前奏曲【始業式】

 春。
 雪の溶ける季節。
 萌ゆる新緑の眩しさ、頬を撫でる風の優しさ。
 掲示板に張り出されたクラス表に一喜一憂する生徒たち。
「祐一、また同じクラスだよっ」
 心から嬉しそうな声を上げる名雪。
 俺は適当に相槌を打ちながら、そこにはあるはずのない名前を捜した。
「残念だったな、実は俺たちも同じクラスなんだ」
「受験期なのに、この顔ぶれじゃあ……先が思いやられるわね……」
 腐れ縁よね、と文句を言いながらも笑顔を隠せない香里。
 北川の冗談に笑う二人を無視し、ひたすらにその名前を求め続ける。
 み、み、み、み…み……
「………ない…」
 淡い期待を裏切られ、ガックリと肩を落とす。
 そのまま、三人の声を無視して、俺の足は自然とあの場所に向かっていた。

 奇跡は、起こらなかった……。

 もう冬でないとはいえ、まだ人気のない中庭。
 それはそうだ、今日は始業式で、授業も部活もないのだから。
 きっと友達や部活仲間、恋人同士で楽しい平日の午後を過ごすのだろう。
「恋人同士で、仲良く商店街をぶらついて…か……」
 思わず、ため息。
 そのまま近くのベンチに深く腰を下ろす。
 かつて寒いなかふたりでアイスを食べたこともある、想い出のベンチ。
 もう二度と逢えない少女、起こらなかった奇跡。
 空を見上げれば、冬から春へと季節の移ろいを見せる、雲ひとつない淡い青。
 視界の端に映る、つぼみが膨らんでいまにも咲きそうな桜の群れ。
 今年は特に寒かったのか、この地方は桜前線を無視してまだ咲いてはいない。
「……遅すぎる」

「ごめんなさい……遅刻……しちゃいました」 

 隣から、知った声。
 もう二度と聞けなかったはずの。声。
「お前の名前、クラス表に載ってなかったぞ」
「ちゃんと二年生のも見てくれましたか?」
「いや、見てない……」
「ひどいです、一生懸命お勉強してっ……進級試験にも、受かった、のにっ……」
 嗚咽の漏れる感覚が短くなってゆく。
 もう、互いに平静を装うのも限界だった。
「お帰り……栞ッ!!」
「ゆういちさぁぁぁんッ!!」
 細い身体を力強く抱きしめ、頭を撫でながら、もう一度空を見上げる。

 一羽の鳥が身を翻して陽光を遮り、目の眩んだ隙にどこかへと消えていた。



第1楽章【放課後】

 HRが終わり、今年も担任となった石橋が教室を出ていくと同時に湧き起こる喧噪。
 約束を果たすため、俺は全力疾走で教室を抜け出した。
「……待って、祐一」
 はたと名雪に呼び止められる。
 用件を知っているだけに、あまり振り向きたくはないのだが。
「ごめんっ、盲目の先輩と屋上まで競争する約束なんだ!」
「この学校にはいないはずだよ、盲目の生徒」
 言い訳半分のボケを、いつも以上に厳しい目で掻き消す。
 今年は香里に代わって委員長になった分、責任感旺盛にもなったということか。
「だったら校門に人を待たせてて、遅れたらゲル状のジュースを飲まされるってのは」
「はい、雑巾。祐一は乾拭き担当だよ」
 今度は天然的なツッコミすら省略され、強引に仕事内容まで決めつけられる。
 確かに今日から二日間、俺は掃除当番だった。
「でもな、名雪、もしかしたら人の命が懸かってるのかも……」
「今日の晩ご飯、祐一だけ紅生姜スペシャルね?」
「清掃作業に勤しませていただきます」
「了承っ、だよ♪」
 説明不要の無敵必殺(?)一秒了承。
 どうも似てほしくない部分だけ母親に似てきている。
 この調子だと将来がとてつもなく不安だ。
(いや、それも時間の問題か……)
 悟った顔で不適な笑みを浮かべながら雑巾を受け取る。
 名雪は怪訝な表情を見せたが、思い直したように俺を見据えると、
「栞ちゃんとデートの約束なんでしょ? 早く終われば行ってもいいよ」
「ただちに任務を遂行するでありますッ!」
「了承♪」
 やはり、どこまでも秋子さんの娘なんだな、つくづくそう思った。
 そして、任務遂行(清掃作業)時間最短記録の伝説はこうして刻まれていった。

 二秒で靴を履き替え、昼下がりの混雑した昇降口を強行突破し、運動場を横断する。
 カール=ルイスも真っ青なタイムで無事(?)ゴールイン。
 後ろを振り返れば、あまりの速さに砂塵がもうもうと舞い上がっていた。
「……フッ、またひとつ伝説をつくってしまった」
「またひとつ遅刻回数も更新されましたけどね」
 クスクスと知った笑い声。後方やや斜め左。向き直す。
 確か、今朝もこの『いきなり』パターンだったような気がする。
「しっ、心臓が飛び上がるかと思ったぞ……」
「それはまた古典的な表現ですね」
「急に現れるから驚いたぞ」
「遅刻した祐一さんが悪いです」
 それを言われたらグゥの音も出ない。
 しかし俺とて、無意味な理由で遅刻した訳ではないのだ。
「名雪に脅迫されて、学校行事に貢献してきた」
「それはご苦労様でした」
 いつものにこやかな笑顔で労をねぎらってくれる。
 そう、いつもの……にこやかな笑顔だ。
 ポンッ、と置いた手で栞の頭を撫でてやる。優しく。
「ちょっ……祐一さん、恥ずかしいです……」
 しかし言葉とは裏腹にくすぐったそうな、嬉しそうな顔。
 いま俺のすぐ側にある、ずっと待ち望んでいた現実。
「行こうか、商店街」
「約束は守ってもらいますよ」
「……行こうか、あの公園」
「えぅ〜っ、どうして話を逸らすんですかっ」
 間違っても金欠とは言えず、俺はそのままスタスタと歩き出した。
 後ろから非難が飛んでくるが、どこか嬉しそうな声に俺も歩を止めなかった。

