前奏【黄昏−あぜみち−】

 小さな男の子。
 苦しそうな顔が、こちらを見ていた。
 『わたし』と少年との間には、道があった。

 ……狭い道。

 でも、それは決して渡ることの出来ない道だった。
 そう、それは決して越えられない『壁』そのものだった。

 『わたし』と彼との間に出来た……いや、出来てしまった『壁』。

 良き姉として、良き教育をしてきたと、自分を偽ってきた。罪深き罰。
 偽りの自分を、仮初めの世界を信じて、『わたし』を殺した。深い傷痕。

 『佐祐理』は『わたし』が怖い。
 『わたし』は『佐祐理』が憎い。

 それが、もう何年続いてきたのだろう。

「……おねぇちゃん」

 少年が、ぽつりと口を開く。
 声は幼く高かったけれど、その感情は暗く低く響いて。

「佐祐理お姉ちゃん……」

 『わたし』を呼ぶ声、遠く儚く聞こえてきて。
 恨めしそうに、『わたし』を濁った瞳で睨んで。

「お姉ちゃんは……」

 ……やめて。
 あなたは、そんな眼をする子じゃなかったでしょう?

「どうして僕を殺してしまったの?」

 ちがう……。
 違うよ、違うんだよ。
 あなたを殺した訳じゃない、殺したかった訳でもない。

 ざりっ。
 舗装されてない畦(あぜ)道を、少年が一歩だけ、詰め寄る。
「………ッ!!」
 胸に小さく鋭い痛みが走った。

 ざり、ざりっ。

 ただそれだけのことなのに。
 少しずつ、少年が道をこちら側に近づいてくるだけなのに。
 その度に、胸の痛みが大きくなってくる。

「お姉ちゃんは、どうして僕を殺してしまったの!?」

 ……やめてっ!
 もう、近づかないで。
 お願いだから、こっちに来ないで。
 これ以上は『わたし』が耐えられそうにないから。

「お姉ちゃんは、僕のこと、本当は憎くて仕方なかったんだよね!?」


 違うんだよっ……ねぇ、かずやぁぁっ!!



◆◆ Dear My Friends... -another BE IN WITH- ◆◆



第1楽章【青空−みおろすばしょ−】

 く〜。
 お腹の虫が鳴る。
 教壇上の時計を見上げると、もう昼休みまで残り少なかった。
 視線を戻すと、ひとつ前の席で、腰まで伸びた黒髪が小刻みに揺れている。
 音の発生主は、藍のリボンが似合うその少女――佐祐理の親友だった。
「ま〜いっ♪」
 小声でその名を呼ぶと、肩がひときわ大きく揺れた。
 先生に見つからないように、ゆっくりと後ろを振り返る。
 一括りに束ねた綺麗な髪が、椅子に垂れかかった。
「……さゆり?」
 いたいけな、ひどく悲しそうな瞳が向いてくる。
 正直、胸が締めつけられそうなくらい可愛いと思った。
 その理由が、たとえ空腹から来るものだとしても。
「あはは〜っ、舞ってば、さっきからお腹ぐ〜ぐ〜言ってるよ?」
「早く終わらない授業が悪い……」
「それは、言い訳じゃないかな」
「佐祐理、いじわる……」
 拗ねた顔。でも、潤んで泣きそうな瞳。
 まさか本当に泣くとは思わないけど、少し可哀想になった。だから。
「もう少しで終わるから、そしたらお昼にしようね♪」
「……祐一も、一緒」
 間髪ない反応に、少し……驚いてしまった。
 他人には興味を示さない舞が、佐祐理以外で個人の名前を言うなんて……。
「もちろんだよ、舞♪」
 内心少し祐一さんに嫉妬しながら……でも、本当は嬉しくて。
 佐祐理の笑顔を確認すると、少しは落ち着いたのか、舞は授業体勢に戻った。
 本当は舞と二人だけでの昼食会も楽しかったけれど、賑やかな食事も嫌いではなかったから。

 だって――…。

「今日も楽しい昼食にしようね、舞ッ」
「……うん」

 小さな返事と同時に、午前の終業チャイムが鳴った。



   ♪  ♪  ♪



 いつもの、階段の踊り場。
「お邪魔しま〜す」
「どうぞどうぞ」
「…………」
 準備を終えたところに、いいタイミングで祐一さんが現れる。
 反応が無いなと思ったら、すでに舞は弁当の中身に思考が占領されているようだった。
「へぇ、今日も美味そうだな」
 レジャーシートの上に胡座(あぐら)をかいて感嘆の息を漏らす。
 祐一さんの眼が、蓋の開いたいくつかの弁当箱に向けられる。
 ふと、二人の視線がぶつかり、紫電が散ったような気がした。
「では、いただきましょうか」

 次の言葉が戦闘開始のゴングを鳴らすのと同等の行為だと思うのは、佐祐理の気のせいだろうか。
 ……いや、気のせいであってほしい。

 覚悟を決めて、深呼吸を何度か繰り返した。
 合掌を促して、息を整える。
「それでは……」
 ピーンと空気が張り詰めた。
 心なしか、正座している膝の下がいつもより冷たく感じられる。
 そのくせ心の奥深く、本心を司る部分では、扇動したい気持ちが恐怖に勝っていて。

「いただきますっ」

 ヒュッ。
 空を切り、舞の箸が卵焼きを掴もうとする。
 しかし祐一さんの方が一瞬早かった。
 標的を逃した箸が勢い余って弁当箱に当たり、カチッと乾いた音を立てる。
「……くっ!」
 悔しそうに下唇を噛む舞。
 してやったり顔でほくそ笑む表情が火に油を注いだようだった。
 祐一さんがご飯を口に運び、余裕を見せている間も、舞は動こうとしない。
 その瞳を見て背筋が凍りついた。少しだけ。
 眼光は鋭く、まるで薄暗い森の中で獲物を待つ虎のようだった。
(おかずひとつに……怖いよ、舞……)
 様子に気づいていないのか、そのまま今度は鶏の唐揚げを掴もうとする。
 ヒュンッ。
「あっ!」
 祐一さんが声を上げた時には、すでにそれは舞の口内にあった。しかも二個。
 無理に詰め込んだのか、両頬が小動物のように丸く膨らんでいて愛らしかった。
 勝利を勝ち取ったことが嬉しいらしく、左手でVサインを作ってみせる舞。

