a puppet
第二話
−そして契約は成された−
2004/5/5 久慈光樹
「初めまして、英霊エミヤ」
女のその言葉に、紅衣の騎士――英霊エミヤの双眸がすっと細められる。半瞬にも満たぬ刹那、発せられる刃のような殺意。だがそれはすぐにどこか人を小馬鹿にしたような薄笑いに変わる。
対する女――遠坂凛と名乗った魔術師は、エミヤの殺意に気付かなかったのか、それとも気付いていてあえて無視しているのか、小揺るぎもしない。
本来、英霊とは己の真名を隠すものだ。英霊の能力は現出した地域での知名度と信仰に拠る、能力が高いということは知名度が高いということであり、知名度が高いということは弱点も広く知られているということだ。英霊にとって、真名を明かすということは弱点を露呈するということに等しい。
だが英霊エミヤ、彼の場合は少々事情が異なる。
本当の意味での「守護者」である彼には、真名はさほど意味を持たない。彼は世界に使役される存在であり、他の英霊とは在り方それ自体が異なる。
彼にとって人々の信仰は力にはなりえない、だいいち彼が伝説に語り継がれるほどの英雄なのであれば、そも守護者になど括られてはいない。彼は掃除屋として世界に拾いあげられた存在に過ぎないのだ。
そう、この時代には彼の真名を知る者など居るはずがない。
居るはずがないのだ。
「驚いたな、私の真名を知る者が居ようとは。遠坂凛、君は魔術師としては稀有な――」
「凛よ」
彼の言葉を遮り、魔術師は短く言い放つ。
魔術師という人種を、エミヤはよく知っている。彼らは己の探求を最優先し、それ以外の事象には一切興味を示さない。それは一個の人間の在り方としては酷く歪であり、まるで虜囚のようだと幾度となく彼は感じてきた。
目の前に立つ己の新しいマスターも、多分に漏れず“魔術師”だった。英霊の召喚という百小節の魔術を行使し、見事それに成功しておきながらなんの感慨もないように見える。恐らく彼女にとって召喚の儀式とはただ手順の一つを消化したに過ぎないのだろう。
だがそれだけに、たかが呼び方一つに拘るかのような発言は不信だった。そのようなことに拘るなど、まるで魔術師らしくない。
「では凛、マスターのことは以後そう呼ぼう」
内心の不信感を表には出さず、そう口にする。
あえて名を呼んだのは挑発だった、マスターの不興を買うということはサーヴァントにとってはある意味致命的で、最悪の場合令呪を行使されて行動に制限をつけられることすらあり得る。そうなれば来るべき聖杯戦争に勝ち残ることなど到底不可能であり、勝ち残れぬということは聖杯を手にできぬということだ。故にサーヴァントは基本的にマスターに服従するのだ。
構うまい。どのみち聖杯になど興味はないし、掃除屋仕事もご免だ。これで激昂して令呪を一つ消化してくれるのならばむしろ望むところだ。
だが彼の期待は空振る。凛と名乗る女魔術師は怒気どころか表情すら変えず、それでいいわと短く返すのみ。意図的か否か、すぐに彼に背を向けて儀式の後片付けを始めたため表情を読むことすらできない。
『これはまた、随分とやっかいなマスターに当たったものだ』
またしても表情には出さず、エミヤは内心でため息をついた。
魔方陣の中心、砕けてしまった白い人骨の欠片を丁寧にかき集める魔術師。
サーヴァントである彼には解る、あれは形こそ違えど聖杯だった。
奇妙なことではある。本来は聖杯戦争の勝者に与えられるべき聖杯が、欠片とはいえ人の骨という概念で現存しているなど。
もっとも、聖杯戦争として正規の手順を踏まぬ強制召喚などということ自体がそも出鱈目だった。サーヴァントの召喚という儀式は、例え聖杯そのものを媒介としているとはいえ人の身に為し得るものではない。英霊とはただの使い魔にあらず、存在そのものが一種の奇跡なのだ。魔術師流に言えば英霊召喚は既に「魔法」の域だ。
にも関わらず、自分はここにいる。
人の身には為し得ぬはずの英霊召喚、それが為されたということは、あの聖杯以外にも何かしらの要因があるのか。
それとも――人では、ないのか。
目を向ける。マスターはてきぱきと、だがどこか気だるそうに召喚の魔方陣を消していた。これほどの魔術となると描き上げた魔方陣を消去するにもそれなりの手順が必要となるのだろう。
その動きには取り立てて不自然なところはない。ただ表情にやや無機質めいたものを感じるのが気になった。
「ときに、君は」
その声に、魔術師はこちらを向く。どこか空ろな瞳、何を考えているのか容易に読み取ることができない。
ふと。
彼の心に形容し難い感情が浮かんだ。
エミヤ自身にすら判然としない、どこか霞めいた感情の欠片。だが確かに一瞬だけ、彼は感じたのだ。それは例えるのなら――
「なにかしら?」
その声で我に返る。どうやら少し、ぼんやりとしてしまっていたようだ。
「ときに君は、今回の聖杯戦争でどのような願いを叶えるつもりなのだ?」
あえて踏み込んでみる。
欲望は人間のもっとも解り易い感情だ、彼女が正直に答えるなどとは微塵も思わなかったが、何らかの反応は見られるだろう。
だが返ってきた応えは、彼の想像を越えたものだった。
「あなたは何か勘違いしているようね、エミヤ」
「なに?」
「あなたは聖杯戦争のために呼び出されたのではないわ」