 と。校門を出たところで、目の前を少女の姉が早足で通り過ぎてゆく。
「おいっ、何か用事か!?」
 何となく声を掛けただけだった。
 俺もデートという大切な用事がある、特に呼び止める必要もなかった。
 しかし……。
「なっ、何でもないわよ!」
 慌てて立ち止まった香里の視線は妹を一瞥すらしなかった。
 申し訳なさそうに俺を見、それもすぐに逸らして、そのまま走り去ってしまう。
 あまりの反応に虚を突かれて、いつのまにか俺たちもその場に立ち尽くしていた。
「……おねぇちゃん」
 栞の、生気が抜けたような沈んだ声。そして表情。
(もしかして、お前ら……またケンカしてるのか?)
 そんな無神経な質問は、栞の心をいたずらに傷つけてしまうだけだ。
 真偽のほどはともかく、少なくともいま訊くべき事情ではない。
「そろそろ行こうか。お兄ちゃんと一緒に」
「そっ……そんなコト言う人、大嫌いですっ!!」
「膨れっ面にその口癖、それでこそ美坂栞だ」
「そういうのは、思っていても普通声には出しませんよっ」
 怒った顔もなかなか可愛いが、それこそ不謹慎というか、口にすべき内容ではない。
 そこに戻った生気を確認して、俺は今度こそ商店街へと歩き出した。

 これから始まる、俺たちの短い春と共に――……。



第2楽章【商店街】

 喧噪の合間を縫うように流れる歌謡曲。
 落ち着いた感じのクラシックな木造りに明るい空気の漂う店内。
「お待たせしました」
 そして、テーブルに置かれた巨大な物体と一枚の紙切れ。
 ウエイトレスは一礼すると、そそくさと足早に立ち去ってしまった。
 さも可笑しそうに、営業ではない崩れた表情を隠せないまま――。
「わぁ♪」
「こっ、これが噂の……」
「はい、ジャンボミックスパフェDXですっ」
 ……そこ、最後だけ発音を強調しないように。しかも略字で。
「コレ祐一のオゴリなんだよね〜」
「気前いいな、相沢」
「はい、そういう約束ですから」
 ……反論の機会もなしに、いきなり決定事項ですか!?
 しかも相変わらず量が尋常ではなかった。
 バケツ大のグラスに盛られた、文字通り『怪物』パフェ。
「四人だけで本当に攻略できるか、コレ……」
 思わず、しかし恐る恐る口に出す。
 同じ事を思っていたのか、女性陣は下手なことは言えまいと閉口してしまった。
 俺は非甘党だし栞は小食、名雪だってそう大量には食べられないだろう。
 我ながら『攻略』とは的確な表現だと思った。思わずにはいられなかった。
 立ちはだかる強敵からは漫画のような凄まじいオーラが発せられているのが見える。
 まるでレベル1にして宿敵バラ○スに遭遇してしまったかのような心境だった。
 どうしようもなく手を出せないでほとほと困り果てていた、しかしそのとき、
「フッフッフ……皆さん、俺という存在を忘れちゃいませんか?」
 不意に響き渡る不気味な笑い声に俺たちは恐れおののいた。
 それは怪物パフェ攻略四天王(?)最後の一人、北川潤(17)だった。
「おぉっ、ケンオウ最後の一人・賢王北川よ、何か打開策でもあるのか?」
「甘いな勇者相沢よ。学園唯一、真の隠れ甘味王とは他ならぬ俺のことだッ!」
「よし、僧侶名雪、魔法使い栞よッ、賢王北川に続けぇぇっ!!」
「らっ、らじゃー!」
「えぅ〜、何のことだかさっぱりですぅ……」
 剣王と拳王はどうなったんだ、という矛盾点は敢えて無視しておく。
 事情を呑み込めないまま場に流される名雪と、小首を傾げたままの栞。
 そのふたりを巻き込んでの大魔王討伐冒険譚はこうして幕を開けた。

 そして三十分後……。

「ありがとうございました」
 百花屋を出ると、カランカラン、と小気味のいいベルの音が鳴り響く。
 それはまるでギリギリの瀕死で戦闘に勝利した、俺たちへの祝福のようにも聞こえた。
 そして俺の財布から夏目漱石が三枚と桜が五枚、確実に消滅していた。
「うぅ、金欠だって言ったのに」
 残金は、と中身を見ると……うわっ、夏目さんが一枚しかないっ!
 栞とのデート資金はどうしてくれる、とばかりに非難の視線で攻略王を睨み付ける。
「どうして俺だけなんだ、水瀬もだろっ!」
「それは男としてかなり聞き苦しい言い訳だぞ?」
 だから彼女が出来ないんだよ、と一応トドメを刺しておく。
 その場に撃沈し廃人と化した哀れな男の手からは一枚の夏目さんが顔を覗かせていた。
「わたしも出すよ」
「いいって」
 北川から奪うように千円札を受け取りながら、その親切だけは辞退する。
 栞だけではなく、先のは普段の名雪に対する感謝の気持ちも込めてあったからだ。
 しかしそれを知ってか知らずか、憂いを含んだ表情で首を横に振ると、
「ううん、これは……少ないけど……栞ちゃんの全快祝いだよっ」
 最後は栞に聞こえないよう小声で、俺の手に無理矢理ねじ込ませる。
 開いてみると、そこには――新渡戸稲造が一枚。
「おいっ、こんなの受け取れないって!」
「それで頑張ってデートしてね〜」
 遠ざかる声に面を上げると、名雪はちょうど先の角に消えるところだった。
 いまから走れば追い付けないこともないが、それは何故かはばかられた。
「祐一さん、どうしたんですか?」
「え? あ、いや……何でもないんだ」
 名雪の気持ちに、俺は素直に感謝することにした。

