「うぐぅ」
「うぐぅ」
「うぐぅ、真似しないで」
「うぐぅ」
「うぐぅ、意地悪……」
異能者
<第十三章>
−翼もつ少女−
2000/12/01 久慈光樹
祐一がその少女と出会ったのは、『美坂家』に向かう道すがら立ち寄った街だった。
「わっ、どいてどいてぇー!」
「あん?」
ドカッ!
「ぐはっ!」
とまぁこんな感じである。
その後、訳もわからず腕を引っ張られ、一緒に隠れる羽目になった祐一であったが、落ち着いてよくよく事情を聞くと、なんだか話の雲行きが怪しい。
「うぐぅ、お金が無かったんだよ」
「ほう」
「でも、とってもお腹が空いてたんだよ」
「ほうほう、で?」
「うぐぅ、それだけ……」
「じゃあ何か? お前は食い逃げをして、俺を共犯に仕立て上げた、と」
「うぐぅ、人聞き悪いよ」
「その通りじゃないか」
「うぐぅ」
「うぐぅ」
「うぐぅ、真似しないで」
「うぐぅ」
「うぐぅ、意地悪……」
涙目になった少女をあやすように、頭にぽんと手を置いてぐしぐしと撫でる。
「しかしお前、食い逃げとはまた無茶したもんだな」
なにせこのご時世である。平和だった大破壊前とは違うのだ。
最悪、その場で射殺されてもおかしくないのである。
「え? 何が?」
「……まあいい」
どうやら何もわかっていないらしい少女に、ため息をつく。
「あ、そうだ、ちょっと待ってて」
少女はそう言って、大事に抱え込んでいた紙袋をごそごそと漁り始めた。
「お、早速盗品の確認か?」
「うぐぅ、だから人聞き悪いよ」
「そのまんまじゃないか」
「はいっ!」
祐一の呟きを聞き流し、袋から出したそれを元気よく差し出す。
「……これは何だ?」
「鯛焼きだよ」
「すると何か? お前は自らの命を顧みないくらい鯛焼きが食いたかったのか?」
「それは大げさだよ」
「ちっとも大げさじゃないんだが……」
この時代に鯛焼きのような嗜好品は確かに贅沢品であった。
だがそれにしても……。
「いらないの?」
「あ、ああ、もらうよ」
「はいっ!」
「さんきゅ」
「やっぱり鯛焼きは焼き立てが一番だよね」
はむはむ、と鯛焼きを美味しそうに頬張る少女。確かに美味かった。
「なあ、さっきから気にはなっていたんだが」
「?」
「それは何だ」
祐一の指差す先には、一対の翼。
少女の背にあるリュックから伸びているようだ。
「え? なになに?」
「だからその背中にあるものは何だ」
「背中?」
そう言って体ごとくるりと後ろを振り返る。
「あれ?」
またくるりと体ごと向き直る。
「せなかー」
そのままくるくるとその場を回転する少女を見て、祐一は確信した。
『こいつは関わらないほうがいい』と。
「じゃあ俺は用事があるから、達者でな!」
「うぐぅ、何事も無かったように去っていこうとしないで。しかも爽やかに」
「ちっ、作戦失敗か」
「で、背中がどうしたの?」
「首だけ後ろに向けて、自分の背中をよく見てみろ」
「うんしょ。 あっ翼があるよ、かわいいつばさー」
「それは何だ」
「何だと言われても。翼だよ」
「ふーん」
触ってみると、以外に硬い。
プラスチック製のようだ。
「あっ! そういえばまだ名前も聞いてないよ」
「ああ、そうだったな。俺は祐一、相沢祐一だ」
「……祐一、くん?」
「ああ」
Kanonの『紅の』相沢祐一といえば、近辺では知らぬ者の無い存在である。
そう思えば少女の怪訝そうな様子も気にならなかった。
「で、お前の名前は?」
「え、あ、うん、ボクはあゆ、月宮あゆだよ」
「月宮…… あゆ?」
その名を聞いた瞬間、祐一の脳裏にフラッシュバックする懐かしい情景。
泣く少女
悲鳴
そして、黒き闇
盟約
だが次の瞬間には、まるで掌に掬った水が零れ落ちるように、その情景は祐一の脳裏から遠のいていった。
