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Aから始まるコミュニケーション
〜第1話 遠い音〜
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はあっ、はあっ・・・・苦しい・・・。
何を・・・しているんだ・・・・。
ここは・・・・なんなん・・・だ・・・。
何も・・・・見えない・・・。
何も・・・・聞こえない・・・。
早く・・・早く行かないと・・・・・。
・・・・・・。
・・・・何処に・・・?
・・・・何をしに・・・?
どうして・・・こんな所を・・・・走って・・・いるんだ・・・・。
何が・・・そんなに・・・・・。
何が・・・・・。
約束、だよ・・・・・・・・・
「364号室の患者さんが目を覚ましましたっ!」
周りの慌しさに、感覚が戻ってくるような感じがする。
まぶたが重い。
こんなに重かっただろうか。
目を開けようとするが、なかなか思うようにいかない。
ゆっくり、ゆっくり。
少しずつ光が差し込んでくる。
眩しいな・・・。
「ねぇ、だいじょうぶ?あなた、ここが何処だか分かるっ」
肩が揺さ振られる。
すぐ側に人の気配があった。
ここが・・・どこ・・?
そんなの・・・・・。
・・・・分からない・・・。
ここは・・・?
「ここ・・・は・・・?」
声を出すのが辛かった。
何・・・?
何が起こったのだろう。
ぼやけていた視界が、徐々に鮮明に映る。
白い天井、蛍光灯。
そして。
視界のすぐ脇に、顔があった。
見たことのない・・・顔。
その顔の、口が動く。
「あなた、2週間も眠ったままだったのよ」
その口の動きから少し送れて声が届くような感覚。
2週間・・・。
一体・・・。
「先生、患者さんが目を」
視界に新しい顔が入ってくる。
淡い服を着た・・・人たち。
「君、自分の名前が言えるかね?」
覗きこんだ男の方が、尋ねてくる。
自分の・・・名前・・・。
名前・・・・。
・・・・・・・・・。
「『ぼく』の・・・名前は・・・・・・名前は・・・・・・?」
遠くまで続く、ずっと遠くまで白い。
病院の廊下の上を歩いていた。
ぼくは・・・この、終わりのないような真っ白な床の上で・・・・。
ただ・・・歩いている。
2週間前。
血まみれだったぼくは、この病院に搬送されたらしい。
なにか大きな車と事故を起こして。
通報されたその場所には、事故の形跡がなかったと言うことだった。
その運転手が、ぼくをその場所へ運んでから連絡を入れた、それが警察の見解だった。
もちろんだが、その運転手は見つかってはいない。
そして・・・ぼくは・・・・何も覚えては・・・いなかった・・・。
ただ、手の中に握られていた紙・・・。
紙の切れ端に、一言だけ文字が残っていた。
祐一へ
それがぼくの名前なのか、それともぼくの知っている人間の名前なのか。
分からなかったが、なんだか・・・とても懐かしい気がした。
祐一・・・ゆういち・・・。
この名前は、ぼくと、ぼくの大切な何かを繋ぐ、とても大切な物のような気がして。
ぼくは、この名前を名乗ることにした。
ただ、『祐一』の名前で、捜索願いは出されていないらしい。
だから、これはぼくの名前では・・・ないのかもしれない。
それとも、ぼくにはもう捜索願を出してくれるような人達がいないのかも、と警察の人が言っていた事を思い出
す。
とにかく、ぼくが何処の誰なのかは全く分からない、それが結論だった。
ご丁寧に、身分が分かるような物は、全てなくなっていたらしい。
サイフすらなかった。
ただ、ポケットの中に、三万円が押し込まれるように入っていたらしい。
・・・・ふざけた話だ。
ぼくは、三万円で、全てを失ってしまったのだから。
「祐一……さん?」
不意に後ろから声を掛けられる。
ビクッとして振り向くと、そこには目覚めた時に付き添っていてくれた看護婦さんが、腕の中になにやら書物を
もって立っていた。
なぜだろう、『祐一さん』と呼ばれたことに、酷く心がざわめいていた。
静かに彼女と瞳を合わせたまま、立ち止まってしまう。
「…………?
どうかしました?」
軽く首を傾げながら、彼女はぼくに言った。
「あ・・い、いえ。すみません、ボーっと・・・えっ、と・・・あれ」
彼女の言葉に対して酷くうろたえてしまった。
そんなぼくの態度をみて、クスッと笑う看護婦さん。
「くすくす……私の顔に何かついてました?」
あごに手を持って行き、軽く笑う看護婦さん。
「いえ・・・。なんだか変な気分がしたもので。本当に自分の名前なのかもわからないし」
軽い気持ちで言った言葉だった。
だが、看護婦さんは顔を歪めると、押し黙ってしまう。
「あっ………」
気まずい空気が流れる。
ここだけ時間が止まってしまったかのような、そんな気がした。
「ごめんなさい……私………」
悲痛な表情を浮かべたまま下を向いてしまった看護婦さん。
言葉から、後悔の念が滲み出していた。
しまった。
まずかっただろうか。
「い、いや〜、俺の名前はきっと、もっとカッコよかったはずだからなー。祐一なんて何処にでもあるような名前
じゃなくて。だからかな、ちょっとピンとこないんですよー」
口が動いた。
考えるよりも先に。
この場をどうにかしようなんて考える前に。
看護婦さんが、驚いたように顔を上げる。
いや、驚いていただろう。
まさか記憶喪失で身内の存在すらわからず、どんな人間だったのかさえ分からない人間が、そんな事を軽軽しく
言ったのだから。
ただ。
それ以上に自分が驚いていた。
あんな言葉が出るなんて・・・。
ぼくには考えつかない。
こんな状況になっている人間が、そんな事を言えるなんて。
いや、自分が言ったのだが。
「…………………」
看護婦さんがぼくを見つめている。
声も出ないのだろうか。
ただ、さっきのいやな雰囲気は消えた、そんな風に思えたのは間違っているだろうか。
「それで、どうかしたんですか?」
ぼくは、看護婦さんに聞いてみる。
「えっ……あっ、はい?」
今度は看護婦さんがうろたえる番だった。
その拍子に、抱きかかえていた書物が床に落ちる。
「きゃあっ」
慌ててそれらを拾おうとする看護婦さん。
慌てた為だろうか、拾おうとしゃがみ込むと、さらに腕の中から書物が落ちた。
「あっ、あっ」
一生懸命拾おうとする。
そして。
拾った先から落としていく。
すでに、床のいたるところに紙が散乱していた。
その光景が妙に微笑ましくて、ぼくは笑ってしまう。
それに気がついたのか、看護婦さんはさらにうつむいて紙を拾う。
「手伝いますよ」
そういってぼくは自分の足元にある紙を手に取る。
見慣れない文字がたくさん並んでいるものだった。
カルテのようだ。
骨折している方の足に痛みが走ったが、何とかしゃがむことは出来た。
手の届く範囲のそれらを集める。
「す、すみませんっ」
下を向いたまま紙を集める看護婦さん。
ぼくも一緒になって紙を集めた。
少し経つと、今まで床の上に散らばっていた紙は、全て看護婦さんの腕の中へと帰っていっていた。
これが彼女との出会い。
なんでもないような事、ささいな、ただの小さなきっかけ。
ただ。
ぼくの運命はもう、既にその身を小さく動かし始めていたのかも知れない・・・。