「なぁ相沢、ちょっと……いいか?」

 廃人状態から復活したらしい、北川のいたって真面目な口調。
 栞はと見ると、商店街のショーウィンドウに目を輝かせていた。楽しそうに。
「何だよ、改まって」
「栞ちゃんのこと、守ってやれよ」
「何言ってんだよ、そんなの当然だろ?」
「最後の最後まで……しっかりと守ってやるんだぞ」
 真剣な眼差しに真剣な口調に、俺も思わず姿勢を正してしまう。
 相手に有無を言わさない、北川らしくない言葉の重み。
 しかし何て事はない、その口元は――歪んでいた。
「だってそうしないと、美坂も俺のこと気にしてくれないからさぁ♪」
「解った解った、真面目に反応した俺が馬鹿だったよ」
 やはり最後まで決まらないヤツだ、と思いながら軽く挨拶して別れる。
(悪いけどな……言われるまでもないんだよ)
 北川が去ったことすら知らないまま相変わらず幸せそうな栞を見て、そう思った。
 別れてから今朝再会するまで、ずっと望んで、自分自身にも言い聞かせていたことだ。
「ずっと、守ってやるからな……」
「……え、何か言いました?」
 不意に振り向いた栞の笑顔に、確かな暖かさを見つけて。
「いや、何でも……ないよ」
 不思議そうに首を傾げながらも微笑む栞に、確かな愛おしさを感じて。

 復活した栞とのデート初日は、こうして過ぎていった。



第3楽章【現実への帰還】

 一学期二度目の帰りのHRが終わり、伸びをしながら席を立ち上がる。
 ふと気配がして横を見れば、モップと雑巾を持った名雪が待機していた。
「なぁ、俺ってそんなに信用ないか?」
「うん、だって昨日と同じ顔してたもん」
「ぐあっ……やるな、さすがはマイシスター」
「いつから祐一の妹になったんだよ〜」
 似たようなものだろう、と心の中でそうツッコんでおく。
 いとこの拗ねた顔に平穏な日常を感じつつ、今日は差し出されたモップを受け取った。
「でも祐一、笑えるようになった……」
「……えっ!?」
「仮面みたいな笑いじゃなくて、本当の……心からの笑顔、見せるようになった……」
 思わず名雪の顔を凝視していた。
 いつも俺のことを見守り続けていたからこそ出る言葉。
 それだけ、名雪に心配をかけ続けていたという証拠。
 そして――恐らく、それは秋子さんにも――。
「栞ちゃんのお陰……かな?」
「……あぁ、そうかもな」
 忘れもしない二月一日から、昨日までの二ヶ月間。
 ずっと俺は無意識のうちに心を閉ざしていたのかもしれない。
「だからこその"お礼"なんだよ♪」
「えっ、昨日の……五千円札か?」
「そう、祐一は新渡戸稲造の格言って知ってる?」
「そりゃ……あっ!」

『わたしは祐一と栞ちゃんとの"架け橋"になりたい』

 もしかして、名雪はそう言いたかったのだろうか。
 そこまでの深い想いを込めて、あの一枚の紙幣を渡してくれたというのか。
「あの五千円……俺たちのお守りにしておくな」
「そっ、そんな、使わないと意味ないよ〜」
 不満を声に表しながらもその表情は嬉しそうなのを確認してから廊下に躍り出る。
 モップ掛けなら乾拭きよりも確実に早く終わる、そして栞との待ち合わせにも――。
 名雪の母親譲りの配慮の良さに多大な感謝をしつつ、
「とぉりゃあああぁぁぁぁぁぁ……」
 俺はどこぞのメイドロボよろしく廊下を駆け抜けていった。

 風を切る。駆け抜ける。景色が流れる。遠ざかる昇降口。
 両足から京急VVVFモーター音を唸らせ、阪神ジェット加速が目的地を引きつける。
 関西圏新快速は最高130km/hを叩き出し、名鉄の神業ブレーキがタイムを縮める。
「停車時にもファミレド〜って鳴るのが嬉しいですね♪」
「そんなマニアックな常磐線ネタはいいから……」
「祐一さん、今日も遅刻です……」
「今日は廊下を自分の顔が映るくらいに研磨してきた」
「じゃあ、許してあげますっ♪」
 頬を綻ばす。栞らしい、暖かく柔らかな微笑み。
 果たして許される行為なのかどうか甚だ疑問なのだが、怖いので一応頷いておく。
 傷ついたゲームCDじゃあるまいし、そこまでする必要はなかったのかもしれない。
「今日はあの公園に行かないか?」
「あっ……ちょうど、これ持ってきてるんですよ〜」
 鞄から取り出したスケッチブックを嬉しそうに両手で抱く。
 本当に幸せそうな笑顔……というより、むしろ顔に『待ってました』と書いてあった。
「……ま、また似顔絵か?」
「あまり嬉しそうじゃありませんね」
「いや、そんなことないぞ! 本当は飛び上がりたいくらい嬉しいんだッ!」
 栞の、悲しそうに翳(かげ)った表情を見て、慌てて身体をそれらしく小躍りさせる。
 しかし、おっとり系キャラの名雪とは違って、栞にはバレバレだったようだ。
 俺の顔をジッと見つめて、恐ろしいほどの笑顔で、最凶最悪の呪文を紡ぎ出す。
「罰として、絵が完成するまでは身体を1ナノメートルも動かしたらいけません♪」
「何ですとぅっ!?」
 そんな電子顕微鏡単位の数字が出てくるとは……美坂家の次女、恐るべし。
 ふと、そこで俺は重要なことを思い出した。
「なぁ、長女に何かあったのか?」
「……お姉ちゃん?」
「今日欠席してたから、栞なら事情知ってるかと思って」
 いままで無遅刻無欠席の香里が、急に休んだこと。
 委員長の名雪に訊いても分からなかったこと。
「…………」
 ザァッ。風がまだ咲かない桜の木々を揺らした。
 栞はただ押し黙っていた。