「うん、よろしくね、祐一くん」
「あ、ああ……」
相沢祐一と月宮あゆ。
翼無き者と翼持つ者。
・・
それが、2人の再会だった。
日本を支配する異能力集団、ONE。
そのリーダーとして、敵対する集団から恐れられる『永遠の』折原浩平は、子供のお守をしていた。
「みゅー♪」
「おい繭、そろそろ勘弁してくれよ」
「うー、わかった」
「お、いい子だな、繭は」
「うん!」
やれやれ、やっと開放される。
露骨に安堵のため息をつく浩平。
「じゃあ繭、悪いがちょっとおつかいを頼まれてくれるか?」
「うん、何?」
「みんなを呼んできて欲しいんだ、作戦会議だって」
「わかった、さくせんかいぎ」
「そうそう、悪の秘密結社に作戦会議は必須オプションだからな」
「?」
「あー…… いいから呼んできてくれ」
「うん!」
「……繭にはまだこのギャグはハイレベル過ぎたか」
待つことしばし、ONEの誇る精鋭たる側近の女性たちが一同に会す。
『狂戦士』七瀬留美
『水魔』里村茜
『心眼』川名みさき
『沈黙の』上月澪
新たにONE入りした『チャイルド』椎名繭は、このとき未だ側近とは見なされていない。
繭が新たなる側近の1人として恐れられるようになるのは、もう少し後の事である。
「あれ? 瑞佳ちゃんはどうしたの?」
みさきの言葉通り、側近の1人『母なる』長森瑞佳の姿がなかった。
「長森はちょっと体調がすぐれないそうだ」
応えたのは浩平。
仲間内から彼女の容態を気遣う声が上がるが、彼は「大丈夫だろ」と返すだけだった。
実は彼女が体調不良を訴えるのは、今回が初めてではない。
前回、茜と澪が負傷し、その傷を異能力で癒した後も瑞佳は体調を崩したのである。
「瑞佳さんにとって、異能力は負担になっているのでしょうか?」
茜の口調は苦い。
恐らく、自分が前回の戦いにおいて負った傷を癒すため、瑞佳が体調を崩したことを申し訳無く思っているのであろう。
『心配なの』
どうやら、澪もそうであるらしい。
「あー、大丈夫だろ。今だって大丈夫大丈夫うるさいから、無理やり休ませただけだからな」
浩平の口調はぶっきらぼうだったが、彼女の事を気遣う優しさが確かに感じられた。
「うふふ、相変わらず素直じゃないね、浩平くんは」
「ば、ばか言うなよ、みさきさん。長森はただの幼馴染だって」
「でも、折原って瑞佳のこと“長森”って名字で呼ぶわよね。瑞佳は“浩平”って名前で呼んでるのに」
「んー、まぁなんとなく昔からな」
「ふーん」
「ああもう、そんなことはどうでもいい! 作戦会議を始めるぞ」
『はい、なの』
「この時期に作戦会議ってことは、また何かリアクションを起こすということね」
問うたのは留美。
ついさっきまでの雰囲気を払拭するように真剣な表情を見せる。
『狂戦士』七瀬留美は、こと戦略にかけては『心眼』川名みさきと並んでリーダー折原浩平の片腕と目されている。
余談だが、戦略面では留美とみさき、戦術面では留美と茜が実質的な指揮をとっている。留美は戦略戦術両面での要であった。
澪はどちらといえば遊撃部隊的な位置付けであり、瑞佳は浩平直属である。
瑞佳以外の各人は、それぞれ直轄の異能者部隊を指揮している。
当初500名程度の集団であったONEも、現在はその規模を大幅に拡張している。一般に『異能者狩り部隊』と呼称される、側近の女性たち直属の異能者部隊だけで1000名を超えるのだ。
この組織の特異なところは、リーダーである『永遠の』折原浩平自身は直轄の部隊を指揮していないという点である。
『狂戦士』七瀬留美の部隊が400。
『水魔』里村茜の部隊が同じく400。
