私には弟がいた。
弟の名は、一弥といった。
異能者
<第十一章>
−姉弟−
2000/10/02 久慈光樹
一弥は、口がきけなかった。
私は生まれてから一度も一弥の声を聞いたことが無かった。
笑い声すらも。
いや、笑っている顔を見た事も、無かった。
一弥には立派に育って欲しかった。
お父様のように。
お父様は、立派だった。
組織では誰からも信頼されていた。
だから私は一弥に、お父様のように立派に育って欲しかった。
立派になるということは、期待に応えることができるということだ。
当時、私はそう考えていた。
生まれつき口がきけなかった一弥は、代わりに“力”を持っていた。
『異能力』
その“力”をそう呼ぶことを、私は後になって知った。
お父様や組織の人たちは、一弥のその“力”を知って、喜んだ。
「今の時代、力を持たないものは生きていく事ができない」
そう、言っていた。
私にも力はあった。
だがそれは、一弥に比べるとあまりにも弱すぎた。
私はそれに失望した。
でも、一弥が代わりに私にはないくらい強い力を持っていることを、素直に喜んだ。
……。
違う。
私は嫉妬していたのだ。
お父様の、組織の人たちの期待に応える事ができる一弥を。
私は、嫉妬していたのだ。
一弥は戦いを嫌った。
私が11歳になり、一弥が7歳になっても、あの子は戦いを嫌った。
あの子は、5歳に満たない頃から戦いに駆り出された。
戦いに連れ出すのは、いつも私の役目だった。
『行きたくない』『もう誰も殺したくない』
無言のまま、一弥は目で私に訴えていた。
それを、私は無視した。
気がつかないふりをした。
期待に応える事ができる一弥。
期待すらされていない私。
私は、一弥には期待に応える義務があると思っていた。
それが皆の為になることであるのだから、当たり前の事だと思っていた。
私は、なんて酷い姉だったのだろう。
力が弱かった事もあり、私は戦場には連れていってもらえなかった。
寂しかった。
それが、私は必要でない人間であると言われているようで、辛かった。
だから11のとき、初めて一弥と一緒に戦場へ出るように言われたときは、嬉しかった。
お父様に、そして組織の皆に、私はまだ必要とされている。
そう感じられて、嬉しかった。
初めて出た戦場。
そこは、地獄だった。
私は、何も知らなかったのだ。
何も知らず、一弥をこんな地獄へと追いやっていたのだ。
その時になって初めて、私は自分がどんなに酷い姉であったのか、自覚した。
もうやめよう。
もう一弥をこんな地獄に駆りたてるようなことはやめよう。
期待に応える事なんてできなくていい。
立派になんてなれなくてもいい。
私は、一弥に謝りたかった。
今更許してもらえるなんて思わなかったけれど、私は一弥に謝りたかった。
「ごめんね、一弥、ごめんね」
そう言って謝りたかった。
だが、全ては遅すぎた。
その戦いが、“Kanon”という組織との抗争であったことを知ったのは、だいぶ後になってからだ。
その時のことは、今でも昨日の事のように覚えている。
だが、その記憶は、奇妙な静寂と共にあった。
腕を斬り飛ばされた者の上げる悲鳴も。
はみ出た内臓をかき集める大人の泣き声も。
無くした足を探して地面を這う男性のうめき声も。
何も聞こえない静寂の記憶。
抗争の原因が何だったのかは知らない。
だが、一弥を有した私たちの組織が負けるとは、誰も考えていなかった。
『凍てつきし』倉田一弥
当時、一弥はそう呼ばれていた。
あの子の異能力は、氷を操るというものだった。
今にして思えば、その力は凍てついたあの子の心そのものだったのかもしれない。
自分を地獄へと駆りたてる姉に、自らの心を凍らせるしかなかった一弥。その心そのものだったのかもしれない。
一弥は、その力で次々と敵を凍らせていった。
