白子

2009/4/9 久慈光樹


 

 

 


 光一つ差さぬ漆黒の暗闇の中を、凛は周囲を警戒しながらひたすらに歩いていた。

 魔力の通っている瞳が闇を見通しているとはいえ、やはり暗闇はあまり気分のいいものではない。ましてや、そこが敵の本拠たる場所であれば余計に。
 敵――キャスターに見つかれば間違いなく自分の命はないだろう。いや、死ねるのならばまだ幸運かもしれない。死ぬよりも恐ろしいという状態は、確かにあるのだ。

 周囲に気配を巡らす。
 敵は神代のサーヴァント、闇に紛れ気配を絶ったところで気休めにしかならないかもしれない。いまこうしている間にも闇の向こう側から自分の姿を見ているのかもしれない。いつ殺そうかと手をこまねいて、笑っているのかもしれない。
 思わず叫びだしそうになる弱い自分を殺し、ただ彼女は足を前に出すことだけを考える。

 そして――ゴボリ、と。
 何かが水中で蠢く音。
 闇の中、なんの変哲もないその水音に、だがまるで攪拌される腐汁を目の当たりにしたかのような不快感を覚え、凛は思わず足を止める。

 『この先に、進んではいけない』

 ゴボリ。
 脳内の冷静な部分が、そう警告を発している。
 ドクン、ドクンと、心臓が耳の奥で早鐘のように鳴り響き、肌寒い空気のなか額に汗が滲む。

 『この先にあるモノを、見てはならない』

 吐き気がする。ゴボリ。

 やがて、漆黒の闇の中にスポットライトで照らし出したかのような一条の光。
 ヒト一人がすっぽり入るほどの大きさの、ガラスケースのような物体。
 ゴボリ、ゴボリ。
 よく見えない。中に何かが入っているようだったが、この距離からでは判別できない。
 もう少し近寄ってみるべきだ。いや、近寄ってはいけない。ゴボリ。
 意思とは裏腹に両の脚は前に前にと歩みを止めない。駄目だ、アレを見てはいけない、アレは決して見てはいけないモノなのだ。

 もし、見てしまったら、わたしは――

 ゴボリ、ゴボリ、ゴボリ。


 そしてそこに、『衛宮士郎』がいた。





「ああああああああぁぁあぁあああぁぁーーっ!」

 血を吐くような叫び声を挙げて、遠坂凛は目を覚ました。
 やつれ果て、紙のように白い相貌。見開いた瞳には、先ほどまで夢に見ていた光景が焼きついているかのようだ。股間から分泌された液体に下着はべったりと肌に張りつき、不快な感触を伝えてくる。
「うっ……!」
 こみあげる嘔吐感に、口を押さえてベッドから走り出る。
「ぐげぇぇ……」
 洗面所の白い陶器に、胃の内容物をすべてぶちまけた。この数日何も摂取していないために出てくるのは胃液ばかりであったが。
「げっ、げえぇ……」
 口の周りを粘つく胃液まみれにし、焼けた喉にむせることすらできずに、ただ涙を流しながら吐瀉し続ける。あれ以来、胃は食物をうけつけてくれず、無理に食べては吐き、思い出しては吐き、いまのように夢を見ては吐き、ただその繰り返し。
胃液と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった彼女の様子は、まるで死人そのものであるかのようだった。


