「お姉ちゃん」

 

 口に出した言葉はあまりに小さく、発した本人の耳に届くのがやっとだった。

 夜の帳は音もなく街に舞い降り、道行く人も足早に我が家への帰路を急ぐ。

 少女は冷たい風から身を守るように、肩に掛けたストールをしっかりと羽織りなおした。

 

 彼女の視線の先、朱に塗られた鳥居の奥、長い時を経た建物。

 確かに自分が帰るべき場所だった場所。

 迎えてくれるべき人がいた場所。

 

 少女――美坂栞は未練を振り払うかのように首を振ると、視線を転じた。

 そして建物と反対方向に向け、歩き出す。

 決して振り返ることなく。

 

 それは彼女なりの決別の儀式だったのかもしれない。

 生まれ育った帰るべき場所への。

 迎えてくれるべき者への。

 最愛の、姉への。

 

 自分の成そうとしていることは恐らく最善ではないのだろう。

 だが、もう後戻りはできない。

 弓から放たれた矢は、目標を貫くまで飛びつづけるしかない。

 宙に留まることなどできないのだ。

 留まれば、成すことなく地に落ちるだけなのだから。

 

 

 

 


異能者

<第十八章>

−生きるという煉獄−

2001/05/07 久慈光樹


 

 

 

『命喰い』美坂栞が再び祐一とあゆの前に姿を現したのは、夜も更けてからであった。

 

「先日はご迷惑をおかけしました」

 

 あの晩のことが無かったかのように、初めて会ったときと同じように、栞は丁寧な言葉遣いでそう言って頭を下げる。

 

「栞ちゃん…… だよね?」

 

 やや警戒するかのようなあゆの問い掛けを聞き、一瞬だけ悲しそうな顔をした栞だったが、すぐにこっくりと頷いた。

 

「はい、あゆさん。私はあなたの知っている栞です」

「そ、そうだよね、ごめんね、変なこと言って」

「いえ、いいんです」

「『ご迷惑をおかけしました』、か」

 

 あゆに笑いかける栞に視線を向け、祐一はそう呟いた。

 

「……」

 

 その呟きを聞き、栞は確信する。

 自分が別人格の行動を全て把握している事実を、祐一が悟ったのだということを。

 

 

 『紅の』相沢祐一。

 彼の噂は栞も聞き及んでいる。

 現在日本を支配するONEに、表立って反抗する唯一の組織であるKanon。ONEの誇る精鋭部隊「異能者狩り部隊」を退けたというのは、どうやら事実であるらしい。

 しかも襲撃の際、ONEリーダーである『永遠の』折原浩平自らが動いたのだ。

 謎の力『永遠』を操る折原浩平は間違い無く世界最強の異能者であろう。その折原浩平と1対1で戦い、経緯はどうあれONE側が兵を退いた。

 以前より「Kanon最強」と名の知れていた祐一だったが、この一戦で一気に彼の知名度は高まった。今や『剣聖』『狂戦士』そして『死神』と並び、『紅の』相沢祐一を知らぬ者はこの日本にはいないと言っていい。

 だがその評価は個人としての戦力に対してであり、政略面では彼の評価はさほど高くない。

 むしろKanonではリーダーである『静かなる』水瀬秋子、そしてここのところ他組織の統合に目ざましい働きを見せている『眠り姫』水瀬名雪の親娘が、戦略面での要として知られていた。

 

 『紅の』相沢祐一は比類なき戦術家、だが戦略に関しては見るべきものは無し。

 

 それが各組織共通の認識であり、栞の認識もほぼ同じだった。

 ある程度的を得た認識だったろう。事実、『美坂家』の懐柔に関しては今のところ当主である『死神』美坂香里に体よくあしらわれた形である。

 だが、それが全て祐一個人の能力不足に拠るものではなく、むしろ愚直とも言えるその性格に拠るものであることを、実際に彼に関わった栞は感じていた。

 先ほど栞の何気ない一言から真実を悟ったように、その洞察力と視野の広さは並の戦術家には成しえないレベルだろう。

 それを知り、栞はこれから自分のしようとしていることが、成功すると確信した。

 