殺していった。
私は初めての戦場に怯え、ただ一弥の後ろで震えていることしかできなかった。
初めて見る戦場。
初めて知る恐怖。
そして初めて見る、人を殺す一弥。
一弥は無表情だった。
その異名通り、凍てついたように無表情だった。
私は、そんな一弥にすら恐怖した。
酷い姉だ。
一弥をこんな風にしたのは、自分だというのに……。
最初は、私たちの組織が優勢だった。
一弥を先頭に、Kanonの先陣を撃破したときには、みな勝利を信じて疑わなかっただろう。
だがそれも、Kanonの本体と思われる一団が姿を現すまでのことだった。
その一団の強さは、圧倒的だった。
私と同じくらいの歳の、三つ編みの少女が何事か叫ぶと、先陣を切っていた一団がばたばたと倒れていった。
これも私と同じくらいの、髪の長い少女が叫ぶと、突如光と共に現れた獣に部隊の一角を切り崩された。
そして、その少年はゆっくりと私たちの本体に向け、歩いてきた。
一人だけで。
子供と侮ったのだろう。
私の隣にいた、異能力を持つ数少ない大人の一人が、その少年に向けて単独で戦いを挑んだ。
無理もない、その少年も私と大して違わない歳に見えたのだから。
戦いにもならなかった。
少年が、その氷のような目を向けただけで、向かっていった大人は焼き消されていた。
紅い、どこまでも紅い光。
それは、死、そのものだった。
Kanonの少年は、笑っていた。
ぞっとするくらい冷たい目をして、それでも笑っていた。
私は動く事もできない。
そして一弥が向かっていった。
上ずった声で、一弥に居丈高に命令していたお父様の声も、静寂の記憶に飲み込まれ、聞こえてこない。
恐ろしかった。
Kanonの少年が浮かべる、この世の全てを呪うような笑みが、私は堪らなく恐ろしかったのだ。
一弥は無言のまま、異能力を開放する。
輝く冷気が少年を包み込む。
だが、少年の笑みはそれでも消えなかった。
光り輝く球体が少年を覆い、一弥の力を遮っていた。
音のない世界。
静寂の記憶。
だが、その時に少年が口にした言葉だけが、意味を為す音として私の記憶に残っている。
恐怖と共に。
その少年は、一弥の攻撃を軽く受け流すと、立ちすくむ一弥に右手を向け。
そして、言った。
「死ね」
一瞬だった。
笑ってしまうくらいあっけなく。
一弥は死んだ。
後には、塵一つ残さず、一弥は消滅した。
少年が放った、漆黒の闇と共に。
それからのことは、何も覚えていない。
一弥の近くにいた私が、どうして殺されることなく生き残ったのかは分からない。
だが、一弥は死に、私は生き延びた。
戦いを嫌い、誰も殺したくなかったであろう一弥は殺され。
皆の役に立とうとし、そんな一弥を戦いに駆り立てた私が生き残る。
滑稽だった。
子供の頃に読んだ絵本では、悪いことをする魔女は最後には死に、正しい心を持った王子様は幸せになるというのに。
現実は、絵本よりも滑稽だった。
身寄りを無くした私は、親戚に預けられた。
この時代、親戚付き合いなどおかしな話だったが、倉田家はそれなりに名家だったらしい。
預けられた先で、私は丁重にもてなされた。
組織は壊滅し、Kanonの名声だけが残る。
一弥を殺したあの少年が、『紅の』相沢祐一といい、既に恐れられる存在となりつつあることを、このとき私は知った。
自分のことを「佐祐理」と呼ぶようになったのも、この頃からだ。
それは自分を慈しんでの事ではない。
むしろ、私はこのとき死んだのだと思う。
私は…… いや、“佐祐理”は抜け殻だった。
そして、この“佐祐理”という抜け殻の少女は、一弥を殺した『紅の』相沢祐一を憎み、復讐を決意した。
そうすることで、自分の罪から…… 一弥を死に追いやったという罪から逃れようとしていた。
滑稽だった。
酷く、滑稽だった。
だが、“私”も一弥を殺したあの少年を確かに恨んでいた。