「もしかして、お前ら……またケンカしてるのか?」

 昨日は訊くことすら躊躇した疑問を、俺は自然に口から出していた。
 妹を完全に無視していた姉の態度が、いまでも心の中で引っ掛かっていた。
 さらに流れる沈黙が、その事実を肯定しているようにも思えた。
「お姉ちゃん、体調を崩したんです……起き上がれないくらいに」
 やっとのことで、絞り出すように呟く、その声は震えていた。
 ザワザワと音を立てて桜の葉を揺らす風に、いまにも掻き消されてしまいそうな……。
 そんな、弱々しくて小さな声だった。
「……ごめん」
 俺は自分の馬鹿さ加減を呪った。
 ただ姉を心配していただけの栞を、その心を傷つけたこと。
 守り抜くと誓った少女のこころを、他ならぬ俺自身が傷つけてしまったこと。
「だったら……約束、守ってくださいね」
 栞の声は明るかった。
 俺に寄りかかるように、でも、俺の心を包み込むように――。
「あぁ、今日は微動だにしない」
 頷き、力強く応える。無茶な話だが、栞のためならできるような気がした。
 少女は笑顔を見せると、俺の手を取って足早に歩き出した。あの公園へと。
 仮面ではない、心からの表情と、小さくて少し冷たい、手の温もりに包まれて。

 俺を現実に戻してくれた最愛の少女に、たくさんの感謝をしながら……。



第4楽章【公園】

 カリ、カリ、シュッ、シュッ……。
 春の夕暮れ、噴水のある公園に、コンテを走らせる音が響き渡る。
 誕生日にプレゼントしたスケッチブックを挟んで、俺と栞は向き合っていた。
 約束通りにポーズを固定したまま。この音を聴き続けて二時間以上は経っただろうか。
 そろそろ肉体的に限界が来ていた。手足が痺れ、動きたくても動けない状態だった。
「……なぁ、まだ完成しないのか」
「あと少し……もうちょっとなんですッ」
「これで何回目だろうな、その台詞を聞いたの……」
 ピタッ。スケブに走らせていた手を止めて、非難めいた視線がこちらを向く。
「そんなこと言う人、嫌いですっ!」
「上目遣いに拗ねてみせたって、逆に可愛いだけだぞ?」
「うぅ……」
 照れ混じりの複雑な表情。恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむく。
 だからその仕草が余計に可愛いんだって。でも、自覚ないんだろうな。きっと。
 何気なく視線を上げれば、西の空は真紅に燃え、東の空には帳が下りようとしていた。
「そろそろ時間も時間だし、この辺にしとくか?」
 明日もあるしな。そう言って、痺れる足に鞭打って立ち上がろうとしたとき。
「ダメですっ、絶対に動かないでください!!」
 信じられないほど早い反応。真剣な表情で、懇願するような瞳で。震えながら。
 何が栞をそうさせているのかは知らないが、俺は望み通り体勢を戻すことにした。
 ハァ、と漏れる溜息ひとつ。よくは分からないが、安心してくれたのは確かなようだ。

「……今日には今日の絵が、明日には明日の絵が在るんですよ」

 落ち着きを取り戻し、しばらく絵の完成を進めていた栞が、独り言ちるように呟く。
 ふと手を止め、そっとスケブを閉じ、大切そうにその小さな胸に抱え込む。
 立ち上がって、自分の居場所を求めるように、まっすぐに俺を見つめて。
「だって、昨日の風と今日の風は……ぜんぜん、違うじゃないですか……」
 ザアァ……。噴水が一時的に活動を止めた。
 まっすぐに俺を見ているはずなのに、栞の瞳にはその遥か彼方の空が映っていて。
 ほんの数メートルしか離れてないはずなのに、その存在がとても遠いものに思えて。
「本当に大切なものこそ、日常の中にありふれているものばかりで……」
 両手を空高くかざして、視線をもその先の高みを追い求めるように移動させて。
 儚い笑顔。その存在の希薄さに、一瞬、俺は薄ら寒さを覚えた。

「……ゆういち……さん……?」

 駆け寄り、思わず抱きしめていた。
 少女の細い身体が壊れてしまうくらいに強く、力一杯、ギュッと抱きしめていた。
「だったら……大切なことに気づくことが出来たのなら……どうして、お前……」
「痛いです、悲鳴を上げます……」
 悲鳴を上げられても離すつもりはなかった。
 開放した途端、彼女の身体が空の闇に消えてしまいそうで……離したくはなかった。
「日常に幸せを感じられるんなら、もっと……いつもの微笑みを、見せてくれよ……」
 その存在を、いつまでも俺のすぐ側に留めていたくて。
 俺は……さらに力を込めた。
「痛いです、離して……くださいっ!」

 ドンッ!!

 突き飛ばされていた。尻の痛みに思わず表情を歪める。
「…………ぃです」
 栞の、聞き取れないくらい小さな声。
 でも、それが正の感情でないことは感じ取れた。
「祐一さんのこと、大嫌いです……」
 背筋が凍りつく、全身から冷や汗がドッと流れ出す。
 ライトアップされると同時に噴水が勢いよく活動を再開させた。
 逆光で見にくい栞の表情。怒りか、悲しみか、それ以外なのかすら分からなくて。
「祐一さんのこと、嫌いになりました……もぅ、さよならですっ……」
 震える声を耳に残して、そのまま栞は走り去ってしまった。
 俺は追いかけることもせず、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
 どう考えても理由が解らない。決して冗談ではなく、本気で言っていた。
 俺が抱きしめた理由を、変な意味に受け取った……?
 そんなはずはない、栞は見た目よりも遥かに聡明なのだから。
 だったら、どうして"さよなら"なんて……。
「……あっ、栞のヤツ」
 ふと、噴水脇――栞が座っていた場所に置き去りにされた忘れ物が目に入る。
 近づいて手に取ると、俺は何とはなしにスケブを何枚かめくった。
 栞が自分の誕生日に描いた俺の絵。続いて、悲しくも懐かしい"さようなら"の文字。
 その後は、恐らく入院中の栞が病室の窓から見える風景を描いたのだろう。
 時折、特別に自宅に戻った時のものだろうか、違う場所の絵も混じっている。
 そして、相変わらず上達する気配のない人物画。姉や家族の姿が見て取れる。
 俺はそれらを一枚一枚、ゆっくりと観ていった。栞が随所随所に感じた想いを。
 俺の知らない、栞の過ごした時間と空間を紐解き、見守るように"読み"進めてゆく。