 その顔はいつものように無表情だったけれど――…。

「あ、あの……まだまだあるので、遠慮なさらずに」
 握り拳をわななかせながら肩を落とす祐一さんを励まそうと、隣の箱を勧めてみる。
 ようやくショックから立ち直ったのか、口を動かす舞を恨めしそうに一瞥すると、
「やっぱり、佐祐理さんは優しいなぁ……誰かとは違って」
「あはは〜、そんなことないですよぅ」
 グサッ。
 佐祐理のフォローも虚しく、舞お得意のツッコミが祐一さんの額に炸裂していた。
 しかも、その右手には……箸を持ったまま。
「……ってぇぇぇぇぇぇっっ!!!」 
「舞、お箸はヒトを刺すものじゃないよ〜」
「変なことを言う祐一が悪い」
 額を両手で押さえながら踊り場中をもんどり打つ祐一さんを、満足げに横目で見ながら。
 でも、それが本心からの言葉ではないことは分かっていた。
 少し悪質だけど、些細な冗談の交わし合い。

 それが舞と祐一さんのコミュニケーションだと言うことを佐祐理は知っているから。

「大丈夫ですか……?」
 階下で濡らしてきたハンカチをそっと宛てる。
 額は少し赤くなっていたけど、出血はしていないようだった。
「ん。もう大丈夫だよ、佐祐理さん」
「舞の手加減のたまものですね」
「……えっへん」
「そこで威張るか、お前は?」
 いつものやりとり……佐祐理と舞と、祐一さんと。
 三人でいることが自然になってきた、安らぎを覚えられる空間。

 だから――…。

「ふ〜、食った食ったぁ……ごちそうさま」
「……ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
 合掌どころか律儀にも眼を閉じて呟く舞に微笑みかけながら、佐祐理も頭を下げた。
 弁当箱とレジャーシートを片付けて、ふと時計を見る。
「まだ時間もありますし、たまには屋上に出てみませんか?」

 この学校で、一番《そら》に近い場所へ――…。



   ♪  ♪  ♪



 キイィィ……。
 重い鉄製の扉が軋みを上げる。
 外に出ると、凍てついた北風が足元を駆け抜けていった。
 空気が透き通りすぎて、吸い込むと肺が少し痛い。
「うわっ、北極かここは!?」
「大げさですよ、祐一さん」
「……はちみつクマさん」
 こくりと頷きながら賛同を示す舞。
 その声も、心なしか震えているような気がする。
 佐祐理と違って、舞は脚に普通の膝下までの靴下しか身に着けていない。
 短いスリットスカートからそこまで素肌を北風にさらせば、寒いのも無理はなかった。
 きっと誰かが言うまでは我慢し続けるだろうと踏んで、ひとつ提案をしてみる。
「明日から、舞もストッキングにすれば?」
「いや」
 珍しく、またも即答。
 舞の視線は祐一さんの顔を恥ずかしそうに追っていた。
「大丈夫だ、お前に色気なんて感じないから」
 あちらも素っ気なく即答。
 ツーと言えばカーの夫婦漫才みたいだった。
 しかし。二人の視線の衝突に、今度は気づくのが遅れてしまった。

 ……ポカポカッ!

「いって〜〜〜っ、しかも二連発かよ!?」
「ゆ、祐一さんの言ってるのは、その……パンストのことじゃないですか?」
「へ?」
 後頭部をさすりながら、ぽかんと開いたままの口で、涙目がこちらに向けられる。
 チョップの体勢のまま、舞も切れ長の眼を丸くして驚いているようだった。
「何だ、てっきり戦闘時に転線するのを恐れてのことかと……」
「私も、そう……思った」
 感心したように、ふたり頷き合っている。
 それは、初めての……疎外感だった。

 ……いや。
 置いていかないで。
 これ以上『わたし』を置き去りにしないで。

「あの、祐一さん、舞も……“戦闘”って……いったい何の話ですか?」

 ギクッ。
 二人の肩が目に見えて大きく揺れる。
「しまった……」祐一さんの口がそう動いたように見えた。
 重要な秘密だったのだろうか、舞の視線も佐祐理を避けているようだった。

『佐祐理には、言えない秘密なんですね』
 そんなこと、口には出せなかった。
 言える訳がなかった……。

 舞と祐一さんとの間に、佐祐理に言えない秘密があっても不思議ではないのに……。
 佐祐理と舞の間に、祐一さんに言えない秘密はひとつも存在しないのに……。
 そんな勝手な基準で嫉妬している自分が、嫌で嫌でたまらなかった。

「あっ、いや、戦闘ってのは、弁当争奪戦のことで……なっ、なぁ舞!?」
「……はちみつくまさん」
「激闘の末、飛び交う箸攻撃によりストッキングは破れ、舞の白い柔肌は格好の餌食に……」
 ポカッ。
 あたふたと弁解を続ける祐一さんの額を、見慣れたチョップ攻撃が襲う。
「そこは賛同するトコだろっ!」
「祐一の話が変な方向に逸れかけたから……」
「バカッ、ちょっと来い!」
「あっ」
 手招きして、閉め忘れていた扉から校舎に入っていく。
 頬を赤らめたまま、舞も渋々祐一さんを追いかけていった。
 バタン。
 扉が申し訳なさそうに……しかし、堅く閉じられた。

「行っちゃった……」

 ひとり取り残される。
 佐祐理は、どうしてあの二人を屋上に誘ったのだろう。
 それさえ、どこかに置き忘れたような気がして。
 答え追い求めるように、ふと空を見上げた。

 淡い青。
 必死に手を伸ばしても、届きそうにない。高い《そら》。
 一弥が消えて、左の手首に傷痕を残したとき、自分を押しやってしまった場所。
 佐祐理の中の、もう一人の『わたし』が居る場所。

 この《そら》は、『わたし』の唯一の居場所――…。



第2楽章【月夜−そこにいるのは−】

 小さな男の子。
 苦しそうな顔が、こちらを見ていた。
 『わたし』と少年との間には、川があった。

 ……小さな川。

 でも、それは決して泳ぐことの出来ない川だった。
 そう、それは決して触れられない『壁』そのものだった。

 『わたし』と彼との間に出来た……いや、つくってしまった『壁』。

 ねぇ、どうすればいいの。
 どうすれば、あなたは笑ってくれるの。

「……おねぇちゃん」

 お願い、答えて。
 佐祐理に出来ることだったら、何でもするから。
 あなたが許してくれるのなら、本当に何でもするから。

「お姉ちゃん……本当は、違うんだよね」

 やめてよっ。
 どうしてそんな怖い顔をするの。
 そんな、濁った瞳で……佐祐理を睨むの。

 じゃぼっ。

「!」
 そ、それ以上は近づかないで……。
 もし佐祐理が憎ければ、恨んでも良いから。
 お願いだから……もう、こっちには来ないで。

 じゃぼ、じゃぼっ。

 『わたし』の泳げない川を、一弥が平然と渡り歩いてくる。
 音が近づく度に大きくなる、鋭い胸の痛み。
 一方的な干渉が、佐祐理を苛ませてゆく。

「嘘ついちゃダメだよ……お姉ちゃん、本当は……」


 お願いっ……もう、来ないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!!!