残りの200名は『心眼』川名みさきと『沈黙の』上月澪の部隊で、それぞれ100。
一般的な組織としては部下的な立場である側近の女性たちに権力が配分され過ぎている。
リーダーである折原浩平が、いかに側近の女性たちを信頼しているかということが、この点を見てもよく分かるであろう。
「現在、敵対勢力の筆頭と思われるKanonは、規模を拡張させている」
浩平が口火を切る。
「ここまでは狙い通りだ」
「そうだね、でも『剣聖』までもが傘下に入ったのは予定外だと思うよ」
と、みさき。
「ちっ、舞め」
旧知である留美も、よもやあの川澄舞がKanonに参画するとは考えていなかったのであろう。その言は苦い。
「ああ、そうだな。反ONEの火種が一箇所に集まるのはいい、所詮は烏合の衆だからな。だがその質までもが強化されてしまったのでは本末転倒だ」
「そうね、意味が無いわね」
「今日、斥候より報告が入った。『剣聖』を自軍に引き込むことに成功した『紅の』相沢祐一が、『美坂家』に向かったそうだ」
「何ですって?!」
『びっくりなの』
「まさか、『死神』を自軍に引き込むつもりなのですか?」
茜の言葉に、浩平は頷く。
「恐らくそれだけでなく、『美坂家』自体の力をも取り込むつもりだろう。Kanonリーダー『静かなる』水瀬秋子は侮れない人物だ」
「で、どうするの? まさか手をこまねいて見ているだけというわけじゃないでしょう」
「無論だ。『美坂家』までも敵に回すつもりはない、ここはこちらも使者を立てる」
「でも『美坂家』は中立の立場を貫いているわ、下手に刺激するのは得策じゃないと思うのだけれど」
留美の言葉通り、死を司るとされる『美坂家』は、ONEの日本支配当初から中立を保っていた。
従いはしないが反しもしない。一貫してそのスタンスを貫いていたし、貫き通すだけの力を持った集団なのである。
『美坂家』は美坂の姓を持った一族を中心とした、異能者組織である。
100名を越える集団であり、当初のKanonなどよりも遥かに規模は大きいのだ。にも関わらず反ONEの旗印に選ばれなかった要因は、ひとえにこの中立性にあった。
代々の当主は全て女性であり、現在の当主もそうである。
『死神』美坂香里。現在の当主であるこの女性もまた、代々保たれてきた中立の立場を守っている。
そういった背景があるため、ONE側からの下手なリアクションはそのバランスを崩してしまう事になり、下手をすれば『美坂家』自体を敵にまわす事になりかねない。
他と比べれば大規模とはいえ『美坂家』自体はONEからすればとるに足らない存在である。しかし反ONEという一点でKanonなどと手を結ばれれば厄介な事になる。
留美の懸念は当然といえた。
「七瀬の言う事ももっともだ。だから、使者は非公式のものになる」
「非公式ですか……」
茜が表情を曇らせたのはわけがある。
これが公式の使者と言うことであれば、使者を迎える『美坂家』には選択の余地は無いと言っていい。承諾すればONEの傘下に置かれ、拒否するということは宣戦布告も同じである。
下手をすれば全面戦争になるだろう。
だが非公式の使者ということになれば事情は異なる。あくまで打診であり、『美坂家』を刺激したくないONEとしては当然の策と言えるであろう。
だが、使者に立つ者の身の安全は保障できない。
最悪『美坂家』によって闇に葬り去られる可能性もあるのだ。いや、『美坂家』としてはそうするに違いないのだ。
使者を殺害した上でその事実を隠匿し、「そのような使者など来なかった」と言われてしまえば、非公式である以上、ONE側としてしてはどうすることもできない。
争いを好まない茜の心情からすれば、使者に立つ者のことを考慮して割り切れない気持ちでいるのであろう。