 ……どうしてだろう。この一冊に凝縮された、物語の結末を見てはいけない気がする。
 残りのページが薄くなるにつれ、鼓動がどんどん高まっていくのが分かった。

 そして、開かれた……最後のページ。
「!!!」
 俺はそれを正視できなかった。理由は解らない。ただ、瞬間的にスケブを閉じていた。
 彼女は、俺の後ろに何を観た。ここには、俺と栞のふたりの他は居なかったはずだ。
 心臓が高鳴り、ドクン、ドクンと爆発するような音が耳元で聞こえる。

《……ボクのこと、忘れてください……》

 脳裏に響く声。それで、すべてが繋がったような気がした。
 完全に理解できた訳でもないのに、本能が痛いほどにそれを感じ取っていた。
 見えなかった表情。去り際、一瞬ライトに照らし出された栞の表情。思い出す。
 あれは、間違いなく……大切な何かを諦めたような、悲しい笑顔だった……。
「し、しおり……栞ィィッ!!」
 猛然と走り出す。公園中を、周囲一帯を、くまなく捜す。
 しかし、少女の姿は、夜闇にその存在を掻き消されたかのように見当たらなかった。
 どうしてすぐに追いかけなかったんだ、と遅すぎる後悔をしても何も始まらない。
 俺は美坂家への地理を思い出しながら、帳の下りた街並みを駆け抜けていった。

 最後のページには、困り顔の俺の背後に……背中から翼を生やしたあゆが立っていた。



第5楽章【病院】

 夕食時。美坂家には誰も居なかった。ベルを押しても反応がない。
 すべての窓からは夜と同じ暗がりが顔を覗かせ、わずかな光すら漏れることはない。
 念のため公衆電話から掛けてみたが、数回の呼出音を経て留守録に切り替わるだけだ。
 共働きの両親が各々所有しているはずの車も、ガレージには停まっていなかった。
『祐一さんのこと、嫌いになりました……もぅ、さよならですっ……』
 唐突にそんなことを言った理由。悲しそうな笑顔でそんなことを言った理由。
 その答えは、スケブの最後のページに描かれた少女が握っている。そう確信が持てた。
 俺の背後で、白い翼を広げた、栞とよく似た悲しげな表情で立っているあゆの姿。
 栞が残したメッセージなのか、それとも……本当に栞には見えていたのだろうか。
 とにかく時間がない。早く栞を見つけ出さないと、取り返しのつかないことになる。
 根拠はないが、何故だかそう思えた。感情の最も原始的な部分がそう訴えていた。
 ふと思い至って公衆電話に入り直す。この街で一番よく知っている電話番号。
「……はい、水瀬ですが」
「名雪かっ、悪い、香里の携帯、知ってるか!?」
「祐一、どうしたの……そんなに慌てて」
「急を要するんだっ、早く教えてくれ!!」
 事態を察してくれたのか、ふたつ返事で承諾すると、受話器から保留音が流れ出した。
 しばし待つ。名雪は携帯を持っていないので、アドレス帳を取りに行ったのだろう。
 驚くべきことに一分以内に保留音は解除され、いとこが数字の羅列を口にしてゆく。
「……サンキュ、助かったよ」
「待って」
 切ろうとした電話の向こうから、名雪の落ち着いた声。
 一呼吸おいてから、俺は鶯色の受話器を耳に当てなおした。
「栞ちゃんと、香里を……助けてあげてね」
「……分かってる」
 頷き、今度こそ受話器を置く。カードの取り忘れを警告する電子音が三回鳴った。
 まるで生命維持装置を連想させるような音。夜の電話ボックスに悲しく響く。
 折り返し、覚え立ての電話番号を叩く。十一桁の数字を、祈るように押してゆく。
「出ろ……頼むっ……出てくれぇぇっ!!」

『オ掛ケニナッタ電話ハ、電波ノ届カナイ場所ニ居ルカ、電源ガ入ッテイナイタメ……』

 音信不通を告げる無機質な声。淡々と。
 最後の希望が音を立てて崩れてゆくのが分かった。
 余程の事情があるのか、または、本当に電波の届かない場所に居るのか。
 他の可能性がない訳ではない。外食。体調不良の香里を病院に連れていった。
 それらはいくらでも考えつく。いくらでも嫌な想像からは回避することができる。
「でも、きっと……栞の病気、まだ完治してなかったんだ……」
 それも可能性の問題だった、しかし、明らかに……きわめて確率の高い可能性。
 医療機器が数多く点在する、病院内では携帯電話の電源は切らなければならない。
 ノートパソコンなど、電磁波の発生源は医療装置や計器を狂わせる恐れがある。
 よく電車内で車掌が携帯の電源を切るよう警告するのは、実はこのためなのだ。
「栞が通ってた病院って、確か……市立病院だったよな」
 ……それは、もはや予感の域を遥かに凌駕していた。
 ようやく受話器を置き、ボックスから出ると……遠くに赤十字が浮かび上がっていた。