   ♪  ♪  ♪



 肩の震えで目が覚める。
 いつのまに眠っていたのだろう。
 重たげに頭を上げると、枕にしていた左腕がジンと痺れた。
 辺りを見渡すと、すっかり陽は落ちて、室内は闇一色だった。
 まだ痺れの抜けない手で、机の蛍光灯のスイッチを探る。
 ぱちん。
 慣れない眩しさに、思わず眼を閉じてしまう。
 視界が閉ざされた瞬間、また夢の光景が襲いかかってきた。

「………かず…や……」

 自然と口から零れた名前が、小開きの窓から感情と共に流れていく。
 風に誘われて、佐祐理も窓の外を覗いてみた。
 街明かりの反射を受けて薄明るい空に、真円を描く月がひとつ。
 それは、際立った明るさというよりは、むしろ孤独のように感じられた。
 視線を、ゆっくりと戻してみる。
 同じように、寂しそうに置かれた写真立てが机にひとつ。
 その中では、佐祐理たち姉弟が、病室で仲良く笑い合っていた。

 ……最初で最後の、一弥の明るい笑顔。
 そして、それは『わたし』の最後の笑顔でもあった。

「どうして死んじゃったの……ねぇ、かずやぁ……」

 理由なんて、最初から分かっていた。
 でも、それを幼い『わたし』は認めたくなかった。
 だから……自分を偽って、遠い青空に、悲しい気持ちを押しやってしまった……。

「佐祐理、どうすればいいのかなぁ……」

 机にまた伏せて、行き場のない疑問を虚空に投げかける。
 ハァ、と自然と漏れるため息。ひとつ。
 本当は判っている。
 頭の中では、ずっと前から理解している……。
 でも……だけど……。

 『わたし』の心に、『佐祐理』自身が辿り着けていないような気がして……。

 それを認識してしまうことが嫌で。
 知った先にある、悲しみと現実に押し潰されることが怖くて。
 だけど、やっぱり現状維持ではいけない、と気持ちばかりが焦って。
 それが、永遠に『わたし』の中で、迷子のようにリフレインしていた。

「このままじゃ……ダメ、だよね……」

 憂鬱なときは、気分転換が必要なのかもしれない。
 気を取り直すと、ピアノの傍らに置いてあるヴァイオリンケースを手に取った。
 フランス1912年製。脂(やに)も剥げかけていて、半額セールで安く買った楽器だ。
 無名の職人が作った中古品だけど、でも、しっくりと馴染んだ音が今でも気に入っている。
 お父様はストラディヴァリを勧めてきたけど、それは丁重に断らせてもらった。
 ヴァイオリン名匠の最高峰だけあって、もちろん金額的な遠慮もあるにはあったけれど。
 でも、それ以上に……お父様たちの期待には、もう応えられないと思ったから。

 十年前……ちょうど、一弥が亡くなった頃の話……。

 ふと意識を現実に引き戻して、弦に弓をそっと乗せる。
 弾きたい曲は……弾こうと思った曲は、最初から決まっていた。
 D線の開放弦から始まり、軽快でいて荘厳なリズムが空気中に響き渡る。

   バッハ作曲:二つのバイオリンのための協奏曲《第1楽章》

 通称ドッペルコンチェルト。
 文字通り、本来なら二人の奏者がいて初めて成立する協奏曲――コンチェルト――。
 お父様もお母様も弦楽器は嗜んでいるので、言えば相手にはなってくれる。
 でも、そこを敢えて一人で弾く。

 ……夢だったから。
 いつか一弥と一緒に弾いて、佐祐理はセカンド(第二奏者)を担当する。
 佐祐理の弾いた旋律を、一弥が追い越し、また追い返す……それが、夢だった……。

 だからこそ……佐祐理は、いつもひとりで弾いている。


 そう。まるで、それが懺悔だと言うように……。



   ♪  ♪  ♪



 気がつけば、いつしか『独奏』協奏曲は終わっていて。
 左手は楽器を持ち、右手は弓を下ろしたまま。
 ジッと、ボ〜ッと固まっていた。
 よく分からないけど、しばらく放心していたような気がする。

「今日は、あまり音が乗らないなぁ……」

 知らず溜息がこぼれる。
 大好きなはずのヴァイオリンなのに、それ以上は触れていたくなかった。
 気分転換のための趣味が、逆に自分を追い込んでいる。
 ……そんな気がして。
 そんな材料に仕立て上げたくなくて。
 自分の大好きなものを、これ以上は嫌いになりたくなくて。

「そうだ……宿題、あったんだ……」
 誤魔化すように呟くと、そそくさと楽器をケースに仕舞った。

 明日は、熱血教師こと担任の山崎先生が受け持つ、数学Cの課題があった。
 予習復習を絶えず欠かさなければ、いつも楽に課題をこなせる教科だ。
 三十分前後もあれば終わるだろう、そう楽観視して、学校指定の鞄を覗いてみる。

「………あ…れ……?」

 何故だろう。ノートや参考書はおろか、教科書すら見当たらない。
 いつも分厚い資料集以外は持ち帰ることにしているので、無い訳がないのに。
 それに、数学Cだけで他の教科は入っている、というのもおかしかった。

「あっ……もしかして!」

 突然。記憶が呼び覚まされた。
 放課後に図書室で片付けようと、机に入れたまま……恐らく……。
 明日の数学Cは一時間目で、担任でもある山崎先生は、HR開始と同時に集めてしまう。
 おまけに佐祐理は記憶力の悪さから、復習なしでの当日強行軍はかなり危険だった。
(どうしよう……あの先生、怒るとすごく怖いし……)
 殴られはしないけど、怒鳴られることは確実だった。
 せっかく頑張ってきた課題忘れゼロも、このままでは無駄に終わってしまう。

「取りに、行こうかな……今から……」

 ふと、そんな考えが言葉と共に湧き出る。
 学校には宿直の先生もいるし、倉田家からは距離も遠くはない。
 書斎のお父様に訊いてみると、存外ふたつ返事で答えが返ってきた。

「夜道には気をつけなさい……佐祐理も、もう、一人の女性なのだからな」

 一応は念を押しながらも、その口調は柔らかだった。
 行って参ります、とだけ挨拶してから、書斎の扉を静かに閉める。
 佐祐理の演奏が、聞こえていないはずがないのに。
 昔なら、あんな弾き方をしたら注意されたはずなのに……。