だが留美がその茜の心中を察したかのように言った。
「大丈夫よ茜。使者にはみすみす闇に葬られることが無いよう、力ある者を立てる必要があるのだから」
『どうしてなの?』
「それはね、澪ちゃん」
みさきが留美の代わりに答える。
正確に現状を把握し、それにより戦略を考案するといった分野では留美とみさきは飛び抜けていた。
「私たちは『美坂家』よりも大きい組織なの。だから、同じ立場でお願いするわけにはいかないんだよ」
『??』
「つまり「お願いします」ってお願いするんじゃなくて、「言うことを聞け」って脅すんだよ」
「みさきさん、それは身も蓋もないわ」
苦笑する留美。
だが実際にはその通りであった。
「でも正式に部隊を派遣なんてしたらそれこそ全面戦争だよ。規模が違うから負けるとは考えづらいけれど、この期に乗じてKanonにつけこまれるのは今は避けたいの。だから少数で、なおかつ恫喝できるだけの力のある者を使者に立てる必要があるんだよ」
「なるほど、そういうことですか」
『わかったの』
茜と澪もどうやら理解したようである。
「で、誰が行くの?」
と、留美が浩平に問う。
少数で。なおかつ『美坂家』にとって脅威となるほどの異能者。そうなると側近の女性たち以外は考えられなかった。
「七瀬はケンカっ早いから却下だ」
「ぐっ……!」
「まぁそれは冗談としても、七瀬と茜を派遣するわけにはいかないな。なんせ主戦力だから」
「わかりました」
「長森も体調を崩しているからダメだ」
「うーん。となると私と澪ちゃんかな?」
「でもみさきさんと澪ちゃんだけじゃちょっぴり攻撃力に欠けるわね」
『うん』
澪は精神攻撃を得意とする異能者であり、肉弾戦には向かない。みさきに至っては攻撃用の異能力を持っていない。
留美の言葉通り物理攻撃力不足の感は否めない。
「ああ、それなら大丈夫だ。俺が行くから」
まるでピクニックにでも行くかのごとく、あっけらかんと言い放つ浩平に、開いた口が塞がらない4人。
最初に文句をつけたのは、やはり留美であった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! あんたが行ってどうするのよ!」
「おっ、心配か? 七瀬」
「違うわっ!」
「うーん、私も浩平くんが行くべきじゃないと思うよ」
「そうです、浩平はONEのリーダーなのですよ?」
『リーダーがほいほい出歩くもんじゃないの』
「なーに、大丈夫大丈夫。ここは七瀬と茜さえ居れば」
「そういう問題かっ!」
こう見えて浩平も頑固者である。
議論はまだまだ続きそうだった。
「で、どうしてついてくるんだ?」
「うぐぅ」
「うぐぅじゃないだろう」
「旅は楽しいね」
ビシ
「うぐぅ! 無言でデコピンしないで」
「どうしてついてくるのかって聞いてるだろ!」
「ボクも連れてって」
「不可!」
「うぐぅ、祐一くんの意地悪……」
「意地悪とかそういう問題じゃない! 遊びに行くんじゃないんだぞ!」
「分かってるよ、それくらい……」
俯いてそう呟くあゆを見て、言い過ぎたと思ったのだろう、祐一も少し声を和らげた。
「あゆはこの街に住んでるのか?」
「ううん、ボクも旅の途中だよ」
「そうか」
恐らくは戦災孤児なのだろう。この時代、さほど珍しいことではない。
「どこか行くあてがあるのか?」
「無いよ、そんなの」
「そうか」
「だからボクも一緒に連れていって。祐一くんの邪魔にならないようにするから」
「だけどな」
「もう一人はイヤだよ……」
「あゆ……」
結局、祐一は断ることができなかった。
「それで祐一くんはどこへ行くの?」
元気を取り戻したあゆが嬉しそうに尋ねる。
その様子に苦笑しつつ、答える祐一。