 あそこに、香里が……栞が、居るんだ……。

 病院までは、あっという間だった。
 受付で栞の病室を確認し、言われた通りに順路に従ってゆく。
「やっぱり、本当に、あいつ……」
 時間がないことを知っていて、二日間だけ、学校生活と、デートを楽しんで。
 いくつかの角を曲がり、階段も何度か上り、長い廊下を突き進んでいくと――。

   【4321】  美坂 栞

 理解していながらも、やはり最も見たくなかった名前が……そこにはあった。
 扉を横に開ける。カラカラカラ、とレールを滑る乾いた音が響く。
 病室の中は、透明のビニールシートでこちらとベッドとを遮断してあった。
 そして、栞が眠っているであろうベッドの側の、六つの目が俺を凝視していた。
 三人の人間は青緑の割烹着(かっぽうぎ)を身につけ、同色の帽子を被っていた。
 白く大きなマスクもしている。その仰々しい姿に、俺はひどく戸惑ってしまった。
「……あいざわ……くん……?」
 三人のうち、栞の横でパイプ椅子に腰掛けていた女性が俺に声を掛けた。
 恐るおそる、あるいは深い絶望のなかに一条の光を見たような、心許ない声。
 彼女は席を立ち、ゆっくりと俺に近づき、ビニールシートの扉を慎重に潜った。
 まるで何かを振り払うように割烹着とマスクを素早く脱ぎ取る。
 その下から現れた顔は、予想通り……美坂香里だった。
「どうして……そんな格好をしてるんだ」
「著しく体力の低下している患者を、外界の雑菌や細菌から守るためよ」
 ひどく事務的な口調。妹を想う姉とは思えない口調で。
 いや、違うか……香里は、まだ逃げ続けてるんだ。
「香里、ちょっと来いっ!」
 否応なしに手を引いて重々しい空気の漂う病室を飛び出す。
 少し離れた休憩所まで足早に歩いて、ようやく俺は立ち止まり振り返った。
「なによ、あいざわく…」
「時間がない、俺の話をよく聞いてくれ」
 文句混じりに視線を逸らす香里を、まっすぐに見て、出来る限り真剣な口調で。
 俺の口走った意味を理解したのか、余計に事実認識を避けようと、顔まで逸らして。
「……また、そうやって栞を避ける気か……?」
 辛辣な言葉を浴びせかける。彼女のためだとは言え、胸がズキッと痛んだ。
 怯えた表情。暗い瞳に涙を溜め、頬に雫が伝うまでそう時間は掛からなかった。
「答えろ、香里……ずっと避けるつもりなのか!?」
「避けたいだなんて、そんなわけっ……」
 普段の姿からは想像がつかないほど、脆い内面をむき出しにする少女は弱々しかった。
 これでは、笑顔の仮面で自分を守り通した栞の方が、よほど強く思えてしまう。
「だったら、答えてくれ……」
 両手を香里の頬に宛て、多少強引にでも俺の方に向けさせる。
 今度は静かな、落ち着いた声に、彼女の視線がゆっくりと俺に向けられる。
「栞は、本当は、どうなんだ……?」
「……相沢くん、本気……?」
 本音を言えば、俺だって正直、真実を知るのは怖い。
 だが、知らなければ事態は変わらない。むしろ悪化の一途を辿るだけだ。
 それこそ……栞の病状のように、香里の心の痛みのように……。
 心細そうな香里の瞳を、包み込むように真芯から捉えて、俺は力強く頷いた。
「名雪に頼まれたんだ。ふたりを……栞と、香里を……助けてくれって」
 香里の目の色が変わった。孤独感と罪悪感に怯えていた闇が、晴れ渡ってゆく。
 自分を深く閉じ込め、親友の存在と、その想いを忘れていた心が、解き放たれてゆく。

「……栞ちゃんは、ずっと病室で寝たきりだったんだよ……ずっとな……」

 知った声。俺の数少ない男友達の。
 振り向く。香里を支える手を解いて。
「北川、お前……知ってたのか!?」
「あぁ、ずっとな。相沢がデートしていた相手は……ぐぅっ!!」
 俺は北川の胸倉を掴んでいた。本気で睨み付けていた。
 知っていて、やがて訪れる悲劇を知っていて、こいつは……笑ってやがったんだ!!
「栞ちゃんには時間がなかった……もぅ、時間がなかったんだよ……」
 悔しそうな表情と、声で、北川の視線が栞の病室に向けられる。
 それは俺が本能的に感じていたことだった。存在の希薄さ、悲しい笑顔。
 北川の立場に立ってみれば、事実を知っていながら沈黙を通す辛さもあったのだろう。
 申し訳なさで胸がいっぱいになって、俺は友人の胸倉をそっと離した。
「ゴメン、俺、何か……自分勝手なことばかり言って」
「俺のことは気にするな、ただ……美坂のこと、よろしく頼む」
 北川は香里に悲しげな笑みを向けた。香里は、辛そうに視線をそっと伏せた。
 それが合図だったかのように、じゃあな、と軽く手をあげて北川は去っていった。

「栞はずっと苦しんでたの……でも、始業式の朝、体調が急に良くなって……」

 俺の背中を震える手で弱々しく掴みながら、香里は語り始めた。
 それを快方の兆しだと喜び、念願の姉妹共通の夢が叶う、と想いを馳せていたこと。
 その日の行程を終え、帰宅しようとしたとき、突然職員室に呼び出されたこと。
 病院から栞の容態が急に悪化したと聞かされ、張り裂ける想いで駆けつけたこと。
 そして、いままでずっと栞の側についていてやったこと……。
「ゴメンな……まだ栞を避ける気か、だなんて……」
「いいわよ、あたしが逃げようとしていたのは事実なんだから」
「でも、だったら……まだ時間はあるかもしれない」
「……えっ!?」
 状況を整理し、俺は出来るだけ分かりやすく香里に説明した。
 香里は気づかなかっただろうが、始業式の帰り実は俺の隣には確かに栞が居たこと。
 あれが霊体だったとすれば、いよいよあゆが関連していることに確信が持てる。
 そう、冬に夕暮れの商店街で別れたきりの、あの月宮あゆは……七年前……。
 悲しい事実を思い出し、受け止めることが出来たのも、すべては栞のお陰なのだから。
「ついてきてくれ、香里……」
「……うん、わかったわ」
 俺を受け入れ、香里は辛い選択を選んでくれた。
 現実から逃げないよう、俺とともに栞の最後の想いを受け入れようと……。