 もしかしたら……。

 お父様も、一弥が居なくなってから、変わってしまった一人なのかもしれない。
 ……そう、確信が持てた。

 玄関の扉を静かに閉め、門を出たところで夜空を見上げる。
 窓からも見えた満月は、夜闇に隠れることなく……やはり悲しげに浮かんでいた。



第3楽章【夜杜−まものをうつもの−】

 夜の学校は初めてだった。
 そうでなくとも、門限を過ぎてから単独で外出すること自体、初めてなのに。
 ここまでは、街灯やコンビニの明るさで何とか誤魔化して来られた。
 でも、校門から中を覗いた途端、背筋に寒いものが走った。
 運動場が、その奥にそびえ立つ校舎が、昼間のそれとは異質のものになっていたから。

 ……怖い……。

 柵越しの光景は、ホラー映画のスクリーンのように非現実的で。
 それが美しくもあり、また同時に恐ろしくもあった。
 宿直の先生が居るはずなのに、どの部屋も暗く静まり返っていて。
 窓の奥に見える廊下の非常灯、まばらに配置された敷地内の照明が不気味さを手伝っていて。
(や、やっぱり帰ろうかな……)
 そう思ったとき。

「あっ!」

 キイィィ……。
 手を掛けた門が、簡単に開いてしまった。
 警備が手薄なのか。それとも、学校側のミスだろうか。
 どこか心に引っ掛かりを覚えながら、恐る恐る一歩を踏み入れる。

 ……入ってしまった。

 もう戻ろうと思ったのに。
 本当は怖くて、今でも逃げ出したいくらいなのに。
 でも。やはり、心のどこかでは使命感のようなものに燃えていて。
「忘れ物……早く取りに行かなくちゃ」
 恐怖心を紛らわすように、小走りに昇降口まで駆けて行く。
 まるで望んでもいない肝試しのようだと思いながら……。
 昇降玄関を目の前にして、ふと立ち止まる。
 何気なく見上げた校舎が、まるで津波のように襲いかかってくるように見えて。
 やっぱり怖くなって、慌てて玄関の扉に手を掛けた。
 ……そのとき。

 ゆらり。
 不気味な人影が、扉の向こうに揺らめいた。
 
「〜〜〜〜〜〜ッッ!!!」

 心臓が、止まりそうだった。
 バクバクと胸が暴れて、今にも喉から飛び出しそうだ。
 少なくとも、呼吸は一秒以上は止まっていたような気がする。

 しかし……落ち着いて観察すれば、それは何でもなかった。

「佐祐理の、顔だぁ……」
 どうやら自分の映った影に驚いたらしい。
 何だか情けなくて、けれど安心して、大きく胸を撫で下ろした。

「こんなとこ、舞に見られたら、笑われちゃうよね……きっと……」
 それは気を紛らわすために、思わず口から出た冗談だった。
 もっとも、舞が普通に笑える子であれば、の話だけれど。

 でも、その何気ない一言は……いまの佐祐理にとっては……。

 そこで、放課後の出来事を思い出す。
 今日は、帰りのHRが終わると同時に、舞は教室を出て行ってしまった。
 もちろん……慌てて呼び止めた。
 舞は一瞬だけ振り返って、だけど、結局そのまま戻っては来なかった。

 数学Cの課題……ふたりで、一緒にやりたかったのに……。

 昼休みからずっと、舞は佐祐理を避けているようだった。
 声を掛けるたびに、ひどく怯えたように震えて、悲しそうな顔を覗かせて。
 そして、佐祐理を一瞥だけすると、逃げるように去って行ってしまう。

 舞のことだから、それは、絶対に理由が在るんだと思う。
 学校のガラスを割ったことも、佐祐理に隠している秘密も……。
 いいんだよ……話してくれなくても、ぜんぜん構わない。
 でも、やっぱり、いつかは話してほしい――…。

「…………えっ!?」

 その時だった。
 昇降玄関の向こう、薄暗い廊下を、誰かが駆け抜けていった。
 あれは、幻覚……じゃない。間違いなく。
 だけど、どうして女子用の制服を着ていたのだろう。
 右手には大きな洋風の剣を握りしめて。
 流れる黒髪に藍色の大きなリボン。

 そう。あれは、まるで――…。


「………ま…い……?」



   ♪  ♪  ♪



 それは、瞬時に確信へと変わった。
 顔はよく見えなかったけれど、でも、あれは間違いなく舞だった。
 思い至ると同時に、昇降口の扉を引いてみる。
 ガチャガチャッ!!
「……くっ」
 判っていたことなのに。
 鈍く乱暴な金属音が耳に響くたび、焦りばかりが募ってゆく。
 さすがに宿直の先生――見つけ出したとして――を呼ぶ訳にはいかない。
 生徒会を始め、学校側の舞への一方的な扱いを知る以上は……自分で、何とかしなければ。

 これ以上、舞を……佐祐理の親友を、遠い場所に連れて行ってほしくないから。
 舞の触れられない《こころ》を、手を伸ばしても届かない『場所』にしてほしくはないから……。

 チクッ。
 胸の、小さな痛み。
 何だろう……この感覚は……。
 まるで、どこかに置き忘れた大切な何かを、ふと思い出してしまったような。
 ひどく懐かしくて、とても暖かくて、そして……泣きたくなるくらいに、悲しい……。

「ううん、いまは舞が優先っ!」
 意気込むように強く頷くと、周囲に注意を配った。
 鍵の開いてそうな窓。渡り廊下。他の、昇降口――…。

「…………あった!」

 職員室や指導室が並ぶ校舎の一角に、職員用の通用口があった。
(あそこなら、もしかしたら……)
 そう思うと同時に、いや、思うより先に足が動いていた。
 打ちつける風が想像以上に寒かったけど、そんなの気にならなかった。

 早く舞の所に行かなくちゃ。
 何だか知らないけど、すごく嫌な予感がするから……。

 それだけを考えながら、懸命に走って、ようやく通用口に到着する。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 運動神経には自信があったのに……。
 どうした訳か、すぐに息が上がってしまう。
(……それどころか、何だか、さっきから身体が重いような……)
 息を整えながら、鈍く痛む頭で考えてみる。
 体調が少しずつ悪くなってきている。
 頭痛も、怠さも……何か普通じゃない。
 ついさっきまでは平気だったのに。
 いや。厳密に言えば、校庭に入ってから……少しずつ……。

『…………来ないでっ!』

 え?
 この声、何だか……。
 慌てて自分の近辺を確認する。
 薄暗い闇が広がるだけで、佐祐理の他に誰も居ない。

「そんな……いまの、声って……」

 頭の痛みが、強くなってくる。
 最初は弱かった鈍痛が、次第に強く、鋭く広がって行く。
「くっ、うぅ……あああぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
 我慢できなくなって、両手で頭を押さえつけても痛みは治まらなくて。
 もう立つことも出来なくなって、地面に膝をつくと、吸い込まれるように崩れ落ちた。

