちらも神速の反応速度であるが、それでも前髪が数本宙を舞った。
10メートルほど離れた後方に、音も無く姿を現す浩平。だがそれをまるで知っていたかのように、祐一はまた一つ雄叫びをあげると両腕を前方に突き出した。
現出する場所に『永遠』の力を感じ取り、浩平はまた闇に消える。
『永遠』の闇が球状に地面を抉り、そこにある全てのものを消滅させ、消えた。
「ちっ!」
舌打ちと共に、5メートルほど上空に現出する浩平。
重力に引かれ、そのまま落下を始める身体をまるで気にせず、永遠の獣に視線を移す。
が、そこにいるはずの獣の姿を捉えることはできなかった。
「どこに…… はっ!」
背後に膨れ上がる強烈な殺気!
背後を取られた!?
「がぁっ!」
浩平は、自らも獣のような雄叫びを上げ、空中で無理に体をねじると、背後に現出した獣の腹を思い切り足底で蹴る。
崩れた体勢からの蹴りでは大したダメージを与えることはできない。だが構わず蹴り抜いた。
獣の体を踏み台にするように、浩平の体が離れる。同時に今まで浩平の頭があった箇所を鋭い爪が通り過ぎた。
そのままの勢いで地面に叩きつけられる浩平。まるで痛みを感じていないかのような機敏さで飛び起き、すぐに獣に向かって体勢を整える。
それを見た祐一も深追いはせず、ふわりと音も無く着地した。
どろり。
まるでそんな擬音が聞こえてきそうな勢いで、浩平の頭から額にかけて、鮮血が迸る。
空中の攻防において、獣の爪を完全にはかわしきれなかったのだろう。
圧倒的な祐一のペース。
あの『永遠の』折原浩平が、防戦一方に追い込まれていた。
「す、すごい……」
搾り出すようなあゆの呟き。
栞もごくりと唾を飲みこんだ。
突然異形と化した祐一。驚く間もなく交わされた一連の攻防。
異能者としての能力に関しては一騎当千の実力を持つ彼女たちでさえ、その動きを捉える事ができぬほどのスピードで交わされる攻防。
「あれが『紅の』相沢祐一……」
『死神』の呟きも、精彩を欠いた。
“死”そのものが顕現したかのような、禍禍しき漆黒の獣。
“死”を司る『美坂家』当主の香里でさえ、その姿には底知れぬ恐怖を覚える。
しかし、だからこそ。
「これならば……」
勝てる。
『浩平さん!』
澪の悲鳴にも似た“声”。戦闘において浩平が流血するなど、前代未聞。
思わず駆け寄ろうとする彼女を、みさきが制す。
「駄目だよ、澪ちゃん」
『どいて、なの!』
「浩平くんなら、大丈夫だよ」
『でも、でも……!』
澪は、みさきがなぜこれほど落ち着き払っているのか、理解できない。
『このままじゃ、浩平さんが!』
「大丈夫だよ、澪ちゃん。 浩平くんなら、きっと……」
みさきの表情に、焦燥の色はない。
だが、その拳は。
血の気を失うほどに、握り締められていた。
「……」
流れ出る真っ赤な液体。
額にあてた手に付着したそれを、何か不可解なものでも見るような目で見つめる浩平。
徐々に、その表情が険しくなっていく。
それは
今まで一度も見たことがない、折原浩平の憤怒の表情だった。
「やってくれたな……」
聞く者の心を凍りつかせるような。
凄惨な声。
浩平の両眼は、黒い炎が燃えあがっているかのように、黒い。
「 コロシテ ヤル 」
闇が、弾けた。
暗い部屋で一人。
ベッドに腰掛け、ただじっと俯く、髪の長い一人の女性。
まるで糸の切れた人形のように。
その、何の反応も示さない躯が、ぴくりと、震えた。
永遠はあるよ……
グガアアアアァァァァ!
漆黒に輝く瞳は、闇よりもなお黒く。
鋭い牙の並ぶ口から放たれる雄叫びは、聞く者の心を侵食するかのような。
永遠の、獣。
「コロス」
酷く聞き取りにくい、まるで猛獣が人間の言葉を無理に模倣したような呟き。
瞬間、光の矢が放たれたような速度で、浩平だった“それ”は祐一だった“モノ”に向けて、疾駆する。
「ゴアアアアッ!」
その異形の気に反応するかのように、迎え撃つ獣もまた、叫ぶ。
迸る鮮血。
一匹の獣が放った爪による一撃が、もう一方の獣の肩口を凪いだ。
だが痛みなどまるで感じていないかのように、肩を抉られた獣が鋭い蹴りを放つ。
鈍く響く打撃音。
常人であれば内臓破裂を免れえないであろう威力を伴った蹴りが、わき腹に直撃する。
まともに食らった獣は口から血を吐きつつ、だが一歩も退かず、続けざまに今度は拳で殴りつける。
蹴りを放った獣も、野獣そのものの柔軟さで蹴り足を引き戻し、鋭い爪で抜き手を固め、放つ。
2撃、3撃、4撃……。
飛び散る鮮血、巻き上がる血煙。
防御も何もない。
戦術も何もない。
武術の試合のような高潔な志も、剣術の試合のような華麗さもない。
それは、殺し合いだった。
ただ相手を殺すことしか、己が生き残ることすら考えていない。
正真正銘の、純粋な殺し合い。
互いに傷つき、血を流しながらも、それでもいささかも衰えることなく殺し合う、二匹の獣。
凄まじい速度とその姿から、見守るあゆや澪には既にどちらが浩平なのか、どちらが祐一なのかすらも定かではない。
援護をしたくとも、ままならない。