 日付が変わるまで、俺たちは栞の側に居続けてやろうと――……。



第6楽章【別れの詩】

 どこをどう歩いたのだろう。
 自分でも不思議なくらい、身体は過去のことを覚えていて。
 俺は難なくその場所へと辿り着くことが出来た。香里とともに。
「ここ、素敵な場所ね……まるで、幼い頃に遊んだ、秘密基地みたい……」
「そりゃそうだ、本当に秘密基地だったんだからな……ここは……」
 森の奥深くに、急に開けた広場のような場所。
 通ってきた小径は漆黒の闇に沈んでいたというのに、ここだけは何故だか明るかった。
 雪明かり? そんなはずはない、いまは初春。いくら雪国とはいえ、雪解けの季節。
 月明かり? そんなはずはない、今日は新月。辿り着く末路の先にある、消滅と再生。
 星明かり? そんなはずはない、微弱な光源。でも、この街ならではの満天の星空。
 ……だとしたら、この明かりは、恐らくは……。

「まさか、また逢えるだなんて思ってもみなかったよ」

 声。上空から降り注ぐ。翼をはばたかせながら。
 それは、ゆっくりと降下すると、広場中央にある大きな切り株に降り立った。
 光源は、淡い白に輝く双翼だった。切り株から軽く飛び降りて、少女が微笑んでいた。
「よぅ、タイヤキ食逃げ犯」
「……ずいぶんな挨拶だね」
 でも祐一君らしいや、と明るく笑ってから、あゆは香里の側に歩いていった。
 翼はと見ると、降り立つときにそうしたのだろう、羽根リュック大に仕舞われていた。
 少しずつ近づくあゆを、まるで得体の知れないものを見るように怯える香里。
「こんにちは、栞ちゃんのお姉さん、ボクはあゆだよ、月宮あゆっ♪」
「えっと、あ、あたしは……美坂香里よ」
「あはは、じゃあ……香里さん、だね♪」
 突然始まった自己紹介に戸惑いながら、香里はすでにあゆへの警戒心を解いていた。
 これもあゆの数少ない特技のひとつだろうか、と失礼なことを考えてしまう。

「ボクはね、天使さんなんだよ。みんなの願いを叶えるのが仕事なんだ♪」

 相変わらず明るい口調で話を進めていくあゆ。職業が天使とは、また変哲なことを言う。
 それでも、俺の知るあゆのキャラを総合してしまえば納得できてしまうあたりが凄い。
 だが、いまの言葉にはひとつだけ引っかかる部分があった。
「あゆ、お前は分かってるのか……願いを叶えてくれるのなら、どうして……」
 俺の言うところを察したのか、あゆはもう一度柔らかく微笑むと、
「ボクには、寿命を引き延ばす能力なんてない。栞ちゃんは、これが寿命だったんだよ」
 その身体の後ろから、スッと姿を現した少女。言うまでもなく栞だった。
 それは、いつもの私服を身にまとった、いつもの栞。
 香里が先程まで看続けていた、瀕死の妹とは雰囲気も様相も異なった。
「……本当に、しおり……なの?」
 震える声で訊ねる。俺とは違い、実体を看続けてきた香里には信じ難いことなのだろう。
 あるいは、幽体とはいえ実妹の存在に気づいてやれなかった、と自分を責めているのか。
「うん……お姉ちゃん」
 自分の運命を含め、すべてを受け入れたたおやかな微笑み。
 その強さは、栞との別れを認めない香里には辛すぎたのだろう。
 駆け寄るなり抱きつき、夕刻の俺のように、栞を強く抱きしめて、
「いや、だよ……やっと仲直りできたのにっ、お別れだなんて……絶対に許さない!!」
 堅い外殻を取ってしまえば、柔すぎる内面を表に晒して、痛みを訴えた姉が泣き叫ぶ。
 妹は痛いとも何とも言わず、ただ大好きな姉が泣きやむまでその頭を撫で続けていた。

「私は、お姉ちゃんのこと、恨んでないから……もぅ、自分を責めないで……」

 ようやく香里が落ち着きを取り戻した頃合い。
 栞の口から直接語られる本音。いまも慕う姉への、心からの想い。
 その言葉に、香里はゆっくりと身体を離して、栞を正面から見つめた。
 まるで長年苦しみ続けてきた枷から開放されたように、安らぎを取り戻して。
「……ほんとぅ?」
「うん、私の大好きなお姉ちゃんだもん……嫌いになる訳がないよ」
「そぅ、なんだ……ありがとう……」
 もう一度、香里は妹の小さい胸に顔を埋めた。心からの、暖かな笑みで。
 自分という足枷から姉を解き放ったことで、栞は一安心したように息を落ち着けると、
「ごめんなさい、祐一さん……また、約束を、破ってしまって……」
「いや、俺は構わない。栞が、もし、辛くないのなら……」
「辛いに、決まってるじゃないですか……でも、あゆさんとの約束でしたから」
 何かを必死に堪えようとして、栞が肩をしきりに震わせる。
 俺は一瞬意味を理解し損ねて、救いを求めるようにあゆに視線を向けた。
「どういうことだ……?」
「言ったよね、寿命はどうしようもないって……でも、少しだけの再会なら……」
「二日間だけ、栞を肉体から抜け出させた、ってことか?」
「……そうだよ」
 笑顔。あくまでも、無邪気なあゆの笑顔。
 でも。それもまもなく、悲しそうな微笑みに取って代わって。