 途切れる視界に最後に映ったのは……夜空に浮かぶ孤独な満月、ひとつ……。



   ♪  ♪  ♪



 広大な麦畑が、夕陽に照らされて輝いていた。
 黄金色に広がる海が、風に遊ばれてキラキラと揺れていた。
 そんな中、私とその子は一緒に遊んでいた。
 かくれんぼや鬼ごっこ、知っている遊びなら何でもした。
 小さな身体を覆い隠してしまうような麦の海原は、私たちにとっては秘密基地そのものだった。

 ……まるで夢のようだった。

 私には、それまで友達と呼べる人が居なかった。
 お金持ちだから。政治家の長女だから。
 そういった理由で近づく人間は、いくらでも存在した。
 でも、本当に友達と思える子は居なかったから。
 だから、その子と出逢えたことを、本当に感謝した。

 時間を忘れたように、ずっと遊んでいた。
 心からの友達を、親友と思うのに時間は要らなかった。
 その子と永遠に一緒に居られることを、本当に本当に信じていた。

 ……だから。
 目覚めたとき……それが、虚構だと知ったとき……。
 それが、永い夢だと気づいたとき……。

 《現実》の『わたし』こそが、虚構なのだと、佐祐理は思った――…。



   ♪  ♪  ♪



 うっすらと眼を開ける。
 どうやら、意識を失っていたようだった。
「…………んっ」
 まだ頭の芯に鈍痛が残っていたけど、壁を背に何とか立ち上がる。
 身体中が、まるで別の生物みたいに、思うようには動かせなかった。
「はっ、はっ……はっ……」
 全身を汗が伝い、吐く息も短く荒かった。
 心臓が早鐘のように打ちつけ、酸欠なのか、動くたび苦痛で目が回る。
 自力では立つことも出来ずに、浮かしかけた背を再び壁にもたれさせた。

 こんなことしている場合じゃないのに。
 一刻も早く、舞の所へ行きたいのに……。

「……あれ?」
 ゆっくりと戻る視界に、強烈な違和感を感じた。
 確か、佐祐理は通用口の前で倒れていたはずなのに……。

「ここ……って、校舎のなか……だよね?」

 放った自分の言葉すら疑ってしまう。
 でも、この場所は間違いなく廊下そのものだった。
 すぐ先に、さっきまでは外側から見ていた通用口があり、窓からは月明かりが射し込んでいた。
 その神秘さと疑問とで、本来あるはずの恐怖心は払拭されていた。
 ……というか、よほど疑問の内容の方が怖い。

「もしかして……夢遊病?」

 それとも白昼夢でも見ていたのか……と考えかけて、いまは夜であることを思い出す。
 どちらにしても、あまり気持ちの良い話ではなかったので、深くは考えないことにした。
「せっかく入れたんだし、宿題、取りに行かなくちゃ」
 頭痛も治まり、体調の回復を確認してから、ゆっくりと両足で地面を踏みしめる。
 今度は、ちゃんと立つことが出来た。
 よく分からない安心感と共に、自分の教室を目指して歩き出す。
 十数段の階段を何回か上って、月明かりを頼りに薄暗い廊下を進んでゆく。

「…………」

 何回か扉を過ぎて、よく知った数字の札が見えた。
 そこで立ち止まり、深呼吸をひとつして扉に手を掛ける。

「…………」

 どうしてだろう。また、身体が動かない。
 背筋を流れる冷や汗に、張り付いたシャツの感触が不快だった。

「…………」

 いる。
 近くに、気配を感じる。
 階段を上り始めたくらいからだと思うけれど。
 誰だか分からないけど、確かに、佐祐理以外の存在が、すぐ近くにいる。
「……だ、誰っ!?」
 我慢の限界と同時に、勢いよく振り返った。

 誰かが、確かに、そこにいた。
 その誰かは、薄暗くてよく見えなかったけれど。
 佐祐理には、それが誰なのか、痛いほどによく分かった。

 いつしか隠れていた月が、雲間から姿を現す。
 闇に侵された空間は喜びを上げるが如く、その身を浄化させていった。

 それは、通用口の外で聞いた『声』の主だった。
 腰まで伸びた黒髪が、風に揺られるたび、月明かりを美しく弄んでいて。
 頭に着けたウサギ耳の飾り物が、とても、とてもよく似合っていた。

 ……それは、かつて夢で遊んだ『親友』そのものだった。



   ♪  ♪  ♪



 声が、出なかった。
 色んな感情、絡まったコードのように織り混ざっていて。
 思考が、うまく働かない。
 本当は、言いたいことがたくさんあるはずなのに。
 訊きたいことも、たくさんあるはずなのに……。
 話したいことが、ありすぎて……なのに、何も言い出せなくて、すごく喉が痛くて。

 ……ただ、ひとつだけ。

「ひっ、ひさし……ぶりだねっ」
 それだけ、ようやく口にすることが出来た。

「うん……ひさしぶりっ」
 その子は、気持ちいい笑顔を返してくれた。

 たったそれだけのことなのに。
 溢れ出した涙は、あとからあとから零れ落ちて。

 もう、二度と逢えないと思っていた。
 一弥が亡くなった直後、自殺未遂で意識が途絶えた、あの《世界》で出逢って。
 たった数日間を、まるで本当の親友のように遊んでくれて。
 目覚めて、それが夢だと思い知って、佐祐理は虚構と現実とを逆転させてしまったけれど。
 ……でも、やっぱり、夢じゃなかったんだね。

 あの頃とちっとも変わってない。
 十年も経っているから、それは異常なはずなのに。
 そんなことは……もう、本当どうでも良かった。
 ただ、再会できただけで嬉しかったから。
 この笑顔が、本物だと信じたいから。

 だから……ただ、抱きしめたくて。
 もう二度と逃さないように、抱き留めたくて……。

「……それ以上は、近づかないで」

 不意に、風が揺らいだ。
 暗がりの中、低めの重々しい口調。
 よく知った人の、初めて聞く声だった。
 その子が、声のした方……佐祐理の後ろを、顔を出すように覗き込む。
 表情は変えなかったけど、何だか、寂しそうだった。
 遅れて、佐祐理もゆっくりと向き直した。

「お願いだから、『それ』から離れて……佐祐理……」
 剣を堅く握りしめて、切れ長の瞳の奥に鋭い眼光を宿して。
 それが、この子に対する敵意……いや、殺意であることはすぐに分かった。

「やめてよ、舞っ、この子が何をしたって言うの!?」

 思わず、泣き叫んでいた。
 やっと再会できた子に、殺意が向けられていること。
 そして何より、舞が他人に対して、殺意を覚えているということ。
 何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか。
 ……佐祐理には、まったく理解が出来なかった。