「祐一さん、そしてあゆさん。私の話を聞いていただけますか?」

 

 

 

 

 

 

 『美坂家』当主である『死神』美坂香里は、匿名による密告を好まない。

 

 これは別段珍しいことではないだろう。

 組織のトップに立つものとしては当然のことで、密告を奨励するような組織(国家も同様である)は崩壊寸前であると言っていい。

 匿名の利点は理解していた。

 本当に忌憚無い意見と言うものは匿名でないとなかなか聞けないものだ。ましてや『美坂家』当主である香里に、たとえ正論であったとしても言いたい事が言える人間など数えるほどしかいない。

 

 だが、それでも香里は匿名を好まない。

 それは若さゆえの潔癖さか。『美坂家』当主として十分に実を伴っているとはいえ、美坂香里はまだ10代の、少女と言える年齢であった。

 

 そんな香里の前に置かれた、一通の封書。

 

 匿名だった。

 普段であればそのような手紙は内容に目を通す以前に破り捨てているのだが、この手紙は別だった。

 

『美坂香里 様』

 

 封書の宛名に書かれていたその一文、その文字に見覚えがあったからだ。

 

 内容は簡素だった。

 『命喰い』美坂栞首謀による反乱計画の詳細。

 計画の具体的詳細と決行日時、主だった共犯者たちの名。

 無機質なワープロ文字で、ただ計画の詳細のみが記されている。

 明らかな密告状であった。

 

 香里とて『美坂家』が磐石の一枚岩であるなどと夢想してはいなかった。若くして当主を襲名し、譜代の面々に対し強行策をとる自分に反感を持つ者が多く居ることも自覚してはいた。

 だがよもや『美坂家』譜代の6割近くが反乱を具体的に画策していようとは。

 もしもこの密告状が真実であったとしたら。

 流石に完全にしてやられるとは思えないが、虚を突かれた自分は思わぬ失態を演じたかもしれない。

 

 香里は正直、迷っていた。

 

 先に述べた通り、美坂香里は匿名による密告を好まない。個人的感情だけでなく、当主の立場にあるものが匿名による密告などで軽々しく行動を起こすことはできない。

 それにこの密告状の信頼性自体が疑わしい。『美坂家』の内情に干渉するための策謀である可能性も捨てきれない。

 だが、もし真実であれば捨て置くわけにもいかない。

 そして、それらの政治的観点とは全く異なる次元で、香里にはこの密告状を無視できない理由が存在した。

 

 『美坂香里 様』

 

 無機質な文字の羅列である手紙のなか、そこだけ手書きの宛名。

 丁寧なその筆致に、見覚えがあった。

 

「なぜなの…… 栞」

 

 搾り出すような声が、喉の奥から思わず漏れた。

 見覚えのある筆致。その文字は、紛れもなく彼女の妹によるものであった。

 自らが首謀する反乱計画を、当の栞自身が密告するという矛盾。

 手書きのその宛名をもう一度見つめ、香里はきつく唇を噛み締める。

 

 いつからか、唇を噛み締めるのが癖になってしまっていることに、彼女自身気付いているだろうか。

 その癖は、彼女の最愛の妹と、全く同じ仕草だった。

 

 

 

 

 

 

「俺とあゆに、戦えと言うのか。あの折原浩平と」

 

 祐一の声は強くも大きくも無かったが、有無を言わせぬ迫力を伴っていた。

 隣に座ったあゆの体が、びくりと震えた。

 

「その通りです」

 

 だが答える栞の声は冷静そのものである。少なくとも表面上は。

 

「分からないな」

 

 祐一の眼光は、栞を刺し貫くようであった。

 