 衛宮士郎がキャスターに連れ去られてから、既に一年が経過していた。
 姉代わりである藤村大河を人質に取られ、衛宮士郎は凛を無事にその場から逃がすことを条件に、キャスターに下った。
「さよなら。もとからこうなる予定だったし。次に会う時は敵同士ね、衛宮くん」
 彼女はそう彼に告げ、そのまま衛宮邸から退避したのだ。
 そう、この言葉からも判る通り、凛は読み違えていた。
 キャスターが衛宮士郎を欲したのは、最強のサーヴァントたるセイバーを手中に収めることが目的だろう。であるならば、セイバーのマスターたる士郎は洗脳されキャスターの傀儡となる運命にある。凛はそう考え、であればこそ士郎に「次に会う時は敵同士」と言葉を投げたのだ。
 助けられるとは思っていなかった。相手はそれほど甘い相手ではない、凛は魔術師として私情を切り捨て、衛宮士郎という存在を切り捨ててその場を去ったのだ。凛は魔術師として冷徹に、最悪の事態までも仮定していたつもりだった。心を殺され操り人形となった士郎と対峙する機会があれば、速やかに殺してあげるつもりだった。無残な屍となり果てていたのなら、あなたは馬鹿よと笑い飛ばしてやるつもりだった。
 だが、甘かった、甘すぎた。
 神話の頃より裏切られ続けたメディアという英雄が心の有り様は、既にヒトのそれではなかったのだ。
 キャスターの根城に単身忍び込んだ凛は、そこに確かに、『衛宮士郎』を見つけ出す。
 ひと一人が丸ごと入れられるほどのガラスケース。透明な液体に満ちたそこに、彼はいた。

 脳だけになって。

 ああ、白子のようだな。
 瞬間、そんなことを思ったような気がする。
液体の中、幾本ものチューブで繋がれている脳は、信じられないほどに白く、形状は胡桃の中身のようであるにもかかわらず、ふぐの白子のようだった。脳幹部分より下はチューブに覆われていて見ることができず、紐のような視神経の先には二つの眼球がぷかりぷかりと浮いていた。
 その眼球がゴボリとまるで生あるかのように動き、ガラスケースの外に立ち尽くす彼女の方を向く。飽和する意識の中、その瞬間はっきりと凛は理解した。
 これは、士郎だ。衛宮士郎の成れの果てなのだ。
 そしてなによりおぞましい事に、彼はまだ生きている。彼は生きて、この状態でガラスケースの前に立ち尽くすわたしを認識している。
 そう理解した瞬間――




「げえぇっ……」
 胃液すらも出し尽くし、もう何も出すものがなくなっても、吐き気はやんでくれない。腹腔が痙攣し、息をすることすらも満足にはできず、地獄の苦しみだ。
「う、あ、うあああ……」
 そうして彼女は座り込んだまま、何かに怯えるようにして頭を抱える。
 洗面所には彼女の嗚咽とも呻きともつかぬくぐもった声と、胃液のすえた匂いが充満していた。




「学校に、行かないと……」
 度し難いことに、このような状態にあって彼女は未だ高校に通い続けている。そればかりでなく、成績も上位をキープし続けている。
 繰り返される毎日は、呪いに似ていた。毎夜悪夢にうなされ、毎朝胃の内容物を吐瀉する毎日、まるで何事もなかったかのように日々だけがただ過ぎていく。四季は移り時は流れて、何も変わらないまま、変えられないまま、日常だけがただ無為に過ぎ去っていく。これを呪いと言わずしてなんと言おう。
 よろよろと立ち上がり、身支度を整える。シャワーを浴びている暇はない、顔を洗い、汚れた下着を替えて髪に形ばかりブラシを入れる。のろのろと屋敷を出ると、陽の光で死にそうになった。


 聖杯戦争は既に終わっていた。
 青き槍の騎士も、最狂の狂戦士も、そして彼女のパートナーであった紅い騎士もすべて倒された。セイバーを擁し、また自らも大魔術を駆使するキャスターは敵対する者をすべて屠り、聖杯をその手中に収めていた。供給魔力不足という枷を外されたセイバーは圧倒的で、彼女はもうあの頃のように穏やかな顔を見せることも笑顔を覗かせることもなく、ただ機械のように他のサーヴァントを、そして時にはマスターを、殺した。
 アーチャーは、キャスターに殺された。中空より夥しい数の剣を投影させ射出するという見たこともないような魔術で、彼は針ネズミのような惨めな姿で一言も発することなくこの世界から消え去ったのだ。
 投影魔術。今にして思えば、あれはキャスター自身の魔術ではなく、衛宮士郎の脳髄を介しての魔術行使だったのだろう。
 とにかく、聖杯戦争は終焉し聖杯はキャスターの手に落ちた。凛は敗れたのだ、完膚なきまでに。