「なんだと……?」
「ここは倫敦の時計塔よ、冬木の街の聖杯戦争は未だ勃発してはいない」
絶句するエミヤ。
そんな彼の反応を女魔術師は楽しむ風でもなく、ただ淡々と事実のみを告げる。
「英霊エミヤ、あなたはサーヴァントでは――アーチャーではないのよ」
なんということだ、この女魔術師は聖杯戦争におけるサーヴァントシステムに拠らず、自分を召喚したというのか。
アーチャーではない、と彼女が言ったのは、サーヴァントシステム特有の仕組みであるクラスに分類されないということを言っているのだろう。殊更にクラスの一つに過ぎないアーチャーを例に出したのは奇妙だったが、なるほど、現在の自分はどのクラスにも分類されていないようだ。彼女の言葉は真実なのだろう。
冬木の聖杯戦争におけるサーヴァントシステム、英霊を聖杯の力を借りて現出させる魔術機構。そのカラクリがあってこそ、人の手には余る存在である英霊と仮とはいえ契約できるのだ。にもかかわらず、彼女は自力で自分を召喚したという。常軌を逸していた。
契約の繋がりを通して彼女から流れ込んでくる魔力量は、実のところやや少なかった。通常行動には何ら支障はないが、戦闘行為をこなすには心もとないほどの量しか魔力が供給されていない。もっとも少ないとはいえ、それはあくまで英霊を基準にした話だ。英霊の召喚それ自体よりも、むしろ維持にこそとてつもない量の魔力を必要とする。それこそ一介の魔術師には数秒も耐えられぬ程の魔力を常に供給せねば、この世界における英霊の肉体構成を維持することはできない。人間を基準としてみた場合、供給量から推測する彼女の魔力蓄積量こそが、そも常軌を逸していると言わざるを得ない。
あまりにも得体が知れない女。見た目こそ二十代半ばほどだが、そこは女魔術師の常、外見どおりの年齢ではないだろう。もしかしたら何らかの延命措置すら講じているやもしれない。だが彼女の奇妙さはそんな表面上のことではなかった。
疑問点は山のようにある。
なにより、なぜ彼女は英霊である自分を召喚したのか、その理由。
聖杯戦争のためでないのなら、なぜ殊更に英霊などという厄介なモノを召喚する必要があったのか。確かに英霊はこの世界でも比類なき存在だ、何かしら武力に拠らねばならぬ事情があるのであれば、十分に有効だろう。だが余りにもリスクが高すぎる。何らかの武力行使のために英霊を召喚するなど、森に落とした宝石を捜すために森ごと焼き払うようなものだ、賢明な魔術師であればいま少し人間に扱いやすいモノを召喚するだろう。
そう、英霊は危険なのだ。人間ごときになど支配できるはずもなく、冬木のサーヴァントシステムではそれを補うために令呪という強制権がマスターに付与される。神に近い格を持った英霊であっても、3つ与えられる令呪を用いれば強制的に従わせることが可能なのだ。しかし自力で召喚したとなればそのように都合の良い物があるはずもなく、今ここで自分が叛せば目の前の女はなす術もなく八つ裂きにされるだろう。いかなる理由があったとて、英霊を自力で召喚するなどは、この困難さは置いたとしても自殺行為に等しい。
「魔術師、君は“何”だ?」
思わず、問うた。
あえて何者か、ではなく、何か、と。
「言ったはず、私は遠坂凛、それ以上でもそれ以下でもないわ」
「英霊を単身で召喚できる人間などいようはずがない、凛、おまえは何だ? 人間なのか?」
彼の矜持に従うのなら、ここまで直接的な問いは愚かだった。問うて答えるような相手であろうはずもなく、答えのない問いを発するほどに彼は無駄を好むわけでもないはずだった。
「それはあなたが判断することね、エミヤ」
それだけを告げると、話は終わりだとばかりに踵を返した魔術師は、薄暗い地下室のなか唯一の出口である階段を昇り始める。令呪で縛られてもいない英霊である彼に悠然と背を向けて。
信頼しているのか、それとも襲い掛かられても撃退する自信があるのか。それとも何も考えてはいないのか。
「いいだろう、暫くは君の命に従おう、凛」
魔術師は、振り返ることもなく地下室を出て行った。
不可解な点は山積している。だがもっとも不可解な点は、彼の中にこそあった。
先ほど一瞬だけ感じた、言いようもない違和感。どこか霞めいた感情の断片。
あの時、彼は確かに感じたのだ、強烈な違和感を。
あえて例えるのなら、戦を前に使い慣れていたはずの剣がなぜか手に馴染まなかったような苛立ち。唯一信じていたものに、手ひどく裏切られたような怒り。
『ふん、例えが悪かったな』
思わず、自嘲してしまう。
信じてきたものに裏切られるなど、何を今更だ。もう幾度裏切られてきただろう、時の歩みなどというものとは無縁で、過去を振り返るような贅沢は自分には許されていなかった。この世界に生きていた頃の記憶などはとうに風化し、残されているものなど何一つない。既に自分が何を思って守護者と呼ばれる奴隷に身をやつしたかすらも判然とせず、ただ与えられた役割に従って掃除をするのみの存在に成り果てている。
その自分がなぜ今更に、違和感などをおぼえたのか。
「この疑問を解消するためだけに、この世界に留まるのも悪くはない」
薄暗く肌寒い地下室のなか、エミヤは誰にともなくそう呟くと、姿を消した。
<つづく>