「この街は『美坂家』の本拠地だろう。あえてここで戦いの火を起こそうという栞の真意は何だ」

「ONEが『美坂家』にとって脅威だと判断したからです。失礼ですけれどあなたが属するKanonよりも遥かに」

 

 歯に衣着せぬその言葉を、ぴくりと眉を動かしただけで表面上は何事も無かったかのように聞く祐一。

 

「あえてこの街で戦う理由は簡単です。ONEリーダーである彼がたった2名の随員で本拠地を離れた、これは彼を倒すチャンスでしょう」

「たった2名の随員と栞は言うが、相手は側近の女性たちだぞ」

「『心眼』川名みさきと『沈黙の』上月澪は直接戦闘能力において他の側近に劣ります。それに倒すべきは彼女たちではなく、『永遠の』折原浩平ただ一人、彼さえ倒すことができれば事実上ONEは崩壊するでしょう」

「それならば、なぜ俺たちに助力を請う。せっかく懐に飛び込んできた獲物だ、『美坂家』で内々に処理するのが普通だろう」

「『死神』美坂香里は、ONEに下るつもりです」

「そんなっ!」

 

 さらりと放たれた言葉の爆弾。だがそれに反応したのは傍らで推移を見守っていたあゆであり、祐一は特に驚いた様子も無い。

 

「だ、だって、ONEは『美坂家』にとっても敵なんじゃないの? それなのに味方するなんておかしいよ!」

「確かにあゆさんの仰る通りです」

 

 あゆに顔を向け、肯定する栞。

 

「だったら……!」

「ではどうしますか?」

「え?」

「あゆさんが『死神』の立場なら、どうしますか? 戦いますか? “あの”折原浩平と」

 

 『永遠の』折原浩平。日本を支配する異能力集団ONEのリーダーにして、世界最強の異能者。

 

「加えて側近たる2人の女性たち。いかに『死神』美坂香里といえど、分が悪いですね」

 

 他人事のようにさらりと言い放つ。

 語を継げなくなったあゆの代わりに、祐一が口を開いた。

 

「栞、お前の言う事は矛盾しているな」

「……」

「なるほど、確かに『死神』と言えど、『永遠の』折原浩平を仕留められはしないだろう。だがそれは俺達が束になってかかったとしても同じことだ」

「……」

「実際に戦った俺にはわかる。あいつは…… 折原浩平は“違う”んだ」

「違う?」

 

 あゆが口をはさんだ。

 

「ああ、あいつは違う。俺達とは、強さの根本となるものが違う」

 

 視線を床に向けたまま、呟くように祐一。

 

「やつの操る『永遠の力』、あれはただの異能力じゃない。俺にもよくは、わからない。だが、あれは違うんだ……」

「祐一くん……」

 

 俯く祐一。気遣うようなあゆ。

 重苦しい沈黙が支配する部屋。

 唐突に言葉を発したのは、栞だった。

 

「『美坂家』は死を司る一族」

 

 その口調は凛として、普段のどこか怯えたような口調とは一線を画していた。

 

「え?」

 

 突然の言葉に、戸惑うような声を上げるあゆ。

 祐一も俯いていた顔を上げ、何事かと栞を凝視する。

 

「なぜそう呼称されるか、わかりますか?」

「……いや」

「『美坂家』は大破壊前より続く、巫女の家系です。そしてその存在意義は、ある異能力を守る為に在るんです」

 

 

 意外な言葉だった。

 

 『美坂家』

 この時代において、この組織の名を知らぬ異能者は皆無と言っていい。

 大破壊を経て「異能力」というモノが一般に認知される以前より、異形の力を持つ一族としてその名は畏怖を伴って知られていたのだ。

 その『美坂家』は、ある異能力を守る為だけに存在していると、栞は言う。

 

「その異能力は禁忌とされ、当主直系の女児にのみ継承されてきました」

「では『死神』も?」

「はい、彼女なら使えるはずです」

 