殺してやりたいほど、憎んでいた。
ペルソナ。
心理学用語で「みせかけの自己」。社会的慣習(外的適応)と欲求(内的適応)のバランスを図るために個人が用いる仮面。
概念を提唱したのは、ユングだったか。
心理学にはあまり詳しくはなかったが、このとき私は“佐祐理”という仮面、ペルソナをかぶったのだろう。
いや、“私”こそがペルソナだったのかも……。
その頃から、“佐祐理”は力が強くなっていった。
他人の痛みを自らに転化する異能力。
そんな、偽善めいた異能力を発揮するこの“佐祐理”という少女を、死んだ“私”は蔑んだ。
だが、この時代を生きていくには、こんな偽善めいた力でも必要だった。
そして“佐祐理”は16になり、預けられた家を一人、後にした。
相沢祐一を殺すために。
舞と知り合ったのは、偶然が重なり合ってのことだった。
無愛想だったけれど、限りなく優しい舞。
彼女と共にあれば、いつか“佐祐理”は“私”になれる。“佐祐理”は、そう思った。
事実、そうなりつつあった。
『紅の』相沢祐一が、“佐祐理”の前に姿を現すまでは……。
「でも、佐祐理は間違っていた。復讐は、何も生み出しはしなかった」
佐祐理の話は、そう締めくくられた。
一言も口を挟むことなく話を聞いていた舞は、そっとため息をつく。
戦いの後、舞が気付くと既に『狂戦士』の姿は無かった。
不思議な事に、舞も佐祐理も負っていたはずの傷は消え、その隣には元の姿に戻った祐一が、毛布に包まれ寝かされていた。
何事が起きたのか把握できない二人だったが、祐一がただ眠っているだけだということが分かると互いに安堵し、そしてしばらく眠った。
目が覚めた舞に、しばらく前から起きていたであろう佐祐理が話し始めたのである。
自らの過去を。
祐一は相変わらず目を覚まさなかった。
「佐祐理、ごめんなさい」
「え? どうして舞が謝るの?」
「ごめんなさい」
舞は、責任を感じていたのだ。
自らが大切に想い、ずっと同じ時を過ごしたいと願った親友。
その親友の心には、あまりにも辛く、そして重い過去が傷口を広げていた。
血を、滴らせながら。
聞かないことが佐祐理のためだ、などと勝手に納得していた自分が許せなかった。
「俺には」
眠っていると思っていた祐一の突然の声に、舞も佐祐理も驚いて彼を見る。
祐一は、横たわったまま空を見上げていた。
もうすぐ夜明けだ。
「俺には、8年前の記憶が無いんだ」
「え?」
突然の話題に、戸惑いの声を上げる佐祐理。
祐一は続ける。
「さっきの佐祐理さんの話に出てきたKanonの少年、確かに俺だったと思う。だけど、俺にはその時の記憶が無いんだ」
「祐一……」
「勿論、そんなことが免罪符になるなんて都合のいい事は考えてない」
佐祐理は無言で祐一の話を聞く。
舞も、それにならった。
「俺は、今まで数えられないくらい人を殺してきた」
彼の声音には表情が無かった。
「大切な者たちを守りたい。その為に力を求めた。だけど……」
毛布から右手を出し、自らの眼前にかざす。
「殺戮のための力。あんなものを俺は求めていたわけじゃない」
祐一が見せた『永遠の力』。
制御できない獣の力。
その力を祐一は自覚していた。
「佐祐理さん」
「何ですか?」
視線を佐祐理に向け、そしてついと逸らす。
無意識のうちにその視線の先を追った佐祐理の目に、ナイフがとまった。
佐祐理が祐一を刺した、血まみれのナイフが。
「俺を殺してくれて、構わない」
「祐一っ!」
舞の悲鳴にも似た叫びにも祐一は動じない。
佐祐理もまた動かなかった。ナイフに視線を向けたまま。
「俺はあんな力なんて望んでいなかった。俺が望んだのは守るための力であって、殺戮のための力じゃないんだ。俺は……」
そこで一旦言葉を切る。
「もう、人を殺すのは、嫌なんだ」
バシンッ!