 気が付くと、衛宮士郎の家の前に居た。
「なんで……」
 唖然と呟くその声にはだが、隠し切れない怯えが感じられる。
 あの日決別して以来、この家には近寄っていない。それは衛宮士郎が敵であると認識していたからであり、敵地に足を運ぶのは危険だと判断したからであったが、果たしてそれは本心であったのか。無意識のうちに自分は恐れていたのではないか? 現実と向き合うことを恐れ、拒絶していたのではなかったか?
 ゴボリ、と頭の奥で水音が聞こえ、またあの強烈な吐き気と共にふっと一瞬気が遠くなった。
「危ないっ!」
 よろめいた身体を支えてくれる暖かな手の感触。
『衛宮くん……?』
 咄嗟に脳裏に思い浮かんだ彼の姿は――

 まるで、白子のようだった。

「うっ、げえぇ……」
「と、遠坂さん! どうしたの遠坂さん、しっかり、しっかりして!」
 その場で嘔吐し、意識を失った凛を抱え。藤村大河は、ただ呼びかけることしかできずにいた。



 自分は、どうやらこのぱっとしない男に恋をしているらしい。そう自覚したのは、いつのことだっただろう。
 誰それが誰それに気があるらしい、誰それが付き合い始めたらしい、誰それが初体験を済ませたらしい……そんな同級生たちの会話を、自分とはまったく違う世界のように聞き流していた。興味もなかったし、第一そんな暇はなかった。彼女は魔術師だったから。
 自惚れではなく自分の容姿は弁えていた。魔術師は客観を主とせよとの父の教え通り、自分が容姿的には他者より秀でていることは把握していた。だから最初は釣り合わないと思った、相対的に見て衛宮士郎は自分と釣り合う容姿の持ち主ではなかったから。
 だが気が付いたときには彼を目で追っている自分がいて、そんな風に客観的に容姿を比べている自分に腹を立てたりもした。恋をしたのは初めての経験だった。
 セイバーと一緒だったけれど、彼とデートをした。異性とのデートなどは無論生まれて初めての経験で、緊張しているのを悟られたくなくて必要以上に彼を引き回した。朝が弱いのに無理をして早起きし、お弁当を作った。公園で一緒にサンドイッチを食べた。美味しいと言ってくれる彼に、聖杯戦争のことも忘れてずっとこんな日が続けばいいとさえ思った。今までとは世界が違って見えた。

 そしてその日が、衛宮士郎を見た最後の日だったのだ。
 その日のうちに彼は連れ去られ、そして――

 ゴボリ、ゴボリ、ゴボリ。
 耳の奥にこびりついた水の音。ガラスケースにぷかぷかと浮かぶ、士郎の脳髄。

 そういえば。

 どうしてわたしは、アレを一目見て衛宮くんだと確信したのだろうか。


 ゴボリ、ゴボリ……


「うっ……」
 清潔なシーツの香りと、いつも感じる下着の不快な濡れ。
「あ、遠坂さん気付いたのね」
 朗らかな声。枕元で心配そうにこちらを覗き込んでいるのは、大河だった。
「いきなり倒れちゃうんだもの、びっくりしたわよ。貧血?」
 こみ上げる嘔吐感を必死に堪えながら、ええまあ、と曖昧に返す。どうやらその場で気を失ってしまったらしい。どうやらここが衛宮邸だということに気付いて、凛の怯えは耐え難いほどに強まる。袖の下の両腕は総毛立ち、押さえ切れない震えはガチガチと下品に歯を鳴らす。
 一年という時を経てもなお、この家は衛宮士郎の痕跡を感じさせるには十分すぎる場所だった。どこがどう、というのではなく、今にも襖を開けて彼が、衛宮士郎が「遠坂は意外とおっちょこちょいだからな」などとぶっきらぼうに聞こえる声で心配そうに客間に入ってきそうな雰囲気。
 ああ、だがそれは錯覚だ、今となってはそんな光景はありえない。
 なぜなら彼は――