 死を司るとされる『美坂家』において、禁忌とされるほどの異能力。存在意義となる異能力。

 それはどれほどの威力を備えているのだろうか。祐一には想像もつかなかった。

 

 だがわからない。

 栞は何を思って、今そのような話を部外者である自分たちに話すのであろうか。

 

「でも、それほどの異能力を持っているんだったら、『死神』が自分であの人を倒せばいいと思うんだけど」

 

 あゆの言う通りだった。栞の話が真実であれば、その異名の通り、『死神』はジョーカーの札を隠し持っていると言うことになる。

 流石に組織としての規模の差があり、正面決戦では勝ち目は薄いかもしれないが、ONEリーダーである折原浩平自らが単独行動を取っている今こそ、彼を葬り去るチャンスではないか。

 栞の言葉は矛盾だらけであるように感じられた。

 

「あゆさんの言うことはもっともです。ですが『死神』美坂香里がよしんば折原浩平を倒す事に成功したとしても、後に待っているのは側近たちによる報復措置でしょう」

 

 なるほどな。

 そこまで聞いて、祐一にも栞の考えている事がうっすらと読めてきた。

 『美坂家』当主である美坂香里が、テロリズム的手段でONEリーダーである折原浩平を抹殺することに成功したとする。当然後に残されたONEのメンバーは混乱するだろう。

 だがONEの本拠には、未だ『狂戦士』や『水魔』といった実戦部隊を指揮する人材が健在なのである。

 事情を知った彼女らは、報復として正面から『美坂家』に襲いかかるに違いない。そうなってしまえば数において圧倒的劣勢である『美坂家』が辿る末路は、滅亡。

 例え建前上と言えど、ONE側に侵攻の口実を与えずに事を決するために、当主である美坂香里は動きたくとも動けないのだ。

 恐らくはそこまで見越しての、折原浩平の単独行動であったのだろう。

 こうなれば、『美坂家』に残された選択肢は2つ。

 ONEに敵対する勢力であるKanonと手を結び、共にONEに抗する道。

 ONEに下り、その従属となっても組織としての存続を望むという道。

 『美坂家』当主、『死神』美坂香里は後者を採ったのだ。

 

 だが、同じ『美坂家』の人間である栞は、違う道を選択した。

 もしもここで『美坂家』とONEが衝突する事態に陥った場合、ONEに敵対するKanonは労無くして漁夫の利を得る事となろう。

 だが、折原浩平を害する者が『美坂家』の人間で無いのであれば、事情は異なる。

 しかもそれがKanonの相沢祐一であったとしたら。

 恐らくはONEとKanonの全面戦争に発展するだろう。そしてその場合、漁夫の利を得るのは『美坂家』ということになる。

 

「Kanonに属する俺に、折原浩平抹殺を示唆するのはそういう理由からなんだろう?」

 

 栞はその問いには答えず、ゆっくりと窓際まで歩み寄った。

 閉ざされた窓を開け放つ。

 夜の帳が下りた街。寒さを伴った新鮮な空気が部屋を満たす。

 未だ真円を保った蒼月が、淡い光を放っている。

 

「己の属する組織にとって不利益になるとわかっている策謀に、俺が力を貸すとでも思っているのか?」

 

 祐一たちに背を向け、開け放った窓から天の真円を見上げていた栞は、ゆっくりとした動作で振り向いた。

 その顔に浮かんでいたのは、妖艶な笑み。

 

「いいえ、思ってはいないわ」

「あっ!」

 

 思わず声を上げるあゆ。

 月明かりの下、妖艶な笑みを浮かべつつ立つ栞は、先ほどまでの栞ではなかった。

 

 

 

「私も、あなたが素直に協力してくれるなんて思っていないわ。『紅の』相沢祐一さん」

 

