しゃぼんだまとんだ

  やねまでとんだ

 やねまでとんで

  こわれてきえた

 

 

 

 

 


遠坂凛の金属バットな日々

−凛、シャボン玉とばすの事−

2004/3/27 久慈光樹


 

 

 

 背後から聞こえてきたのは、ビタン、というどこか漫画じみた転倒音と、びしゃりと何かの液体が零れる音。そして、あうっ、という幼い子供の小さな叫び声。

 思わず振り向いた遠坂凛の前には、5歳くらいだろうか、半ズボンをはいた小さな子供がうつ伏せにひっくり返っていた。

 

「大丈夫?」と、声を掛けるべきか一瞬だけ躊躇。

 転んだ子供の傍らには、少し年上の少年が、同じように立ち止まっているのが見えた。

 

 なるべく人と関わり合いにならないこと。

 それがこれまでの彼女の、魔術師としての生き方だった。

 決して人目につくことなく、誰にも興味を持たれることなく、誰にも興味を持つこともない。17年間、そうやって生きてきた。恐らくこれからも、そうやって生きていくのだろう。

 

 

「あーあ、もう、なにやってんだよおまえ」

 

 そうこうするうちに、転んだ子供は少し年上のもう一人の少年に助け起こされていた。

 

「いたいよぅ、お兄ちゃん……」

 

 よく見ると膝小僧を少し擦りむいている。まだ幼いその少年は、一旦立ち上がったがまたすぐにしゃがみ込んでしまった。

 

「ばか、これくらいなんだ。こんなのつばつけときゃなおる」

「いたいよぅ……」

 

 兄弟、だろうか。

 ぜんぜんたいしたことねーじゃねーか、とぶっきらぼうに少年。兄のその様子に、弟はますます目に涙を溜める。

 その光景を見ていた凛の脳裏に、過ぎし日の、もう色あせて満足に思い出せない情景がほんの一瞬だけ過ぎった。

 聡い子なのだろう。あの兄は、怪我をした弟に何もしてあげられないことを知っている。開いてしまった傷口を塞いでやることは彼にはできず、ただ、傷口自体をなかったことのように振舞うことしかできない。

 彼は弟が自分の足で立ち上がるのを待っている。きっとそれが弟のためになるのだと信じて。

 

「いたいよ、お兄ちゃん……」

 

 だけれども、それはきっと間違いだ。

 今なら解る。それは、間違いだったのだと。

 

 弟は、兄がきっと助けてくれるのだと、助けてくれるのだと信じているに違いないのだ。

 兄である彼が弟にしてやらなくてはいけない事は、傷を塞いでやることじゃない。傷をなかったことのように振舞うことでもない。

 

 彼はただ、いっしょになって泣いてあげればいいだけなのだ――

 

 

「はい」

 

 制服のポケットから取り出したハンカチを、とうとう泣き出してしまった弟にではなく、あえて兄の少年に差し出した。

 

「な、なんだよ……」

 

 見知らぬ女性から声を掛けられたからか、それとも泣いている弟を見られたことが気まずいのか、少年の声にはやや警戒するような色がある。だが構わずにハンカチをその手に握らせた。

 

「その子の傷口を拭ってあげなさい、ばい菌が入ると化膿するわよ」

 

 凛に促されたからというよりも、その言葉で弟が心配になったのだろう。少年は素直にハンカチを受け取ると、弟の傷口をぬぐってやった。

 

「いたい! いたいよお兄ちゃん!」

「がまんしろ、ばいきんが入ったらかのーするんだぞ」

 

 少年のその物言いが可笑しくて、クスリと笑う。途端に振り返った少年に睨まれた。

 

「お兄ちゃんの言う通りよ、男の子は簡単に泣いちゃダメなんだから」

 

 しゃくりあげる弟の子に声を掛ける、だがしかしその子は凛のその言葉を聞いて不満げな表情を見せた。

 

「ぼく、女の子だもん!」

「え……?」

 

 

 いもう、と……?