 ゴボリ

「……遠坂さん、何がそんなに可笑しいの?」
 普段学校では聞くことができぬ教師のその硬い声で初めて、凛は自分が笑っているのだということを知った。
「え……」
 愕然とする。
 彼の生家に足を踏み入れただけでこんなにも恐ろしいのに、あの時に見た彼の変わり果てた姿を思い出すだけで、今すぐにでも吐きそうなくらいに恐ろしいというのに。
 どうしてわたしは、笑っているのだろうか。

「遠坂さん、聞きたいことがあるの」
 ビクリ、と。今度こそ凛の身体が恐怖のために固まった。
「士郎は、どこに行ったの?」
 ああ、そうだ、わたしはこれを聞かれるのが怖くて、無意識のうちにこの家に近寄ることをしなかったのだ。

 キャスターの所業か、藤村大河はあの日の記憶を一切失っていた。
 突然消えた弟ともいえる士郎と元同居人のセイバーという名の少女。そしてその日を境に家に寄り付くこともなく学校でも余所余所しい態度で自分と向き合うことを避けるようになった凛。その日の記憶が無いとはいえ、これだけの状況が揃えば疑いたくなるのも当然だ。むしろ一年もこんな状況が無かったことがこそ、不自然だったのだ。
「警察に捜索願を出してもなんの音沙汰もないの。ねえ遠坂さん、あなた士郎がいなくなったことについて何か知っているのじゃないかしら?」
 気さくで朗らかな教師、藤村大河はもうここにはいない。ここにいるのは、突然消えてしまった大切な弟のことを想うだけの一人の姉。いや、むしろこれは……
「黙っていては解らないわ、答えて。……いえ、答えなさい」
 世間体をかなぐり捨て詰め寄る彼女の様子に、凛は自分の考えが正しかったことを確信する。

 ああそうか、この人もわたしと同じだったんだ。
 わたしと同じように、士郎を――

 だが彼女の想いが遂げられることは無いだろう。なぜなら士郎はもうヒトと呼べる状態ではないのだ。魔術師でもなく一般人である彼女には、いまの士郎のあの在り方を許容できるはずもない。
 そう、もう彼、衛宮士郎は、一般人には手の届かない『場所』に在るのだ。

 そう考えた瞬間、凛の中で何かが変わった。
 それは目に見えるものではなく、彼女自身ですらなにも自覚していなかったろう。だが確かに、この時点で遠坂凛は変わったのだ。

「ふふ、ふふふ……」
「なっ、なに……?」
「ふふふ、ふふ。あははははははっ!」
 唐突に、狂ったように笑い始めた凛に、大河は数瞬だけあっけに取られたような表情をした後、彼女を睨み付け、怒鳴りつけた。
「なにが可笑しいのっ!」
 だが凛はそれに応えることなく、始まったと同じように唐突に笑いを収めると、そのまま立ち上がる。濡れた下着がべったりと肌に張り付いたが、もう彼女は気にしなかった。
「帰ります」
「なっ……!」
 それだけを素っ気無く告げると立ち上がり、再び唖然とする大河を一顧だにせず玄関に向けて歩き始める凛。
「ま、待ちなさい!」
 肩に手をかけてそれを押し留めようとした大河に、振り向く。
「――っ!」
「それでは、失礼します」
 自分に向けられた教え子の瞳の中に何を見たのか。そのまま立ち尽くす大河を残し、凛は一人衛宮家を後にする。
 もう二度と彼女がこの家に来ることはないだろうし、もう二度と彼女と会うことはないだろう。残された大河は、ぼんやりとそんなことを思いながら、その後姿をただ見送ることしかできなかった。