 艶やかな笑みを浮かべたまま、言い放つ栞。そのペルソナ。

 

「だったらどうするつもりだ。力ずくで従わせるか?」

 

 その言葉に、あゆがびくりと身を震わせる。

 だが栞はその程度の挑発は歯牙にもかけないといった様子で、鼻を一つ鳴らし答える。

 

「まさか」

「ではどういうつもりだ」

「祐一さん、あなたひょっとして、私があなたたちを捨て駒にするつもりだとでも思っているのではなくて?」

 

 祐一は答えない。だがその表情が雄弁にそう思っていることを語っている。

 

「それはあなたの勘違いよ。私自身、あなたたちと一緒に折原浩平と戦うつもりなのだから」

「なに?」

 

 意外そうな表情を隠せない祐一。

 どうにも栞の意図が読めない。

 

「つまり私は『死神』美坂香里とは違った選択をしたということよ」

「俺たちKanonと、共闘するということか」

「ええ」

 

 確かにそう考えれば、一応の筋は通る。

 しかし

 

「それは『美坂家』の総意なのか? それともお前の独断か?」

 

 そう、それこそが重要な点だ。

 たとえ『命喰い』美坂栞がKanonとの共闘を望んでいたとしても、『美坂家』全体がそうとは限らない。

 ましてや現当主の『死神』はONEへ下るという決定を下しているのだ。いかに栞が『美坂家』に名を連ねる者とはいえ、これは明らかに反逆行為であろう。

 

「明日の晩、『美坂家』で反乱が起きるわ」

「え?!」

「なに!?」

 

 思っても見なかった言葉に、驚きを隠せないあゆと祐一。

 

「主だった幹部の約6割が参加する反乱劇は、恐らく成功するでしょう」

「……そして現当主である美坂香里は当主の座を追われる……か」

「その通りよ」

 

 確かに内部より不意を突かれれば、いかに『死神』と言えど、遅れをとる可能性は大きい。

 

「『死神』を当主の座から追った後、誰を後任に据えるつもりだ」

 

 祐一のその問いに、栞は意味ありげな笑みを浮かべる。

 

「まさか、栞ちゃんが……?」

 

 あゆのその問いは、そうあってほしくないという願いが込められていたかもしれない。

 だがそれは見事に裏切られる事になる。

 

「ふふふ、あゆさん、正解よ」

「そ、そんな!」

 

 悲鳴にも似たあゆの叫び。

 

「……だが聞くところによると『美坂家』当主の座は直系の女児に限られるらしいじゃないか」

「あら、詳しいのね」

「その慣例を破るつもりか」

「いいえ、そうはならないわ」

「何? ……栞、まさかお前」

 

「私は『命喰い』美坂栞。現当主『死神』美坂香里の実の妹よ」

 

 

 

 

 

 

 決断すべきときに決断しなくてもよいのなら、人の人生はどんなにか幸福であろうか。

 

「何の本で読んだ台詞だったかしらね」

 

 香里は決断せねばならなかった。

 目の前に置かれた、栞からの密告状。その扱いについて。

 決断に窮しているのは、この手紙を書いたであろう栞の意図を掴みかねているからだった。

 

 採るべき道は2つ。

 この密告状を信用し、内通者の拘束を行う道。

 内容によれば、決行の日付は明日。この道を選択するならば、躊躇している余裕は無い。今夜のうちに、反撃の暇すら与えず反乱分子を一網打尽にしなくてはならない。

 無論、その際には首謀者の拘束は最優先となろう。

 反乱首謀者の処遇は

 

 処刑。

 

 『美坂家』が血族によって保たれる組織である以上、この処置は曲げる事はできない。

 他者への見せしめの意味も含め、間違いなく首謀者である栞を処刑することになるだろう。

 

ギッ……。

 

 血の出るような勢いで、きつく唇を噛みしめる。

 

 わからない。

 栞はそのことが分かっていて、この密告状を姉のもとに届けたのか?