「仕方ないなぁ……」

 クスッと不敵な笑みを浮かべ、その子は舞に一歩近づいた。
 突然。その右手に電気のような光と音が宿り、何かを形作った。
 紫電を撒き散らしながら収束し、その“密度”は次第に高まってゆく。
 やがて電流音が小さくなってきた頃、右手には剣のようなものが光り輝いていた。
「……な、何をする気?」
「大丈夫だよ、死にやしないから」
「ちょっ……ねぇ、舞もやめてよっ、お願いだから!」
「ダメ。私には決着をつける義務がある……」
「どうして!?」
 舞は、ほんの一瞬だけ佐祐理を見て。
 でも、すぐに視線をこの子へと戻して。
 その表情は、やっぱり……この子と同じくらい寂しそうで。
 剣を構え直すと、舞は覚悟を決めたように、しっかりとした口調で言った。

「……私は、魔物を討つ者だから」


 まるで……それは舞の、自分自身への鎮魂歌のように、佐祐理には聞こえた。



第4楽章【此処−おわるせかい−】

 ……キンッ!
 キイィィィンッ!!
 月明かりの淡く射し込む廊下に、鋭い金属音が幾重にも鳴り響いていた。
 そのたびに、ズキズキと痛む胸が悲鳴を上げる。
 幼い頃の親友と、成長した親友とが闘う姿は、あまりにも悲しい光景だった。
「やめて……」
 叫びたくても、呟くような小さな声しか出ない。
 本当は大声を出して、身体を張ってでも止めたいのに。
 足が竦んでしまって、呼吸ひとつひとつが苦しくて……それが出来ない。

「やめてよっ、お願いだから、もう……やめて……」

 何度も、何度も……。
 闘いが始まってから、ただその繰り返し。
 ……キィンッ!
 舞は、必死な表情で剣を降り続けているのに。
 ……キイィィンッ!
 その子は、無邪気な笑顔のまま剣を交わしているのに。

 まるで……二人とも、泣いているみたいに悲しそうだった。

 佐祐理の願いは届くことなく。
 止める術のない闘いに、もう佐祐理の想いが届くことはなく。
 ただこうして、立ち尽くすことしか出来なくて――…。

 ゴオォォォォォォッッ!!!

「……危ないッ!」
 唐突に、風景が横に流れた。
 続いて一瞬の浮遊感の後、左半身を軽い衝撃が襲う。
 廊下に倒れたようだった……のに、どこも痛むところはない。
 不思議に思って眼を開けてみると、よく知った人が佐祐理の下敷きになっていた。
「祐一さんっ?」
「だっ、大丈夫だった?」
「はい、何とか……でも、どうして?」

「佐祐理さん、危なかったんだぞ……あのままだったら、魔物の餌食に……」

 荒い息を抑えおさえ、ついさっきまで立っていた場所に目をやる。
 すぐ後ろの壁は、まるで鉄球に押し潰されたように原形を留めてなかった。
 ゾッとして、血の気が引いていくのが判った。

「あっ……ありがとうございます」
「いいって。それより、どうしてこんな時間に?」
「あの、宿題を忘れてしまって、それで……でも、祐一さんたちこそ、どうして?」
「いや、俺たちは、何というか……」

 言いにくいことなのか、そこで言葉を止めてしまう。
 視線を壁に戻すと、すでに舞たちは別の場所へと移動したようだった。

「魔物って、何ですか……もしかして、昼休みに出た“戦闘”っていうのは……」

 気になっていたことを訊いてみる。
 舞も、祐一さんも口にしていた『魔物』という存在。
 学校で再会できた『あの子』と舞の、まるで初めてではないような“戦闘”。

 祐一さんは肯定も否定もせず、ただ黙ったまま考え込んでいた。
 それは何かを迷っているようにも、あるいは決めた答えを切り出せないようにも見えた。
 止まっていた風が、ふと祐一さんの前髪を優しく揺らす。
 何かに押されたように、ハッと面を上げて、祐一さんは窓を見た。
 その視線を追うように、佐祐理も窓の外を見上げた。
 いつのまにか、雪がしんしんと降っていた。

 しばらくして……祐一さんは、長い溜息をひとつ吐くと、

「…………わかった、話すよ」
 それだけ、小さな声で言った。 



   ♪  ♪  ♪



 教室に入って、祐一さんは舞の席、佐祐理は自分の席にそれぞれ着いた。
 忘れないうちに課題を取り出して、机の上に出しておく。
「へぇ、佐祐理さんの教室って、俺たちんトコと同じだな」
「あはは〜っ、それはそうですよぅ」
 自然と笑みがこぼれてしまう。
 今日のことなのに……昼の出来事が何だか、何日も、何ヶ月も前のことのように思えて。
 佐祐理と、舞と、祐一さんと……三人で一緒にお話しして……。
 それが当たり前のようで、いつまでも続くと信じていたのに。

「明日からは、また、いつも通りですよね?」

 笑顔を崩さぬよう努めながら。
 当然だろ、という返事を強く期待しながら。
 いつか舞の笑顔を見られると信じて、その日を心待ちにしながら……。

 ……だけど、祐一さんは答えてくれなくて。
 嘘でもいいから、あぁ、って頷いてくれるだけでいいのに。
 そうしたら、明日のお弁当は何が食べたいですか?って訊いて、それから……。

「あれは、舞の……自分との闘いだ」

 誰に言うでもなく、不意に。独り言のように呟く。
 佐祐理の質問を避けて……でも、極力言葉を選んでくれているのがよく分かった。
「舞……自身の?」
「あぁ。舞が闘っている相手は、過去の……幼い頃の自分なんだ」

 廊下で再会した時点で、それは何となく解っていた。
 流れる黒髪と、面影と、瞳の雰囲気が、本当によく似ていたから。
「……続けても、大丈夫か?」
「はぃ、平気ですよ」
 気遣ってくれる優しさも嬉しかったけど、今は続きを知りたかった。
 意志を読んでくれたのか、佐祐理が居住まいを正すと、祐一さんも力強く頷いた。
 でも、何だろう……さっきから、また頭痛がしてきたような……。

「舞は幼い頃、魔女狩りに遭って……いつしか自分の能力を開放してしまったんだ」
「自分を……開放……」

「解き放たれたチカラは、やがて、ひとりの人格となった」
「……解き放たれた、人格……」

「でも本来は舞の人格が分離しただけだから、それは本体に戻ろうとした……何度も、何度も……」
「本体からの……分離……」

「それにようやく気づいた舞は、でも、昔の『自分』を受け入れる方法が分からなくて……」
「……傷つくことを恐れて、逃げ続けている……」
「えっ!?」

 祐一さんが、不思議そうな顔をしていた。
 でも、いま佐祐理の心は、急速に『何か』を解ろうとしていて。
 今まで無意識の内に閉じ込めていたものを、必死に思い出そうとしていて。
「ちょっ……佐祐理さん!?」