澪も、そしてあゆも栞も、ただ見ていることしかできない自分に歯噛みしていた。
『おかしい』
みさきは眼前で繰り広げられる殺し合いをその光映さぬ双眸で追いながら、そう感じていた。
戦いにおいて、何人にも遅れをとったことのない折原浩平。
今まで、彼と互角に渡り合うことができる相手など、存在しなかった。いや、それどころか彼と分単位で戦い続けることができる人間などいなかったのだ。
それが今はどうだ。
互いに傷つき、血を流しながら、互角の戦いを繰り広げる二匹の獣。
贔屓目では無いと思いたい。
全てを見通す“瞳”を持ったみさきにとって、浩平は底の知れぬ“何か”を感じさせてくれる唯一の存在だった。
“瞳”を持ってしても、知りえぬ“何か”。
みさきが浩平に対し“観る”ことをしないのは、多分に彼女の心の弱さから来るものであったのだが、それでも。
「折原浩平」という男は、こんなことで、こんなところで底の知れる男ではないのだ。
それは願望に、いや、切望に近かったかもしれない。
だからこその疑念、だからこその願い。
この時、川名みさきはONEの誇る『心眼』川名みさきではなく、ただ一人の、想い人に幻想にも似た想いを重ねる、ただの少女に過ぎなかった。
「おかしい……」
同じ疑念の言葉でも、美坂香里のそれは、みさきとはまた違った響きを伴っていた。
ONEの川名みさきと同じく策謀型の香里であったが、彼女とは違い、香里は冷静な視点を保っていた。
それは対象への思い入れの差であったろうか。
不自然。
香里が感じる疑念は、全てその言葉に集約する。
眼前で一進一退の攻防を繰り広げる二匹の獣。
一見、互角に思える。
とてつもない速度、信じられない破壊力。
だが総合してみると、両者の力量は拮抗しているように見える。
『紅の』相沢祐一が用いた力は、間違い無く『永遠』。
世界でただ一人、ONEリーダーである『永遠の』折原浩平のみが操ると言われていた、『永遠の力』。
その凄まじさは、眼前で人知を超えた殺し合いを続ける二匹の獣を見れば、一目瞭然である。
唯一無二ではなかった『永遠』、であればこそ、折原浩平はなぜいたずらに相沢祐一を刺激し、その覚醒を促すような真似をしたのか。
現状だけを見れば、彼から見れば実力的に格下である相沢祐一に、ここまで拮抗した戦いに持ち込まれているのだ。
明らかな戦術ミスである。
油断か?
自らの力に溺れ、敵の力量を見誤ったのか?
香里は、先日行われた浩平との会談を思い出す。
あれは正に、魂を削るかのごとき“戦い”だった。
表面上は互いに冗談さえ交えた、明るい雰囲気の対談だった。
だが水面下ではまるで白刃を突き付け合うかのごとき策謀の交し合いがあったのだ。
結局会談は香里が曖昧な引き伸ばしに成功した結果に終わった。だがそれとても強攻策に出る時期ではないと判断した浩平が、一旦引いたとみるのが正しいだろう。
『永遠の』折原浩平は、戦略家としても自分と同等か、それ以上。
そして戦術家としては、当代に冠絶する。
だからこそ。
現状の彼に対し、不自然さを感じてしまうのだ。
いかに『永遠の』折原浩平と言えど、万能ではない。彼も人間である以上、ミスを犯す事もあるだろう。
だが彼は、驕りや慢心からここまでつまらないミスを犯す程度の男だろうか?
「まさか、彼は……」
そう呟く香里の声は、震え、掠れていた。
いける。
祐一は確信していた。
異形の獣へとその身を変じた祐一。だが、自意識は失われてはいなかった。
意識は妙に冴え渡っていた。
全てを破壊し尽くそうとする獰猛な意識と、それを必死で押さえようとする意識。二つの意識が絶えず責めぎ合う不安定な状態であるにも関わらず、である。
それどころか普段の自分よりも冷静に事態を把握しているような気さえする。
彼我の実力差は、ほぼ無いと思っていいだろう。
『永遠の力』は互いに使わない。使っても意味がないのだ。
この男に『永遠の力』は通じない。そしてそれは獣化した自分にしても同様である。
意識ではなく感覚で、それを悟っていた。
だからこその肉弾戦。文字通り肉を断ち、骨を削って殺し合う。
勝てる気がしない。だが、負ける気もしない。
互いの実力が拮抗している証拠だった。
そしてそれはつい先ほどまでの話だ。
徐々に。傍から見ても全くわからないほど、徐々に。
形勢は、祐一に傾きつつある。
無限に湧き続ける力は、叩きつける拳に更なる威力を付与し、相手から叩きつけられる拳は、徐々に力を失いつつある。
勝てる!
あの折原浩平に。
遠く及ばぬと思っていた、この男に勝てる。
こいつに勝つ事ができる。
こいつを倒す事ができる。
こいつを殺す事ができる。
口元が歪む。
こいつの心臓に抜き手を突き立てる瞬間は、どんなにか愉快なことだろう。
溢れ出る熱い鮮血をその身に浴びれば、どんなにか気持ちがいいことだろう。
祐一自身、気付いていただろうか。
その思考が、徐々に祐一本来のものでは無くなりつつあるという事実に。
人としての思考では無くなりつつあるという事実に。
そして
殺し合うもう一方の獣、折原浩平の口元もまた、同じように歪んでいるという事実に。