 

 いや、それ以前に。

 自分は、あの子を処刑することなど、できるのか?

 

 『美坂家』存続のためには、鬼になろうと誓った。

 例え一時、ONEの下風で屈辱的な立場に甘んじたとしても、『美坂家』存続のためには甘受するつもりだった。

 だが、それらは全て妹と己の未来のため。

 自分と、最愛の妹の、帰るべき場所としての『美坂家』。

 それなのに、その場所を守るためには、そこに住まう最愛の者を切り捨てねばならない。

 なんという矛盾か。笑い出したくなる。

 

 軽く目を閉じ、思考を落ち着ける。激情は判断の妨げにしかならない。

 再び目を開いたとき、香里の目には冷静な光があった。

 己の感情をコントロールできることは、彼女の大きな長所だったろう。

 思考を進める。

 

 先ほど考えた、2つの道のうちのもう一方を検討してみる。

 密告状を握りつぶし、何のアクションも起こさない道。 

 万が一ことが起こった場合のために、準備は怠らず、しかしこちらから表立って行動は起こさない。

 無難な策ではある。

 密告状がもし本当であったとしても、事前に気を配っておけば相手よりも先手を打てるだろう。もし虚偽であったとすれば何の問題も無い。

 

 だがこの場合も、気にかかるのはこの密告状を書いた栞の真意である。

 罠か?

 例えば決行の日付を一日遅く書いておき、こちらの裏をかく。

 いや、そのような小細工は逆効果だろう。反乱の存在自体を隠匿する方が、遥かに成功率は上がる。現にこの密告状を読むまでは、反乱が起きるという具体的可能性は考慮していなかった。

 香里は確かに妹である栞を守る事を己に課していたが、その能力を過小評価はしていない。

 その程度の事、栞がわからないとは思えなかった。

 

ふう。

 

 ため息を一つつき、表情を緩める。

 

「ふふ、昔からあの子には振り回されっぱなしね」

 

 一瞬、香里の顔に懐古からくる柔らかな笑みが浮かぶ。

 

 だが次の瞬間、その笑みは凍りついた。

 

「まさか…… あの子!」

 

 脳裏に浮かぶのは、妖艶な笑みを浮かべた栞の姿。

 

「そう」

 

「そういうことなの」

 

ぐしゃり

 

 手にした密告状という名の妹よりの手紙を、握りつぶす。

 香里の表情は冷たかった。

 そして何かを決意したかのように、迷いの無いものだった。

 

 そのまま、彼女は部屋を後にする。

 後に残された握りつぶされた手紙が、かさり、と鳴った。

 

 

 

 

 

 

「妹、だと?」

 

 絶句するあゆと祐一。

 

「だ、だが『死神』は、自分には妹などいないと、そう俺に言っていたぞ」

「……」

 

 祐一の言葉に、栞の顔から表情が消える。

 怒りも、悲しみも、一切の感情を切り捨てたかのように冷め切った瞳。

 だがそれも一瞬のこと、再び栞の顔にはあの妖艶な笑みが浮かんでいた。

 

「そう、あの人はそう言っていたの」

「あ、ああ」

「ふふ、あの人らしいわ」

「じゃ、じゃあ栞ちゃんは、実のお姉さんを陥れるつもりなの?!」

 

 あゆの悲痛な声に、蔑むような一瞥で答える栞。

 

「聞いたでしょう、美坂香里は私を妹だとは思ってはいないの」

「で、でも!」

「私も同じ。あの人を姉だなどとは思っていない。排除すべき対象としてしか見てはいないの」

 

 栞の氷のような言葉に、何も言えなくなってしまうあゆ。

 そこに祐一が口をはさんだ。

 

「『美坂家』の存在意義はある異能力を守る事だと言っていたな、その異能力は直系の女児にのみ継承される、とも」

「ええ、言ったわ」

「お前が折原浩平を敵に回そうという自信の根拠は、これなのか」

「ふふふ、その通りよ」

「じゃあ栞、お前も……」

 