 

 

 

「ん!」

 

 やがて拭き終えたのか、少し血のついたハンカチを突き出してよこした。

 礼くらい言ってもよさそうなものだったが、逸らした顔と少し高潮した頬を見てまたクスリと笑ってしまった。

 

「なんだよ、笑うなよ」

 

 ふふ、ごめんね、と言いかけた凛の声は、あーっ! という小さな叫び声にかき消される。

 

「どうした?」

 

 少年が振り返ると、妹の子は地面に転がった小さなピンク色のプラスチックケースを悲しげに眺めていた。

 

「こぼしちゃった……」

 

 凛も小さい頃に見たことがある。それはきっと、シャボン玉用の石鹸水が入っていたのに違いない。よく見ると先の広がったストローが傍らに転がっていた。

 先ほど転ぶ音と一緒に聞こえてきた水音は、石鹸水の音だったのだろう。元から蓋をしていなかったのか、衝撃で外れたのか、横倒しになったそれには、中身がまったく入っていなかった。

 

「うぇ、ぜんぶなくなっちゃったよ……」

「泣くなって、兄ちゃんのわけてやるから」

 

 ポケットから取り出したお揃いのピンクのケース。蓋を開け、殻になった妹のケースに半分注いでやる。

 

「ありがとうお兄ちゃん!」

「ったく、もうころぶなよ」

「うん!」

 

 涙の後もそのままに、妹の子は兄に眩しい笑顔を見せる。

 その様子を、凛は眩しそうに見つめた。

 

 

 決して取り戻すことのできない過ぎし日の、ありえたかもしれないひとつの可能性。

 過去を顧みるのは、性に合わないのだけれども――

 

 

「ねぇキミ……」

 

 

 気付くと、問い掛けていた。

 

 

 

 

「妹さんのこと、好き?」

 

 

 

 

 口に出した瞬間に後悔した。

 そんなことを聞いて、何になるのだろう。

 

 時計の針は元に戻すことはできず、過去をやり直すことはできない。

 この小さなお兄さんに、自らの過去を重ねているに過ぎないのだと、自分でも気が付いているはずなのに。

 

 

 だけど、それでも――

 

 

「キミは、妹のこと、好き?」

 

 

 唐突な問いに、少年はしばらくきょとんとしたような顔をして。

 でもやがて、顔を逸らすようにしながら、それでもはっきりと、口にした。

 

 

「おれはこいつのこと――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「凛、なにをしているのですか?」

 

 夕暮れの中、ひとり縁側に腰掛けていたところに声を掛けられた。

 

「へぇ、シャボン玉か、懐かしいな」

 

 顔を向けると、士郎とセイバー。姿こそ見せないが、近くにアーチャーがいることも契約の繋がりから解る。

 

「えへへ、学校の帰りにちょっと寄り道してね」

 

 そう言って、ストローを石鹸水に浸す。ピンク色のプラスチックケースが、夕焼けに照らされて真っ赤に映えていた。

 

「むっ、これは……」

 

 恐らく初めて見たのだろう。凛が息を吹き入れたストローから次々と吐き出されるシャボン玉に、セイバーが目を丸くする。

 

「懐かしいな、子供の頃にはよくこうやって飛ばしたもんだ」

 

 士郎が言葉のとおりに懐かしそうに目を細める。

 姿を見せぬアーチャーは、セイバーのように初めて見る虹色の球体に目を丸くしているのか、それとも懐かしいと笑っているのか。

 夕焼けに染まる縁側。ゆっくりと、時間はその流れを滞らせたように流れる。

 

 自分と、アーチャーと、士郎と、セイバー。

 血の繋がりなどまったくないのに、ひとつ屋根の下で暮らし始めた擬似的な家族関係。嘘と欺瞞と利害関係だけで結ばれた、酷くいびつな家族ごっこ。

 

 なのに、どうしてここはこんなにも居心地がいいのだろう。

 

 少し前まではまったくの他人だった4人が、今こうして、夕焼けの中でゆっくりと昇っていくシャボン玉を眺めている。

 

 

 過ぎ失った時間を戻すことは、決してできないけれども――

 

 

 

「いまからでも、遅くないわよね、桜」

 

 

 

 その呟きは、誰の耳にも届くことなく。

 ただ、虹色のシャボン玉が夕日に照らされて、ふわりふわりと漂っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  かぜかぜふくな

   しゃぼんだまとばそ

 

 

 

 

 

<つづきます>