 光一つ差さぬ漆黒の暗闇の中を、凛は周囲を警戒しながらひたすらに歩いていた。

 魔力の通っている瞳が闇を見通しているとはいえ、やはり暗闇はあまり気分のいいものではない。ましてや、そこが敵の本拠たる場所であれば余計に。
 敵――キャスターに見つかれば間違いなく自分の命はないだろう。いや、死ねるのならばまだ幸運かもしれない。死ぬよりも恐ろしいという状態は、確かにあるのだ。
 そう、彼のように。

 周囲に気配を巡らす。
 敵は神代のサーヴァント、闇に紛れ気配を絶ったところで気休めにしかならないかもしれない。いまこうしている間にも闇の向こう側から自分の姿を見ているのかもしれない。いつ殺そうかと手をこまねいて、笑っているのかもしれない。
 思わず叫びだしそうになる弱い自分を殺し、ただ彼女は足を前に出すことだけを考える。

 そして――ゴボリ、と。
 何かが水中で蠢く音。
 闇の中、なんの変哲もないその水音に、だがまるで攪拌される腐汁を目の当たりにしたかのような快感を覚え、凛は思わず足を早めた。

 『早くこの先に進みたい』

 ゴボリ。
 脳内の熱く灼熱した部分が、そう凛を急かす。
 ドクン、ドクンと、心臓が耳の奥で早鐘のように鳴り響き、肌寒い空気のなか額に汗が滲む。

 『この先にあるモノを、早く見たい』

 やがて、漆黒の闇の中にスポットライトで照らし出したかのような一条の光。
 ヒト一人がすっぽり入るほどの大きさの、ガラスケースのような物体。
 ゴボリ、ゴボリ。
 よく見えない。中に何かが入っているようだったが、この距離からでは判別できない。
 もう少し近寄ってみるべきだ。早く、早くあそこに行かなくては。ゴボリ。

 ゴボリ、ゴボリ、ゴボリ。

 そしてそこに、『衛宮士郎』がいた。


「ああ……」
 ため息とも快楽の喘ぎともつかぬ暑い息が、凛の口から漏れる。じくりとにじみ出た液体が、凛の下着を濡らしていく。ここが敵地であることも頭から瞬時に消し飛び、ふらふらとまるで夢遊病者のようにガラスケースに歩み寄る。
 そこにはまるで白子のような衛宮士郎が、むき出しの眼球を向けて彼女を見ていた。
「士郎、ああ、士郎」
 ショーツを伝って、黒いニーソックスに染みを作るほどに、凛の秘部からはとめどなく液体が溢れ出る。恍惚の表情、震える手がゆっくりと冷たいガラスケースを這う。
「逢いたかった、逢いたかったよ士郎」
 初めてここで逢ってから、毎晩夢に見ていた。そのたびに嘔吐し、嫌悪し、そして快楽に下着を濡らしていた。初めて逢ったときから、そう、初めて『この』衛宮士郎に逢ったときから、自分は欲情していたのだ。恐らくはそれを無意識に否定してしまっていたのだろう、今にして思えば、それはなんて愚かなことだったのか。
 ゴボリ、ゴボリとゆたう液体の中で、ゆらゆらと揺れる白子のような脳と視神経に繋がった眼球。人間のもっとも原始的な姿、飾る物のない人間の真の姿。