「この先に『美坂家』っていう異能者の組織がある。そこへ行く」
「ふーん」
「あゆは『美坂家』について何か知らないか?」
「うーん、ごめんね、知らないや」
「そうか」
元から期待していたわけではないので、軽く流す祐一。
代わりにふと気になったことを聞いてみた。
「なあ、あゆはなんで旅をしてるんだ?」
元気良く祐一の前方を歩いていたあゆの足が止まる。
「ボクは探し物をしてるんだよ」
厳かに、宣言するように。
そう応えるあゆ。
祐一はその様子を怪訝に思ったが、あえて突っ込んだ説明を求めることなく、「そうか」とだけ返した。
そのまましばらくは無言で歩を進める二人。
その獣が二人の前に姿を現したのは、それから2時間ほど歩いた頃であった。
「祐一くん……」
「ちっ、野犬か。ついてないな」
小型の熊ほどもある体躯。
血走った瞳、獰猛な唸り声を上げて二人の前に立ちはだかる野犬は、全身でその貪欲な飢えを表しているかのようだ。
19年前の『大破壊』(カスタトロフィ)、人類の約7割を消滅させた大災害の矛先は、人間だけに留まらなかった。
地上の生きとし生ける物全てに均等に、その凶刃は振り下ろされたのである。
結果として絶対数の少なかった生物は地球上から絶滅し、生態系も大破壊前とは比べ物にならないほど乱れていた。
地上に溢れる様々な生物。亜種変種の類。
獰猛さを増した野生生物は容赦無く人間を襲い、その肉を食らう。
もはや生態系ピラミッドの頂点に立つのは人間ではなかった。
「まずいな……」
舌打ちと共にそう呟く祐一。
いかに獰猛な亜種の野犬が相手とはいえ、祐一とて異能者である。大した脅威とは言えなかった。
だが、傍らにはあゆがいる。
そして野犬が目の前の一体とは思えなかった。
祐一のその考えを肯定するように、四方より響く遠吠え。気付かぬうちに囲まれていたようだ。
「祐一くん……」
「あゆ、離れるなよ」
「う、うん」
やがて、四方を野犬に囲まれる。
その数は約20。どうやら野犬たちの縄張りに、知らず踏みこんでしまったようだ。
「走れっ! あゆ!」
祐一はそう叫ぶと、高めていた異能力を一気に開放する。
前方の何匹かがその紅光に巻き込まれ、燃え尽きる。紅光はそのまま地面を抉り、土煙を巻き上げた。
弾かれたように走り出すあゆの背を守るようにして、祐一も走り出す。このまま突破するつもりであった。
だが野犬たちもせっかくの獲物を易々と逃がすつもりは無いようだ。
脅威となる者だと悟ったかのように、祐一に襲いかかる。
だが祐一にとってはその方が好都合であった。
「おおおっ!」
至近距離から襲いかかる野犬の牙を精神バリアで弾き返し、返す刀で紅光を叩きつける。
祐一一人であれば野犬など物の数ではなかった。
だが、歪んだ進化を辿ったその獣どもは、祐一が考えていた以上に狡猾であった。
「きゃぁーー!」
「あゆっ!」
執拗に祐一を狙ったのは、あゆから引き離す為であったのだ。
悲鳴に振り返った祐一は、立ちすくんだあゆに野犬が飛びかかる光景を見た。
「くそっ!」
その野犬に紅光を叩きつけようと腕を振り上げかけるが、止める。
この位置ではあゆも巻き込んでしまう。
「あゆっ!!」
叫ぶ事しかできない祐一。
そして祐一は見た。
あゆの全身を白い光が包み込む光景を。
弾き飛ばされる野犬。
「なっ?!」
「あ、あ、あああああっ!」
苦しげなあゆの絶叫。
その叫びと共に、全身を覆った白光がその背に向けて収束を始める。
「つ、翼?」
それは、翼だった。
光り輝く6対の、光の翼。
「『熾天使』……」
知らず、言葉が漏れる。
天使の中でも最上位に位置するという熾天使(セラフ)。おとぎ話の中の存在。