「……だから、舞は闘ってるんですか……あの『魔物』と!?」

 机から身を乗り出して詰め寄ると、気圧されたのか、祐一さんは喉を鳴らして固まってしまった。
 しばらくは身動きひとつせず、しかし、やがて落ち着いて深呼吸をひとつすると、
「そうだよ……舞は、闘い続けてきた」
 わずかに視線を逸らして、震えながら何とか答えてくれた。

「十年前から、ずっと――…」

 ドクンッ。
 心臓が、一気に跳ね上がった。
 祐一さんが放った最後の一言は、佐祐理にとって、大切な何かを壊してしまうような――…。

「………ま…い……?」


 ――――明日カラハ、マタ、イツモ通リデスヨネ?



   ♪  ♪  ♪



 気づいたら、廊下を走っていた。
 祐一さんの制止も振り切り、呼吸の苦しさも忘れ、ただ舞を求めて。
 早急に『舞たち』を見つけ出したところで、どうにもならないことは解っているのに。

 もう、手遅れなのに……あの二人と、出逢ってしまった時点で……。

「こんなのイヤ……絶対に、嫌だよぉぉっ!!!」
 泣け叫びながら、いくら涙を流しても、いくら悔やんでも。
 二人を救う方法、たったひとつしか見つからなくて。
 それ以外は、何も考えられなくて……。

「待てっ、待てよ佐祐理さん!」
 追い付かれた勢いで右腕を掴まれる。
 止まる気もなくて、そのまま振り上げた肘が、祐一さんの脇腹に食い込んだ。
「……ぐぅっ!」
「ゆ、祐一さんっ!?」
 呼吸も苦しいくらい痛いはずなのに、掴まれた手は離れることなく。
 息も絶え絶えに、ただ腕に込める力を一層強めて。
「離して、離してくださいっ!」
「行くな、邪魔しちゃ……ダメなんだ」
 苦痛に歪んだ顔で、呼吸の継ぎ目つぎめを言葉に使い切って。
 必死さだけは痛いほど伝わってきたけど……その理由が、理解はしているのに分からなくて。
「佐祐理が、舞の邪魔してる……そう言うんですか!?」
「…………そうだ……」
 睨むような瞳の中に、確信を強く持った祐一さんがいて。
 心臓が、締めつけられるように苦しくて。
 怯えと同時に、怒りが込み上げる。

「祐一さんに……まだ知り合ったばかりの祐一さんに、何が分かるって言うんですかっ!?」

 口に出してから、ハッと気づく。
 ……言ってはいけないことを……言ってしまった。
 止まっていた涙がボロボロと零れ出し、渇きかけた筋を再び濡らした。
 いたずらに言葉を選ぶような、無神経な人ではないことくらい……知っていたはずなのに。

 今はただ、どんな言葉も拒絶していないと、自分が壊れてしまいそうで……。

 腕の手をそっと離すと、祐一さんは痛いくらい悲しそうに俯いて、
「ごめん……でも、わかる……分かるよ……」
 思考を巡らすように、視線を何度も彷徨わせて。
 それでも、最後には佐祐理の双眸を真芯から捉えて。

「佐祐理さんも、同じ、なんだろ……舞たちと……」

 笑っても。泣いても。怒ってもいない。
 ただ、無表情で……でも、とても穏やかな顔で。
 口元が少しだけ微笑んでいて、まるで……佐祐理を優しく包み込んでくれるような……。

「……ごめん……なさい」
「何で謝るんだよ。佐祐理さんは悪くないだろ、ただ俺が――…」
「違うんです。そうじゃなくて……もう、それどころの話じゃないんです……」
「それどころの話じゃ……ない?」

 こくん、と力無く頷く。
 まだ少しずつだけど、落ち着けたのも、冷静に現実を直視できるようになったことも。
 すべては、祐一さんのお陰だと思うから……。

「本当は、舞と『あの子』は最初から、佐祐理の――…」

 ドオォォォンッ!
 そのとき、耳をつんざくような衝突音が真後ろで響いた。
 まるで華奢な何かが、生命の最後の灯火を輝かせたような……嫌な音だった……。

 あまりに容易に想像できた光景に、恐る恐る振り返ってみる。
「――――ッ!?」

 そこには、糸の切れた操り人形のような格好で、頭から血を流して倒れている舞の姿があった。



   ♪  ♪  ♪



 駆け寄って、舞の肩をそっと抱き上げる。
 だらりと力無く中空に垂れた両腕が、見ていられないくらい痛々しかった。
 いつのまにかリボンも取れて、綺麗な黒髪が床に乱雑に広がっていた。
 でも、そんなことより、それ以上の事態に背筋が凍りつく。
「祐一さん、舞がっ……舞が、息をしてないですっ!」
「なっ!?」
 すぐ横で様子を見ていた祐一さんが、舞の頬に手を宛てる。
 堪らなくなって、佐祐理も逆の頬に宛ててみた。

「……冷た…い…」
「こっ、こんなの絶対ウソですよ……夢に、決まってますよ……あはは、だって……」

 と。生温い風が、階段から流れてくる。
 この気配は、佐祐理にとっては、絶対に忘れられない存在。
 振り向くと、ズタズタに切り裂かれた藍色のリボンを手に『魔物』は立っていた。
 舞の身体にも無関心の眼で、音もなく近づいてくる。

「そうだよ。夢なんだよ、これは……最初から全部、佐祐理の夢……」

 冷たくなった舞の身体を離して、ゆっくりと『魔物』に向き直す。
 穏やかな口調だったけど、祐一さんにしてみれば、火に油を注がれただけのようだった。
「何を訳解らんこと言ってんだ、よくも舞をッッ!!!」
「だっ、ダメです祐一さん!」

 ドンッ!