「士郎、愛してる」

 ガラスケースに寄りかかり、獣のように突き出した臀部。左手はガラス越しに脳をいとおしげに撫で、右手はスカートの中に差し入れられている。
「は、あっ……」
 ぐちゃりと音がしそうなほどに塗れた秘部に到達した右手の指が、そのままショーツ越しに蠢く。物足りないのか、切なげに眉を寄せ突き出された腰がまるで何かをねだるかのように揺れる。
「ああ、士郎、んっ……」
 やがて指は、濡れそぼり用を為さなくなったショーツの中に潜り込んでいく。濡れた薄い陰毛を辿り、未だ表皮に包まれた陰核をゆっくりとマッサージするように揉んだ。手馴れたその様子は、常日頃からマスターベーションを行っている者のそれだった。
「士郎、わたしはね」
 恍惚の表情のなか、目だけを異様に光らせて、凛は衛宮士郎の脳に向けて話しかける。
「わたし、いつもあなたのこと思い浮かべながらオナニーしてたんだよ」
 指は陰核の表皮をめくり、起立したそこを小鳥が餌を啄ばむかのように指で刺激する。
「あっ、し、士郎がわたしを、んっ、愛してくれるのを、想像して、いつも……んんっ!」
 触れるだけだった指の動きが、こすり上げるようなそれに変わる。「うっ、ああっ!」嬌声は更に大きく、腰はまるで鎌首をもたげた蛇のように左右に揺れ、陰部からはとめどなく愛液が溢れ出して床にまで届いていた。
「あっはっ、あははは、いい、気持ちいい、気持ちいいよ、一人でするよりずっと、んっ、気持ち、いいよ士郎」
 恐らくはそれが癖なのだろう。陰口には触れず、執拗に陰核をこすりあげ身悶える凛を、ガラスケースの内側に漂う二つの眼球が捉えている。声を発する器官が備わっていないため、彼女の名を呼ぶことはない、そも生きているかどうかすら定かではない。だがそんな脳髄を前に、凛はただ快楽に身悶えている。
「あっ! 士郎、士郎! そこっ!」
 やがてその嬌声は切羽詰ったそれに変わり、ショーツの中に差し入れられた指の動きはは発狂したように激しく強くなる。
 最後に、起立しきった陰核を爪の先で引っかくようにして、彼女は絶叫した。
「ああっ、ああああああっ!」
 獣のように四つんばいになっていた凛は、力尽きたように床にずるずると倒れた。


 ゴボリゴボリと水の音だけが響く漆黒の中。床に伏し荒い息をついていた凛が、ゆらりと幽鬼のように立ち上がった。
 着衣に目立った乱れはない。だが両脚を覆った黒いニーソックスは愛液に汚れ、まるで血を吸ったかのように濡れて更に黒く変色している。そしてその豊かな黒髪の下には、彼女を知るものであれば驚愕するに違いないほどの満面の笑みが浮かんでいた。
「しろう……」
 まるで幼子のように、両手を突き出してゆっくりとガラスケースの脳髄に歩み寄る。
 その濡れそぼった右手の指先には、どこからともなく取り出した色鮮やかな真紅の宝石。
「もう離さない、あなたはわたしのもの」

 Tod。

 短くそう呟くと、手にした真紅の宝石を無造作にガラスケースに向けて放る。パキンとなにかが砕け散るような澄んだ音を残して。

一面が一瞬にして紅蓮の炎に包まれた。

「誰にも渡さない。藤村先生にも、桜にも、キャスターにも。誰にも渡さない」
 熱と衝撃で巨大なガラスケースには蜘蛛の巣のように罅が入り、すぐに轟音を立てて砕け散る。溢れ出る液体。既に炎に包まれていた凛の身体は、その液体を浴びて白煙を上げる。
一面に溢れ出した液体は一瞬だけ炎の勢いを弱めたが、この世のものならぬ魔術によって生み出された紅蓮は一時威力を弱めただけでまたすぐにその舌を四方に這わせ始めた。

「ああ、士郎……」
 火傷の痛みもまったく感じていない様子で、地面に打ち捨てられたように転がる脳髄に歩み寄る。四方から迫る炎は、すぐに彼女と彼女の両手に抱えられた白子を飲み込んだ。





「悪い夢はここで終わりよ、士郎」


 彼女のその呟きを最後に、あたりは灼熱の炎と黒煙に包まれ、何も見えなくなった。



 

<END>