「ボクは天使だから……人々の想いを叶えて、消えてゆくだけの存在だから……」
 
 その言葉と同時に、香里の短い悲鳴。
 栞に視線を戻すと、呆然と自分の手を見つめる香里の横で……。
「ちょっ……」
 俺も思わず駆け寄っていた。その身体を抱きしめようと、躍起になって手を伸ばす。
 しかし。現実は、いつも残酷だ。

 スカッ……。

 俺の手は、栞の身体を貫通していた。めり込んだ、とかではない。
 まるで幻影や空気でも触れるかのように、栞は確実に実体を失いつつあった。
 見る見るうちに、その身体の透明度は増すばかりで。俺たちにはどうしようもなくて。
 栞も最後だと分かったのか、涙を堪えないまま、消えない間にと語り出した。
「祐一さん、こんなこと考えたことないですか……私たちは、誰かの夢のなかに居る……」
 唐突すぎる内容に、俺は相槌を打つことも、反応を示すこともできない。
「その夢を見ている人は、ずっと永いあいだ夢を見続けていて……でも、夢を見ていると
いう自覚はないんです……あるとき、それに気づいてしまって、自分の居場所を求めて、
旅に出ようと決心するんです……幸せな、自分の居場所を求めて……」
 居場所を求めて、永遠に旅を続ける。どれほど気の遠くなる作業なのだろう……。
 いよいよ耐えきれなくなったのか、栞は表情を崩して嗚咽を必死に堪えていた。
「……でも、居場所を見つけるまで、その人はずっと孤独なんです」
 背筋が凍りつく。栞の瞳に、いい知れない不安を覚える。
「もし身近にそんな人がいて、自分が寄り添ってあげられるのなら……」
「待て、待ってくれ……」
 思考が繋がって、でも、俺たちにそれを止められる術はなくて。
 栞はくるりと振り向いたかと思うと、孤独に怯えるようなあゆに駆け寄っていく。
 そして……淡い光に取り囲まれながら、二人の影が合わさって……。
「待つんだ、栞ッ!!」
「……待ってよっ、栞ィィッ!!」
 俺と香里の制止も虚しく、二人の身体は確実にその存在を薄めてゆく。
「お姉ちゃんは、私の代わりに、祐一さんに……笑顔でいてあげてね、いつまでも……」
 栞にそれ以上近づくことすら、俺たちには許されざる行為だった。
 足を踏み出そうとしても、途中に不可視の壁があり、決して近寄ることは出来ない。
「栞ッ、しおりっ……しおりぃぃぃっっ!!!」
 香里の、いままでで最も悲痛な叫び声。
 しかし、俺たちの願いは届かず、栞たちは……光のなか、完全に姿を消した……。
 栞と、あゆの消えた場所。あの切り株は、本来の立派な幹の姿を取り戻していた。
 満開に狂い咲きした桜の巨木。薄墨桜にしても大きすぎる。街全体を見守る世界樹。
 光源の消えた漆黒の闇のなか、最後に、もう一度だけ栞の声を聞いた気がした。

《祐一さん、お姉ちゃんを、よろしくお願いします……ずっと見守ってますから……》

 そして、病院に戻った俺たちを待ち受けていたのは、美坂栞の……訃報だった。



最終楽章【笑顔を忘れない】

 春。
 雪の溶ける季節。
 萌ゆる新緑の眩しさ、頬を撫でる風の優しさ。
 俺たちは、桜並木を肩を並べて歩いていた。女の子の肩には思い出のストール。
 目的地は、あの森のなかにある、いまだに種類の分からない、桜の世界樹だった。
 あの場所はいまや街の観光名所として、道は切り開かれ、行き来は楽になっていた。
 しかし、俺たちだけの秘密、大切な思い出の地がこうなってしまうのは寂しいものだ。
「贅沢を言わない」
 厳しくツッコまれる。う〜む、やっぱり怒った顔も可愛いと思うぞ。
「だったら、ずっと怒っていようか?」
「……それは遠慮させて頂きます」
 しまった、どうやら口に出してしまっていたらしい。これからは気をつけねば……。
 そうこうしているうちに、俺たちは目的の場所へと辿り着いた。
 世界樹の周りには社やら、鳥居やら、出店やらと仰々しい空気が充満している。
 それらを避けるようにして世界樹の根本まで行く。あのときを思い出しながら。
 ふたり揃って立ち止まる。今日は、大切な報告があった。

「俺たちは……俺と、香里は……結婚する」

 あれから何年の月日が過ぎ去ったのだろう。
 栞との約束通り、香里は笑顔を絶やさなかったし、俺も香里を守り続けてきた。
 本来、このようなことは栞の墓前で言うべきだろう。
 しかし、栞の意志はいまもこの大木の中に、あゆと共に眠り続けている。そう思える。
 何より、幸せも悲しみも再確認したこの場所は、俺たちにとっても大切な場所だから。
 だからこそ……ここで、栞に報告したかった。
「栞、あゆちゃん……あたしは、相沢く……祐一と、ずっと支え合っていくから」
「だから、ふたりとも、俺たちのことを、ずっと……見守っていてください」
 ふたりで深く一礼し、その場を去る。様々な想いを胸に抱いて。
 振り返ると、世界樹は変わらずに俺たちを見ていて、そして……微笑んでいた。
 俺の財布のなかには、まだ名雪から貰ったお守りが使われずに保管されている。
 俺と、香里と、名雪……そして、あゆと栞の想いをひとつ場所に通わせておくために。
 あの事件は、俺と香里をひどく傷つけ、その傷痕はまだ癒えきってはいない。
 だが、この痛みは、癒えることはあっても、決して忘れてはいけないと思う。
 そのことを堅く胸に誓いながら、俺は香里の手を優しく取った。
 振り返る彼女の表情。心からの、満面の笑顔……。

 ふと空を仰げば、二羽の小鳥が俺たちの頭上をいつまでも回り続けていた……。



                                <FIN>

 

 

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