祐一の頬が張られた。
佐祐理、だった。
「祐一さん! あなたはっ!」
張られた頬の痛みも忘れ、驚いたように佐祐理を見つめる祐一。
舞も同じく一歩も動けなかった。
「あなたには、そんな無責任な事を言う権利は無いわ!」
「え……?」
佐祐理の目には、怒り。
憎しみではなく、純粋な、怒り。
「あなたは一弥を殺した! 殺したのよ!」
「だから……」
「だから死んで責任を取る? ふざけないで!」
「あなたには義務がある! 死んだ、死んでしまった一弥の代わりに生きる、義務があるのよ!」
佐祐理は、泣いていた。
怒りを湛えた目で、泣いていた。
「本当は」
そして、ぽつりと。
「本当は、分かってた。悪いのは、一弥を死に追いやってしまったのは私」
佐祐理は、言った。
「本当に死ななければならないのは、祐一さんじゃなくて、私」
自らの罪を、吐露するがごとく。
「私なのよ……」
「佐祐理」
じっと黙っていた舞が、彼女の名を呼び、そして静かに言った。
「佐祐理は悪くない」
「そんなことない! 悪いのは……!」
「佐祐理は悪くない。そして祐一も」
「舞……」
「誰も悪くない。ただ、ほんの少しだけ何かが狂ってしまっただけ」
舞の表情は、穏やかだった。
「誰も、悪くない」
「……」
「悪く、ないの」
「うわぁーーー!!!」
舞の胸にすがり、泣き叫ぶ佐祐理。
舞はその頭をゆっくりと撫でながら、同じ言葉を繰り返した。
佐祐理の心の傷を癒すように。
「悪くない、佐祐理は悪くない」
「一弥っ! 一弥っ! 一弥ぁぁ!」
8年。
一弥が死んでから8年経って初めて流す涙だった。
大切な弟と、そして自分のために流す初めての涙だった。
『結局、俺も佐祐理さんも間違っていたんだな』
先ほどと同じように空を見上げながら、祐一は心の中で呟いた。
誰も悪くない。
舞はそう言った。
そう、誰のせいでもなかったのだ。
そして皆が間違っているのだ。
大破壊以降、戦争紛争の絶えない世界。
死んでいく人々、殺し合う自分たち。
誰が悪いわけでもないのに。
「間違って、いるんだよな」
祐一の呟きと、佐祐理の泣き叫ぶ声、そして限りなく優しい舞の声。
夜が明け始めた森に、三者三様の声が飲み込まれていった。
「行くの?」
「ああ」
夜が明けて、祐一の旅支度は終わっていた。
「祐一さん、これからどちらに?」
「ここから南に行ったところに『美坂家』っていう異能者の集う街があるらしい」
「まだ祐一さんの旅は終わらないんですね」
「ああ」
森の入り口。
三人はここで別れることになっていた。
「舞と佐祐理さんはどこへ?」
それを聞いた舞は、くるりと祐一に背を向けた。
その行動にあっけにとられる祐一に、佐祐理が楽しげな声で話しかける。
「佐祐理たちは、北へ」
「北? なんでまた」
「うふふふ、ほーらっ、舞」
佐祐理に無理やり身体の向きを変えられ、祐一と向かい合う舞。
その頬はうっすらと朱に染まっていた。
「……Kanonに行く」
「えっ!」
「祐一の、住んでいるところを、見てみたい。それに……」
「それに?」
「……」
真っ赤になって黙ってしまった舞を助けるように、佐祐理が続けた。
「それに、舞は家で祐一さんの帰りを待っていたいんだよねー? わっ!」
ぽかりっ!
佐祐理にチョップ。
「は…… はははっ、そうかそうか、舞は俺の帰りを待っててくれるのかー」
ほかりっ!
祐一にチョップ。
「あははーっ! なんだか新婚さんみたいですねー。 わっ!」
ぽかりっ!
再び佐祐理にチョップ。
「はっはっは、いい子にしてるんだぞ」
ほかりっ!
再び祐一にチョップ。
右に左に、舞は忙しい。
「佐祐理も一緒に待ってますから、早く帰ってきてくださいね祐一さん」
「おう、こんな美人が二人も待っててくれるんだからな。速攻で帰るよ」
ぷすり。
「ぐはっ! いきなり箸で眉間を突くな! それ以前に箸を常時携帯するな! しかも今のはツッコミ入れるところじゃない!」
「……しまった」
「あははーっ!」
楽しげな佐祐理の笑い声。
祐一も、舞も、佐祐理も。
笑顔だった。
「じゃあしばらくお別れだな」
「そうですね、でもほんの少しの間ですよ」
「(こくり)」
「何か、お家の人たちに伝えることはありますか?」
「……そうだな、俺は元気だって伝えてくれ」
「分かりました。まかせて下さい、この佐祐理に!」
「祐一、気をつけて」
「お前もな、舞」
「(こくり)」
「それじゃあ、またな!」
そして、三人は別れた。
再会を、約して。
空はどこまでも高く。
三人の進む道を照らしつづけていた。