「そう、直系である私も繰る事ができるわ。『死の奥義』をね」

 

「『死の奥義』……」

「言ったでしょう、『美坂家』は死を司る一族だと。この異能力の前には、“死”から何人たりとも逃れる事はできないわ」

「では、お前が折原浩平を仕留めるつもりなのか」

「ええそうよ。でも彼には側近の女性がついている」

「俺たちに、露払いをしろ、と」

「それに『死の奥義』は発動に若干時間がかかるわ、その間、敵の足止めをしてもらいたいの」

 

 一般的に、強力な異能力ほど発動までに時間がかかる。

 そしてその“溜め”に比例して威力は増すのだ。

 栞の提案は当然といえた。

 

「だが、俺たちがそれに賛同するとは限らない。先ほども言った通りな」

「そうね」

 

 祐一は気にかかっていたのだ。

 先ほどから、この栞のペルソナはあまりにも簡単に手の内を晒している。

 これは、罠なのではないか?

 

「ふふふ、警戒しているわね」

「まあな」

「でも安心して、これは“私”の意思であって“私”の意思ではないのだから」

「どういうことだ」

「あなたたちに手の内を明かすのは、“もう一人の栞”の意思よ」

「栞ちゃんの?」

「自らの手の内を晒し、相手の信頼を得る。遠回りだけど、相手によっては有効な手段ね」

 

 他人事のようにそう言う栞。事実、今表層に出ている栞にしてみれば他人事なのだろう。

 

「あなたたちが協力してくれなくとも、あの子は一人で行動に出るつもりよ」

「えっ!」

「そういうことか」

 

 恐らく、栞は賭けに出たのだ。

 祐一たちが協力せずとも一人で行動に出るというペルソナの言葉は、嘘ではないだろう。

 だが栞にも打算があったに違いない。一人で行こうとすれば祐一やあゆは自分を見捨てる事ができないだろうという打算が。

 祐一やあゆの性格を突いた、ささやかな打算。そして、それをこのペルソナの栞は利用したのだ。

 

「折原浩平たちの逗留している宿は調べがついているわ。決行は明日の午前0時、『美坂家』にて反乱の火の手が上がるのと同時に、私はそこに攻め入る」

「俺たちが、ONEに恩を売るため計画を漏洩するかもしれないぞ」

「そのときは、美坂栞というお人善しが一人、この世から消えてなくなるだけよ」

 

ギリッ。

 

 奥歯を噛み締める祐一。

 美坂栞のペルソナは、自分自身を脅迫の材料としているのだ。

 短いとはいえ自分と関わりを持った一人の少女を、見捨てたくない。

 少しでもそう思ってしまった時点で、祐一に選択権はなかった。恐らくは、あゆもそうだろう。

 

「わかった。手を貸そう」

「ボ、ボクも手伝うよ!」

 

 両者のその応えを、満足そうな笑みで聞くペルソナ。

 そんな栞を睨みつけながら、祐一は一抹の疑念を拭いえないでいた。

 

 ペルソナは、いや、美坂栞は本当に手の内を全て晒したのであろうか?

 

 それはなんら確証の無い、勘のようなものだ。

 だが祐一には、栞がまだなにか重大な事項を隠しているような気がしてならなかった。

 

 

 

 

 

 

 祐一たちと計画の詳細を打ち合わせ、別に取った宿への道を歩く栞。

 天の蒼月は煌々と輝き、青白い光を大地に投げかける。

 ふと足を止めその月を見上げる。

 

「やっと開放される」

 

 呟き。

 

「この忌まわしき力から。そして……」

 

 その呟きは、どちらの栞が発したものであったのか。

 

 

 

 

「生きるという、煉獄から」

 

 

 

 

 

To Be Continued..