あんりみてっどちょこれーとわーくす

−前編−

2004/2/11 久慈光樹


 

 

 

「凛、何度言えば解る。そこは湯煎だ、直接火にかけては焦げ付いてしまうだろう」

 

 彼女の信頼するところのサーヴァントは、こと料理に関しては容赦がなかった。

 いや無論、容赦が無いのはいつものことだ。彼女のアーチャーは戦闘においても相手に慈悲などなく、それが故に彼女の唯一無二のパートナーだった。

 

「君の料理の腕は大したものだ。だがこと菓子作りにおいては、まったくもって無能だな」

 

 ビキッ と。

 何かが引きつる音が台所に響く。

 凛のフライパンを持つ手が震えた。

 

「だいたいからなぜフライパンを持っているのだ君は。君が作りたいのはチョコレートだろう、フライパンを持っている時点で落第だ」

 

 ビキキッ

 

「いかに私でもこれはもうどうしようもない、言葉も無いとはこのことだろう、いい加減諦めたらどうだ?」

 

 ゴゴゴゴ……

 

「む? 待ちたまえ凛、なんだその金属バットは、どこからそんなものを…… いや待て! フルスイングするかのように振りかぶるのはよせ! 話し合う余地は…… うごっ!」

 

 そうして台所は惨劇の場と化した。

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 いつもの通学路、天気は気持ちのいい快晴。だというのに、遠坂凛は疲れ果てたようにため息をつく。事実、彼女は疲れ果てていた。

 魔術師である彼女の事、魔力の充実している今のような状態ならば肉体的な疲労などさして問題ではない。

 魔力とはこれすなわち生命力だ。いかに肉体が疲労していようとも、魔力さえ十分であれば疲労は疲労足りえない。

『魔術師』とはそういう“在り方”なのだ。

 

「はぁ……」

 

 家を出てから何度目かのため息。彼女の疲労は肉体的なものにあらず。確かにここのところ睡眠時間が足りていないが、その疲労の真の出所は心の内、精神的なものだった。

 

 あとはまあ。

 心なし体がチョコレートくさいのが非常にムカツク。

 

「よう遠坂、今日は遅いじゃないか」

 

 はぁ、と。

 何度目かのため息をついたところで、彼女に掛けられる能天気な声。

 自分に言い聞かせるようにしてゆっくりと頭を巡らす。

 そこには想像していたとおりの、金属バットで叩きのめして血の海に沈めてやりたいくらいの笑顔。

 

「おはよう衛宮くん、そっちこそ今朝は随分ゆっくりね」

 

 む。と眉根を寄せる仕草。

 あえて「衛宮くん」と言ったのが解ったのだろう。なんか今日の遠坂は機嫌悪いなー、という失礼な心の内をそのまま表情に出して、衛宮士郎はさっくりとNGワードを口にした。

 

「なんだかこの頃はセイバーも桜も朝が遅くて」

 

 セイバー、そして桜。

 彼女らもきっと自分と同じなのだろうと、凛は理性に拠らず悟る。理性に拠らないものだから、それがそのまま表情に出た。

 

「とととと遠坂、落ち着け! 何があったかさっぱりまったく解らないけど、とりあえず落ち着け!」

 

 ずざざーっと大仰に避難して、腰の引けまくった情けない格好で士郎は叫ぶように言う。額には玉のような汗。

 対する凛は笑顔。もうなんというか7回殺してガソリンを掛けて火をつけた挙句に灰を海に撒いてあげてもよろしくてよ、というくらいの必殺の笑顔。こうなった時の遠坂凛は無敵であると、士郎は身をもって知っていた。

 

「あらどうしたのかしら衛宮くん、早く学校に行かないと遅刻するわよ。とりあえず次に私の前で他の女のこと口にしたらコロス」

 

 かっくんかっくんと水飲み鳥人形のように首を上下させる士郎。なんだかちっとも解ってない風の彼を前に、凛はまたはぁっとため息をついた。

 

 

 

 事の起こり、というほどの事もない。

 今日は2月の12日で、あと2日もすれば菓子業者の思惑に乗せられた女子高生が嬉々として年に一度のイベントに乗じるだけの事。

 魔術師にして探求者たる自分にはとんと縁の無いイベントだ。セントバレンタインデーなどというものは、日本固有の、多神教ならではの笑止なお祭り騒ぎ。

 

『だいたいバレンタインなどというものに浮かれるなど、君らしくない。ましてや相手はあの衛宮士郎だと? まったくもって度し難い、アレは君に釣り合うような器ではない、諦めたまえ』

 

 アーチャーの言ももっともだ。他ならぬ凛自身が、おのれの行動を御しかねている。

 彼ではないが、まったくもって度し難い。

 少し前の、そう、衛宮士郎と出会う前の彼女であれば、そのようなイベントに心惑わされることなど無かった。

 彼女は魔術師だ。魔術師にとって大切なのは己自身の知識の探求、以外の事象はことごとくが些事。

 だというのに――

 

「まったく、度し難いわ」

 

 度し難いけれど。

 

 道行く生徒が、思わず足を止めてしまうくらいに。

 遠坂凛の笑顔は、輝いていた。

 

 

 

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