だが6対の光の翼を纏うあゆの姿は、正に熾天使だった。
襲いかかる野犬を弾き飛ばしたあゆは、そのままゆっくりと浮遊する。その高度が徐々に上がる。
飛行能力は異能力の中でもかなり高度の部類に入る。
事実、祐一は飛行能力を持つ異能者を見るのは初めてであった。
やがて見上げるほどの上空で停止するあゆ。両手を祈るように胸の前で組み、目を閉じている。
そして、ぽつりと呟くように言ったその声は、離れているにも関わらずなぜか祐一の耳に届いた。
『天使の涙』(エンジェルズティアー)
瞬間、あゆの背に輝く6対の翼がより激しく輝く。
翼より光がまるで洪水のように溢れ、それぞれが無数の束となってまるで生あるもののように降り注ぎ、野犬たちを串刺しにしていく。
拡散レーザー。
そう呼ぶにはあまりにも幻想的な光景であった。
だが優雅さとは裏腹のその凄まじい威力を物語るように、未だ15匹以上いた野犬は残らず光に串刺しにされ、息絶えていた。
光に貫かれたその個所は炭化し、光の凄まじい高熱を物語っている。
唖然とする祐一の目の前に、ゆっくりと降り立つあゆ。祐一は、光を纏った天使が降臨するかのような錯覚を覚えた。
「あ、あゆ……」
「祐一くん、よかった、無事、だったんだ……」
途切れ途切れにそう言うと、背の翼が消えると同時に意識を失い崩れ落ちるあゆ。
慌てて抱きとめながら、祐一は誰にともなくつぶやく。
「あゆ、お前は一体、何者なんだ……?」
「はぁ…… 疲れたわ」
「まったくです」
あの後、4人がかりで何とかこの風来坊を翻意させようとしたのだが、一度言い出したら聞かないのが浩平である。結局はお目付け役としてみさきと澪が同行するということを条件に、渋々認めた4人であった。
「じゃあ七瀬、茜。留守は頼んだぞ」
「はいはい、あんたもあんまり無茶すんじゃないわよ」
「よし、それじゃあみさきさんと澪は用意してくれ、出発は明日の朝だ」
「うん、分かったよ」
『用意するの』
「じゃあこれで解散!」
浩平のその言葉を合図に、4人の側近たちは部屋を出て行った。
後には浩平一人。
彼の表情は、固かった。
まるで、先ほどまでの軽い態度が嘘のように。
そして、ゆっくりと備え付けられた隣室への扉を開く。
さほど大きくないその部屋には、一台のベッドが備え付けられていた。
そこに、一人の女性が腰掛けている。
「瑞佳……」
浩平の呟きにも、何の反応も示さない。
空ろな瞳。半開きになった口。
まるで、糸の切れた操り人形のようであった。
と、その時。
瑞佳の傍らに沸き立つ黒い闇。
だがそれを見ても浩平は何の動揺も見せない。
やがて闇は、一人の少女を形造る。
8歳前後だろうか?
黒髪をたたえた、愛らしい少女が浩平に笑みを向ける。
だがその口からは、何の言葉も漏れることは無かった。
代わりに、浩平の口から言葉が漏れる。
その口調は、まるで年老いた老人のようであった。
「みさお、か」
みさおと呼ばれた少女は、まるでその言葉が聞こえていないように、白痴めいた笑みを浮かべるのみ。
「悪いな、俺はまだお前とは行けない」
淡々と言葉を紡ぐ男。
マリオネットのように、微動だにしない女。
そして、闇の少女。
「もうすぐ、もうすぐだ。それまで……」
その異様な光景を見せる部屋に、浩平の声が、空ろに木霊する。
「瑞佳を頼む」
今回使用した『熾天使』月宮あゆの異能力『天使の涙』(エンジェルズティアー)は“まちゃるさん”にご考案頂いたものを元に、創作しました。
元々は『チャイルド』椎名繭用にご考案下さったものですが、あゆが使用する事となりました。
使用にあたり、名称は変更させていただきましたのでご了承下さい。
まちゃるさん、ご協力ありがとうございました。