「……ぐあっ!?」
 制止も虚しく『魔物』に飛びかかった祐一さんは、衝撃波のようなもので壁に打ちつけられた。
 かなり強く打ったのか、意識はあれど、起き上がる気配も見せなかった。
「雑魚は引っ込んでてよ……これは『あたし』と、佐祐理との問題なんだから……」
 邪魔者を退散させたというより、むしろ安堵の表情を見せて、こちらに向き直す。
 その瞳は、口調よりも穏やかで、もう悲しみも怒りも忘れてしまっていた。
 だって――…。



『夢なんだよ、これは……最初から全部、佐祐理の夢……』



 この子の一言が、すべてを物語っていたから。
 ずっと続けてきた夢を、最後に終わらせてくれたから。
 たとえ、終末へ向けて、自らの幕を閉じることになっても。
 たとえ、それが、深く悲しい別れにのみ成り立つのだとしても。

 ……最後に、すべてを気づかせてくれたから……。

「すべては……最初から、杞憂だったんだね」
 いま鏡を見たら、佐祐理の顔はどう映っているのだろうか。
 きっと、懐かしくて泣いてしまうほど、久々に自分らしく微笑んでいるのだろう。
 それは、ずっと切なく望んできた……自分への、本当の帰還……。

「……そうだよ。僕は、お姉ちゃんを恨んだりなんかしないのに」

 倒れている舞と、魔物である舞の姿が、朝霧のように薄らいでゆく。
 次の瞬間。佐祐理の前には、十年前に時間を止めたきり、目蓋に焼きついたままの姿が現れた。
「久しぶりだね、一弥……元気だった?」
「僕は、元気だったよ。それより……ごめんね、お姉ちゃん……」
 それは十年前の、病弱の痩せこけた顔ではなかった。
 いつもは優しい姉に叱られて落ち込んだ、普段は元気な普通の男の子のようだった。
「僕のせいで、十年間も、お姉ちゃんは……」
 大切な宝物を失ったかのように、ひどく悲しそうな顔で見つめてくる。
 もう、そこが……限界だった。

「……お姉ちゃん?」
 ギュ〜ッと、抱きしめていた。
 ずっと届かなかった存在を、身体も、心も、逃がさないように。
 十年ものあいだ、溜め込んでいた気持ちを、いますべて使い切ってしまうように。
「そんな心配しなくても良いの。一弥は……わたしの、弟なんだから……」
「う、うん……」
 一弥の小さな腕が、手が、佐祐理の背中を抱きしめてくれて。
 だけど。その声が、全身と同じく、小刻みに震えているような気がして。

「ちなみに泣くの厳禁っ! ……3、2、1、はいっ!!」
「……う、うんっ!」

 明るい声を確認すると、身体を離して顔を覗き込んでみる。
 そこにあったのは……病室での写真よりも、明るい一弥の笑顔だった。
 だから、もう、佐祐理が送るべき言葉は……ただひとつ。


『 オ カ エ リ ナ サ イ 』



   ♪  ♪  ♪



 昇降玄関を出ると、校庭にはうっすらと雪が積もっていた。
 見上げた空からは、まだちらちらと冬の精たちが、まるで蛍のように舞い降りていた。
「はぁ……綺麗ですね〜」
 最初は怖かった運動場の照明も、いまは淡く雪を照らして美しかった。
 数学Cの教材が濡れないように、バッグごと腕に抱え込んで。
 後ろからの反応がないので、ふと振り返ってみると、

「うぅ〜、寒い……こりゃマジで南極レベル……」
「あはは〜っ、それは北極より寒いですねぇ」
「佐祐理さん、俺より薄着なのに、どうして平気なんだよ……」
「平気じゃないですよ、佐祐理も、寒いですから」

 ただ寒さの耐性が少し違うだけで、基本的にはあまり変わらないはずなんだけど。
 それに正直なところ、一月末でこの気温なら、まだ暖かい方だと思う。
 もし教えたら、祐一さんはいったいどんな顔をするのだろうか。

「なぁ、佐祐理さん……もしかして……」
「太ってないか?って質問は、まさかとは思いますけど厳禁ですよ?」
「いや忘れてくれ、きっと気のせいだ」
「あはは〜っ……ひどいですよぅ」

 いつもの意地悪に、思わず苦笑。
 やがてそれは、本当の笑いに変わって……。
 でも、歩きながらゆっくりと流れていた風景が、歪んでよく見えないことに気づいて。
 もう校門は目前の位置だと思うけど、それ以上は進むことが出来なかった。
「……どうしたんだ?」
「いえ、ちょっと……目に、ゴミが入ってしまって……」
 振り向くと、祐一さんが息を呑むのが判って。
 その先の校舎は、何事もなかったように、ただひっそりと佇んでいて。

 まるで今までの出来事が、夢のように錯覚してしまいそうで……。
 むしろ夢であってほしかったと、まだ願っている自分も振り切れないで……。

「実はさ、俺も七年前に、幼馴染みの女の子が亡くなって……」
「…………え?」
 涙も拭かずに校舎を見つめていると、不意に感情を押し殺した声が、ぽつりと聞こえた。
 ゆっくりと、祐一さんの表情を確かめるように、視線を合わせる。

「この街に住むことになって、つい最近まで……ずっと記憶を閉じ込めてたんだ……」
 初めて聞く話に、ただ佐祐理は耳を傾けていた。
 悲しい過去を持つ共通点だけのために、祐一さんは話をするような人じゃないから。
「いくら幼い子供の処世術とは言え……いつかは、取り戻さないといけないと思う」

 十年前に放って、夢や幻に生きることで自分を守ってきた人格を、認めるということ。
 自分を素直に受け入れて、少しずつ傷つきながら、現実を知っていくということ。

「佐祐理さんのこと理解してるなんて、無責任なことは言わない……ただ……」
「……ただ?」
「いつか受け入れられるまで、気長に……逃げ出さずに待っていれば、いいんじゃないか?」

 佐祐理の知る限り、一番優しくて、暖かい祐一さんの笑顔。
 その瞳を見て思うこと……もしかしたら、やっぱり同じなんじゃないかって……。
 凝り固まっていた何かが崩れていくような……そんな安堵感が、胸のどこかで感じられた。
「俺は、弟の代わりには、なれないけど」
 その言葉が、何よりも嬉しくて。

「…………じゃあ、ずっと私の側にいてね、祐一君♪」

「え、あっ!?」
「あはは〜っ、冗談ですよ……佐祐理は、まだ佐祐理なんですから……」
 慌てふためく祐一さんが面白くて、涙を拭くのも忘れて、ふたり笑い続ける。
 すぐ『わたし』に戻ることは出来ないけど、孤独を忘れられれば、大丈夫だと思うから。

「ちなみに祐一さん、ヴァイオリンって、弾く気あります?」
「えっ……ま、まぁ、佐祐理さんが教えてくれるなら」
「佐祐理のコーチは厳しいですよ〜♪」
「ひぇ〜っ」

 舞の願い。一弥の願い。
 佐祐理の夢を、無駄にしないためにも。
 『わたし』は、この世界で、前向きに生きていこうと思う。 

 ……それが、あの子たちへの償いであり、恩返しであると信じて……。

 もう一度だけ見上げた先。
 いつしか雲も晴れ、満天の星空に浮かぶ満月は、いつもより明るく輝いて見えた。


                                      【了】

 

 

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